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明治維新の整理(14)

2018年01月23日 08時16分23秒 | 明治維新の整理

西郷どんの罠にまんまと乗せられた庄内藩、江戸の薩摩藩邸を焼き打ちしたために德川家共々

天皇の敵、「朝敵」とされてしまった。  庄内藩は山形県の南西部、日本海沿いの藩である

德川家家臣団の酒井公が経営する中規模なはんである、会津藩同様、情報が少ない奥羽の藩故

江戸の警備などと言う損な役目を名誉と請け負ってしまったのだろう。

それにしても、国のためと思って一生懸命勤めたのに、親の都合で朝敵とは気の毒なばかりであった。

天皇が「**を攻撃せよ」と勅書を出す度に「朝敵」が出現するわけだ、だがこれはそうとう胡散臭い、だって

いま官軍として朝敵德川を攻撃しようとしている長州藩は、ほんの1年か2年前は「朝敵」でしたから。

それが「長州を討て!」と命令した天皇様の軍隊になっている、これってどう思いますか

長州が朝敵になる前は、イギリス船を砲撃して、孝明天皇から「あっぱれ」と賞賛されたのですよ、それが

8.18政変で一気に朝敵にされて、第二次長州征伐軍を追い落としたら、今度は「官軍」です

ようするに、後醍醐天皇のようなリーダーシップを発揮する天皇様以外は、それほど政治には

関心がないということです

だから実際は、天皇様に取り次ぎをする、朝廷の大臣とか、お公家さんと親しい大名などがうまく取り入ると

「勅書」が下りてくるという図式ですね。

今回は三条実美とか岩倉具視などの勤王派公家と友達だった長州が、彼らにお願いしたのはありありと

見えてきますね、まして明治天皇は、まだ子供でしたから、判断などつかなかったでしょうね。

しかし岩倉さんという公家さんは朝廷の歴史の中でもピカイチの策士です、武家も真っ青です

錦旗の偽物を大量生産なんてもうイケイケムード全開です。

さて3倍の德川軍と対峙した薩長の官軍、しかし第二次長州征伐では10倍の幕府軍を木っ端微塵に

打ち砕きましたから、3倍程度はお茶の子さいさい、二手に分かれた薩摩と長州は最新鋭の大砲を

德川軍に打ち込んだ、德川軍の武器などまったく官軍に弾が届かない、瞬く間に打ち崩されて大坂

目指して総崩れで逃げ出した。

その頃、難攻不落の大坂城には徳川慶喜と会津公松平容保、弟の桑名藩主松平定敬がいました

そこに鳥羽街道と伏見での敗北が伝えられます

「慶喜様、いよいよ御出陣ですぞ、将軍の権威ここにありとお見せすれば德川軍も、わが会津、桑名の

兵どもの士気はぐっと上がりましょう、大坂城を背に戦えば勝ち戦必定、そして畿東の諸大名に

号令をかければ、彦根藩などを先頭に大軍か駆けつけてくるでしょう、お味方の勝利間違いなし」

希望的観測を容保が言えば、慶喜も「さよう、これからが本当の戦いだ、見事薩長の奸賊を討ってくれよう」

 

しかし、敗退してくる德川の兵を見るうちに慶喜の心は揺らぎだした、決して今度の戦いは再起不能という

ほどの大敗でもないのに、德川の兵はなぜかうつろだ、あの錦の御旗を見せられて、自分たちが朝敵に

なってしまった絶望感が戦意を無くさせているのだ。

だが、指揮官クラスだけはさすがに強い戦闘意欲を持っていた、そして慶喜に「いよいよ明日は決戦です

殿様には是非ご出馬を願いますぞ」と次々に願い出る

慶喜もいちいちうなずき「わかっておる、明日こそ賊軍どもを全滅させるぞ」と慶喜が景気いい言葉を発する。

ところが夜中になって

「容保、定敬、そっとそっとじゃ」「・・・・・・どうされました」

「船で江戸へ戻るぞ」「・・・・・はあぁ~?」

「家臣たちに気取られぬうちに城を出る」「なんと!、それはあまりでは?」

「よいよい、ここは分が悪い、江戸に帰って軍を立て直す方が有利じゃ、何も言わず一緒に来い」

とうとう大将3人と側近、そして重臣だけが大坂城を脱出、船で江戸目指してまっしぐら逃亡した

慶喜さん、またやっちゃいましたね。 水戸の天狗等が唯一希望の星として慶喜さんを頼りに美濃国境

まで1年がかりでやってきたときも「我が実家の家臣なのは間違いないが、天下を騒がせた凶徒でもある

私には関わりないので、処置をお任せすると尾張藩に言って、結局庇わなかったために天狗党は

500名近い犠牲者を出してしまったのだ。 そしてまたここでも家臣を見捨ててしまった、家臣はこんな

殿様を持ってしまうと悲惨である。

 

翌朝、「さあていよいよ決戦の日だ討ち死に覚悟で戦えば、我らの勝利じゃ、殿様もご出馬くださる」

と言っていたのに「たいへんだ、もぬけのからだとよ」「なにが・・・?」

「慶喜様も、会津公も桑名公も、お偉方がみんな消えちまった」「なんだって? そんなばかな」

史上希に見る総大将だけの敵前逃亡、慶喜ならではの隠し技、一万を超える家来たちを置いてきぼりで

逃げ帰るとは、チンチン怪奇なりのお粗末劇場

こうなると家臣達も陸路をせっせと江戸まで逃げ帰るしか無い、そんな中には新撰組の面々もいた

官軍は大坂城を接収、そしていよいよ江戸城総攻めの作戦を練り始めた

東海道、中山道、北陸道と三隊にわけて進軍する、秀吉が小田原征伐に向かった時のパターンに似ている

こちらが天子様の軍隊であるからには、街道沿線の大名達も我も我もと兵を出してくるに違いない

兵を出さない大名からは軍資金をごっそり取り上げる、とにかく德川は江戸に隠れて小さくなっている

我ら官軍に刃向かう大名は全て朝敵になる、叩きつぶすのは造作も無いこと

西郷等、総司令官クラスはさすがに冷静であったが、その下の部隊長クラスには、不届きな輩も混じっていたのだ

既に勝利が確定した時点で、京の町に忍んで遊び呆けた輩もあったと聞く、この先での乱暴狼藉が、心ある士には

懸念された。

德川討伐軍は錦旗をひらめかせ「ミヤサンミヤサン オウマノマエデ ヒラヒラスルノハナンジャイナ トkトンヤレトンヤレナ」

などと楽団付きで意気揚々と進軍していくのだった。

その先頭に立つのは西郷隆盛、そして婚約者だった皇女和宮を德川に奪われた屈辱を濯ごうと燃えている有栖川宮が

征討軍の大総督となった。                         つづく