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「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(256) 甲越 川中島血戦 83

2024年11月22日 20時31分45秒 | 甲越軍記
 永禄四辛酉年八月十四日、上杉輝虎入道謙信は武田信玄と有無の勝敗を決せんと春日山を雷発した
相従う諸将は、柿崎景家、甘粕景時、直江兼続、本庄繁長、柴田周防、山吉玄蕃、北條長朝、村上義清、安田順易、須田親満、上田景国、古志秀景、宇佐美定行、宇野左馬介、高梨播磨、新発田尾張、同因幡、杉原壱岐、鬼小島弥太郎、斉藤下野、毛利上総介、山本寺宮千代、中条越前など勇将剛卒を印具して、その数一万三千余人
信州に打ち出て、西条山に陣城を構えて足下に海津城を見下ろし、攻めつぶさんと見えたり。

この旨、海津城より郡代、高坂弾正忠昌信、馬を飛ばして甲府に注進すれば
信玄これを聞いて、憤怒の謙信いよいよ耐えかねて出張ったか、「此度の戦は容易ならざるであろう」と注進の三日後の十八日には甲府を出馬した

従う諸将は、武田信繁、武田太郎義信、飫冨虎昌、馬場景政、小山田備中、甘利晴吉、真田一徳斎幸隆、同信綱、同吉兵衛、小幡信定、飫冨三郎兵衛昌景
穴山信良、浅利信音、諸角豊後昌清、山本勘助入道道鬼、武田逍遥軒、原昌勝
跡部大炊介、内藤昌豊、小山田信茂、諸我大和、長坂釣閑、芦田下野、柏木市兵衛
かき尽せぬほどの勇将、勇士を組み入れて、その数、二万余

浦野を押し渡り、二十四日に猿ケ馬場の北に当たる茶臼山に打ちあがる
千曲川の流れ、雨宮の渡しを足下に見下ろして、越後勢の退路を切った
ここにて五日間対陣して、信玄は間者を上杉陣に放って様子を探らせた

間者が伺ったところ、西条山の上杉の諸兵は対陣に飽きてみな退屈しているが、武田勢に退路を遮られて袋の鼠、このままでは糧食も尽きて飢え死にするのではと士大将さえ憂いている
ところが大将謙信は少しも驚かず、快然として近習の士に謡曲を歌わせ、自らも鼓を打って笑い語り楽しんでいる様子
と、信玄に告げた。 これを聞いて信玄はしばし目を閉じて、あれこれと思案していたが、ハタと手を打ち
「さては我、誤って死地に入り込んでしまった、あな恐ろしき謙信小僧め、早々に陣替えすべし」と言って馬場、飫冨、山本を召して謙信の動静を語ると
山本が進み出て「某も間者を送ったところ、君の推量と違わず、直ちに陣替えをすべしかと」と一致する。

「謙信は此度の事に怨恨を大いに持ち、有無の一戦此度こそと背水の陣を敷いたのであります、追い込まれた死に物狂いの兵ほど恐ろしき働きをするものなり、ご軍略あってしかるべし」と陣替えを勧めた
二十九日に武田軍は広瀬の渡しを越えて、海津の城に兵を入れた
そして九月朔日から九日まで互いに睨み合うのみ

上杉陣では、甲州勢全軍が海津城に引きこもり、退路が開けたので諸将、大いに安堵して悦び勇んだ
ところが謙信は、それを見て不機嫌となり少しも喜ばず、彼の地に座したままである

武田の間者は、この一部始終を信玄に「退路断たれた時は陽気に歌い笑っていたが、退路が開けると同時に兵は喜んだが、謙信は打って変わって不機嫌となりました」と伝えた。


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