神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

明治維新の整理(9)

2018年01月18日 07時50分06秒 | 明治維新の整理

年号は1864年、私の高祖父、*乙松は2歳で、その父、*利右衛門は40歳下野国川西村にもう存在している

私の父を育てた怖い祖祖父、*徳五郎も下野国馬頭村で3年後に生まれる。(*は姓、どちらも一文字姓)

だいぶ近い時代になったものだ、いよいよここから激しく時代が動き、明治維新に突っ走っていく

それは、勝者と敗者、敵と味方がめまぐるしく入れ替わっていく、「信じられない時代」となる

池田屋騒動が起こった翌月、季節は夏、所は京都御所

一度は都落ちした長州藩であったが、この時代もっとも勢いがある藩だけに再び兵2000を集めて京に戻った

しかも戦闘態勢を整えて

京都御所に突入して、(幕府に押し込められている=長州の言い分)天皇をお救いして、幕府討伐の勅命

(天皇からの直接の命令)を拝し、諸大名を集め先頭に立って江戸攻めを決行しようという考えだ。

御所を守る幕府軍は主力会津藩の他にも松平容保の弟の桑名藩、大藩の越前藩、薩摩藩など数万

と新撰組も加わっている、だが御所は広いので各藩が分担して守って居るから一点集中の攻撃をもくろむ長州

、それでも一点だと幕府軍も一点に集まって叶わないので、2カ所の陽動作戦も行った

主力は会津藩の蛤御門に向かった、ここでは長州軍が新型兵器もあって有利に戦った、会津藩が崩れそうに

なった時、西郷隆盛が率いる薩摩兵100数十が左右横手から切り込んだ、この不意打ちに長州は驚き

総崩れになった。(禁門の変)、西郷隆盛は島津久光から京の薩摩軍の指揮官を任じられて赴任していた。

この戦で、松下村塾(しょうかそんじゅく)の英才、久坂玄瑞(杉文の夫)、入江九一らが戦死、ほかにも300を越す

兵が戦死して長州に逃げ帰った、だが京の町は戦火と放火でかなりの範囲が焼け落ちてしまった。

長州は再起できないほどの痛手を受けたが、幕府軍は長州を完全に叩きつぶそうと

長州遠征軍を組織した、主力は西郷率いる薩摩軍、そして幕府軍の司令官も西郷が務めることになった

西郷は幕府のように長州を憎んではいなかった、だからどのように長州に当たれば良いのか悩んだ

そんなとき運命の出会い。

その相手とは幕臣である、ちょっとどころかそうとうおかしな人物である、その名は「勝海舟」

咸臨丸でアメリカに渡って世界を体験してきた男だ、勝は西郷に言った、穏やかな口調だが江戸っ子のべらんめえ

「日本などという小さな国の中で幕府だ、長州だ、薩摩だ、朝廷だと細かなことで争っているうちに、清国のように

日本は異人どもに食い荒らされちまうよ、おまえさんも薩摩のいやさ、日本の英傑と言われる人だ、ここは辛抱して

長州を大きな心で許してやんなよ、そして藩も幕府もねえ、みんなで知恵を絞ってさ、どうやってこの国の舵を切って

いけば、この国難を乗り切れるかかんげえようじゃないか

幕府だって、もう人材が種切れだ、ずるい役人ばかりになって井伊直弼さんみてえにてめえの命を張ろうって

立派なサムライはいねえのさ、西郷さん、長州のことは上手くおまえさんが、まとめて見せておくれ」

西郷も、こんな大きな考えを持っている人間に出会ったのは、旧主の島津斉彬公以来だった、しかも幕臣にこんな

人物が居たとは意外だった、そして長州遠征のテーマを得て、西郷の重かった心が、明るく開けたのだった。

西郷は軍を長州国境にとどめると、僅かな供だけを連れて、長州の本陣に乗り込んだ、薩摩、会津の両藩を最大の

敵と見なしている長州だ、殺気だった陣営ではいつ西郷の首に刃が振り下ろされるかわからない

だが西郷は微塵も恐れていない、「我が身を捨てる気であたりゃあ、なにごともできねえ事なんかないのさ、鬼だって

その心意気に惚れ込むものだよ」、勝の言葉を思い出している西郷だった

長州の毛利公はすでに降参する気持ちでいた、なにせ京では散々負けてしまうし、おまけに外国の連合艦隊が

下関にまたしても砲撃を加え、町は焼かれ、砲台も占領される有様だったからだ。

西郷は、毛利の殿様が隠居すること、首謀者の3名の家老に切腹させること、都から来た公家を長州から出すこと

などの条件で、長州を攻撃しないと約束した。

長州側もこれを承諾したのだった、西郷はこうして勝海舟のことばどおり寛大な処分で、家老三人の犠牲以外

長州も幕府軍も一人も犠牲者を出さずに、第一次長州征伐を収めたのであった。

だが長州藩内では高杉晋作を中心に若手武士が不穏な動きをしていたのだった、西郷の思いとは裏腹に彼らは

いまだ徳川幕府殲滅を企てていたのだ、恐るべき執念であった、だが長州単独での幕府打倒は絶対無理なことは

明らかだった、それは高杉もわかっている、どうすればいいのか、この日本で孤立した長州に賛同する大名など

いない、歯がみをする高杉・・・・・・・・・。

ここに土佐藩脱藩浪士「坂本龍馬」が高杉らの救世主となって登場するのである。

この坂本龍馬もまた、勝海舟と深いつながりをもっている人物であった。       つづく

 

 

 

 

 

 

 

 名の家老を名の


明治維新の整理(8)

2018年01月17日 08時36分56秒 | 明治維新の整理

会津藩が幕府の命令で京都の治安を守っているが、あまりにも勤王浪士の数が多く手が足りない

ところが腕には自信があるが、仕事がない集団がいたのだ、近藤勇等の集団である

実は彼らは良い仕事があると言われて、幕臣らしい清河八郎という武士について京都までやってきたのだが

どうも話しが怪しくなってきて、「清川って男は、どうも怪しい、最初の話しと随分違うではないか」という声が

囁かれるようになった、どうも違う騒動の片棒を担がされそうな感じなのだ

「こんな話しじゃなかったに、おれは江戸へ帰る!」怒って帰り出す人数も日増しに増えてきて、集団としての

威力が無くなってきた、すると清川が逃げた、そして途中で誰かに清川が殺された。

京都に残ったのは近藤や芹沢鴨らのグループのほか、数十名

「今さら江戸じゃないだろ、幸い京は物騒だ、大店の用心棒の仕事でも探せば、食い扶持にあたるだろう」と

呑気に構えている、なにより京都の女性は綺麗だ、江戸なんて言ったって当時はド田舎だ、江戸はべらんめえを

かっこいいというヤボな都市だ、京都は文化の中心、華やかな都だ。

支度金もあるし、しばらくは島原の遊郭遊びや芸者をあげての宴会三昧、だんだんお足が減って寂しくなった頃

「その方等、腕に自信があるとか(会津弁を標準語に変換)」と訪ねて来たのは京都守護の会津藩士であった。

渡りに船、近藤達は勇んで集合場所へ行くと芹沢一派も来ていた、そして会津藩に雇われ、京の警備の補助として

働くことになった。

もともと荒くれ男で腕も立つ、不審な浪人を捕縛、抵抗する者は切り捨て御免、会津藩もあまりの浪士達の活躍に

驚き、試用期間を経て、あえて本採用として「新撰組」という組織名を与え、おそろいの羽織袴、隊旗も授けた

この頃、長州、薩摩が相次いで外国軍艦と戦った、そして長州は孝明天皇の覚えもめでたく有頂天になり・・・・・・

「いよいよ天子様御自ら攘夷の行幸をなされば、今、日和見の大名達も必ずや駆けつけましょう」と仲良しの公家を

たきつける。

お公家さんは本来、争い事などに積極的に参加しない人たちである、徳川幕府の歴史より遥かに長い年月をじっと

耐えて、平和に暮らしてきた、しかし幕末の荒ぶる時代を迎えて、一部の若手の下級公家が長州の過激な思想に

共鳴した、「われらも日の目を見るときがきたのかいな」

そして長州との中を取り持とうとせっせと朝廷内で運動を繰り広げた、そしていち早く行動に移したお公家さんや

長州の若侍が行動に出た、だが天皇も朝廷も動かなかった、実は舞い上がって朝廷に矢継ぎ早に「今でござる

今こそが幕府を倒す機会ですぞ」と毎日の様にせかす長州に対して、朝廷はうんざりしてきたのだ。

もともとスローなお公家さんに、性急な長州、話しがかみ合うわけも無かった。

孝明天皇も宮様に説得されて、過激すぎる長州の意図しれずと長州を突っぱね、諸藩に長州が御所に入らぬよう厳重に

警備せよと命じた、天皇の長州に対する考えが変わった瞬間である、これに呼応して臨戦態勢に臨んだのは

会津藩を筆頭に薩摩藩、米沢藩など数藩に及び、兵2000を京都に常駐している長州藩だが付け入る隙は無かった。

長州藩兵は京を追われ、長州に落ちていった、そして長州に協力的な三条実美など七人の公家も一緒に長州に落ちた。

この頃、新撰組にも異変があった。 会津公の後押しで新撰組が正式に認められて活躍したが、初代局長となった

芹沢鴨は酒乱で、性格も荒々しく、京の町人や女性に乱暴狼藉を繰り返した、これを苦々しく思っていた副長の近藤勇の

一派が酔いつぶれて女性と寝ていた芹沢と、その部下を襲って斬り殺した、卑怯と言えば卑怯だが、それほどに芹沢が

手強かったのだろう、そうして近藤勇が新局長に、土方歳三が副長に就任した、そして鉄の掟を作って局内を引き締めた。

そうして行った、最初の大仕事が「池田屋襲撃」であった、それは勤王浪士が都を焼き尽くす暴挙の情報が耳に入り

集合場所の「池田屋」を少数の新撰組隊士で乗り込み、長州、土佐の浪士十数名を斬り殺し、多くを捕縛した大事件だった

これで新撰組もメジャーに躍り出た、この事件で長州藩士は新撰組とバックの会津藩に深い恨みを持ち、復讐を誓うのだった。

                                                     つづく

 

 


明治維新の整理(7)

2018年01月16日 13時14分50秒 | 明治維新の整理

薩摩(鹿児島)という国は江戸時代日本にあって唯一謎の国である
知人の中国人青年(22)は日本史に凄い興味を持っている
日本語を覚えないうちから、徳川家康、上杉謙信などを覚えるほどだった
その彼が「昔、日本には国が二つありましたよね」、と言って驚かせた
「日本は一つだよ」、と言ったら、薩摩という国がありますと言った
これは新鮮な視点だった、確かに薩摩は独立国らしい部分がある
徳川幕府の優秀な隠密(スパイ)でさえ入国したら二度と戻れないという
謎に満ちた国、いったい・・・・・そして西郷どんの国

西郷どんは1855年頃からの10年間どうしていたのだろうか
西郷どんは大河の通り、貧しい子だくさんの薩摩藩士の家に長男として生まれた
当然、総領として責任感が強い兄弟思いのナイスガイだった。
この人が凄いのは信念を持っていたことだ、それと農民に対する愛情
不正と不平等を嫌う正義の人なのだ
こんな人が私は大好きだ、純粋な人、愛情深い人が大好き
自分の事は二の次にして、困っている人を助ける、社員に少しでも与えたいといつも思う
そんな人に私もなりたいと思って居る、そして西郷どんの思いを受け止めたのが名君、
島津斉彬公だった。
この出会いで大西郷が誕生したのだ、男は男を知る、斉彬は西郷の純粋さと非凡な才能を
見いだした、(これは役に立つ男だ)と思った
そう思った斉彬も非凡な殿様だ、平凡な殿様であれば西郷の非凡な才は開花しなかっただろう、この時代に薩摩で二人の大きな男が出会ったのは奇跡だった
本来なら鹿児島の田舎郷士として一生を終えるはずだった西郷を斉彬は見いだした
これは感動すべき出来事である、私はそう思う
斉彬は様子を見るために最初は用心棒としてそばに置いた、西郷は卑しき身分にも関わらず、斉彬にさまざまな思いを伝えた、それらの一つ一つが斉彬さえ気づかぬ生きた領民の声だった。
斉彬は西郷の秘められた才能と将来性を発見した、それを見つけた斉彬も素晴らしいリーダーであった。
斉彬は西郷を秘書に採用した、西郷を全面的に信頼して何一つ隠さず命じた、そして斉彬と考えを同じにする松平春嶽、水戸斉昭、革新的な公家や幕府の老中などへの使いを与えた。これによって西郷の人脈が出来ていった。
だが斉彬が京へ圧力をかけるための準備をしているさなか、突然発病して斉彬が亡くなってしまう、後を継いだ久光の母、由羅の陰謀だという説もある
斉彬に傾倒していた西郷は久光を「嫌い以上の」悪感情を持っている、久光に従おうとしなかった、そんなおりもおり井伊直弼による勤王、尊皇派への弾圧「安政の大獄」がおこる
尊皇派の斉彬の側近だった西郷も弾圧の対象となって幕府から追っ手がかかった
もう庇護者の斉彬はいない、自分の志が挫折する、絶望感にさいなまれて、西郷は同志の
僧、月照と海に飛び込み自殺を図ったけれど、天は西郷を助けた。
薩摩にとって今の藩主久光と馬が合わないと言っても、西郷の人脈と知識と胆力は
失いたくない、いつか久光の役に立つときが来ると、西郷は自殺したと幕府に申し出て
西郷を奄美大島に逃がした。
罪人扱いでは亡かったが、ここに政界から隔絶されてしまった西郷、だが数年後、井伊直弼が暗殺されると、西郷を必要とする久光によって薩摩に呼び戻される、しかし久光嫌いは変わらず、久光をバカにするような言動を繰り返し、腹を立てた久光は今度は藩への反逆者として西郷を島流しに処する、薩摩から600km沖永良部島。
だが西郷無くしての薩摩藩は立場が弱い、再び西郷を呼び戻す久光、その時には西郷も
人間が出来たのか、今度は献身的に久光に仕えた、久光もそんな西郷を重宝して重要な役職に就けた
久光は3000の軍勢を率いて公武合体(天皇の朝廷と徳川幕府が婚姻を通じて一つに固まること)を進めるため京に上った、さらに江戸を目指した、地方大名のデモストレーションを止める事が出来ない幕府の権威は落ちていくのだった。
この時点で薩摩藩と長州藩は方針が全く違う、長州は外国人を追い払い、徳川幕府も滅ぼして天皇中心の政権を作ろうと考えている。
薩摩は天皇(朝廷)と幕府と大名が力を併せて、外国の圧力から日本を守ろうと考えている、だから犬猿の仲なのだった、薩摩藩は京都を守っている会津藩と志を通じていた。

薩摩は生麦村で久光の行列を遮って通行したイギリス人を無礼打ちで斬り殺した
怒ったイギリスは鹿児島湾に軍艦で攻め込み、鹿児島の町に砲弾を撃ち込み火の海にした
しかし薩摩藩も抵抗して、イギリス船に大きな被害を与えた
長州に遅れること半年で薩摩も外国軍艦と交戦した
そして両国関係は悪化したのだろうか? 結果は反対だった、イギリスは日本人(薩摩)が予想外の強さを発揮したことに驚いた、清国や朝鮮とは違う国民性を認識して驚いた
一方薩摩藩はイギリスに立ち向かうことがいかに無謀であったかを知り、改めて欧米の強さを認識、薩摩が強国にならなければ世界の食い物になることを知ったのだ
こうして敵同士だった薩摩とイギリスに互いを尊敬する空気が生まれたのだった。
イギリスは自力での日本侵略が不可能なことを知った、そして薩摩を支援することで対日貿易を有利にする方針に転換したのだった。  つづく


明治維新の整理(6)

2018年01月15日 08時57分54秒 | 明治維新の整理

「天皇の世を作るために働くんだ」というのが勤王武士、当然「打倒徳川政権」ということになり、幕府転覆を

目的とする、そういう連中が「いやいや、そんなに過激にならなくても、みんな仲良くこの国のこと考えれば

いいじゃないか」という殿様や重臣を見限って脱藩して京に集まり徒党を組んだ。

そして役所などに火をつけたり、幕府のために働く役人を暗殺したり、結構あくどいことをする

似て異なる物に「尊皇」というのがある、勤王の敵が幕府なのに対し、尊皇派の敵は異人(外国人)だ

だから「尊皇攘夷」という、「勤王攘夷」とは言わず「勤王倒幕」という

もっといえば、勤王派は天皇を人としてとらえている、天皇という偉い人の先駆けとなって幕府を倒し、天皇政治を

復活させるのが目的だ、一方「尊皇派」は天皇を神の如く敬い祀りたてる、天皇という神様がお作りになった神国日本を

穢れた夷敵に泥足で踏み荒らされてなるものか、ということだ

だから彼らは江戸や横浜などで外国人や外国人の住居を襲う、高杉晋作なども公館を焼き討ちしている

しかも高杉は長州藩ではエリートの家柄、おのずとリーダーになる、だから藩を仕切ってしまった

血気盛んな松蔭門下生の若者を率いて、縦横無尽に突っ走る

ついには関門海峡を航行する外国軍艦を砲撃した

 

 

徳川幕府もこのような事態を見過ごすことが出来なくなった、そこで京都の治安維持の為の

京都守護職を設け、幕府に近い藩に請け負わせようと考えた・・・・・・しかし今の世の状況を考えれば

この仕事は百害あって一利無しの役職だとたいがいの藩は考える、辞退が続いた

そして奥州、会津藩に白羽の矢がたった

東北奥州は京都から遙か遠く、中央の情報もなかなか届かない、届いたとしても現地の逼迫感が、のんびりした

田舎住まいにはわからない

会津松平家、德川家康が德川を名乗る前は松平姓であった、だから全国に散る松平家は德川家の本家から

別れた親戚である。

会津藩の祖は、三代将軍德川家光の異母弟、名君と名高い苦労人の保科正之である、2代将軍德川秀忠が、怖い

女房の目を盗んで、お手つきにした身分の低い女中が生んだ子だ、ばれると怖いので早々と内緒で養子に出したのだ

それが家光の代になってわかった、家光は弟の存在を知って喜び正之を厚遇した。

因みに秀忠の正室は、信長に滅ぼされた浅井長政と信長の妹「市」の間に生まれた三姉妹の末っ子「江」

長女は秀吉の側室となって秀頼を生んだ「淀君」、次女は京極家の正室だ

だから末っ子の舅と夫が、姉と甥を大坂の戦で殺したのだった、戦国時代とはそう言う時代なのだ

母の「市」も、夫と長男を、兄、織田信長に殺されたのだった

 

幕府から京都守護のお願いをされて会津藩主、松平容保(かたもり)は名誉だと思っただろう、養子として会津に来た

容保にとって実績を残すチャンスである

ものの本によれば、代々会津藩で重臣を務める家柄の筆頭家老、西郷頼母は反対したという

だが血気にはやる容保は引き受けた、「会津武士の魂で京都を鎮めてみせようぞ」

会津武士団は京の都にやってきた、彼らは統率がとれている上に純朴である、京を徘徊する怪しげな浪士のような

狼藉を行う者など一人も無い、ただ藩主の体面を汚すまいと実直に勤めるだけだった。

だが、これが幕末最大の悲惨劇、会津の悲劇を引き起こす第一歩だとは誰も思わなかっただろう。

それから半年ほど後、江戸で隊士の募集があった、なんでも尊いお方の警護を行う仕事なのだそうだ

しかも支度金もくれるというし、食い詰め者や腕自慢郷士や、腕自慢ではみ出し者の百姓には良い話しだ

そして選抜された者達が、清河八郎という立派な武士に率いられて京に旅立った

近藤勇、土方歳三、沖田総司、芹沢鴨など、後の新撰組のメンバーもこの隊列にいた、近藤は剣道道場を

経営していたが、多摩の百姓という触れ込みだった

孝明天皇の妹、和宮を娶ることになった14代将軍德川家茂の行列も京へ向かった、天皇様に挨拶するためである

孝明天皇は今も幕府が勝手に条約締結したことを怒っている、それの言い訳だってしなくてはならないし、なかなかに

荷が重い家茂さんなのだった、しかもまだ若い。

そんな緊張した状況におかれていた、おりもおり長州藩の下関で、外国船が海峡を我が物顔で通るのを腹に

据えかねた長州の若侍たち、高杉晋作などが砲撃したのだ

この話が天皇の耳に入ったのは家茂将軍が京に居たときか、帰国したあとかは知らないが、もし対面の直前だと

したら、「長州藩はあっぱれじゃ、どこかの将軍様のように夷敵のご機嫌取りをしているのと大違いじゃの」などと皮肉を

言われたかもしれない。

長州は攘夷派の若者達が保守派を掃討した数少ない藩であった、しかも諸藩の中でも石高の大きい方だ

家康に関ヶ原で負けるまでは、中国地方で今の県で言えば、山口、広島、島根、鳥取、岡山に加え四国の

愛媛の一部あたりまでが領土で、德川家に次ぐ第二位の120万石だった

敗れて30万石になったとは言え大藩に変わりない

なぜ、この藩が割と簡単に攘夷派に固まったかと言えば、殿様毛利公が呑気というか家臣を信頼しているというか、

あまり家臣がする事に口出ししない殿様だったのだ、かといって情けない殿かと思いきや、中央でも一目置かれる大物で

影響力も大きい

しかし家臣には甘い。  家臣が「こうしたいのですが」と言えば、「そうせい」とすぐに返事が返ってくるので、

「そうせい公」とあだ名されたとか

家臣もたいそうやりやすかったのでは無いだろうか、だからこそ諸藩のなかで最も早く動き、もっとも早く

改革が進んだ、それだけに失敗も多い、そして失敗から学び、長州は德川にとって代わることが出来たのだ。

当然、犠牲者、殉職者も多い藩となる。  無謀にも外国艦隊に大砲を撃ちかけるなど長州ならではだ、

そして清国同様に反撃に遭って、散々な目に遭っている。 それも一度ならずや三度までだから

「懲りない奴ら」なのだ

だがこれは孝明天皇を大いに喜ばせた、一気に長州藩は尊皇攘夷藩のトップに躍り出た、ますます長州藩は張り切る

天子様のためなら、たとえ火の中水の中という気持ちになっただろう。           続く

 

 

 

 

 

 


明治維新の整理(5)

2018年01月14日 16時04分44秒 | 明治維新の整理

前に「幕府はあたふた、孝明天皇はぶれていないから強い」と書いたが、開国派を押し通すために攘夷派を

ことごとく粛正あるいは、大名クラスは隠居させた井伊直弼(なおすけ)

彼も孝明天皇に負けない「ぶれない男」だった、我が身を捨ててもこれからの日本は開国に向かうべきだと

信じている、当然、攘夷派の残党が自分を狙うことはわかっている、それでもやったのは信念を持っていたからだ

 

攘夷派は二大巨頭を失ってしばらくは手のうちようが無くなった、島津斉彬は亡くなり、そのあとを継いだ島津久光は

いかなる人物かまだわからない、そして水戸斉昭は蟄居謹慎で政界から離されてしまった。

こうした状況であるから開国派は一気に表に出てきた、中国人が毛沢東思想から抜け出て一気に世界に飛び出した

ようなものだ、見るもの聞くもの珍しい、外国の公館が貿易都市、横浜、長崎、神戸などに次々に出来

江戸に領事館ができたりしたから、外交官や軍人、その家族と外国人が一気に増えた

来る者があれば出る者もある、にわかに開国のムードが出来て、欧米文明に興味を持つ幕臣や

諸藩の先進的なサムライはこぞって海外に目を向けた。

特に長崎の伝習所の塾生たちは、海外渡航の実践航海をしたくて心がうずくのだった

そして1860年には、かの幕府の咸臨丸がアメリカに向けて出航した、勝海舟の他、一万円札の福沢諭吉も

乗っていた。 日本人による航海という印象が強いが実際に操船していたのはオランダ人で日本人の

大部分は初の太平洋横断で船酔いに次ぐ船酔いという状態だったらしい

アメリカへ行ったのは彼らばかりではない、徳川幕府の正式な使節団もアメリカに渡った、代表的な人物は

小栗上野介忠順、この開明的な幕臣は、後に新政府軍によって悲惨な結末をむかえることになる

近代日本の進歩に大いに役立った人物であった。

 

こうして日米の交流は盛んになったけれど、水面下にはこうした風潮を苦々しく思う攘夷派の人々が数多く居た

特に尊皇攘夷の風潮おびただしい水戸藩では「朝敵!井伊直弼討つべし」というムードが盛り上がっていた

だが水戸藩士の名で襲撃すれば、藩にも斉昭公にも迷惑がかかると言うことで、志士の彼らは脱藩

(所属する大名家を脱走すること=藩士ではなく浪人になる)した、そこに薩摩藩の脱藩者も一人加わり

江戸城桜田門外で大老井伊直弼の行列を襲い、その首を討ち取った、江戸では珍しい雪の日の出来事だった

この一件で安心したのか、同じ年に水戸斉昭も亡くなったのである。

 

こうして同じ年に開国佐幕派の巨頭と、尊王攘夷派の巨頭が相次いで亡くなり、両者の派閥の間に何となく

融和のムードが生まれてきた、その結果が孝明天皇の妹「皇女和宮」の降嫁の話である

皇室が将軍家よりあきらかに上位であることを示す話しであるが、逆に言えば武家に天皇の妹を嫁がせるのは

屈辱でもある。

だが今の日本の情勢を考えれば朝廷と幕府が争っている場合でなく、挙国一致の心構えが求められる日本国の

存亡の危機であった、それを理解しての天皇の決断であった。

こうして攘夷派と開国派のバランスが再び対等になった時点で、攘夷派の巻き返しが始まった

日本の各地でイギリス人などの在日外国人を襲って殺す事件が多発するようになったのだ、首謀者はまたしても

水戸浪士と薩摩藩士であったが、長州藩士による外国人襲撃も行われた。

このように尊王攘夷派の動きが活発になると、日本各地の大名家の家臣の中にも勤王派(勤王党)という天皇の為に

我が身を捧げようという集団が出来てきた。

これによって一つの大名家の中には①天皇のために働く(勤王党)②德川家に忠誠を尽くす(佐幕派)③お家の安泰

だけを願う、こうした三つの勢力が同居するようになった

当然、その派閥が原因でのお家騒動が全国で起こったのである、いよいよ世の中が騒がしくなり、これから維新の

主役、脇役が表舞台にその姿をあらわすのだ。                    つづく

 

 

 


明治維新の整理(4)

2018年01月13日 11時12分05秒 | 明治維新の整理

德川13代将軍家定の父、12代将軍德川家慶は実に27人も子を作りました

大奥の女中でお気に入りがいると片っ端から手をつけたのかという感じです

もっとも調べてみたら家慶のお父さん、11代将軍家斉は、なんと55人も子供を作ったんだとか

びっくりですねえ、よほど暇で他にやることが無かったんでしょうか・

話しを戻します。 家定は精神的に弱い人だったのですが、他の兄弟が26人もいるのだから(但し女子が半分)

誰か別の兄弟が将軍になれなかったのと思うでしょう、ところが家定以外の26人全てが19歳以下で亡くなっている

そうです成人できたのは家定さん唯一人、それも健常者でなかった、そして26歳かで亡くなってしまう

どうしたことなのでしょうか・・・・・・興味のある方は調べてみてください。

そして家定は虚弱体質で子供はいません、当然篤姫も生涯子供がいませんでした。

跡継ぎがいないと言うことで、他家から新将軍を選ばなければなりません、候補者は德川斉昭の息子、一橋慶喜と

紀州德川慶福の二人です。

慶喜には当時の大物大名がバックアップ、薩摩72万石、島津斉彬  越前32万石、松平春嶽  水戸35万石、隠居德川斉昭

などである、更に幕府の大物老中もついている

一方、慶福には、德川斉昭大嫌いの大名や幕臣がついている。 尊皇攘夷のがちがち男、德川斉昭の息子などが将軍になったら

堅物の斉昭が何かと口を挟んでくる、それでは我らの居場所がない、と言うのも理由だ、そしてその人達が頼りにしているのは大老になった

井伊直弼だった。

井伊直弼は水戸斉昭の攘夷に対して、開国派であった、もっともこの将軍選びの構図が単純でない証拠に、慶喜推薦派の

島津斉彬も、井伊直弼同様に、開国には前向きである、だから将軍選びの基準は決して開国派と攘夷派の対立ではないのだ

そこが幕末の難しさである

そんなさなか、日米和親条約に続き、さらに一歩踏み込んだ「日米修好条約」が幕府とアメリカの間に結ばれ、今までの開港2港

が一気に6港の開港に跳ね上がった、当然、孝明天皇の思いと正反対の出来事で天皇の気持ちを逆なでした行為であった

 

そして結果発表!  井伊直弼の政治手腕が勝って、家定の口から「14代将軍は紀州徳川慶福にする」と発表された

それから程なく将軍德川家定は亡くなり、德川慶福が家茂と名を改めて14代将軍となった

間もなく家定の後を追うように島津斉彬が死んだ、病とも、島津久光を島津藩主にしたい一派が毒殺したとも言われているが・・・

片腕を失った孝明天皇はあせった、日米修好条約の無効を水戸斉昭に訴えて、幕府に圧力をかけようとした

しかし德川斉昭などが次の一手を打たぬ間にと、井伊大老が速攻で、次の手を打った、それが悪名高い「安政の大獄」だ

それは開国に反対する尊皇攘夷派の大名や下級公家、そして武士などを片っ端から処分する大粛正であった

真っ先に攘夷派の巨頭、水戸斉昭と一橋慶喜を謹慎させ、更に同胞だった松平春嶽なども謹慎処分に処した

それらの人より下位の攘夷派の重要人物には切腹、斬首、遠島、入牢などの処分を行った

その人数は100人にも及ぶ、この事件に怒ったのは斉昭の家臣達、水戸藩士であった、後に桜田門外の変で井伊直弼を

暗殺するメンバーである。   長州の学者、尊皇の志篤い吉田松陰も殺されてしまった

松蔭は決して攘夷派ではない、むしろ黒船に乗せてもらってアメリカを見たい、世界を見たいと思って、小舟で黒船まで

行って交渉した(失敗)ほどの人物だ、だが井伊直弼からみれば徳川幕府を転覆させようと企む指導者ととらえる

これが井伊直弼の目についた原因だ、松蔭は尊皇攘夷では無く、尊皇開国派だったのだが

だが松蔭が尊皇思想を教えて残した塾生たちは、やがて芽を吹き、立派な大輪の花を咲かせ、新し明治を作り上げる

久坂玄瑞、伊藤博文、高杉晋作、山県有朋、吉田稔麿、入江九一、前原一誠、品川弥二郎などである

志半ばで倒れた者が半分、理想とかけ離れた結果に落胆して反乱を起こして処刑された者もいる

だがいずれも吉田松陰がいたからこそ花開いた強者達であった。

伊勢谷友介が吉田松陰  井上真央がヒロインの杉文  夫となる久坂玄瑞に東出昌大 大河ドラマ「花燃ゆ」

は、まさにこれを描いていました。

 

 

 

 


明治維新の整理(3)

2018年01月12日 11時34分20秒 | 明治維新の整理

徳川幕府は腰砕けでとうとうアメリカとの交易に調印してしまった

かといって、アメリカなどの属国になったわけでは無く、独立国の体面は守っていた

もう15年くらい前になるけれど、あの大国だった清国はイギリスによって国をボロボロにされた

俗に言う「アヘン戦争」である、あの清国とイギリスの戦争の発端は両国間の貿易がきっかけだった

イギリスは清国から絹などを輸入したが、イギリスが清国に持ち込んだのは麻薬のアヘンだった

清国ではずっと前からアヘンの輸入は禁止していたから主に密輸入だった

アヘンは瞬く間に清国に広がって、巷にはアヘン患者が蔓延した、しかもアヘンの代償に銀が持ち出され

清国の財政基盤を圧迫しだした。

怒った清国は、イギリスに対して攻撃を仕掛けた、イギリスも直ちに応戦したが、軍艦など近代兵器のイギリスは

清国の軍を圧倒した、清国をとことん痛めつけた上に、南京条約という不平等条約を結んで賠償金を奪い

香港を手に入れ、さらにいくつもの港を開港させた。

こうした前例を幕府も知っていたから、長崎に海軍伝習所を開設して海軍の軍人養成に力を入れ始めた

そうした学生の中には、後の日本を担っていく秀才が何人かいた。 勝海舟、榎本武揚等である。

そんなおりもおり、またしても清国でイギリス、フランスの連合軍と清国の間に「アロー号事件」がおこり

第二次アヘン戦争に突入した。

そして当然ながら清国が大敗して、今度は北京条約という不平等条約を結ばされてアメリカ、ロシアも含めた

先進国の食い物になって、清国の中に欧米の租界地がいくつも出来てしまったのだった。

そのような出来事が幕府や諸大名の耳に入ってくる、今や清国の受難は明日の日本の行く末にも見える

こうして日本の武士や大名にも危機感が漂い始め、次第に孝明天皇のお考えに迎合する「攘夷思想」が

日本中に蔓延するようになってきた、そして「尊皇攘夷」という言葉が流行語となってふくれあがってきたのだった。

すなわち天皇を中心にして外国を日本から追い払うという考え方である、それは徳川幕府から政権を天皇政治に

戻すという意味でもある、全国の大名は德川の家来では無く、日本国の元来の帝である天皇の臣であるという

平安時代以前の姿に戻そうという思想が芽生えてきたのだ。

当然ながら世の中はバランスで成り立っている、プラスがあれば、同じ量のマイナスが存在するのが世の形だ

德川中心で諸大名が今まで以上に一致協力して、国難に立ち向かおうという勢力もある

そういう点で、水戸德川家は複雑だった、父の德川斉昭は尊皇攘夷のガチガチであったが、長男慶篤は德川家に

従っていこうという旧守派(佐幕派)であった

但し、尊皇派が全て德川排除の考えかと言えば、そうでもないのが複雑なところで、德川を排除せよという勢力もあれば

德川も天皇の臣として諸大名と同格で働くべきという考えの者もある。

様々な考え方が明治維新をより複雑な形にしていく、今はまだようやくその入り口に立ったばかりであった。

そして德川将軍家にも大きな転機が訪れようとしていた

水戸德川斉昭にはもう一人の息子がいる、将軍家の親戚、一橋家に養子に入った一橋慶喜である、病弱な13代将軍の世は

短命であることは誰もが感じていた、次の将軍14代徳川将軍に誰がなるのか、一橋慶喜は水戸德川家の出身、水戸は

将軍を輩出できない、しかし一橋家には将軍継嗣の権利があった、慶喜には将軍となる素質がある、そして紀州德川家にも一人、

有力な次期将軍候補がいる

次期将軍選びの活動は既に動き出していた、徳川幕府の中でも有力大名の中でも新たな争いの火種を抱えることになる。

 

 

 

 

 

 


明治維新の整理(2)

2018年01月11日 09時16分22秒 | 明治維新の整理

孝明天皇・・・・明治天皇のおとうさま

幕末の天皇はどのくらいの力があったのだろうか、少なくとも德川政権下では德川の援助で食い扶持を

つなぎ、様々な宮中行事も徳川将軍の援助無くしては出来ない状況だったのだろう。

だが孝明天皇が天皇の権威を取り戻す時代がすぐそこまでやってきた、それは黒船襲来がきっかけだった

アメリカを始め、欧米の強国は日本に港の開港と貿易を迫ってきた、時に沿岸で空砲を撃って脅した

たかが一隻の船であっても、多くの大砲を装備している、その性能は高く、幕府の旧式の大砲などオモチャに等しい

250年の平和呆けの徳川幕府は、この降って湧いた災難に右往左往するだけで明快な対処が出来なかった

一方、孝明天皇は異国を嫌い、その態度は明快だった、そして腰が引けている幕府に「異国の異人どもを追い払え」

強く命じた、この時点で天皇の方が幕府より肝が座っていてぶれなかったのだ。

信念を持つ者は、迷う者より強い。 徳川幕府の大臣達は天皇から追い払いを命令され、米英からは開国しなければ

覚悟はいいなと脅されて、まるで韓国の文在寅大統領が日米と北朝鮮に挟まれて苦労しているのと同じ状況に

なった。

なんとか米英をなだめて返事を先延ばししてもらい帰国させたけれど、こうした事実は日本中の大名や、その家来

たちに大きな選択と決断を宿題として残したのだった。 俄に動かなかった日本が騒がしくなってきた。

米英仏露の軍艦が相次いで日本にやってきた1850年前後から、西南戦争で西郷隆盛が自刃、翌年ライバルの

大久保利通暗殺までの約30年間が明治維新のハイライトである。

こんな日本で先頭を切って動いたのは、德川御三家水戸藩の殿様、德川斉昭(なりあき)だった

早くも神国日本の危機とばかりに、国防の建白書を幕府に提出したり、自らも防備のための装備拡充に励んだ

この殿様、天下の副将軍水戸光圀公の子孫である。

徳川家は江戸の本家が代々将軍を継いでいくが、もし嫡子が居ない場合は、御三家のうち尾張徳川家か、

紀州徳川家から将軍を選ぶように、そして水戸徳川家は

将軍の資格は与えぬ代わりに代々天下の副将軍として将軍を補佐して、また非があれば意見するようにと

德川家康が遺言していったのだ。

さて、そんな立場であるけれど、德川家より天皇の家臣であると強く思っている水戸徳川斉昭である

当然、夷敵を追い払えと天皇と同じ考えであるから、江戸城に乗り込んであたふたする老中等大臣に

罵声を浴びせる、「おまえ達が、ぐずぐずするなら水戸藩だけでも夷敵と戦うぞ!」という気構えだから

将軍も老中もたじたじである。

前後するけれど、同じように国防を意識して国内の各地で心ある諸藩は大砲の製造や兵士の訓練を始めた

九州の薩摩藩島津斉彬、佐賀藩鍋島公、本土では越前松平春嶽、信州松代藩、そして長州藩の吉田松陰は後に

明治維新の中心となる若者達に尊皇愛国の教育を行っていた、また幕府の家臣の中にも危機感を持つ者が

多少なりいたのである。

そのような肝を据えた雄藩に比べ、幕府の弱腰はついにアメリカのペリー提督の再来に屈して日米和親条約を

結び主要港湾を開港した

当然孝明天皇の怒りは頂点に達した「德川家、頼むに足らず!!ふぬけどもめ!、日の本に夷敵を追い払う

根性のある大名はいないのか(京都のお公家さんの言葉を標準語に翻訳)」

この頃、德川12代将軍德川家慶が亡くなり、13代に德川家定がついた、あの薩摩から嫁入りした篤姫の夫である

篤姫を将軍家に送り込んだのは島津斉彬であった。   

将軍德川家定、大河ドラマ「篤姫」のとおり、この国難をリーダーとして解決して行くには精神的に弱い部分がある

将軍であった. (大河では「真田丸」で主人公を演じた堺雅人が、「篤姫」でも、この德川家定を演じていた。)

 故に幕臣老中が幕府を主導していかなければならなかった、そんな中で頭角を現したのが数年後に大老

(筆頭老中)となる井伊直弼(いいなおすけ 彦根藩主=井伊直政の子孫《勿論血はすでにつながっていないけれども》

であった。

                                                              つづく

 

 

 

 

 

 

 


明治維新の整理(1)

2018年01月10日 09時10分53秒 | 明治維新の整理

「西郷どん」が始まって、久しぶりに日本史への血が騒ぎ始めた

「天地創造」の如く、まだ形の無かった大海原に一滴のしずくが天からポタリ!

神は神の国より長い櫂でしずくが落ちた大海原をかき混ぜると、有象無象の群衆が何の法則も持たず

思い思いに現れて散っていった、まさにパンドラの箱は開かれた。

 

德川家康が井伊直政等を従えて戦に明け暮れ、ようやく1615年に築き上げた太平の世は、250年の後、

家康より10代後の子孫の頃、崩れようとしていた。

オランダ、ポルトガル、スペインといった中世欧州の強国は、イギリス、フランス、アメリカにその地位を

奪われ、スペインはフィリピンに、オランダは日本の端で僅かな交易をしていた。

いよいよ3大強国は東南アジアを植民地にして、極東東アジアに北上を始めた、また北からはロシア恐ロシアが

南下、眠れる獅子「清国」、清国の従属国「朝鮮」、サムライの国「日本」、もはやアジアの独立国はシャム(タイ)を

除けば、この三国しか残っていなかった。

清国は今の中華人民共和国で、当時、実質的な中国人「漢族」の国は、北から攻め込んだ満州族に占領されていた

満州族が漢人の国、「明」を滅ぼして作ったのが清国である。

我々がイメージする昔の中国人はラーメンマンの如く、おさげ(弁髪)は満州族のおしゃれなヘアスタイルで、漢民族の

スタイルではない、だが満州人の命令で漢民族も同様のヘアスタイルにさせられていた。

一方、朝鮮はと言うと、今は同じ朝鮮族が南北に別れて独裁国家と、資本主義国家になっているけれど、当時は

朝鮮国王が統治する一つの国だった「李氏朝鮮」という、それも建国からすでに550年を過ぎていた

イ.サン(正祖)の善政を最期に、この国は堕落を始め、腐敗官僚と栄華を楽しむだけの無能な王室の国に落ちぶれ始めていた。

「李氏王家」も今や王妃の実家の「金氏」に実権が移り、名前だけの王朝と化していた

日本では德川将軍家も含め、250諸藩の多くが財政難であえいでいた、戦争は無いものの天災が多発して饑饉がおこり

百姓が命をかけて蜂起する藩が続出したが、そんな中で薩摩島津家など九州の大名は、開けた長崎、鹿児島、佐賀、博多

などの港で異国との貿易(密貿易)を行って潤っていた。

当然、武器類も田舎の江戸や東北、北陸など問題にならない最新式のものが続々と手に入る

薩摩の殿様、島津重豪などは外国語を話し外国文化や文明に大いに興味を持ち藩財政を傾かせるほどの投資を行った

農業生産しかない幕府を含めた東日本とは100年も違う国の様そうになりつつあった。

明治維新が南から始まったのは偶然では無かったのだ、力を持った者が力なき者を虐げるのは歴史の常識である

しかも日本の歴史はいつも南から北に攻め上っていく、神武天皇が出雲国などを従えて北上して大和に建国したパターンが

また江戸末期に起こるのだった。

果たして薩摩や長州に関ヶ原の仇討ち意識があったかどうかはわからないが、長州毛利藩と薩摩島津藩は関ヶ原で

家康に敗れて、毛利は120万石から30万石に国土を削られ、薩摩は国土はほぼ安堵されたものの、その後は

木曽川などの堤防工事などにかり出されて多くの犠牲を強いられた。

関ヶ原で敗れながらも、その2大雄藩が德川の情けで生き残り、250年後に德川家を崩壊させるとは家康も思いもしなかった

だろう、これと同じ例が、源頼朝を助命したために滅ぼされてしまった平氏という前例がある。

ともあれ、異国の蒸気船軍艦黒船は日本各地を訪れ、帆船でのんびり航海していた日本人の肝っ玉をチジミ上がらせた

ところが日本人の面白いところは、驚きながらも大勢の人間が黒船と異人に恐怖だけで無く、興味と好奇心を持ったことである

明治天皇の父、封建時代最期の天皇である121代孝明天皇はさすがに日本の柱であるだけに、異国船と異人に不快感を示し

武家の棟梁である為政者、德川幕府に異国船を追い払えと命じた。       続く

 

 

 


せごどんと明治維新

2018年01月04日 21時08分02秒 | 明治維新の整理

 

明治維新と戦国時代、日本を二分した国内大乱は同じだが、明治維新は日本では希なクーデターだった

德川政府を武力で倒した薩長中心の革命軍、もっとも王政復古という点では政権を天皇に取り戻したという

ことでクーデターとは言いがたいかもしれない。

だが構造は単純では無い、毎回これを考えるとなぜ德川は突然脆く崩れ去ったのだろうかと疑問に思う

やはり太平慣れの油断を、用意周到な薩長の開明的戦闘集団に突如襲われたと言うことになるか

大体が薩摩という国は南の端にあって、財力乏しく戦闘意欲も薄れていた江戸の德川軍が攻め込むには

遠すぎた。 秀吉が破竹の勢いで薩摩どころか朝鮮まで攻め込んだパワーに比べてみてもお粗末だ

結局、周辺の九州大名に命令して攻めさせるのが筋だが、九州大名は薩摩の強さを認識して、更に

德川との連絡もママならず、しかも参勤交代で徳川家の衰退や武力も知り尽くしている

ゆえに天秤をかけてみれば薩摩に本気で挑む酔狂な九州大名はいない

 

薩摩という国は他国者が入り込んでも生きて出ることが出来ないという、しっかりとしたセキュリティと特殊な

方言で他国者はすぐにばれてしまう

だから何をしているのかもわからず、そこに島津斉興という殿様が登場して、薩摩藩の軍備を大いに拡張

充実させた、そのあと斉彬という聡明で開明的な殿様が後を継ぎ、短命であったが西郷隆盛をそばに置いて

可愛がったから、身分卑しきせごどんも大いに影響を受けて視野を広げたのだろう。

島津家と徳川家は大河ドラマでもあったように篤姫を始め、德川将軍家と幾重にも親戚関係になっている

だから島津の殿様には倒幕意識はさほどなかたっただろう、結局斉興や斉彬とは毛色の異なった、島津久光が

殿様になって勤王大名になったのだろう。

だが実際に倒幕軍を指揮したのは薩摩も長州も下級武士団だった、土佐にも勤王下級武士は大勢いたけれども

殿様の山内容堂は徳川家に忠誠を尽くしてたから、勤王武士は弾圧されて芽を摘まれてしまった

坂本龍馬らいち早く脱藩した下級武士だけが京都で、薩摩長州の志士と意を通じ合って討幕運動を行った

せごどんは薩摩の飼い犬、坂本龍馬は野犬、長州の騎兵隊を指揮した高杉晋作などは飼い主を引きずり回す

獰猛な家犬と言えよう

長州には獰猛な家犬が群れを組んでいた、古株の家犬をかみ殺し、従えてしまった、その犬たちは京都まで行って

大暴れだ、手を焼いた幕府は忠実な会津犬、薩摩犬を使って、長州犬を追い払った

長州犬は故郷の犬小屋に逃げ帰ったが、犬小屋の中で牙を磨き身構えている、一方天敵薩摩犬は更に長州犬をを

威嚇していたが、坂本野犬がそんな薩摩犬に長州犬と手を結んで、徳川幕府を倒すべきだと諭す

この野犬はただ者では無い、世界を知っている、皮のブーツを履いて懐に短銃を忍ばせている、船を持って商売も

している。 外国人の知人も多くもっとも先進的な日本人だ、せごどんなど田舎のガキ大将に過ぎない

だがせごどんには不動の凄みと、人を引きつける魅力がある、何かをしそうな堅物、ここに正反対の龍馬がぐさりと

突き刺さった、龍馬は長州のボス桂小五郎とせごどんを結びつけた、薩長連合の完成だ、鬼に金棒がくっついた

もともと郷土意識が強、く訓練され洋式軍隊がある長州軍に豊かな薩摩から新式銃や大砲が送り込まれた

後方支援は薩摩、最前線は強者長州軍、そして坂本龍馬が相談役だからもはや無敵だ

四方から攻め寄せた德川方の近隣大名を片っ端から打ち破り攻め込んだ、そしてせごどん指揮する薩摩軍と

合流、そこに戦闘的な公家、500円札の岩倉具視が一枚加わって悪巧み、偽の錦旗を大量に製作して長州軍に持たせた

天子様の軍となった薩長だ、力を持たない帝だが日本人には大昔より天皇に対する畏れと敬念がある、例え旗だとて

天皇の化身だ天につばを吐くまねはできない、次々と街道の小藩は降伏、あるいは合流してくる

薩長は100円札板垣退助の土佐軍と佐賀肥前の江藤新平の軍とも合流、天皇を頂くために京都を目指した

大坂城の德川要人はさっさと江戸に逃げ帰った、15代将軍徳川慶喜は謹慎して恭順を示し

天皇様に政権をお返ししますと自ら申し出た、そしてこれからは外国からの脅威に対して徳川家も天皇様の家臣

となって新日本の運営に大臣の一人となって加わって、国難回避のため粉骨砕身、犬馬の労を惜しみません

とやった。(大政奉還)、武力革命で徳川幕府を賊として葬る予定が狂った薩長は上げた拳を下ろせなくなった。

「これは困った、これでは最大の領土を持つ徳川家は存続して合議制の主導権を握られてしまう、なんとしても

德川を取り潰し慶喜を犯罪者として首を取らなければ、薩長中心の政府を作る事ができない」

そこで德川の主戦派を挑発して起こした鳥羽伏見の戦い、まんまとはめられた旧幕府軍は惨敗、徳川家征討の

口実が出来た。

北陸道、中山道、東海道の3方面軍に別れてぴーひゃらどんと、錦旗を先頭に行けば、徳川御三家の紀州も

尾張も抵抗せず軍資金を供出する始末、ほとんど戦闘などなく、希に德川に忠誠を誓った小藩があっぱれ立ち向かう

だが瞬く間に敗れてしまう、東海道は江戸間でまっしぐら、中山道も抵抗はなく、唯一北陸道で立ちはだかったのは

奥羽越列藩同盟軍の最前線、越後長岡藩、ここは徳川家直臣牧野家7万石有余の小藩

指揮するのは河井継之助、田舎にあっても向上心向学心の人、日本に3丁しか無いというガトリング銃2丁を所有

徹底抗戦する、一度は落城するが、夜襲をかけて取り返す大技を敢行して成功している

だが多勢に無勢、ついに敗れて峠を越えて同盟軍の会津へ向かう途中、重傷の河井継之助は息を引き取った

最初から中立を望んだ河井を、薩摩の参謀が門前払いして戦争を仕掛けてきたのだ

終焉の地を訪れたことがあるが寂しげな東北の寒村だった、どんな気持ちで息を引き取ったか、無念さが浸みる

 

江戸無血開城は、せごどんと幕臣勝海舟の腹芸のやりとりで実現した美談だが、会津を始め東北攻めでの薩摩.長州は

血も涙も無く、敗戦決定の東北武士や住民の殺戮や暴行を楽しむ無法ハンター集団と化して後味が悪く評判が悪い。

降伏を訴えた会津を、あれほど惨い戦場にしたのは決して許されない行為だ、未だ会津人の一部に根強い反感が

あるという。、特に長州藩(山口県)の府、萩市に対しての会津若松の心のわだかまりは、近年になってようやく軟化の兆候が

見えたらしい、日韓問題に匹敵する実に150年近い感情のもつれだった

そんな中で戦った相手から賞賛の声があがり讃えられ銅像もあるという人物がいる

それは庄内藩における、せごどんである、彼は東北で唯一新政府軍に勝ち続けた庄内藩酒井公に敬意を持って

あたり、戦後処分を寛大に行ったという、それを庄内の人々は絶賛したらしい、地元の人にお聞きしたことがある。

このあと、新政府の大臣や高官になった薩長の贅沢三昧などの行いに失望した、せごどんは官職を辞して

薩摩に帰り、同じく帰った薩摩の不平士族に頭目として担がれて、かっての同僚、大久保利通の政府軍と薩摩人同士

が殺し合い、せごどんの弟、継道とも敵味方となる、熊本、宮崎と攻め上るが続々と援軍押し寄せる新政府軍に敗れ

鹿児島の城山にて自刃に追い込まれる

この西南戦争には警官となった会津遺臣が多く志願して参戦したという、それは薩長が作った政府軍に加わり

薩摩に攻め込み、薩摩武士に会津戦争の復讐、あるいは仇討ちしたいという思いだったのだろうか

だが西郷さんは今もなお日本人の心の拠り所である。