煎茶の稽古には、漢詩は必須科目である。
しかし、思うように詠めない、もちろん理解するには手習いでは頭に入らない。
当たり前といえば、当たり前だ。少しずつでも、という気長な話ではあるが・・。
今年(5年前)の初稽古で触れたのが、
中国古典文学のなかの最高峰と言われる詩人「李白」。
中国の先人の詩は、現代では想像し難い果てしない物語が詠まれているものが多い。
中でも悲愴感のなかに力強い生命力を感じさせるものが多い。
短い言葉で、その思いを想像、連想させることは極めて難しい。
詠み手側が、書き手側の想いを深く理解できるか、そうでないかによって
その詩の伝えたい焦点がズレ、意味が異なって理解される場合がある。
不安を抱きながら「李白」を詠んでみた。
望廬山瀑布(廬山の瀑布を望む)
日照香炉生紫煙
遥看瀑布挂前川
飛流直下三千尺
疑是銀河落九天
日は香炉(こうろ)を照らして紫煙(しえん)を生ず、
遥かに看(み)る瀑布(ばくふ)の前川(ぜんせん)に挂(か)かるを。
飛流直下(ひりゅうちょっか) 三千尺(さんぜんじゃく)、
疑(うたご)うらくは是(こ)れ 銀河の九天(きゅうてん)より落つるかと
太陽が香炉峰を照らし紫の靄を漂わせ、
遥かに遠い川の向こうには滝がある
三千尺もの高きからまっすぐほとばしって、
まるで天の川が天の一番高いところから流れ落ちたようだ
悲愴感の中で暮らす李白に、
この瀑布(滝)は新たな出発を成す力強いエネルギーになった光景だったのだろう。
自分の想いを天の高いところから流れ落ちる水に喩え、
生成発展する新たな希望を表現した、
自然の理法を代表する詩といえるではないだろうか。
今年初めの詩としては心に沁みるものだった。