大手ゲームメーカーとして世界のゲームファン魅了する任天堂(Nintendo)。その聖地といえる京都市下京区にある旧本社ビルが、今年の4月にホテルに生まれ変わった。ホテル「丸福樓」という。
任天堂発祥の地である、大正ロマンを色濃く残すビルヂィングを初めて見たのは4年前。当時は空きビルで厳重にロックがなされていたので内部を窺い知ることはできなかった。鴨川にほど近い七条通と五条通の間の、正面橋を西に入った住宅の路地裏の一角に、堂々たる近代的建造物がそびえ建ち目を惹く存在だった。
当時、正面玄関に看板がかかっていた。"トランプ・たるか"と妙な文字の看板があり、その下に「堂天任内山」と古さを感じさせる右から読む漢字の看板が掲出されていた。
いまは誰もが知る世界のゲームメーカー「Nintendo」として君臨しているが、創業当時は 「かるた」と「トランプ」といったカードの製造がメインで、その中でも「花札」の生産が多かったと聞く。プロの方たちが使うカードとして、一度使ったカードは二度と使わないというしきたりがあったようだ。そのためか注文がひっきりなしに入ってきたという話も聞いたことがある。
山内房治郎氏が明治22年に創業し日本一のカード製造会社までに押し上げていった。そして、2代目社長が「合名会社山内任天堂」と「株式会社丸福」を設立し、現在の任天堂へとつながっていった。その原点の地がここである。
旧任天堂本社ビルがホテル「丸福樓」に生まれ変わった
ホテルエンタランス掲げられている昔の看板
その任天堂創業の地として残る旧本社ビルが、今春にホテル「丸福樓」としてスタートした。昭和初期に建てられたアール・デコ風の建物の雰囲気をできるだけ残しながら増改築(設計監修は安藤忠雄建築研究所/施工は大林組)し、レストランやバーを備え、7つのスィートルームを含む豪華な部屋が18室で構成され、歴史を語れる新しい空間に生まれ変わった。
数年前から京都ではホテルラッシュで沸いたが、新型コロナウィルス感染で国内外からの観光客はゼロに近い状態になったが、やっとこの秋より明るい兆しが見えてきた。
これからの新しい時代のホテルとして、この丸福樓が歴史の中で築いた世界の「任天堂ブランド」の神通力を見せる時がきた。
丸福樓が改装にあたりもっとも大事にしたことが建物の雰囲気をできるだけ残すことを主眼に置いた。建物の構造には大きく手を入れず、当時の建物構造を残しつつ部屋や施設、設備等を用意した。残された貨物用エレベータはモニュメントとして残され、当時の面影を感じるように。当然、階段も当時のままの構造で細くホテルとして見れば不便だが、歴史を語れるホテルとしてあえて不便性を優先した。
もとの建物は、事務所や作業場であった社屋、真ん中に位置する創業者である山内家の元住居、そして一番奥の商品を保管していた倉庫、と大きく分けて3つで構成されていた。これらをリノベーションし、ホテルへと作り変えたのが現在のホテル丸福樓だ。事務所のあった社屋を「スペード棟」、かつての山内家の住居を「ハート棟」、倉庫を「クラブ棟」に、そして増設された新棟を「ダイヤ棟」という名称にした。任天堂ならではのユニークな発想がここにも息づいている。
昔の荷物用エレベータがモニュメントに
元は会議室だった場所に作られたラウンジの椅子はもともとこの部屋で使われていた年季が入っている逸品もの。エントランスの古時計も当時から残されたもので、ねじ巻き式時計らしく時間がずれがちだが、大きな役割を果たしている。役割を終えたはずの電灯のスイッチを壁から外さず残しているところもおもしろい。この存在がホテルになる以前の姿を想像させてくれる。
丸福樓は京阪七条駅近く、正面通という観光客にはほとんど知られてない狭い路地裏通りに面している。この辺りは住宅も多く、喧騒からは少し離れている。周りの住民の方からは、あの建物が生かされ動いてこそ活気が出るという。ホテルはいろんな意味で地域に貢献してくれている。うちが作るおかきもホテルで使ってくれているし、この路地裏が明るくなったよ、と大歓迎ムードである。
京都駅に近いことからホテルも多く、京都観光というだけならばほかに選択肢はいくらでもあるだろう。だが、任天堂ファンにとっては、このホテルは “任天堂ヒストリー” の聖地。これからのホテルの姿の第一歩として、新たな存在感をつくり上げていくはずである。
むかし使われていた紙を使って作られた鳥の造形物
会議室だったところをホテルのラウンジに
リポート&写真/ 渡邉雄二
尾道・文化紀行 https://asulight0911.com/hiroshima_onomichi/
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