一韶の俳句ブログ

俳句を詠うのは自然・私・家族・夢や希望・社会など。読む時はどんな解釈が浮かぶか読み手の経験や生活によって様々

22   出不精に釣瓶落としの迫りをり   章子

2010年10月02日 | 

{秋晴れのこんないい日なのに・・・・。私は一体・・・・。
作者のつぶやきが聞こえてくるような、一見自虐的とも思える句である。

しかし、何回も読み返している内に気付かされた。作者は、「出不精なのが作者自身」とは、言っていないのである
 
それでは、出不精なのは、例えば「連れ合い」。そうなると、それは「つぶやき」どころか「怒りを込めた大声」となるかもしれない。

例えば、それを「恋人」や「友達」や、「かたわらで眠っている子猫のミー」と考えていくと、句の持つ意味がまるで違ってくる。
実は、「生活を楽しんでいる句である」という解釈もできるのである。
 
色々な想像を掻き立ててくれる俳句が、「私」には面白い。}

以上、句友、炎火さんの講評である。

主語がない俳句は、ない故に解釈に広がりを持つのである。省略の徳?得?とでも言えようか。

それにしても、秋の日の落ちるその速さを例えて、「釣瓶落とし」と言うのだが、誰が言い始めたのか、どうして定着したのか、不思議でならない。実に奇抜なたとえだ。

コメント
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