{秋晴れのこんないい日なのに・・・・。私は一体・・・・。
作者のつぶやきが聞こえてくるような、一見自虐的とも思える句である。
しかし、何回も読み返している内に気付かされた。作者は、「出不精なのが作者自身」とは、言っていないのである
それでは、出不精なのは、例えば「連れ合い」。そうなると、それは「つぶやき」どころか「怒りを込めた大声」となるかもしれない。
例えば、それを「恋人」や「友達」や、「かたわらで眠っている子猫のミー」と考えていくと、句の持つ意味がまるで違ってくる。
実は、「生活を楽しんでいる句である」という解釈もできるのである。
色々な想像を掻き立ててくれる俳句が、「私」には面白い。}
以上、句友、炎火さんの講評である。
主語がない俳句は、ない故に解釈に広がりを持つのである。省略の徳?得?とでも言えようか。
それにしても、秋の日の落ちるその速さを例えて、「釣瓶落とし」と言うのだが、誰が言い始めたのか、どうして定着したのか、不思議でならない。実に奇抜なたとえだ。