わが国には、五節句というのがある。
1、人日(一月七日)、
2、上巳(じょうし)の(桃の)節句(三月三日)、
3、端午の節句(五月五日)、
4、七夕(しちせき)の節句(七月七日)、
5、重陽の節句(九月九日)がある。
なんとなく、数字に関係が深いようですね。
特に重陽の節句は、最も縁起の良い九が重なる日として「重陽」と名付けられた。江戸時代には、五節句の中では、最も公的な性質を備えた行事となり、武家では菊の花を酒にひたして飲み祝い、民間では粟御飯を食べたとされる。
さてこの句、重陽の節句の日に、わずかに残る歴史のある石畳を、作者は歩いている。近くでは箱根の旧東海道などを思い出す。
時代の推移と共に、忘れられてゆく多くのものへの作者の思い、例えば郷愁や淋しさや嘆きなどがあるのかもしれない。
作者の、そして古人の石畳を踏む音とともに、そういう作者の声なき声が、聞こえてくる。
尚、私見であるが、節句は旧暦(太陰太陽暦)で行わなければならない。今年の重陽の節句は、10月16日である。
明治以降、あらゆる行事が西洋にならい太陽暦で行うようになった。しかし、これは日本人として恥である、と私は思う。
太陰太陽暦を忘れてはならない。
今年は、世界最高の賞と言われているノーベル賞を、二人の日本人が受賞して、日本中喜びに湧きかえっている。
だが、ちょっと待てよ。
ノーベルは、ダイナマイトを発明し、武器製造で巨万の富を得た人物ではないのか?
ノーベルの発明のために、つまり爆薬のために一体何人が死んだか、考えてみよう。
おそらく、1億人を超えるのではないか?
ノーベル賞を貰って、そんなに手放しで喜んでいていいのか?
乗り物では、
牛車・馬車・駕籠・自動車・汽車・電車・新幹線・リニアモーターカー・ジェット機・宇宙船まで、人間の探究心は、終わりを知らない。
人類は、あってもなくてもいいようなものを随分と作りだしたものだ。
さて、空の乗り物のお陰で、寝台列車も姿を消しつつある。
しかし、乗っても見送っても、寝台列車には独特の雰囲気と香りと郷愁がある。
この句、秋晴れの日に、茶髪や金髪の若者が、渋谷駅を出て行く、という。
出て行ってしまうより、電車からホームに、どっと若者たちが降りてくる方が迫力があるんじゃあないかと、私は申し上げた。つまり
秋晴や茶髪金髪渋谷着
すると、作者は、
茶髪や金髪のファッションは渋谷から始まり、全国に出て行った。そういう意味も掛けているから「発」でなければならないそうである。
なるほど、田舎者には「渋谷発」の意味が分からなかった。
更に、髪・髪・発と3回同じ音をたたみかけていることもあって、「着」では絶対駄目なのだそうである。なるほど、なるほど、である。
木の実のうち、団栗(どんぐり)のように栗鼠(りす)などの動物に食べられて、新たな生命を生むことのできないものがある。
又、柿のように種だけは食べられず捨てられて,命拾いするものもある。
櫨(はぜ)の実のように鳥に食べられて遠くへ運ばれ、その硬さゆえ糞として排泄される逞しい種もある。
いづれにしても、それらは子孫を残すために重要なことだ。
さて、引力によって木の実が落ちる。それを受け止めるのは地面だ。
その種がどのような運命をたどるのかは解らないが、作者はその大地の大きさに気付いた。
その大地は、町とか、本州とか、日本とかではなく、
地球そのものなのではないか、と私には思われる。
そう思うとさらに、受け止めているのは単に地球だけではなく、
大自然とか太陽なども含む宇宙全体にまで広がり、更に神にまで想像を広げて解釈したい。
つまり、この句は宇宙的規模の宗教的俳句と言ったら、言い過ぎだろうか。
萩の花 尾花 葛花 撫子が花 おみなへし また藤袴 朝顔が花 山上億良(万葉集巻八)
億良のこの歌から秋の七草が決まったようだが、朝顔は今の桔梗であったというのが定説。しかし、朝顔や木槿も完全否定されてはいないようだ。
残念ながら、藤袴や桔梗は、自然界ではほとんど見かけることはなくなってしまった。この桔梗も庭などに植えられた園芸品種ではないかと思われる。
さて、桔梗の蕾が膨らみ始め、割れて五弁に開く前の風船の状態。つまり、まさに割れんばかりの桔梗を見て,何を包んでいるのだろう、と思う。何が飛び出してくるのだろう、と思う。
宝石や可愛い小人たち・・・・夢のような作者の空想は膨らみ始める。
一口に赤とんぼと言っても、日本に生息する赤とんぼは、学者の分類では21種にもなるという。
アキアカネが赤とんぼの代表のようだが、ナツアカネというのもある。
腕を伸ばして、佳秋さんが言う。「この指止まれ」
そうしたら、本当に止まってしまった。
よかったね、たのしいね。
名前が「佳き秋」だもの、赤とんぼも止まるはずだ。
80才の方が俳句を始めた。嫁に来て60年。
既にご主人は他界し、お子さんがいないので、一人住まい。
この句の作者が分かって、私は「うーむ・・・・・そーか・・・・・・」
いくらお年をとっても、お母さまへの想いは深ーいのですね、嫩女さん。
「いえいえ、年をとればとる程深くなるのよ。1ssyoさん」
ムクドリの名前の由来は,ムクノキ(椋の木)の実を好んで食べることから来ているそうだ
又、「無垢(ムク)」という仏教語との語呂合わせから、ムクドリのことを略して「ムク」と呼ぶこともある。
子育てが終わり秋になると、最近では数千羽の大群となって都市に現れ、騒音や糞害などの映像がニュースで放映されている。しかし、
「あんた達人間の方が、よほど俺たちの生育環境を破壊しているんだぜ、分かっているのかね。迷惑しているのは、俺たちなんだ」と椋鳥が言っている。
さてこの句、椋鳥は土の上や芝生などによく現れ、虫などを啄んでいるが、目の前の椋鳥に、動くはずのない石地蔵の眼が動いているという。
私はどうしても、石地蔵に作者のギョロ眼が重なってしまい、可笑しくて吹き出してしまう。
彼岸におられる池月さん、ごめんなさい。
彼岸も過ぎると、昼夜が逆転し次第に夜が長くなる。酒も温め酒となり夜長を楽しむ。友と俳句談義に花が咲き、男だけの夜長の夜が更けて行く。
ふと気付くと、先ほどまでの山風が止んでいる。たぶん、それを山に帰ったと表現したのだろう
白熱した俳句談義も一服し、そろそろお開きにしようか。山風も帰ったことだし・・・・・
2,3合飲むとすぐ寝てしまう私には、作れそうで作れない、酒好きの、かつ酒豪らしい一句だ。
昔々の思い出話です。
妻となっても不思議ではない女性から、「・・・」を持って来るよう頼まれました。
しかし、私はすっかり頼まれごとを忘れ、どうでもよい秋桜(コスモス)だけを持って行ったのです。
この句を読んだ私の師匠は、「持ち来たる」ではなく、「持ち帰る」の方が余韻があっていい、と言われました。
秋桜のみ持ち帰る忘れん坊
衝撃的でした。私にとって最高の添削でした。
「てにをは」を直すような添削はほとんど面白くないが、その人の人生観、価値観を変えるような、すごーい添削もあるんですね。
解説のいらない、そのままの句。
句会でこの句を選んでくれたのは男だけ。女は誰も選んでくれず、それどころか「女性を侮辱しているわね、この句」と言われてしまう始末。
私は、女を讃えるつもりで作ったのに、本当に世の中は難しい。
私は、そのまま食べられるブドウやさくらんぼ以外の果物は、ほとんど食べたいという衝動が起きない。蜜柑でさえなかなか食べる気にならない。
勿論、誰かがすぐ食べられるように用意してくれれば食べるのだが・・・・
こういう私になったのは、母親が原因だ、と私は確信している。
「わたし作る人、あなた食べる人」というキャッチコピーが昔流行ったが、「男は女によって作られてきた」、ということを忘れてはならない。(男の子を育てている全ての母親の皆さまへ)
10月から、300円のタバコが410円に値上げされる。喫煙者全体(2、500万人)の25%(600万人)が禁煙するという予測。
実は私もその一人である。過去、何度か禁煙したが、最高半年余りで全て失敗している。
今までの失敗の原因を考えてみると、「一本ぐらいいいじゃないか、吸いなさい。」という失敗させたい喫煙者の甘ーい誘惑だ。その誘惑に負けなければ、大丈夫だと思うのだが・・・・・・
さて、赤ちゃんのおしゃぶりから始まり、大人になっても何かが口にないと寂しく感じてしまう。タバコで治まっていた「口淋しさ」を何で補うか、が問題なのである。
「禁煙・口淋しい」を、google検索したら、23万件も出てきた。皆さん、よほどお困りのようである。
飴、ガム、するめ、菓子などで口をふさぎ、ついついコーヒー、酒などをがぶ飲みし、ついつい食べ過ぎて肥満に・・・・600万人の悩みは尽きない。
俳句仲間と川柳の会をやった時の句。
遅く帰れば帰るほど、おかんむりなのが人間、喜ぶのが犬。この違いは一体何なのだ。犬を飼い始めて12年、犬の特性について気付くのだが、これもその一つ。このテーマを軽く見てはいけない。
最近、犬は人間よりも優れているのではないか、生き物界で、一番駄目なのは、人間なのではないか、と思うようになった。これは、私とは何かという、哲学的考察でもある。このことは、別の機会に述べたいと思う。
さて、この句のことを妻に話したら、「私、怒ったことないわよ」
確かに、とっくに寝ているし、帰ったことに気付きもしないし。
「誰のこと?怒る妻って誰?他にそんなひとがいるわけ?・・・・いるわけないと思うけど・・・・」
実際は、「怒る妻」ではなく「眠る妻」が正しいようです。
ははあ、半島とは、伊豆半島かな、房総かな・・・・しかし、重くなるとは、視覚的というよりは、感覚的、それとも科学的というべきか。
作者が分かって納得、なるほど、真鶴半島でしたか。
真鶴半島には、地元の人からお林(おはやし)と呼ばれている、「魚付き保安林」という特別区域がある。
昔から、この保安林のお陰で魚が集まり、よく育つと言われている。
例えば、100ミリの大雨が降ると、10万坪の原生林は、3万3千トン重くなるというわけだ。(原生林の広さは、推測)
原生林に近い状態だから、落葉の堆積によって、雨が降った時にスポンジのような保水力がある。
そして、栄養を含んだ清水が、じわじわと海にそそがれる。
{秋晴れのこんないい日なのに・・・・。私は一体・・・・。
作者のつぶやきが聞こえてくるような、一見自虐的とも思える句である。
しかし、何回も読み返している内に気付かされた。作者は、「出不精なのが作者自身」とは、言っていないのである
それでは、出不精なのは、例えば「連れ合い」。そうなると、それは「つぶやき」どころか「怒りを込めた大声」となるかもしれない。
例えば、それを「恋人」や「友達」や、「かたわらで眠っている子猫のミー」と考えていくと、句の持つ意味がまるで違ってくる。
実は、「生活を楽しんでいる句である」という解釈もできるのである。
色々な想像を掻き立ててくれる俳句が、「私」には面白い。}
以上、句友、炎火さんの講評である。
主語がない俳句は、ない故に解釈に広がりを持つのである。省略の徳?得?とでも言えようか。
それにしても、秋の日の落ちるその速さを例えて、「釣瓶落とし」と言うのだが、誰が言い始めたのか、どうして定着したのか、不思議でならない。実に奇抜なたとえだ。