一韶の俳句ブログ

俳句を詠うのは自然・私・家族・夢や希望・社会など。読む時はどんな解釈が浮かぶか読み手の経験や生活によって様々

36   重陽や古人の踏みし石畳    鼓夢

2010年10月16日 | 

わが国には、五節句というのがある。

1、人日(一月七日)、
2、上巳(じょうし)の(桃の)節句(三月三日)、
3、端午の節句(五月五日)、
4、七夕(しちせき)の節句(七月七日)、
5、重陽の節句(九月九日)がある。

なんとなく、数字に関係が深いようですね。

特に重陽の節句は、最も縁起の良い九が重なる日として「重陽」と名付けられた。江戸時代には、五節句の中では、最も公的な性質を備えた行事となり、武家では菊の花を酒にひたして飲み祝い、民間では粟御飯を食べたとされる。

さてこの句、重陽の節句の日に、わずかに残る歴史のある石畳を、作者は歩いている。近くでは箱根の旧東海道などを思い出す。

時代の推移と共に、忘れられてゆく多くのものへの作者の思い、例えば郷愁や淋しさや嘆きなどがあるのかもしれない。

作者の、そして古人の石畳を踏む音とともに、そういう作者の声なき声が、聞こえてくる。

尚、私見であるが、節句は旧暦(太陰太陽暦)で行わなければならない。今年の重陽の節句は、10月16日である。

明治以降、あらゆる行事が西洋にならい太陽暦で行うようになった。しかし、これは日本人として恥である、と私は思う。

太陰太陽暦を忘れてはならない。

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35   秋寒や寝台列車煌々と    野里女

2010年10月15日 | 

今年は、世界最高の賞と言われているノーベル賞を、二人の日本人が受賞して、日本中喜びに湧きかえっている。

だが、ちょっと待てよ。

ノーベルは、ダイナマイトを発明し、武器製造で巨万の富を得た人物ではないのか?
ノーベルの発明のために、つまり爆薬のために一体何人が死んだか、考えてみよう。
おそらく、1億人を超えるのではないか?

ノーベル賞を貰って、そんなに手放しで喜んでいていいのか?

乗り物では、
牛車・馬車・駕籠・自動車・汽車・電車・新幹線・リニアモーターカー・ジェット機・宇宙船まで、人間の探究心は、終わりを知らない。
人類は、あってもなくてもいいようなものを随分と作りだしたものだ。

さて、空の乗り物のお陰で、寝台列車も姿を消しつつある。

しかし、乗っても見送っても、寝台列車には独特の雰囲気と香りと郷愁がある。

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34   秋晴や茶髪金髪渋谷発   花風

2010年10月14日 | 

この句、秋晴れの日に、茶髪や金髪の若者が、渋谷駅を出て行く、という。

出て行ってしまうより、電車からホームに、どっと若者たちが降りてくる方が迫力があるんじゃあないかと、私は申し上げた。つまり

秋晴や茶髪金髪渋谷着

すると、作者は、
茶髪や金髪のファッションは渋谷から始まり、全国に出て行った。そういう意味も掛けているから「発」でなければならないそうである。

なるほど、田舎者には「渋谷発」の意味が分からなかった。

更に、髪・髪・発と3回同じ音をたたみかけていることもあって、「着」では絶対駄目なのだそうである。なるほど、なるほど、である。

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33   受け止めし地の大きさや木の実落つ    海人

2010年10月13日 | 

木の実のうち、団栗(どんぐり)のように栗鼠(りす)などの動物に食べられて、新たな生命を生むことのできないものがある。

又、柿のように種だけは食べられず捨てられて,命拾いするものもある。

櫨(はぜ)の実のように鳥に食べられて遠くへ運ばれ、その硬さゆえ糞として排泄される逞しい種もある。

いづれにしても、それらは子孫を残すために重要なことだ。
 
さて、引力によって木の実が落ちる。それを受け止めるのは地面だ。
その種がどのような運命をたどるのかは解らないが、作者はその大地の大きさに気付いた。

その大地は、町とか、本州とか、日本とかではなく、
地球そのものなのではないか、と私には思われる。
 
そう思うとさらに、受け止めているのは単に地球だけではなく、
大自然とか太陽なども含む宇宙全体にまで広がり、更に神にまで想像を広げて解釈したい。

 つまり、この句は宇宙的規模の宗教的俳句と言ったら、言い過ぎだろうか。

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32   ふっくらと何をつつむか花桔梗   徳子

2010年10月12日 | 

萩の花 尾花 葛花 撫子が花 おみなへし また藤袴 朝顔が花  山上億良(万葉集巻八)

億良のこの歌から秋の七草が決まったようだが、朝顔は今の桔梗であったというのが定説。しかし、朝顔や木槿も完全否定されてはいないようだ。

残念ながら、藤袴や桔梗は、自然界ではほとんど見かけることはなくなってしまった。この桔梗も庭などに植えられた園芸品種ではないかと思われる。

さて、桔梗の蕾が膨らみ始め、割れて五弁に開く前の風船の状態。つまり、まさに割れんばかりの桔梗を見て,何を包んでいるのだろう、と思う。何が飛び出してくるのだろう、と思う。

宝石や可愛い小人たち・・・・夢のような作者の空想は膨らみ始める。

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31   赤とんぼこの指止まれ止まったよ   佳秋

2010年10月11日 | 

一口に赤とんぼと言っても、日本に生息する赤とんぼは、学者の分類では21種にもなるという。

アキアカネが赤とんぼの代表のようだが、ナツアカネというのもある。

腕を伸ばして、佳秋さんが言う。「この指止まれ」

そうしたら、本当に止まってしまった。

よかったね、たのしいね。

名前が「佳き秋」だもの、赤とんぼも止まるはずだ。

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30   梨剥けば母の手に似て動く指    嫩女

2010年10月10日 | 

80才の方が俳句を始めた。嫁に来て60年。
既にご主人は他界し、お子さんがいないので、一人住まい。

この句の作者が分かって、私は「うーむ・・・・・そーか・・・・・・

いくらお年をとっても、お母さまへの想いは深ーいのですね、嫩女さん。

「いえいえ、年をとればとる程深くなるのよ。1ssyoさん」

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29   椋鳥が来て眼の動く石地蔵   池月

2010年10月09日 | 

ムクドリの名前の由来は,ムクノキ(椋の木)の実を好んで食べることから来ているそうだ
又、「無垢(ムク)」という仏教語との語呂合わせから、ムクドリのことを略して「ムク」と呼ぶこともある。

子育てが終わり秋になると、最近では数千羽の大群となって都市に現れ、騒音や糞害などの映像がニュースで放映されている。しかし、

「あんた達人間の方が、よほど俺たちの生育環境を破壊しているんだぜ、分かっているのかね。迷惑しているのは、俺たちなんだ」と椋鳥が言っている。

さてこの句、椋鳥は土の上や芝生などによく現れ、虫などを啄んでいるが、目の前の椋鳥に、動くはずのない石地蔵の眼が動いているという。

私はどうしても、石地蔵に作者のギョロ眼が重なってしまい、可笑しくて吹き出してしまう。
彼岸におられる池月さん、ごめんなさい。

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28   山風は山にかへりぬ夜長酒    五千石

2010年10月08日 | 

彼岸も過ぎると、昼夜が逆転し次第に夜が長くなる。酒も温め酒となり夜長を楽しむ。友と俳句談義に花が咲き、男だけの夜長の夜が更けて行く。

ふと気付くと、先ほどまでの山風が止んでいる。たぶん、それを山に帰ったと表現したのだろう

白熱した俳句談義も一服し、そろそろお開きにしようか。山風も帰ったことだし・・・・・

2,3合飲むとすぐ寝てしまう私には、作れそうで作れない、酒好きの、かつ酒豪らしい一句だ。


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27   秋桜のみ持ち来たる忘れん坊

2010年10月07日 | 

昔々の思い出話です。
妻となっても不思議ではない女性から、「・・・」を持って来るよう頼まれました。
しかし、私はすっかり頼まれごとを忘れ、どうでもよい秋桜(コスモス)だけを持って行ったのです。

この句を読んだ私の師匠は、「持ち来たる」ではなく、「持ち帰る」の方が余韻があっていい、と言われました。

秋桜のみ持ち帰る忘れん坊

衝撃的でした。私にとって最高の添削でした。

「てにをは」を直すような添削はほとんど面白くないが、その人の人生観、価値観を変えるような、すごーい添削もあるんですね。

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26   梨を剥くお前がいれば梨を食べ

2010年10月06日 | 

解説のいらない、そのままの句。

句会でこの句を選んでくれたのは男だけ。女は誰も選んでくれず、それどころか「女性を侮辱しているわね、この句」と言われてしまう始末。
私は、女を讃えるつもりで作ったのに、本当に世の中は難しい。

私は、そのまま食べられるブドウやさくらんぼ以外の果物は、ほとんど食べたいという衝動が起きない。蜜柑でさえなかなか食べる気にならない。
勿論、誰かがすぐ食べられるように用意してくれれば食べるのだが・・・・

こういう私になったのは、母親が原因だ、と私は確信している。

「わたし作る人、あなた食べる人」というキャッチコピーが昔流行ったが、「男は女によって作られてきた」、ということを忘れてはならない。(男の子を育てている全ての母親の皆さまへ)

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25   夜長し煙草は男の哺乳瓶

2010年10月05日 | 

10月から、300円のタバコが410円に値上げされる。喫煙者全体(2、500万人)の25%(600万人)が禁煙するという予測。
実は私もその一人である。過去、何度か禁煙したが、最高半年余りで全て失敗している。

今までの失敗の原因を考えてみると、「一本ぐらいいいじゃないか、吸いなさい。」という失敗させたい喫煙者の甘ーい誘惑だ。その誘惑に負けなければ、大丈夫だと思うのだが・・・・・・

さて、赤ちゃんのおしゃぶりから始まり、大人になっても何かが口にないと寂しく感じてしまう。タバコで治まっていた「口淋しさ」を何で補うか、が問題なのである。

「禁煙・口淋しい」を、google検索したら、23万件も出てきた。皆さん、よほどお困りのようである。

 飴、ガム、するめ、菓子などで口をふさぎ、ついついコーヒー、酒などをがぶ飲みし、ついつい食べ過ぎて肥満に・・・・600万人の悩みは尽きない。

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24   朝帰り喜ぶ犬と怒る妻

2010年10月04日 | 

俳句仲間と川柳の会をやった時の句。

遅く帰れば帰るほど、おかんむりなのが人間、喜ぶのが犬。この違いは一体何なのだ。犬を飼い始めて12年、犬の特性について気付くのだが、これもその一つ。このテーマを軽く見てはいけない。

最近、犬は人間よりも優れているのではないか、生き物界で、一番駄目なのは、人間なのではないか、と思うようになった。これは、私とは何かという、哲学的考察でもある。このことは、別の機会に述べたいと思う。

さて、この句のことを妻に話したら、「私、怒ったことないわよ」
確かに、とっくに寝ているし、帰ったことに気付きもしないし。
「誰のこと?怒る妻って誰?他にそんなひとがいるわけ?・・・・いるわけないと思うけど・・・・」

実際は、「怒る妻」ではなく「眠る妻」が正しいようです。

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23   半島は重くなりけり秋の雨    歩智

2010年10月03日 | 

ははあ、半島とは、伊豆半島かな、房総かな・・・・しかし、重くなるとは、視覚的というよりは、感覚的、それとも科学的というべきか。

作者が分かって納得、なるほど、真鶴半島でしたか。

真鶴半島には、地元の人からお林(おはやし)と呼ばれている、「魚付き保安林」という特別区域がある。
昔から、この保安林のお陰で魚が集まり、よく育つと言われている。

例えば、100ミリの大雨が降ると、10万坪の原生林は、3万3千トン重くなるというわけだ。(原生林の広さは、推測)

原生林に近い状態だから、落葉の堆積によって、雨が降った時にスポンジのような保水力がある。
そして、栄養を含んだ清水が、じわじわと海にそそがれる。

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22   出不精に釣瓶落としの迫りをり   章子

2010年10月02日 | 

{秋晴れのこんないい日なのに・・・・。私は一体・・・・。
作者のつぶやきが聞こえてくるような、一見自虐的とも思える句である。

しかし、何回も読み返している内に気付かされた。作者は、「出不精なのが作者自身」とは、言っていないのである
 
それでは、出不精なのは、例えば「連れ合い」。そうなると、それは「つぶやき」どころか「怒りを込めた大声」となるかもしれない。

例えば、それを「恋人」や「友達」や、「かたわらで眠っている子猫のミー」と考えていくと、句の持つ意味がまるで違ってくる。
実は、「生活を楽しんでいる句である」という解釈もできるのである。
 
色々な想像を掻き立ててくれる俳句が、「私」には面白い。}

以上、句友、炎火さんの講評である。

主語がない俳句は、ない故に解釈に広がりを持つのである。省略の徳?得?とでも言えようか。

それにしても、秋の日の落ちるその速さを例えて、「釣瓶落とし」と言うのだが、誰が言い始めたのか、どうして定着したのか、不思議でならない。実に奇抜なたとえだ。

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