一韶の俳句ブログ

俳句を詠うのは自然・私・家族・夢や希望・社会など。読む時はどんな解釈が浮かぶか読み手の経験や生活によって様々

冬鴎 生に家なし死に墓なし        加藤楸邨

2010年11月15日 | 

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「俺たち鴎は、抱卵のための営巣はするけど、熊のように穴に住むこともないぜ。寒い冬の海の浮き寝暮らしもへっちゃらさ。

 俺たちを支えるのは、どんなものにも喰らいつく、食に対する貪欲さなんだ。鰯を追いかけどこまでも・・・。家など、まして墓など話にならない・・・人間ほどアホではないわさ」

墓なし=儚し 

「岸壁、家・大都市・ゴミ捨場・車・道路・焼却場・原子力発電所・病院を作って医療費がどうのこうの・・・・

俺たちに有害なものを勝手に作りやがって・・・・

人間が一番の迷惑さ。お陰でほんとに住みにくくなった。早く地球から消えてくれ。俺たちの住み安かった地球に一刻も早く戻してくれ」

寄生虫を除く地球に住む全ての生き物の代表「鴎」

 

楸邨さんがそう思ってこの俳句を作ったかどうか、私は知らない。

聞く術もない。有難い。

 

 


 

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おもゝちやしぐるゝをきゝおはします    青々

2010年11月13日 | 

64 

 

この句にはいくつかの特徴がある。

一つは「鑑真和尚という前書き付きの句であること。 

どうしても付けねばならない必然性が必要ではあろうが、俳句に前書きを付けることは許されている。

一つは、ひらがなのみの句であること。視覚からの一種独特の雰囲気を醸すことができる。

面持や時雨るるを聞き在します 

と比べれば一目瞭然であろう。「」が3つあるのも面白い。

 

もう一つは、敬語を用いていること。鑑真が今まさに生きているかのように表現している。

この鑑真和尚像は、唐招提寺の御影堂の国宝乾漆鑑真和上坐像と思われる。

 

作者松瀬青々は、大正・昭和初期に大阪で活躍し、関西の虚子と言われた。

 


 

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63 枯野ゆくドン・キホーテも来たと云ふ  徳子

2010年11月12日 | 

「ドンキホーテ」の作者スペインのセルバンテスは、徳川家康と同年に死去している作家。

四十年ほど前、ピーターオトゥール主演で映画化された。日本では松本幸四郎主演で,未だにロングランを続けているミュージカルが「ラマンチャの男」

 

「ドン・キホーテ」という作品が、現在に至るまで支持されている理由は、この世の汚辱に絶望し、ほとんど狂気の沙汰で自分の憧れる「騎士道」に邁進する「思いの強さ」のようなものに、人々が限りない郷愁をそそられるからに違いない。

 

誰でも人は、幼い頃、「こんな人物になりたい」と思って過ごすものだ。ところが次第に、かつてあれほど思いこんでいた「夢」を忘れ去り、唯々「現実」の生活に埋没していくのである。

 

次は、「ラマンチャの男」の中の主題歌、「見果てぬ夢」の詩の一部

不可能な夢を夢見て

かなわぬ敵と戦い

耐えがたきを耐え

辿り付けない所へ辿り着こうとし

正せない悪を正そうとし

純粋に遠くから人を愛し

どんなに可能性がなくても

どんなに離れていても、正義のために戦い・・・・・

 

枯野を歩む作者は、痩せ馬ロシナンテに跨り、従者サンチョ・パンサと進むドンキホーテの姿を、その先にある風車と共に想像したのだろうか。

ドルシネア姫の気分に浸りながら・・・・

 


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62 木枯や沖の白波微動せず    多可

2010年11月11日 | 

昨日は、久し振りに強風が吹いた。追い風か向い風かで、テニスボールのスピードや落下点が随分違う。空振りが目立った。木枯(こがらし)2号かな?

 

さて、俳句をやっていると、必ず歳時記を開く。

ある時、木枯という言葉に出会う。「木を枯らす風のことか」風という字を使わずに風を言う。

うまい言葉を考えついたものだと、いにしえの人に私は感心する。歳時記には、そんな「うまい言葉」が実に沢山ある。

 

監獄に入る時、「一冊だけ好きな本を持って行っていい」と言われた時、さて、何を持って行くか。

「普通の本ならすぐ飽きてしまうが、歳時記は、飽きなくてよい」ということを、誰かが言っていた。秋元不死男だったかもしれない。

 

さて、「俳句は写真だ」と思う。映画でもビデオでもない。ある瞬間を切り取った写真である。

 

この句、木枯によって海が荒れているのだが、どんなにビデオカメラを回しても、沖の白波はかすかにさえ動いていない、と言う。そこが面白い。

 

 

 

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61 蓑虫をぶらさげてをり枯木立   疏水

2010年11月10日 | 

「我は虫である」と蛾は言った、のではない。「虫は我である」と言ったのである。だから、蛾なのである。

 

 蓑虫は、ミノガ科のガ(蛾)の幼虫。口から糸を出して小枝や葉の小片をつづり合わせ、筒状の巣を作って住む。雄は羽化して出るが、雌は一生をこの中で送る。「鬼の子」ともいう。

 

どうして、蓑虫が鬼の子なんでしょうねえ。清少納言さん、教えて!ちょうだい!

 

「蓑虫」は秋、「枯木立」は冬の季語であり、季重ねであるが、この句の場合、「枯木立」の冬と解するのが自然。

 

すっかり葉を落とし、裸になった枯れ木に、冬なのに未だに蓑虫がぶら下がっていた。冬とはいえ、今日のような小春の暖かな日だったのかもしれない。

 

枯れ木が蓑虫を「ぶら下げてをり」としたところが面白い。蓑虫が怒るかもしれないが。

 

 

 

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60 小春日や手持ち無沙汰の女郎蜘蛛    豊春

2010年11月09日 | 

 立冬も過ぎ、春のような日和を「小春・小春日」という。

冬なのに、わざわざ「春」という字を使わなくとも、と思うのだが、確かに冬の季語なのだ。

 

以前「如月小春」というペンネームの作家がいたが、彼女はそこのところが分かっていなかったのかもしれない。「小春」と名付けるなら、旧暦の10月・神無月の生まれでなければならない。つまり、「神無月小春」が正しい。

彼女、才媛だったが44歳で急逝してしまった。

 

さて、やわらかい小春の日差しの中で、手のない女郎蜘蛛が、手持ち無沙汰だという。句会でこの句を見た時、つい吹き出してしまった。 

女郎蜘蛛は、「晩秋の女王」ともいえるメスの蜘蛛で、黄色と灰青色の腹、糸いぼの前の赤い模様と、黄と黒の縞模様の脚ですぐに見分けられる。オスはとても小さく細く、色も地味で見逃してしまいがちだ。 

一般に蜘蛛は、巣を作ってしまえば、ただじっとしていることが多い。喰われた虫の残骸が網に残っていることはままあるのだが。気の短い私などは、わざわざ蝶などの虫を捕えて網に投げ掛け、食べる様子を観察したくなってしまう。 

つまり、現実に手持ち無沙汰なのは、庭の木に張られた女郎蜘蛛の巣に、虫の掛かるのをじっと待っている作者自身ではないのか・・・・・

 

現代人にとって、一見無意味に思えるそういうゆったりとした時間こそが、貴重なのである。


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59    日向ぼこ大根干柿婆一人    風月

2010年11月08日 | 

前回の子規の句と同様、この句、季語が三つもある。 

又、名詞だけで作った句でもある。俳句の基本中の基本と言えるだろう。

つまり、副詞、形容詞よりも動詞、動詞よりも名詞、ということを心掛けるといい。 

ちなみに作者は画家だから、こういう視覚的で鮮明な映像の句を作ることができたのだ、と思う。

 

私のイメージでは、日本の典型的な田園の中に、一軒の藁葺きの農家がある。背景には冬の山が連なり、その上には澄み切った青空がある。 

息子と嫁は畑へ、孫たちは学校へ 

農家の縁側で、婆さんが日向ぼっこだ。縫物をしているのかな、それとも居眠りをしているのかな。 

軒には、大根と干し柿が簾に吊るされている。これらも日向ぼっこをしている。

童話の絵に出てきそうな、典型的な日本の田園風景。



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58    菊の香や月夜ながらに冬に入る   子規

2010年11月07日 | 

2010117日、いよいよ今日は、立冬である。

暦の上では、今日から冬である。「冬に入る」「冬来たる」も同じ。

 

『はてさて、それにしても子規さん、秋の季語、「菊」と「月」そして冬の季語「冬に入る」とよく頑張って三つも季語を入れましたなあ。』

 

『季重ねは駄目だ、とうるさく云う石頭が沢山おるので、わざと作ったのよ。』

 

『どこから仕入れてくるのか知りませんが、俳句を始めてしばらくすると、大概の者がそんなことを言い出しますなあ。私は一度もそんなこと云わないんですが』

 

『季重ねは駄目、と決めつける発想が、月並みなのじゃ』

 

『おっと、出ましたね。毎月の句会に出る決まり切った俳句のことを月並みと云うんですよね』

 

『そうじゃ、月並みを言い出したのは、このわし。いわゆるつまらん俳句が月並み俳句。先輩に教わった固定観念を打破せんならん』

 

『そう思ってこの句を読むと、なかなかですなあ。「ながら」に菊の香りも月夜も秋の季語だが、という意味が籠められていますね。』

 

『分かったようだな。菊も月もあり寒くもなくまだまだ秋の風情だが、暦の上では今日から冬なのだ、そういうことさ』

 

『よく分かりました。しかし、今日は旧暦の102日で月夜と言えるような月は出ていませんが・・・』

『立冬に満月のこともあるし、新月のこともある』

『太陰太陽暦ですから、そうなるんですね、忘れてました』



 

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57     賞め上手喜び上手の焼く秋刀魚

2010年11月06日 | 

 今年のサンマ漁は、海水温が高く低調だったが,ようやく水温が下がり、平年並みになってきたようだ。

庶民の味覚、鰯や秋刀魚が食卓から消えるようなことのないよう願う。

 

さて、「賞め上手」というがそう簡単なことではない。お世辞・ごますりと紙一重なのだ。下手ではすぐ見破られてしまう。

日本人は、賞めるのが苦手で、欠点ばかり気になってしまうようだ。

 

そこで巷では、賞める効能が歌われて、社員研修で訓練まで行われている、という。

 さて、賞められたら喜ぶのも易しそうで結構難しいのである。つまり、「賞める」と「喜ぶ」がワンセットで一人前なのである。

 そんな女性の焼いた秋刀魚は、旨いに決まっている。

いただきまーす。



 

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56     秋の暮貧の一葉新札に

2010年11月05日 | 

 

2004年11月、5000円札になんと樋口一葉が登場した。

 

樋口一葉は貧しさの中、肺結核でこの世を去った。若干24才だった。

一葉の登場を喜ぶべきか、悲しむべきか?・・・・・・


私が一葉ならば「止めて下さい。冗談じゃあないわ。死人に口なしと思って、人を馬鹿にしないで」と叫ぶかもしれない。
 

一万円の福沢諭吉、五千円の樋口一葉、千円の野口英世が、お札に登場する人物だが、今までの紙幣登場人物の内、明治以前の人物は、武内宿禰、聖徳太子と二宮尊徳三人のみ。もう少し、江戸以前から選んだらどうか。

三傑の信長1万円、秀吉5千円、家康千円なんて面白いじゃあないか。
その他にも、三蹟、三名君など色々ある
 

明治の多くの文学者の中から、漱石の次に一葉がどうして選ばれたのか。

何か基本的な選定基準があって決定されるのだろうか?・・・いや、どうも一貫性がないというか、いい加減に決めているように思われる。

 

こうなって来ると例えばだが、ノーベル賞を貰った「大江健三郎」氏なども将来の候補の一人かもしれない、などとつまらない推測をしてしまう。

 

お陰で私は、お金とは?経済とは?あまり考えたくないことを、考えさせられたのである。

 

今、お金はコインや紙幣を飛び越えて、パソコンやインターネットを行き来し、人々を翻弄している。

 

バブルの頃、野村証券の利益が、東芝を上回った、というような記事を読んだ時、世の中はおかしい、と思った。

広い敷地に工場を建て、10万人規模の労働によって成り立つ電気機器の会社が、ビルとパソコンと少しの社員だけの野村証券に負けてしまうなんて・・・・

今のようなマネーゲームの横行が許されているようでは、日本は危ない、人類は危ない。

 


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55    祓はるる新車百台神の留守     直文

2010年11月04日 | 

陰暦十月を神無月(かんなづき)という(今年の新暦では116日から)
日本の神様が、全て出雲に行ってしまうので「神の留守」などともいう。

 

本来は、醸成月(かみなんづき)神嘗月(かんなめづき)神な月(かみなづき)雷無月(かみなしづき)などと言われていたものを、中世の頃に神無しとの字を宛てたのが始まりのようである。出雲だけは「神在月」という。

 

つまり,この話は出雲の御師が、出雲の都合のいいように考え出した法螺話なのである。

 

そして、法螺が誠になって、正式に暦に採用されたのも面白いが、その後、出雲を除く日本全国の神様が留守では困るので、留守番をする神様(恵比寿神)もちゃんと考えられたそうである。こういう日本人の遊び心に、私は敬服してしまう。実に楽しいではないか。

 

この句、「神様がいないのに、神主さんが一度に百台の車にお祓いをしている。安全祈願の御利益は大丈夫か?」という作者の声がするが、実際には、留守番の神様を手配したようなので、御安心下さい、直文様。


 

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54     火の恋し写経の筆を洗いけり   正太

2010年11月03日 | 

古来、本は書き写すことが普通だった。源氏物語なども写本によって1千年の時を経て、現代までつながっている。

それが木版・石版・金属版から凸版・オフセットまで進み、戦後になって大量印刷時代になり、ベストセラーが100万部というような時代になった。

大量消費、大量廃棄時代の到来である。


更に現在では、紙のいらない電子書籍の時代が始まった。紫式部や清少納言が聞いたら、なんと言うだろう。
電子書籍は、大量の木材を使わなくて済むから、自然にとっては良いことなのかもしれない。

 

そんな中、逆行するように、古来の経を筆で書き写す「写経」が、ブームという。特に般若心経が多いようだが、亡くなった方の供養になり、精神統一にもいいし、功徳を積むとも言われている。

 

写経を終わり、筆を洗う時になって、作者は初めて肌寒さを覚える。精神集中していた証しなのだ。



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53     声のして姿の見えぬ大花野   章子

2010年11月02日 | 

 声とは、人の声?鳥の声?虫の声、それとも汽車の音?河の音?


「秋の声」という季語があるが、秋に聞こえる秋らしい音全てを言う。風の音、せせらぎの音、町の音、心に響く心理的な音など。この場合、「声と音」はほとんど同義なのである。

 そういう解釈をすると、「声」の幅は、ぐっと広がる。だから私達は、自分が一番ふさわしい声や音を思い描き、見えないものを想像すればいいのだ。


あなたならどんな声or音を選びますか?

そうですねえ、色々ありますが、私なら子供時代に戻って、

かくれんぼしている鬼になりましょう。鬼をからかって、友達があちらの芒の影から「鬼さんこちら」、向こうの影から「鬼さんこちら」などと呼びかけているのでしょう・風が吹いて少し肌寒く、夕暮れが近づいている頃です。

少しですが、良寛さんになった気分です。

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52     餌台に貴賎強弱小鳥来る

2010年11月01日 | 

日本の鳥で一番嫌われているのは、たぶんヒヨドリであろう。字が「鵯」で卑しいという字が付けられているからだ。

 

餌台に蜜柑などを置いておくと鵯は、自分は腹一杯のくせに見張りをして、メジロなどの他の小鳥が近づくと追い払い、食べさせないのだ。正に「卑しい」がピッタリなのである。

 

ヒマワリの種を置いておくと、ヤマガラ(山雀)やシジュウカラ(四十雀)がやってくる。可愛い顔をしているが、相手を威嚇する時の形相は、すごいのだ。
私にはよく分からないが、どうやら小鳥社会には厳しい序列があるようなのだ。

 

又最近は、ガビチョウ(画眉鳥)、ソウシチョウ(相思鳥)など、外来種が増えて、食べにやってくる。

日本の野鳥界も、様変わりのこの頃である。


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