:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ コメントの世界

2024-09-10 00:00:01 | 神学的考察

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コメントの世界

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 長年ブログを書いていると、いろいろなことが見えてくるものです。

 

谷口幸紀神父2020-01-13・jpg-2_1248.JPG

 

 最近つくづく思うことは、ブログを書いているのは私ですが、それを支えているのは読者のみなさまだということです。読んでくださる皆さんがいるから、また次を書く元気が湧いてくるのです。

 今どれぐらいの数の人が読んでくださっているのか、私の書くどんなことに興味を示してくださっているかは、自分のブログの「編集画面」を開けば、そこにリアルタイムで反映されています。

 編集画面の項目の中でも、私が特に注目して毎朝チェックしているのは、「アクセス解析」「コメント管理」です。

「アクセス解析」の中には、「過去の日別ランキング」があって、前日までの一週間の日別ランキングが出ています。

 例えば、昨日(2024.09.08)現在、グーグルの無料ブログ編集サイトを使って日本語でブログを書いている人は全国に3,190,231人、何と3百万人以上もいます。そして、私の場合、ブログを更新した当日はその3百万人のうち2104位(8月20日)、3585位(8月3日)、2962位(7月13日)、1755位(6月27日)、1449位(5月4日)と、だいたい1000位台から3000位台の間で推移しています。そして、ブログを書き始めてからの「トータルアクセス数」は 1,897,244回と、200万回の大台に近づきつつあります。

 また、今までに書いてきたブログの中で、過去のどのテーマのどのブログが今改めて読者の注目を惹きつけて読まれているかも特定できるようになっています。

 目立たないけど意外と面白いのが、「コメント欄」です。私のブログには、コメントを度々くださる方もおられれば、一回限りの方もおられますが、ほぼ全員がイニシャルやペンネームの匿名の方です。多くが好意的で建設的なコメントですが、中には、書き手はもしかして「悪魔」本人か?と疑いたくなるような棘のある悪意に満ちた悍(おぞ)ましコメントが届くこともあります。そんな場合、読者を不快にさせないためにブログのオーナーの意思で敢えて公開しません。

 中には稀に、ちょっと面映ゆくなるような、手放しの賛辞や励ましの言葉をいただくこともあります。そのような身に余るコメントは公開しないで、自分だけがいただいて記憶にとどめたいという衝動と、さりげなく公開するだけにとどめず、コメント者への私の気持ちも込めて「こんな勿体ないコメントをいただきました」と敢えてブログ本文でお披露目したい衝動との間で心が揺れ動くこともあります。

 今回の「聖人の死に方について」(そのー2)に対して戴いた(GM)というイニシャルの匿名の方からのコメントなどは、その後者の典型で、コメント欄を見落とされた方にもあらためて知っていただきたくて、積極的に本文の中で開示することにしました。以下はその引用です。

 

【コメント】 公開中 

 ★ 聖人の死に方について(そのー2)

2024/08/24 22:58:03

(MG)

 キリスト教2千年の歴史は、生きてる時にボロクソ言われていた人ほど聖人だということを教えてくれています。その筆頭は言うまでもなくイエスです。アシジのフランシスコなんて人も今でこそ大聖人ですが、生きてた時はどうだったのか、鳥に説教してる姿を見たらたいていの人はひきますから、実際はかなり変人扱いされていたのではないかと思います。逆に、生きてる時に聖人君子と崇められていた人ほど俗物であったりします。

 最近で言えばフランスのピエール神父、ラルシュのジャン・バニエ、イエズス会のマルコ・ルプニク神父。フランシスコ教皇は、画家としてはキコよりもルプニクの方を高く買っていたのではないでしょうか。それが今やイエズス会を追放される身とは・・・人を見る目のなさも含めて今の教皇さんはとても欠点が多く、これまたボロクソ言われる人です。

 信者の手を引っ叩いてみたり、同性愛者に対する差別的な発言をしてみたり、説教は10分でいいと言ってみたり(笑)でも、わたしはそんな人間的な教皇さんが好きですし、あれこれ批判される人だからこそむしろ信用できるような気がします。

 キコさんもまた異端だのなんだのって散々言われ続けてきた人です。特に日本では、かつてはその名を出すことすらはばかれるほどアンタッチャブルな存在だったということを今の若い人たちは知らないと思います。(もっとも、今の教会に若い人などいやしませんけど・・・)

 それと、谷口幸紀神父様という方。日本の教会でこのお方ほどこき下ろされた司祭もいないと思います。でも、最初に言いましたようにボロクソ言われる人ほど聖人です。キコさんのような老い方もありかもしれませんが、谷口神父様にはこれからもますますお元気で、変わらず教会に波風を立てていただきたいと思っております。わたしたちは心から神父様をお慕い申し上げております。神父様を置いて、誰のところに行きましょうか!

 

(影の声):  舞台の「お能」のように重く長大なブログの合間に、こんな「狂言」のように短かく軽いブログも許されるでしょうか?

 

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★ 聖人の死に方について(そのー2)

2024-08-20 00:00:01 | 神学的考察

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聖人の死に方について(そのー2)

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 この6月、私は8年ぶりにイタリアでキコと1週間時空を共有した。再会した彼はコロナ期を挟んで見る影もなく変わっていた。

 彼は聖職者ではないが独身で、同じく独身のカルメンという女性と、マリオ神父の三人で一貫して共同生活を続けてきた。キコより年上だったカルメンの死後、その後継者として若いアスンシオンというスペイン人の女性が新たにチームに加わったのだが、今回目にした彼の様子は、2016年に東日本大震災、津波、原発事故の5周年に当たって彼が作曲した「罪のない人々の苦しみ」と題するシンフォニーのツアーを組んで一緒に精力的に活動した頃の彼とはすっかり様子が変わっていた。

 まず、足元がおぼつかなく、アスンシオンの肩に手を置いてゆっくり歩く。

 かつての彼は、1週間ほどの集いの間、毎日、朝から最後まで出ずっぱりで集会を引っ張っていたが、今は一日のプログラムのうち3-4時間を皆と共にして、後は弟子たちに任せて部屋に退いて休む。

 かつては自ら壇上でギターをかき鳴らし、渋い張りのある声で歌って集会を盛り上げていたが、今は時々人の弾くギターに合わせて脇に座ったままマイクに向かって歌うのみ。

 かつては、立って話し始めれば一時間でも雄弁に力強く聴衆を魅了していたが、今は演壇の後ろの高い椅子に浅く腰かけて、渡された原稿を淡々と読む。そのかたわらにはアスンシオンが常に付き添って、原稿のページをめくる。私は彼が何を読んでいるのか気になった。分かったことは、過去50年間、何百という集会で原稿なしに火を吐くような言葉で語った彼のはなしのすべてが録音され、文字に起こされ、整理・保存されていたことだ。今回の集いでは、弟子たちがその中から予定のプログラムにふさわしい内容のものを選び出し、それをキコに読ませているようだ。だから、キコの話には違いないが二番煎じで以前の迫力がないことも納得がいく。

かつて自分が話した内容を淡々と読むキコ

 集会が短い休憩に入ると、ファンの若い神父たちがキコを目指して押し寄せ、握手を求めスマホでツーショットを撮ろうとひしめくが、私も交じって挨拶をしに近づいた。しかし、キコの隣にいるマリオ神父はすぐに私と気付き声をかけてくれたが、キコは目が合っても私が誰かわからない様子だった。

 大勢の中ではそれもありか・・・と思って、一計を案じ、彼が100メートルと離れていない宿舎から車で会場に来て降り立ったところを捕えて声をかけ挨拶した。他に人の群れは無い。しかし、福島やサントリーホールのコンサートツアーで一緒に忙しく働いた私をじっと見つめても、目の前の私が誰か思い出せない風だった。とっさに、ああ、認知症が始まったな、と思った。

 

車から降りたキコは私の肩に軽く手を置いたが

私が誰であるかは思い出せていないようだった

 

 衰えで彼の出番が減った集いの日々、弟子たちは主人公不在のプログラムを仕切って生き生きと活動していた。キコの面前では控えて自分を抑えていた彼らだが、今は自身が主役の座について自由に伸び伸びと振る舞っている。話が弾むと軽い冗談を飛ばして会衆を沸かせるなど、キコの目が光っているときには考えられないような情景が展開する。

 それを見て、ああ、これでいいのだ、と私は内心深く納得した。このまま進めば、表われ方は違っても、彼もイエスキリストやアシジの聖フランシスコのように、惨めな最後を迎えるだろうと胸をなでおろした。キリストの場合のような十字架の上の凄惨な拷問死でなくても、アシジの聖フランシスコのような病気でぼろぼろになった孤独な死でなくても、現代風の、ある意味で最も残酷な、老いて痴呆で人の世話に頼らなければ生きられない物体のように処理されていくのでちょうどいい。それが本物の聖人の現代風の末路だ、と思って、私は妙に納得した。

 

ヘッドホーンをつけてたばこを手に集いの進行を見守るキコ

 

 キリストは復活し、その復活祭は世界で永久に祝われ続ける。アシジのフランシスコも、生前からキリストの再臨ではないかと噂され、死後間もなく大聖堂が建ち、今も大勢の巡礼が集まっている。キコも一旦はひっそりと痴呆で死んだ後、きっと第二バチカン公会議後の特別な聖人として高く評価され末永く顕彰されるに違いない。

 私は正直なところ、キコのパートナーのカルメンとマリオ神父にはあまり興味がなかった。キコが太陽なら、カルメンもマリオもその太陽の光を反射する惑星ぐらいにしか思っていなかった。だから、キコが聖人かどうかには関心があるが、カルメンやマリオのことはとりあえずどうでもよかった。

 ところが、現実には、キコより先に死んだカルメンについて、今バチカンで列聖調査が順調に進んでいるという。もしかしたら、キコに先立って、まず同志のカルメンが聖人として顕彰される日がそう遠くないのかもしれない。もしそれが現実のことになれば、当然キコも聖人に、それもアシジのフランシスコ並みの8百年ぶりの大聖人として顕彰されることになるかもしれない。そうなれば、20歳の時の私が密かに願った「どうか聖人に巡り合わせてください」という祈りが成就することになる。

 16世紀に書かれた伝記「画家・彫刻家・建築家列伝」にも名が残っておりアシジのフランシスコのバジリカに巨大なフレスコ画の連作を残したジオットや、聖ヨハネ・パウロ2世が福者の位に挙げたフラアンジェリコや、ルネサンス期のミケランジェロ、「万能の人」レオナルド・ダ・ヴィンチなどの芸術的巨匠の系譜にキコが属することは疑いないが、彼の重要性はそれにとどまらない。

 

キコはあらゆるところに壁画を描く 私の後ろもそのひとつ  ローマの神学校の聖堂の壁画は 

ミケランジェロが描いたシスティーナ礼拝堂の最後の審判よりも大きい

 

 コンスタンチン大帝がキリスト教をローマ帝国の国教扱いにしたことの最大の弊害は、イエスの説いた純粋キリスト教の中に、当時の地中海世界を支配していた自然宗教の要素が大量に流入する結果を招いたことだった。当時のローマ帝国の自然宗教と言えば、第一義的にはギリシャ・ローマの神話の神々だが、その本質はすべて偶像崇拝であり、その行き着くところはお金の神様=マンモンの神への隷属だった。

 生前のナザレのイエスは「神のものは神に、皇帝のものは皇帝に返せ」とか、「人は神と金に兼ね仕えることはできない」とか厳しく言って、キリスト教と自然宗教が全く相容れないものであることを強調したが、コンスタンチン大帝のキリスト教公認は、ローマ帝国の急速なキリスト教化には貢献したが、その弊害も大きかった。

 それは、急速な帝国のキリスト教化の結果、ラディカルな改心を伴わない自然宗教のメンタリティーのままの大衆が教会に大量にになだれ込んでくることを許したからだ。以来、教会は皇帝に神のご加護を保証し皇帝はその軍隊で教会を守る相思相愛の蜜月関係に入ることになる。そして、その陰で、キリストが命を懸けて残した遺言、「神のものは神に、皇帝のものは皇帝に返せ」や、「人は神と金に兼ね仕えることはできない」は空文化され、キリストの教えは骨抜きになってしまったのだ。名ばかりの信者たちの多くは、口では神の名を唱えながら、心では自然宗教の神、お金の神様=マンモンの偶像崇拝のまま残った。

 もちろん、それを善(よし)としない少数派もいた。あるものは世俗化した教会に見切りをつけ砂漠の隠遁者となった。聖ベネディクトに代表されるような囲いの中に大修道院を経営し、世俗を絶って祈りと労働の生活の中でキリストの回心と福音の教えを生きようとするものも現れた。しかし、そこにも大土地経営と小作人制度のもとで自然宗教の神=マンモンの影響は容赦なく忍び込んできた。そして、大修道院長は世俗の封建領主と変わらぬ富と権力を手に入れた。

 そこにアシジの聖フランシスコが彗星のように現れ、托鉢乞食僧団の新しい清貧運動を始めた。この世の富と財産に拠り所を求めず、神の摂理だけに信頼を置き、マンモンの神ときっぱりと決別してキリストの説いた「超自然宗教」の理想に生きる「小さい兄弟会」の革命を断行した。しかし、「小さい兄弟会」が予想を超えて発展し肥大化するにつれて、悪魔はそこにも巧妙に忍び入り、個人の「清貧」の誓いと僧団=修道会組織=の「集団的な富の蓄積」(マンモンの神への従属)を巧みに両立させる新たな自然宗教化をやってのけた。

 悪いジョークに「全知の神様にもご存知ないことが3つある。(その1)清貧のフランシスコ会の全財産がいくらあるか。(その2)世界中に女子修道会がいくつあるか。(女は3人寄ると修道会を作りたがる、を茶化したもの)。(その3)〇X〇X。」(この3番目の 〇X〇X は、例えば「イエズス会の神父が何を考えているか、神様も知らない」など、状況によっていろいろに言われるが、1位のフランシスコ会の座は揺るがない。) 

 もしキコが私の見込み通りの歴史に名を残す大聖人だとすれば、それは彼が絵画・建築・音楽などの分野にわたるルネサンス期の巨匠のような存在であるからだけではなく、キリスト教の信仰の歴史に名を残す偉大な宗教改革者としてでなければならない。

 それは、コンスタンチン大帝のキリスト教の国教化の弊害として生じたキリスト教の自然宗教化に歯止めをかけ、キリスト教を再びイエスの教え通りの純粋な初代教会の信仰へ復帰することに先鞭をつけた最初の大改革者としてだ。

 キコの試みが可能になったのは、もちろんコンスタンチン体制の逆改革を意味する第2バチカン公会議と聖ヨハネ・パウロ2世教皇のお陰だった。キコは、コンスタンチン体制下で徹底した「回心」を経験しないまま自然宗教的キリスト教を生きてきた信者たちに、初代教会にあった求道者共同体の回心の「道」を、洗礼の前か後かを問わず徹底的に歩む機会を提供した。そして、そのキコに聖ヨハネ・パウロ2世教皇は強いて「新求道期間の道」の「規約」を作らせたが、その第4条「物質的財産」第1項には「新求道期間の道は教区において無償奉仕するカトリック養成の道程である以上、固有の財産を所有しない。」と高らかに謳っている。

 その意味するところは何か。それは、コンスタンチン体制下では、ベネディクト会の戒律を手本として設立されたすべての修道会、そして、アシジの聖フランシスコの托鉢僧団の系譜に連なる後代のすべての修道会で、各修道者が個人としては清貧の誓願を立てて無所有を約束するが、彼の属する修道会は土地・建物の不動産のみならず、あらゆる動産と巨万の富を所有し、清貧を約束したはずの修道者が組織の富と安定の恩恵を豊かに享受するというからくりの上に安寧をむさぼるという欺瞞の構造から抜け出せず、結果的に他の自然宗教と同じ体質に堕し、キリストの「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方と親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなた方は神と富とに仕えることはできない。」(マタイ6:24)という戒めに背き続けてきた。ここで言う富とはもちろんマンモンの神、自然宗教の偶像=「お金」のことである。

 キコはコンスタンチン体制以降のキリスト教の根底的矛盾、「キリスト教の自然宗教化」という決定的な欺瞞にメスを入れた最初の聖人だと私は思う。それがどういうことを意味するか、私の痛みを伴った個人的経験に基づいて簡単に説明しよう。

 満50歳を迎えようとしていた私が神学生として東京の大神学校に入ることを許されず、最後の望みをつないでローマに送られたのが、聖ヨハネ・パウロ2世教皇によって設立されたばかりの新しいローマ教区立神学校だった。私が54歳で司祭になって高松に錦を飾った頃には、私が学んだローマの新しい神学校の7番目の姉妹校が高松教区立としてすでに誕生していた。しかし、まだ自前の建物はなく、毎年家賃分ほどの赤字を垂れ流していた。設立者の深堀司教の時代はまだ何とか赤字の補填がなされていたが、綱渡り状態だった。そこで、私は銀行マン時代の経験を駆使して、一億円余りの寄付を集め、神学校の建物を建て、赤字を消し、「道」の規約第4条1項に従って神学校の土地と建物をそっくり司教様に寄付した。

 ところが、設立者の司教が引退すると、後任の司教はそんな神学校はいらないと言い出した。そして、お前たちが建てた神学校は司教のもの(教区の財産)だから、お前たちは出ていけ、と言い渡された。私たちはもちろん黙って退去した。これが新求道期間の道は固有の財産を持たない、という規定が具体的に意味するところである。その神学校がその後に辿った数奇な運命については、すでにたっぷりブログに書いたので、それを読んでいただきたい。 

 言いたいことは、キコは教会にコンスタンチン体制以前のキリストの教えの本来の姿、「回心して福音を信じなさい」の原点に戻る道を開いた最初の聖人として歴史に名を残すに違いない、と言うことだ。

 教会は2000年の歴史を通して無数の修道会を産み出し、それぞれ時代の要請に応えて栄枯盛衰を繰り返してきた。しかし、キコの組織としての無所有という実験を思いついて敢行した者は今まで一人もいなかった。アシジのフランシスコはそれを夢見たかもしれないが、それをフランシスコ会運動の基礎にしっかりと据えることには見事に失敗し、その結果、変質した会から捨てられ惨めな失敗者として死んでいった。

 これからの歴史が見物だ。キコの後に同じ実験を試みる勇気あるカリスマが、そして組織が、続くかどうか、是非とも楽しみに見極めたいものだ。とにかく、この一点だけでも、キコが教会の歴史の中でも例外的に偉大な聖人として記憶される値打ちがあると私は考える。

 私は、今回のブログの冒頭に書いたキコとの再会から得た印象によって、彼が本物の聖人にふさわしい惨めな人生の終わり方に向かって突き進んでいる印象を強くした。そのキコに私はぜひともホイヴェルス師の言葉を贈りたい。

 

                                      在りし日のホイヴェルス神父

 

 大げさに言えば、キコはコンスタンチン大帝と並んで、教会の2000年の歴史を3分割する決定的な2つの転機の一つとなる可能性を秘めていると言いたい。即ち、キリストからコンスタンチン大帝までの300年余りは、超自然宗教としてのキリスト教がその純粋性を保って花開いた時代。コンスタンチン大帝からキコまでの1700年間はキリスト教の自然宗教化が支配的であった時代。そしてキコから後のこれからの時代は、自然宗教化したキリスト教が他の自然宗教とともに次第に滅び行き、キコが試みた超自然宗教としてのキリスト教再興につながる部分だけが辛くも生き延びる可能性を秘めた時代という区分である。

 私は、キコの最も円熟した時期に彼の近くで親しく接する機会を得たことを神様に感謝したいと思う。彼と私が同じ1939年生まれ、というのも偶然ではないような気がする。とにかく、彼よりちょっとでも長生きして、彼の最後をこの目で見届けたいものだと思う。

 彼は、教会史に残る特別な聖人だろう。因みに、コンスタンチン大帝もカトリックの教会では聖人として認められているらしい。

薔薇.jpg

 

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★ 聖人の死に方について

2024-08-03 00:00:01 | 神学的考察

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聖人の死に方について

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 ナザレのイエス、イエス・キリストは天地万物の創造主である「神」を父と呼び、天の御父の「ひとり子」としてこの世に誕生したが、自分のことを好んで「人の子」と呼ばれた文字通り聖者の中の聖者であった。

 人の子イエスは、生前、妥協の余地のない回心の教えを説き、多くの奇蹟を行い、最晩年は群衆からダビデ王の裔(すえ)とかメシア(救世主)とかの歓呼の声で迎えられたが、その直後には一転してローマ帝国への反逆者の濡れ衣を着せられて二人の重罪人とともにむごたらしい十字架刑に処せられ、見るに堪えない姿で孤独のうちにに死んで葬られていった。彼の愛した弟子たちはみな逃げ去り、十字架の下に残ったのは若いヨハネと母マリアと数人の敬虔な婦人たちだけだった。

 

キリストのデスマスク?(聖骸布)

 

 12世紀末に彗星のごとくに現れた清貧の聖者、アシジの聖フランシスコは、神様の声に促されて、軒の傾いた当時のカトリック教会を建て直し、清貧の托鉢僧団の先駆者として、教会の改革に輝かしい実績を残し、生前はキリストの再臨ではないかと噂されるほど人々から愛された。

 しかし、そのフランシスコの運動は、短期間に目覚ましく発展し、その過程で早くも大きく変質していった。そして、聖者が掲げた清貧の理想とは裏腹に、彼の興した修道会は、土地を所有し、大きな修道院の建物を持ち、富を集め、大勢の学者を輩出し、世俗的にも教会の中でも権力者、支配者となるものが現れた。素朴で貧しい「小さな兄弟」たちの清らかな貧しい会は、創始者フランシスコの意に反してどんどん肥大化し富み世俗化していったのだった。そして、組織は独り歩きを始め、ついには「師父聖フランシスコの理想」は会の更なる発展を阻む疎ましい足枷と見做されるに至った。

 晩年のフランシスコは、結核を病み、ほとんど失明して弱りはて、失意のうちに修道会の主流からは疎外されていった。彼は、裸で生まれたのだから裸で土に帰ると言って、最初に与えられたポルチウンクラ(ちっぽけな土地)に横たえられ、最後まで彼に忠実だった4人の同志たちとローマの貴婦人ジャコマだけに見守られて、ひっそりと惨めに死んでいった。私はそこに失意の悲惨な敗残者イエスの十字架上の最後に共通する姿を見る。

 

アシジのフランシスコに最も似ているといわれる肖像画

 

 私の敬愛するイエズス会士、ヘルマンホイヴェルス神父様は、東京の目玉教会、聖イグナチオ教会の初代主任司祭であり、生涯名誉主任司祭であったが、四谷周辺に鳴り響く鐘楼を備えた最初の教会堂を建て、その司祭生活を通じで3000人以上に洗礼を授けるというギネスブックものの数字を残し、外国人が受けられる最高の勲章を日本の国家から授与されるなど、日本語を美しく操り、随筆家、演劇や映画の作家・演出家であり、詩人、哲学者として輝かしい生涯を終えられた。私は彼が聖人であったことを疑わない。

 最晩年の2度目の帰国の時には、故郷のウエストファーレン州ドライエルヴァルデ村の生家で、当時ドイツの銀行で働いていた私と二人きり、ホイヴェルス少年の勉強部屋で食事をいただきながら、来年は細川ガラシャの歌舞伎を引き連れてドイツ巡業をするから、お前に現地マネジャーの仕事を託する、と言われた。しかし、その言葉はかなわず、帰国後のホイヴェルス師は急速に容体が悪化し、最後のころは、昼食後の午後2時すぎに再び2階から降りてきて、お昼ご飯はまだですかと言われれるなど痴呆が進み、教会内で転倒し、後頭部に外傷を負って入院し、退院後は療養生活を送っていたが、ある日、車椅子でミサに与っている最中に急性心不全で死去された。

 

DSCN9378-2_880.JPG

私が撮影してホイヴェルス師

 

 外面上は、師の最後はただの老衰した痴呆老人だったが、樹木希林さんが広めてくれたおかげもあって、師の残された散文詩「最上のわざ」は教会の内外で広く知られている。

 

          

            樹木希林

 

     ヘルマンホイヴェルス神父の

     「最上のわざ」

     この世の最上のわざは何?
     楽しい心で年をとり 働きたいけれども休み
     しゃべりたいけれども黙り 失望しそうな時に希望し
     従順に、平静におのれの十字架をになう
     若者が元気いっぱいで神の道をあゆむのを見つけても妬まず
     人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、
     弱って、もはや人のために役たたずとも 親切で柔和であること。
     老いの重荷は神の賜物
     古びた心に、これで最後の磨きをかける
     まことの故郷へ行くために
     おのれをこの世につなぐくさりを少しづつはずしていくのは、真にえらい仕事。
     こうして何もできなくなれば それを謙遜に承諾するのだ。
     神は最後に一番よい仕事を残してくださる。それは祈りだ。
     手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。
     愛するすべての人の上に、神の恵みを求めるために。
     すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。
     「子よ、わが友よ、われ汝を見捨てじ」との。

 ホイヴェルス師の命日には、コロナ期の最中も途切れることなく、今年も6月9日、第47回目の「ホイヴェルス師を偲ぶ会」が ー最近は師の生前の姿を知らない若い世代も加えてー 四谷で開かれた。一人の宣教師を偲んで半世紀近くも人々がその遺徳を慕って集うというような例が、他にあっただろうか。

 話は変わるが、私が長年探し求めてついに巡り合った導師のキコ・アルグエイオは、聖フランシスコから800年遅れて現れた稀に見る巨大な聖人だと私は信じて疑わない。ちなみに、「キコ」はスペイン語で「フランシスコ」の愛称、短縮型とされ、いわば「フランシスコちゃん」とでも訳すべきものであるらしいが、キコは聖フランシスコ没後800年ぶりに現れた大型聖人として後世に語り継がれるに違いないと私は考えている。

 

フランシスコ教皇とキコ

 

 そのキコは聖教皇ヨハネ・パウロ2世と手を携えて、第2バチカン公会議の決定を実際の教会の日常に、信徒の生活の中に、生かし実践する一大実験に打って出た。コンスタンチン大帝の時代に教会に大量に雪崩れ込んできた自然宗教の要素を脱ぎ捨て、再び西暦およそ300年代までの初代教会の純粋な信仰の原点に復帰するために、第2バチカン公会議の決定を誠実に生きる大事業に手を染めた。キコは、キリストが洗礼の前提とした「回心」(改心)のわざを、洗礼の前か後かを問わず、忠実に信仰生活に生きる「道」を切り開いた。そして、彼の「道」は世界中で花開き、いま多くの豊かな実を結びつつある。

 キコが聖人だとすれば、彼は歴史に前例のない型破りの聖人だ。もともとは画家で、素晴らしい絵を多数残した。マドリードの新しい司教座聖堂の内陣の壁画を始め、聖画家ジオットのように多数の教会に壁画を残している。ロマネスクやゴシック様式に並ぶ新しい教会建築様式の創造にも野心的なチャレンジをした。民衆に歌われる数えきれない宗教音楽を作曲し、自らギターを爪弾き歌って聞かせた。ついには、フルオーケストラとコーラスのためのシンフォニーを2曲も作曲し、東日本大震災の5周年には200人の演奏家集団を引き連れて来日し、地震、津波、原発事故の三重苦に見舞われた被災地で、「罪のない人々の苦しみ」という一作目のシンフォニーのチャリティーコンサートツアーを実施し、福島、郡山に続いて、東京ではサントリーホールで大成功をおさめた。私は現場の企画を一手に引き受け、キコと共に働いた。彼はルネッサンス期の巨匠たちの系譜に連なる現代の天才的総合芸術家と言っても過言ではないだろう。

 キコはまた、毎年宣教のために忙しく旅行し、敬虔な富豪の申し出があればプライベートジェット機で世界中を飛び回ることも厭わなかった。彼は煙草を吸い、葡萄酒をたしなみ、結構な美食家でもある精力的な活動家だと言える。もし彼が聖人なら、従来の固定観念が当てはまらない型破りの聖人と言えるだろう。

 私は彼と同じ1939年生まれだが、彼は私の何倍も激しく密度の高い生き方をしているから、私よりも早く老いが進んでいるのは当然と言えば言えなくもない。私は何とかしぶとく彼よりも長生きして、彼がどのような死に様を見せるか、自分の目で見届けたいと願っている。彼が名声と隆盛の絶頂で、お釈迦様のように泣きわめく弟子の500羅漢たちに惜しまれながら格好よく大往生を遂げるのか、それとも、キリストや聖フランシスコヤホイヴェルス師のように格好悪い惨めなぼろぼろの最後を迎えてひっそりとこの世を去るのか、それが気になって仕方がない。

 スターダムの絶頂で死なれたら、がっかりだ。私が期待した大聖人ではなかったかもしてないという苦い後味が残るからだ。

(つづく)

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★ フランシスコ教皇の「説教は10分」発言

2024-07-13 00:00:01 | ★ フランシスコ教皇

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フランシスコ教皇の説教は10分」発言

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 私が神戸のカトリック神戸中央教会に赴任して3か月が過ぎた。身を小さくしてスムースに溶け込むことに気を使ってきた。

 

カトリック神戸中央教会の聖堂

 

 しかし、まもなく一部の信者さんから、今日のお説教は心に残った、とか、神父さんの話は具体的でわかりやすい、とか言って声をかけてくれる信者さんがちらほら。ああ、少しずつ受け入れてもらえているな、と思った。

 ところが、一呼吸おくれて、神父、お前の説教は長すぎる、というお小言も届き始めた。私の説教はほぼ15分、たまに長くても20分を超えることは稀なのだが・・・?

 とにかく、私は30年間神父をしてきたが、小教区教会で日曜のミサの説教が長いと言って信者さんから苦言を呈されたことは一度もなかったので、ひどいショックを受けた。

 しかも、その苦言の理由が振るっている。教皇フランシスコが「説教は10分にしろ」と発言されたから、というのだ。そこには有無を言わさぬ高圧的な響きがこもっていた。しかし、牧者の本能的嗅覚には、それを持ち出して神父の説教を抑え込もうという別の魂胆が見え隠れして気になった。それで、いつどういう文脈でフランシスコ教皇はそのような「10分」発言をしたのか教えてくださいとお願いしたら、間髪を入れずメールの添付ファイルで教皇の発言を裏付ける文章が送り付けられてきた。2018年2月7日の教皇一般謁見で語られた言葉の中に確かに「10分」とあった。しかし、それを前後の文脈の中で落ち着いて読むと、印象は全く違うものであった。

 

 

 文字通り引用しよう。「説教の間に寝ていたり、私語をしたり、外に出て煙草を吸ったりしている光景を幾度見たことでしょう。ですから、どうか説教は簡潔で、しっかり準備されたものにしてください。司祭、助祭、司教の皆さん、それではどんな準備をすべきでしょうか。祈り、み言葉を学び、簡潔で明快な要約を作って準備するのです。どうか、10分以内の長さにしてください。」

 仮に翻訳が原文のニュアンスを正しく伝えたものであるとして、じっと眼を据えて行間を読むと、この「10分」発言の背後には、「説教の間に寝ていたり、私語をしたり、外に出て煙草を吸ったりしている」信者には、どんなにいい説教をしても「豚に真珠」だ。10分以上する必要はない。だが、「祈り、み言葉を学び、簡潔で明快な要約を作って準備」されていないずさんな説教も聞くに堪えないから、我慢は長くて「10分」が限度だ、というフランシスコ教皇の真意が見えてくる。それには私も大賛成だ。しかし、信徒が耳を開いて傾聴し、司祭はよく準備された中身の濃いいメッセージを届ける場合は、何分以内でなければならないという絶対的な縛りはない、あってはならないと考えられる。そしてもちろん教皇も同意見だろう。その証拠に、教皇がすべての説教の絶対的、普遍的な規範として「10分」に拘泥していないことを明白に示す事実がある。カトリック新聞4725号によれば、今年6月12日の一般謁見で同じ教皇は前言を覆して、「8分以内にとどめるよう」促した、と報じている。長さは短くなったが、言いたいことは上と同じだろう。そして、その延長線上に、聞く耳を持たぬ信者とちゃんと準備されていない説教の組み合わせなら、「いっそのこと説教のないミサがうれしい」という教皇自身の本音に行き着くのだ(フランシスコ教皇、2018年2月7日の一般謁見より)。

 教皇の一連の発言の関連で、私が敬愛してやまないイエズス会士ヘルマン・ホイヴェルス師の話を思い出す。

 故郷ドライエルヴァルデの主任司祭の説教はいつも退屈で非常に長かった。それで、最前列のベンチに陣取ったシタタカなご婦人たちは、もううんざり、いい加減にやめてもらいたいという限界に達すると、やおらスカートのポケットからハンカチを取り出して、目にもっていき、そっと涙を拭くシグサをする。すると、勘違い神父は、今日も敬虔なご婦人方は自分の名説教に感涙を流しむせび泣いてくれた、と満足げに長説教をやめる。

 少年ホイヴェルスはこのくだらない茶番劇から悟りを得て、自分が神父になったら、説教は必ず7分以内に収めると決心され、生涯それを守り通された。

 

ホイヴェルス師の時代に建てられた在りし日の懐かしい聖イグナチオ教会

聖堂の巨大さは真ん中の入り口に立つ人影から察せられる

 

 東京の看板教会、四谷の聖イグナチオ教会の初代主任司祭で、晩年も生涯名誉主任司祭に留まられたホイヴェルス神父様は、ご自分が建てた1000数百人入る聖堂を満たす信者たちを相手に、超然と、飄々と、珠玉のような7分間の説教をされた。その内容は俳句のように簡潔で、選びぬかれた言葉も研ぎ澄まされ、神学的、哲学的、詩的に格調の高いお説教をされたが、その内容の深さを理解し、味わい、糧を得、感謝することのできる上質の魂は非常に限られていたと思われる。現に、聖堂の中にあふれた人たちにはあまりにも高尚で、短かすぎて、なにがなんだかあっという間のお説教で、そのあいだ入り口の外では、恰幅のいいお金持ちの紳士たちが、葉巻の紫煙をくゆらせながら、「やっぱり世の中はお金だね」と豪語しているのがいつもの光景だった。

 そのホイヴェルス神父様は、7分の説教を準備するのに一時間かかる、しかし、一時間の説教の準備は7分で足りる、と意味深長な言葉を私に残された。それは今も心の中に木魂している。そして、凡庸な私の場合、15 分の説教を準備するのに1-2時間ではいつも足りないのが現実なのだ。

 若いころの私は、四谷の9時のホイヴェルス神父様のミサで7分の説教と歌ミサの調べを味わうと、その足で隣の駅の近くの信濃町教会に行って、有名な福田牧師の1時間にわたる説教に耳を傾けるのを日曜日の日課にしていた。プロテスタント教会では日曜の牧師の説教は礼拝の中心であり命だ。信濃町教会は大学教授や外交官などのインテリ信徒が集まる教会で、私はそこでホイヴェルス師からは得られない満足を味わっていた。

 話は変わるが、近年人里離れた感想修道女会に毎朝ミサをたてに来る司祭を確保するのが困難になっている。彼女たちの心の耳はいつも開かれている。彼女たちは、忙しいなか犠牲を払ってきてくれた神父に向かって「教皇様がお説教は10分」と言われました、もう10分を過ぎています、早く説教をやめてください、などと言うわけは絶対にない。彼女たちの魂は常に魂の糧に飢え渇いているのだ。

 また、私はローマに生活した長い間、数万人の大野外ミサに参加したことがある。炎天下でも、有名な枢機卿の時には20分を超える説教を大群衆が聞き終えると、大歓声と拍手の嵐が鳴りやまない光景に遭遇したことが一度ならずあった。大群衆だから説教の間も立ち歩く者、私語をする者、居眠りをする者もいないわけではない。しかし、その説教には大勢の人の心を捉え、揺り動かし、回心に駆り立てる力があった。

 いい説教には磨かれた鏡のような作用がある。その説教を聞く人は、そこに自分の本当の姿が映って見える。それを正視できない者は、その鏡を嫌い、何とか早く終わらせたい、できればその鏡を壊してしまいたい、という衝動に駆られる。だから彼らは、フランシスコ教皇の「説教は10分(または8分?、0分?)」を前後の脈絡から切り取って、金科玉条 のようにかざして向かってくるのだ。いつも付け足しに何か理由を陳べ立てはするが、本心はあくまで別のところにある。持ち出された問題など工夫すればすべて簡単に解決できるものばかりではないか。

 ある信者さんが心配して言った。前にこの教会に信者に慕われた神父さんがいた。彼は時に痛いこともズバリと言われた。いい神父さんだったから追い出された。どうか、あなたもそうならないように気を付けてください、と。

 旧約の預言者たちは殺された。イエス・キリストも十字架上で非業の死を遂げた。使徒たちもみな殉教した。良い牧者は羊たちを守るために命を捨てる。私もこの系譜に連なることができれば、神父冥利に尽きるというものだ。

 現教皇フランシスコは、時々信者の心を分断する危ない発言をすることがあるようだ。「同性愛者の祝福」発言などもその例だ。その言葉は独り歩きし、教皇の望まない文脈で好き勝手に借用される危険がある。この「説教は10分!」なども同種のきわどい発言だと言えるのではではないだろうか。

* * * * * 

追 伸: このブログには直ちにいくつかの興味深い反響、コメントが寄せられた。右下の細字の コメント をクリックすると読めます。更なるコメントを歓迎します。

 

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★ 6月23日(日曜日)のミサの説教

2024-06-25 00:00:01 | ★ 説教

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6月23日(日曜日)のミサの説教

カトリック神戸中央教会

~~~~~~~~~~~~~~~~~

先ず、今日の福音を聞きましょう。

 

 その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。
そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。
 激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。
 しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。
 イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。
 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」
 弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。(マルコ4・35-41)

 

 この嵐を鎮める話は、イエスが弟子たちを集め、例え話を使って教えを説き、病人を癒す奇跡をおこないながら宣教を始めてまだ数カ月の間の出来事ではなかったでしょうか。

 イエスに召し出されて、弟子としての生活を始めてまだ間のないガリレア湖の漁師たちは、突然の自然の猛威を前に死の恐怖に駆られ、自然の神の怒りだと思って、先生のイエスに助けを求めます。自然宗教の日常的発想がそこに読み取れます。

 人は、自然の脅威の背後に神の力を思い、その神を祀(まつ)るために神殿を建て、お供えをし、豊かな恵みだけをもたらし、禍は遠ざけてもらうためにたくさんお祈りをささげます。とは言え、みなそれぞれ日々の生活の営みに忙しいので、それらの祭祀を行う専門家の神官・僧侶を立て、お金を納めて儀式や祈祷を任せます。

 弟子たちはこの一大事にのんきに昼寝をしているイエスをたたき起こし、海の神、風の神に祈ってなだめてくれること、率先して手あたり次第に桶や杓子を使って船の中の水をかい出し沈没・溺死から護ってくれることを期待したかもしれません。ところが、イエスは風を叱って、その一言で凪(なぎ)になったのです。

 弟子たちは、イエスが普通の自然宗教の祭司とはどこか根本的に違っていると直感し、深い畏怖の念に駆られたに違いありません。

 イエスはその後、3年間の弟子たちの教育を通して、アダムとエヴァが原罪の結果として人類に死を招き寄せ、天が閉じられたこと、そしてご自分の死にによって死を滅ぼして復活し、閉ざされていた天を再び開かれましたことを少しずつ悟らせていきます。

 そして、「回心して福音を信じなさい」、「信じて洗礼を受け、古い人間に死に、罪を脱ぎ捨てて新しい命に生きなさい」、と命じられました。

 昨日の土曜日(6月22日)に読まれたマタイの福音には、「あなた方は、神と富に兼ね仕えることは出来ない。」とあり、別の聖書の個所では、「神のものは神に、皇帝のものは皇帝に返しなさい」とも言われました。

 イエスの死と復活、それに続く聖霊降臨の後、初代教会の信者たちは、回心して福音を信じ、復活を信じて洗礼を受け、死を恐れず、お金と皇帝に仕えることをやめて、教えられた通り福音宣教に励みました。

 ローマ帝国の底辺で抑圧され絶望的な苦しみに喘いでいた貧しい人々は、イエスの全く新しい「福音(よいしらせ)」に希望をつなぎ、こぞって回心してキリスト教を信じました。人々はもはや偶像の神々を拝まず、皇帝をも「生き神」として拝まず、天地万物の創造主の父なる神と、贖い主であり神である復活したキリストと、その聖霊だけを信じて、殉教を恐れず勇敢に信仰を証ししました。

 ローマ皇帝にしてみれば、生かすも殺すも自分の思いのままにしてきた奴隷女にも等しい帝国の底辺の貧しい庶民が、自分に背を向け「キリストの花嫁」になって去って行ったような思いがしたことでしょう。もう自分を神として拝まない、もしかしたら税金も納めなくなるかもしれない、戦争になったら敵側に寝返るのではないかと考え、帝国の基盤が流動化するのを恐れ、何としてもそれをたたき潰すために迫害に狂奔します。しかし、復活を信じるキリスト教徒は死を恐れず、殉教者を尊び、ますます増えていくばかりです。

 力でねじ伏せることが出来ないと悟った権力者が考えることは、いつの時代も同じです。「押してダメなら引いてみな」とばかりに、懐柔して取り込み、骨抜きにする戦略に転じます。

 迫害はやめ、みずから進んでキリスト教に改宗し、貧しいガリレアの漁師たちだった無教養なキリスト教の祭司たちには、ローマの元老院の議事堂の壮麗な建物―バジリカ―を教会堂として与え、元老院の議員たちのきらびやかな礼服を祭服として着せ、宮殿に住むことを許し、豊かな富も与えました。

 自分を捨ててキリストの花嫁になった奴隷女―つまり「教会」―を、伊達男(だておとこ)「キリスト」から奪い返し、自分の側女として手籠めにしようとした誘惑の手に、教会は実に弱かった。

 キリストが「人は神と富に兼ね仕えることは出来ない」とか、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返せ」とか、厳しく戒め教えられたにもかかわらず、教会は皇帝の側女の地位に身を任せ、こうして「聖」と「俗」が結婚してハネムーン状態になってしまったのです。

 皇帝はキリスト教の迫害をやめ、神々の神殿を壊してその跡にキリスト教の教会を建てます。そして、そこにあった神々の偶像の代わりに十字架を立て、こうしてパックス・ロマーナ、「ローマの平和」が実現したのです。

 そうなると、今まで皇帝を神として崇め、皇帝が拝むギリシャ・ローマの神々を拝むことによっていい目を見てきたローマの市民は、利に敏く風見鶏のように身を翻し、これからのご時世では、帝国でうまい汁を吸いたければキリスト教徒になるべし、とばかり、我れ先に洗礼を受けて教会になだれ込んできました。こうして短期間にローマ帝国はキリスト教化されていったのです。

 しかし、これは、大問題です。何が問題かと言えば、キリストは「回心して、福音を信じなさい。信じて、洗礼を受けなさい。」とハッキリ言われたのに、コンスタンチン大帝の時代に教会になだれ込んだローマ市民は、回心していないのに、福音を理解し信じてもいないのに、自然宗教のメンタリティーは全くそのままに、形だけ洗礼を受け、名前だけキリスト教徒になったことです。

 北イタリアのアドリア海に浮かぶヴェニスと、その先の国境の町トリエステとの中間に、アクイレイアいうローマ時代の港町があります。そこで私は不思議な教会の遺跡を見つけました。

 双子のような教会堂が並んで建ち、その中間の中庭に8角形の洗礼堂がある。左側が「求道者の教会」、右側が「信者の教会」です。左の「求道者の教会」で時間をかけてしっかりキリストの福音をたたき込まれ、回心して生活の改善の証を立てたものだけが、中間の洗礼堂で水に沈み、古い罪の人に死んで、新しい人間―キリスト者―として立ち上がり、右の信者の教会に迎えられる流れ作業の仕組みです。

 これが、初代教会のすがたでした。つまり、キリストの教えが純粋に守られていた時代、すなわち、人々が福音を文字通り信じ、心から改心して洗礼を受け、激しい皇帝の迫害の下にあった教会にあえて命がけで加入し、多くの殉教者を輩出していた時代の教会の姿です。

 ところが、迫害が止み、皇帝と教会が結婚し、パックスロマーナの時代が到来すると、この「求道者の教会」が無用の長物として消滅してしまいます。そして、回心しないまま、福音を理解して忠実に実践することのないまま、ただ形だけ洗礼を受けて信者になる者たちで教会はいっぱいになってしまったのです。

 天地万物の創造主である超越神、三位一体の神、人となった神の「みことば」―キリスト―を信じないで、自然界の神々を拝んでいた時と同じメンタリティーのままの十字架の御利益を拝む「自然宗教キリスト派バージョン」の教会の誕生です。そしてその状態は、多かれ少なかれ今日の教会にまで影を落としています。インカルチュレーション(キリスト教の土着化)のイデオロギーや、イタリアのアシジと比叡山とで交互に開かれた宗教サミットに代表される「諸宗教対話」などは、この「自然宗教キリスト派」運動の典型と言うことができるでしょう。

 自然宗教のあられもない裸の姿は「お金の神様崇拝」の一語に尽きます。

 せっかく、キリスト教に出会って、聖書を読んで、カトリック信者になったのに、実体としては相変わらずの「自然宗教キリスト派信者」のままで終わってはもったいなくないですか。本当の回心をして福音を信じる本物の「超自然宗教」の信者に一歩でも二歩でも近づくことのないまま死んでいくのでは情けなくなくないですか。あたら一回限りの人生を、キリスト教の包み紙にくるまれた自然宗教の信者で終わるのは、いかにももったいないと思いませんか。

 「めくら」が「めくら」の手引きをしたら、二人ともお金の神様の偶像崇拝のドツボにおちてしまう(マタイ15:14)という、キリストの言葉があります。文字通りには、もうちょっと上品に「盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう」とさらりと書かれていますが、意味は全く同じです。

 信者さんが羊で神父が牧者であるというのであれば、たとえ多くの信者さんがまだ盲人のような自然宗教状態にあったとしても、牧者は決してただの盲人であってはならない、命がけでキリストの福音を説け、という厳しい戒めです。

 七色の可視光線で見える世界は物質的な世界、お金の神様の支配するこの世の姿です。牧者は、虹色の可視光線の現象だけでなく、肉の目では見えない、霊の目でなければ見えない信仰の奥義をしっかりと見据えて、それをできる限りわかりやすく信者さんと分かち合わなければなりません。それは、自分も信者さんも一緒に同じ穴に落ちないために絶対に必要なことです。

 ああ、もうそろそろ時間です。しかし、まだまだ話し足りません。

 ミサの後に、場所を集会室に移して、話をもっと深く豊かに掘り下げて分かち合いたいと思います。御用とお急ぎでないかたは、どうぞお残りになって下さい。お茶飲みながらゆっくり味わって余韻を楽しもうではありませんか。

 

* * * * *

 この日のお説教はこのように終わりました。

 東京や神戸の夜空を見上げると、星の姿はまばらです。不夜城のような都会の虚飾の明かりが空中の塵に反射して遠い星の姿をかき消し、大気の揺らぎは星々をチラチラと瞬かせます。だから、そこに無数の美しい星雲(ギャラクシー)が蒔き散らされていることに人の思いははるかに届きません。

 

 

 しかし、ハップル望遠鏡やジェームスウエッブ宇宙天文台のおかげで、私たちはこんなに美しく神秘的な渦巻き星雲が無数に存在することを知っています。

 実は、この星雲の美しい姿は、七色に分光できる可視光線だけでは決して見ることは出来ないものです。人間の肉眼では決して見えない、赤外線、紫外線、X線などの幅広い波長でとらえた映像を重ね合わせ、合成し、それぞれに色を割り当て、輝きを添えることによって描かれた天体の姿なのです。

 信仰の世界も同じです。肉の目で見える七色の光線の世界は、この世の世界、お金の神様が支配する世俗の世界にしかすぎません。しかし、信仰の世界、霊の世界、神様の世界は、肉の目ではなく、心の目、魂の目にしか見えない波長の霊的光に照らされて初めて見ることのできる世界であって、そこは神様の愛に満ち溢れた、隣人を己のごとくに愛する人々の交わりの場としての大宇宙なのです。

 

 

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★ 映画『殉教血史 日本二十六聖人』 と ヘルマン・ホイヴェルス神父

2024-05-19 00:00:01 | ★ ホイヴェルス師

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映画『殉教血史 日本二十六聖人』

ー われ世に勝てり ー

ヘルマン・ホイヴェルス神父

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― 1930年代前半期の日本カトリック教会の文化事業 ―

 手元には、昨年7月15日に亡くなられた平山高明司教様から私に託された一枚のDVDがある。題は、映画『殉教血史 日本二十六聖人』(以下、『26聖人』)で、1931年に公開されたこのサイレント(無声)映画は、満州事変前後の時期における日本のカトリック教会の微妙困難な状況と深く関連している。

 時あたかも、日本は軍国主義化、ファシズム化の一途をたどっていた。日本のカトリック教会(のみならずキリスト教全体)が敵性国の宗教として迫害され、信者が非国民扱いされる危険を回避するために、キリスト教徒は日本の美徳である「主君に対する殉死の精神」にも等しい死生観を持ったすぐれた国民であることを証し、当時の日本人信徒には希望を与え、海外に対しては日本のカトリックが偉大な殉教者を輩出して信仰を証した真正のキリスト教の伝統に生きる教会であることを宣伝するための、極めて政策的な「プロパガンダ」映画(宣教・宣伝映画)だった。

 ハリウッドのスコッセジ監督が描いた遠藤周作張りの「サイレンス」(沈黙)などに比べれば、『26聖人』は「信仰告白の映画」と「不信仰の映画」の違いが歴然としていて、全く次元を異にする逸品だった。また、原作は活動弁士(カツベン)がスクリーンの袖でナレーションや台詞を滔々と語る無声映画だったが、今私が持っているDVDは、尾崎登明の語りでトーキー化されていて、それがまた素晴らしい。ちなみに、尾崎登明は、コンヴェンツアール・フランシスコ会の修道士。隠れキリシタンの末裔で、アウシュヴィッツの殉教者、聖マクシミリアン・コルベ神父の研究者であるが、この26聖人の映画では、弁士として自らの声でナレーションと台詞を吹き込みトーキー(音声付き)映画として完成している。

 今の価値で言えば数億円の製作費は、当時日本の統治下にあった朝鮮の京城(今のソウル市)で牧場を経営していた政商、平山政十(故平山司教様の祖父)が私財を投げ打って作ったものだった。平山政十自身も隠れキリシタンの末裔だった。政十は国内での上映に加えて、海外でも各地で上映するために世界中を行脚している。

 配役には、片岡千恵蔵や山田五十鈴など、当代一流の俳優を起用しているが、特筆すべきはドイツ人イエズス会士のヘルマン・ホイヴェルス神父が脚本を執筆し、演出を担当していることだ。哲学者であるとともに、詩人、劇作家でもあるホイヴェルス神父は、この映画の製作にも深く関り、力を注いだ。一方、平山政十は渡欧し、この映画のラストシーンを飾るため、ピオ9世教皇による26人の殉教者の列聖式の場面のフィルムを作成していた。

若いころのホイヴェルス神父様

 私はいま、ホイヴェルス神父様と平山司教様の遺志を継いで、このDVDを携えて上映会の全国巡業をしたいものだと夢見ている。

 そのホイヴェルス神父様の第47回目の「偲ぶ会」の日が迫ってきました。今年も以下の要領で開かれます。今回はこの「26聖人」のことも話題にしましょう。ホイヴェルス神父様の生前の面影を知る80才以上の老人も、師の形骸に接することのなかった若い世代も、誰でも自由に参加できます。

薔薇.jpg

第47回「ホイヴェルス師を偲ぶ会」

  日 時  2024年6月9日(日) 午後3時~5時半 (ミサと懇親会 参加無料)

  場 所  JR四谷駅(麹町口)1分 主婦会館(プラザエフ)3階「ソレイユの間」

       (イグナチオ教会の真向かい・双葉女学校の隣り)

  連絡先   Tel.: 080-1330-1212; john.taniguchi@nifty.com  谷口幸紀 神父

       初めての方でも、どなたでも自由に参加できます。

 

 

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★ 第47回「ホイヴェルス師を偲ぶ会」のお知らせ

2024-05-08 00:00:01 | ★ ホイヴェルス師

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第47回「ホイヴェルス師を偲ぶ会」のお知らせ

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 ホイヴェルス神父様の47回目の「偲ぶ会」(追悼ミサ)の日が近づいてきました。私がお世話役を引き継いでから、早いもので7回目を迎えます。

 コロナ禍の間は、日本全国でほとんどの催し物が中止を余儀なくされた中、不思議なことに、この「偲ぶ会」だけは休むことなく続けられ、昨年は50名を超える方々が参加され盛況を呈しました。神様の不思議なお計らいだったと思います。

 1977年に亡くなられたホイヴェルス師の生前を知る人は84歳の私の世代がおそらく最後ですから、直接師の薫陶を受けた人の多くはすでに帰天されています。

 生誕から数えれば134年になる一人の宣教師の追悼ミサが、半世紀近く毎年絶えることなく続いた例が他にあったでしょうか。生涯を通じて一人で3000人以上に洗礼を授けた宣教師がかつておられたでしょうか。その幅広い功績が認められて外国人に与えられる最高の瑞宝章を受勲した宣教師など聞いたことがありません。

 

受勲されたホイヴェルス神父様

 私はこの7年間、師が遺された作品の紹介を通して、生前の師を知らない若い世代に、師の魂の偉大さを伝える努力をしてきました。どうか、このブログの師に関連する記事をあらためて辿ってみてください。

 この度、私は大阪高松大司教区の前田万葉枢機卿様から神戸のカトリック中央教会の協力司祭を拝命しました。しかし、ホイヴェルス神父様の追悼ミサだけは今後も東京の四谷で続けてまいります。

 第40回までは、生前のホイヴェルス神父様を知る世代の皆様が、師を懐かしみ追憶する会だったと思います。あれから7年、今は「偲ぶ会」の出席者の中に、生前の師を知らぬ世代からも、その遺徳に惹かれ、師の宣教師としての働きに学び、自らの信仰のあり方を考え、宣教の使命を見出そうとする信者さんが増えてきました。

 今年も新たな思いで「偲ぶ会」に参加いたしましょう。宣教のため何ができるか、何を為すべきかを考える場としての「偲ぶ会」には、大切な使命があると思います。その使命を果たすことこそ、ホイヴェルス神父様が私たちに期待しておられることではないでしょうか。どなたでも参加できます。

第47回「ホイヴェルス師を偲ぶ会」

  日 時  2024年6月9日(日) 午後3時~5時半 (ミサと懇親会 参加無料)

  場 所  JR四谷駅(麹町口)1分 主婦会館(プラザエフ)3階「ソレイユの間」

       (イグナチオ教会の真向かい・双葉女学校の隣り)

  連絡先   Tel.: 080-1330-1212; john.taniguchi@nifty.com  谷口幸紀 神父

 

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★ 菩提樹 西のふるさと、東のふるさと 私はなぜマカオに行ったのか(そのー3)

2024-05-04 00:00:01 | ★ ホイヴェルス著 =時間の流れに=

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菩提樹

西のふるさと、東のふるさと 

私はなぜマカオに行ったのか(その-3)

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 まず、今までの続き具合を思いだすために、話を少し巻き戻そう。

 私がローマから帰国したとき、高松の神学校はまだ貸ビル住まいで、毎月家賃分ほどの赤字を垂れ流していた。それが司教や支援者たちのヘソクリで補填できる限界を超えて教区の財政を圧迫し始めるのは時間の問題だった。教区の会計主任になったばかりの私は、このままでは深堀司教が定年で引退すれば、その後に誰が司教になっても、赤字神学校の維持は無理と判断して、必ず閉鎖すると読んだ。日本中の司教たちも一様に、ドン・キホーテ司教の分不相応な「夢想」に始まったこの神学校は、放置しておいてもやがて自滅するのは必定で、全く相手にするに足りないと冷ややかに無視していたに違いなかった。

 神学校の存続を図り、さらに発展させるためには、自前の建物を建設し家賃の垂れ流しをストップする以外に手はない、と元銀行マンの私は考えた。そして、「神学校の建物を安いプレハブで一刻も早く作りましょう、お金は私が何とか工面しますから」と関係者に迫った。すると、新求道共同体の責任者や神学校の院長らは異口同音に、「ローマの第1号神学院に続く6つの姉妹校は、何れも神様のはからいで立派な建物に納まっている。なのに、7番目にはプレハブの安っぽい校舎を建てるなどという恥ずかしい案は、信仰のない元銀行マンの世俗的浅知恵に基づくバカげた話だ」と言って反対した。しかし、深堀司教は私の耳元に小声で、「私は谷口神父さんの考えに賛成だ。よろしくお願いします。」と囁かれた。

 大手ゼネコンで働く友人の協力を得て、プレハブながら高品質の立派な建物が設計された。私は祈った。「神様。教区にはお金がありません。この神学校の建設があなたのみ旨に叶ものであれば、必要な資金を用意するのもあなたのお仕事です。私はあなたに信頼します。」という私の祈りは聞き入れられた。手持ち資金ゼロで発注して、一年後の引き渡しの日には、神様にお願いした一億円の寄付が私の手元にあった。相手は世界一の大宗教カトリックさんだから取りっぱぐれはあるまいと、頭金も中間支払いも要求しなかったゼネコンは、まさか私が手持ち資金ゼロで一億の契約書にハンコを押したとは夢にも思わなかっただろう。知っていたら、友人も稟議書を上司に提出する勇気はなかったに違いない。世界一の大宗教カトリックの暖簾を笠に着た私の詐欺・ハッタリは、神様の目には罪と映るだろうか、と首をすくめるしかなかった。

 神学校の恒久的な建物が建ったという噂が広まると、司教会議の空気が激変した。ほっておいてもどうせ潰れるだろうと高をくくっていたが、ひょっとするとあの神学校はしぶとく生き延びて発展するかもしれないぞ、という心配がにわかに現実味を帯びてきた。東京と福岡の神学校を統合し東京一校体制にするという司教協議会のヴィジョンに逆らって、事もあろうに3番目の神学校を新設するとは何事か!協定違反ではないか?絶対に認めるわけにはいかない。力づくででも潰してしまえ!という高ぶった空気が司教協議会を支配した。

 司教協議会でこの件が初めて秘密裏に議論された時、少なくとも4-5人の長老格の司教たちが、高松の神学校の設立は関連教会法の第1項に叶っていて適法なのだから、他教区が一致団結して介入し潰しにかかるというのは如何なものか、という異論が出て、その回の協議は秘密会としその内容を部外秘とすることが決まったはずだった。しかし、不幸にしてその内容は意図的にリークされた。私はそれが誰の仕業であったかはおよそ見当がついているが言うまい。そのリークに端を発して「高松の司教は怪しからん、協定破りだから村八分にすべし」との陰湿な雰囲気が教会内に醸成されていった。

 しかし、深堀司教様には協定破りや抜け駆けをしたという良心の曇りは一点も無かった。司教団の申し合わせはあくまで申し合わせであって、個々の司教の自由を縛るはずのものではなかった。そもそも、各国の司教協議会なるものは、地方教会の相互関係を調整する連絡機関に過ぎず、司教協議会の会長を頂点に会員司教の行動を拘束する決議機関ではあってはならない。個々の司教はローマ教皇から直接に任命を受け、直接ローマ教皇に対してだけ従順を誓うものである。教皇と個々の司教とはその間に立つ司教協議会の会長を介して間接に結びつくものではなく、また教皇を差し置いて司教協議会の決定が拘束力を持って傘下の司教を縛るものでもない。もし、そのようなことになれば、「シスマ」(教会分裂)の危険な臭いが立つことになる。深堀司教は教皇の意向を確認し、教皇の望みに沿って神学校を適法に開設したに過ぎない。それを、司教協議会の決定違反とし叩くとすれば、各司教の独立した責任と自由を破壊することになると言わざるを得ない。それは日本独特の村意識、裏を返せば何事もみんなで渡れば・・・の無責任体制、そして、単独行動をとるものを村八分にして潰す因襲の支配する未成熟社会の正体を露呈したことになる。

 そんな空気に媚びて、高松教区の二名の信徒が深堀司教を裁判に訴えた。私は司教に代わって弁護士と共に公判に臨んだ。裁判長は「訴えの内容はもっぱら宗教内部の問題で、世俗の法廷に馴染まない」と言い、「カトリック教会には優れた『教会法』があるではないか。それに則って問題を処理し、是非和解するように」としきりに訴えの取り下げを勧めた。しかし、原告の信徒はあくまでも世俗の法廷での判決を求めて譲らなかった。裁判長は不本意にも判決文を書く羽目になった。

 その時、法廷外で意外な展開があった。裁判長は被告人司教の代理である私と弁護士を呼んで、異例の提案をした。曰く、「原告の身辺を調査した結果、原告が訴訟マニアであり、今までに多くの裁判沙汰を起こしていることが明らかになった。本件は本来なら原告全面敗訴とすべきところだが、それでは訴訟マニアの原告が意地になって最高裁まで上告を続ける恐れがある。それでは、カトリック教会の品位を損なう醜態を世に晒すことになり、望ましいことではない。もし可能なら、裁判費用の10分の1だけ司教様も負担することに同意してもらえないか。そうすれば、原告の全面敗訴に若干のニュアンスを添えることになり、上告への圧力のガス抜きが期待できる」。司教様に確認したら、その取引に反対されなかった。裁判所とは法律が支配する弾力性に乏しい冷たい世界だと思っていたが、意外と人間臭い面があることを私は知った。

 私はローマ総督ピラトによるイエスの裁判を想起した。ピラトはユダヤ人に訴えられたイエスが義人であり何の罪もない正しい人であることを見抜いて、何とかしてイエスを無罪にして釈放しようと腐心した。しかし、訴えるユダヤ人指導者に扇動された群衆の狂乱は収まらなかった。そこで、不本意にも罪のない聖者イエスを半死半生になるまで鞭打って、十字架刑に処する責任をユダヤ人に転嫁し、自分には関りのないことの印として、衆人環視のうちに水で手を洗う式をして見せた。この度の裁判長の法廷外の提案は、ピラトの選択に似ていると思った。

 プロの法律家の目には、裁判費用の90%の支払いを命じられた原告が「実質敗訴」した事は火を見るよりも明らかだった。しかし、負けた原告は卑しい三流宗教新聞に、全面勝訴の虚偽の談話を発表し、騒ぎ立てた。日本の教会の責任ある立場の人たちも、裁判長の真意を理解せず、虚偽のキャンペーンの前に深堀司教の「実質勝訴」の事実を擁護しなかった。私は、司教様に真実を明らかにして身の潔白を証明し、虚偽の宣伝を封じるように進言したが、彼は右手の親指と人差し指を閉じて口の前で横に引き、ご自分は事実無根の誹謗中傷を前に一切弁明しない強い意思を明らかにされた。その時私は、ピラトの前で「屠所に引かれる仔羊のように黙して口を開かれなかったイエス」の姿を見る思いがした。

 その後の展開はすでに皆さんのご存知の通りだ。深堀司教様は不名誉を背負ったまま高松を追われ熊本に蟄居し、そこで他界された。私は司教の棺を運ぶ業者の地味なワゴン車に一人添乗し、瀬戸大橋を渡るとき、棺を叩いて「司教様、やっと高松の地に戻りましたよ」と話しかけた。

 その後、深堀司教様の後任司教はバチカンに神学校の閉鎖を申し出た。福音宣教省の長官は、何とか神学校を救い高松に残そうと腐心されたが、日本の司教たちの固い結束に押し切られた。見かねた教皇ベネディクト16世は、嵐が去り、期が熟したらまた日本の地に戻そうと、一時ローマに避難させご自分の神学校として大切に庇護する決断をされた。私も、神学校のスタッフの一員としてローマに移り住んだ。ローマに仮寓する「日本のための神学校」の院長には、日本の教会との絆の象徴として、元大分の平山司教様が任命され、私はその秘書となった。

 神学校を強引に閉鎖した司教も他界し、年月が流れ、期が熟したと判断したバチカンは、同神学校を「教皇庁立アジアのための国際神学院」に格上げして、東京に設置する計画を立て、福音宣教省のフィローニ長官が二度にわたって訪日し、日本の司教団に計画を披露し根回しをした。そして二度とも反対の声が上がらなかったのを見極めて、機は熟したと判断して最終決定を下した。

「教皇庁立」の神学校の日本上陸の日程が固まり、私たちが密かに具体的設置場所の検討に入った矢先、そして、ローマ教皇訪日が既に決まった土壇場になって、司教団から突然拒否の意向がバチカンに届いた。象徴的に言えば、教皇と神学校を乗せた飛行機はすでにローマ空港を飛び立って、羽田に向かい、日本では新しい「教皇庁立神学院」の教皇による祝別も想定されていた矢先に、その飛行機は羽田の滑走路にタイヤの焦げる紫の煙を残してタッチ・アンド・ゴーで再び舞い上がり、アジアの空をしばし旋回し、やがてのことにマカオに着陸した。

 東京に振られてマカオに落ち着いた「教皇庁立アジアのための神学院」は、開設直後にコロナ禍に見舞われ、一時台湾に避難した。コロナ禍が収まってマカオに戻った神学校は、ようやく古いコロニアルスタイルの教会とその付属施設に収まった。文化遺産に指定されていて外観に手を加えることは禁じられた半ば廃墟のような建物ではあったが、内装を施し、近代化され、私が訪れる1週間前に工事が完了し立派な神学院に変身していた。

文化遺産の古い教会 その左の建物が神学校の校舎

神学校の食堂

神学校内の小さなチャペル

日が暮れた 時あたかも春節 教会の前の広場にも大きな飾りが

夜には教会のファサードをスクリーンに映像がプロジェクトされた

この映像の主催者はどうやら市当局のようだ

遠くカジノの方角から春節を祝う花火が上がった

 マカオと香港を含む中国駐在のバチカン大使にもお会いしたし、マカオの大司教の姿にも接することができた。分かったことは、高松に起源をもち、長年ローマで教皇の保護のもとにあった神学院は、東京に「教皇庁立」として着地するはずが、土壇場で日本の教会に拒絶され、緊急避難的にマカオに着地した。しかし、その後、「教皇庁立」のタイトルは外されて、直接マカオの大司教の傘下に入り、広くアジアの神学生を受け入れる神学校の形に落ち着いていた。高松の「日本のための神学院」の神学生たちのうち、司祭叙階を間近に控えた数名はそのままローマに残ってローマでの叙階に備え、まだ神学生歴の浅いものはマカオに移籍した。彼らがそれぞれの場所で司祭になり卒業すれば、高松に深堀司教が開設したレデンプトーリス・マーテル国際宣教神学院の痕跡は最終的に消滅する。今回の私のマカオ行きは、その厳しい現実を確認する旅となった。

* * * * *

 高松の神学校は、聖教皇ヨハネパウロ2世がローマに開設した神学校「レデンプトーリス・マーテル」の名誉ある7番目の姉妹校だった。今や、同じ姉妹校の数は全世界に125校以上にまで増えている。そして、一連の経緯を経て主要国でその姉妹校を持っていないのは結果的に日本だけになった。いつか、必ず同じ姉妹校が再び日本に誘致されることになるだろう。それが歴史の必然だ。しかし、私はその開設をこの世で見ることはもう恐らくないだろう。

 私は、自分がその設立に微力を尽くした高松の神学校のなれの果てとしてマカオに開設されたこの神学校の実際の姿を、ぜひ自分の目で確かめ見届けたかったのだ。

 日本の将来の宣教のために絶対必要と考えて、深堀司教と共に信念と愛情を傾けて建てた神学校の建物は、庇(ひさし)を貸して母屋を乗っ取られ、今やダルク(薬物依存症の患者のサポート施設)に占拠されたまま放置されている。新生「大阪・高松大司教区」はその現実にどう対応するのだろうか。

* * * * *

 ローマ教区立の「レデンプトーリス・マーテル神学校」の7番目の姉妹校だった高松教区単立「レデンプトーリス・マーテル神学校」は、一時美しく花開いた。ピーク時には30人ほどの神学生を擁し、多いときは年に6人の司祭を輩出した。

 それは当時日本の11司教区の「諸教区立」東京大神学校に引けを取らない存在だった。いったん統合した東京と福岡の「諸教区立」神学校は両者の体質の違いから亀裂が入りすぐまた分裂した。最近改めてまた一つに統合されたようだが、もはやかつての高松教区立「レデンプトーリス・マーテル」神学院ほどの勢いは見られないのではないか。

 歴代の教皇たちに大切に保護され、素晴らしい可能性を秘めながらしぶとく生き延び、ローマで帰国の機をうかがっていた元高松の神学院が、マカオの地で最終的に完全消滅の運命をたどらざるを得なかったのは何故か。私は、その原因が私の不徳の致すところ、私の罪の結果ではないかと考えて、自責の念に堪えない。そのことは、世の終わり、最後の審判の時、神様と復活したすべての魂たちの面前で明らかになる。深い畏れのうちにマカオを後にした。

 現在ローマには二つの主要な神学校がある。一つは多くの司教や聖人を産んだ歴史のある「コレジオロマーノ」で、第二バチカン公会議前の司祭養成体制を象徴する。もう一つは聖教皇ヨハネパウロ2世が新たに設立した「レデンプトーリス・マーテル」神学校で、第二バチカン公会議後の教会の精神に基づく司祭養成体制を具現したものだ。今や世界ではどこでもこの二つのタイプの神学校が共存することが常識になった。日本も他国に先駆けてこの共存体制に入ろうとしたが、その後、日本の教会はローマの制止を振り切って、生まれたばかりの新しい第二の神学校を闇に葬った。日本には1965年に幕を閉じ新しい教会の歴史を開いた大教会改革である第二バチカン公会議がまだ届いていない状態に留まろうとしているのだろうか。

〔完〕

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★「菩提樹」西のふるさと、東のふるさと(そのー2)

2024-04-22 00:00:01 | ★ ホイヴェルス著 =時間の流れに=

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菩 提 樹

西のふるさと、東のふるさと 

(その-2)私はなぜマカオに行ったのか

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 私は、2月4日にマカオに着いていた。中国圏は春節(旧正月)の直前だったが、すでに人々の移動は始まっていた。

 

16世紀のアジアの宣教の拠点 教会の繁栄を偲ばせる遺跡

ファサード左側アーチの上にはイエズス会の紋章が

教会の壁には聖フランシスコ・ザビエルの足跡をたどるパネルが

 

しかし、民間信仰はやはり道教か?

 

  康大真君         福徳正神

万民是保 道法自然 

春節とあって公園にも張りぼてが

 

しかし、現代最強の神はなんといってもカジノのお金の神様

本物の三分の一のエッフェル塔がカジノの玄関に

昼間そのテッペンに登って見まわすと

カジノと黄金のホテル

 どこを向いてもカジノとホテルが林立している 日本もこんな景色を後追いするのか 向学のためにディーリングルームにも入ってみたが、写真は厳禁だった

大谷の通訳ではないから賭けるお金は持ち合わせなかった

 

広い河ほどの海面の目と鼻の先には大陸中国の巨大な建物が 中国上陸を志したフランシスコ・ザビエルの終焉の地ー上川島ーには行かなかったが、やはり中国本土とは至近距離にあったと思われる

 

ほうきの柄の先にゴミ袋を下げ、カジノの前の道路を清掃するおばあさん

 

 さて、私はなぜ今頃マカオに行ったのか? この問いに答えを出さないと、この一連のグログは終わらない。

 それは、私の司祭の召命の歴史に関係がある。もっと具体的に言えば、高校三年生のとき受験を目前に参加した黙想会の話にさかのぼる。大学受験に向けて精神面を強化するための合宿ぐらいの軽い乗りで参加した「黙想会」は、実は、真面目で純真なカトリック信者の生徒をターゲットにした「イエズス会への入会志願者獲得のために仕組まれたリクルート洗脳合宿」だった。イエズス会に入って生涯を神様に捧げることこそ、洗礼を受けた日本男児の最高の生き方だ、という想念を注入する集団催眠が目的だったと言ってもいいかもしれない。

 真面目な私は、コロッと洗脳されて、イエズス会入会への固い決意とともに家路についた。父親の期待を一身に背負い、自宅から通学できる関西の国立大学の理系の受験勉強の仕上げに入っていたはずの私が、帰宅するなり、開口一番「ぼくは東京の上智大学を受験してイエズス会に入ります。関西の大学の理系には進みません」と宣言したのだから、父親は仰天して腰を抜かした。息子に裏切られたと思ったに違いない。

 東大法科在学中に高等文官試験にパスし、飛ぶ鳥を落とす勢いの内務省に天皇から直接任命を受ける「勅任官」として入省。中でも、特にエリートが進む警察畑で幸先のいいスタートを切り、当時すでに大蔵次官であった兄貴の贔屓もあって、父は入省同期の間では頭一つ先んじてとんとん拍子に出世したことが仇になった。第二次世界大戦に敗北し、占領軍のマッカーサー元帥の指令で公職追放の憂き目に会い、若い愛妻には肺結核で先立たれ、踏んだり蹴ったりのダブルパンチを喰らい、戦後の大混乱の中、3人の幼い子供を抱えて無職・極貧のどん底の絶望を体験した父は、世間を学歴と肩書だけ渡ろうとする奢った生き方を、敗戦という社会の激動の前にあっけなく狂わされた苦い経験から、長男には社会の激変にも耐えて生き延びられる技量を身につけさせようと、理工系への進学を私に期待したが、父のその願いは見事に打ち砕かれた。・・・と、こんな調子で詳しく書き連ねるなら、とんでもない長い話になって、「なぜ今マカオへ?」の答えにたどり着くのに、何回ブログを書けばいいのが分からないことに気がついた。一回で終わらせるためには、話を極端に端折らなければならない。

 さて、翻意を促す父の声を無視して、上智大学でラテン語と一般教養を済ますと、広島の修練院へ進んだ。天国のような幸福な生活だったが、半年もすると疑いが生じた。洗脳の麻酔がそろそろ切れてきたか?このまままっしぐらに進んだら、世間知らずの独善的エリート神父になってしまうに違いないと思った。また、カトリックの神父は生涯独身のはずだが、尊敬する先輩が突然神父を辞めて結婚したという風の便りにも、自分の未来を見た気がした。修練院を飛び出して、東京に舞い戻ると、一般学生として中世哲学科を博士課程修了まで進み、研究室の助手をしながら論文を書こうとしていた矢先に、上智大学にも左翼学生運動の騒ぎが襲った。若い学生諸君の主張に共感を表明したら、大学当局から危険分子として睨まれ、助手を首になった。すると、戦前から日本にいたドイツ人神父たちが、失業した私をドイツの銀行に裏口から押し込んだ。国際金融業は刺激的で面白かった。ドイツのコメルツバンクに始まり、アメリカのリーマンブラザーズ、さらにイギリスの某マーチャントバンクを渡り歩いた。

 「人は、理由なしには嘘をつかない」という智恵に満ちたラテン語のことわざがあるが、仕事やプライベートで私はつまらない見栄や取り繕いのために度々嘘をついたし、少しは善いことをしたかもしれないが、悪いこともけっこう沢山しながら面白おかしくビジネスに没頭した。教会からは足が遠のいていた。ほんの2-3年の腰掛けのつもりが、アッと気が付いたらー浦島太郎ではないがー白髪が目立ちはじめた40代半ばに達していた。シマッタ!!本物の神父になりたくて、しばしの体験修業のつもりが、うつつを抜かし過ぎた。

 もう手遅れか?と、焦って教会の門を片端からたたいてみたが、いずれも固く閉ざされていた。後ろから悪魔が、「バーカ!今さら何の悪あがきか。お金の神様のもとに戻っておいで。お前に高給を払ういい銀行を紹介してやろう!」と誘ってくるが、その手に乗ったら私の魂は地獄行きだと思った。前に進めず後戻りもできなくて、左右を見たら、そこにバブルで活気にあふれた山谷や釜ヶ崎の日雇い労働者の世界があった。

 山谷での懺悔と浄化の時を経て、やっと巡り合ったのが高松の深堀司教様だった。しかし、事は思い通りにいかないものだ。今度は、東京の大神学校が私の受け入れを断ってきた。東京がだめなら、ローマしかなかった。ローマには聖教皇ヨハネパウロ2世の治世下にキコというスペイン人のカリスマ的存在=新求道共同体の創始者=の精神に基づいて新設されたばかりの「レデンプトーリス・マーテル神学校」があった。そこに住み、教皇庁立のグレゴリアーナ大学で神学を学び、世界の教会堂の母と言われるラテラノ大聖堂で助祭に叙階され、そのあと、高松の司教座聖堂で晴れて司祭に叙階された。すでに54歳になっていた。私はこの司教様とその後継司教に生涯の従順を誓った。

 司祭叙階後、神学教授資格を取るために再びローマにもどった。ちょうどそのとき、日本の全司教が5年に一度のアドリミナ(恒例の教皇表敬訪問)のためにローマで揃い踏みをした。その時、深堀司教様は新求道共同体の関係者から、私が学んだ「レデンプトーリス・マーテル神学校」の姉妹校の誘致を勧められた。司教様は気迷って、私に、「谷口君。こんな話があるがどう思うかね」と意見を求められた。「それはお受けするべきでしょう」と私は即答した。司教様は「なぜそう思うかね」と問い返された。「それは、高松司教区にはカトリック大学もなく、人材もなく、お金もない、無い無い尽くしの日本最弱小司教区だから、神様が働かれるのに最も相応しい場所だからです」と答えた。司教様はアドリミナの期間中に教皇様と個人面談され、「自分の教区にレデンプトーリス・マーテル神学院の姉妹校誘致の勧めを受けているが、教皇様はどうお考えですか」とお伺いを立てられた。そして教皇様は「それはいい話だ、ぜひ進めなさい」と、背中を押された。

 教皇様のお墨付きをもらった司教様にもう迷いはなかった。神学校設立に関する教会法第237条の第1項には、「各教区は可能かつ有効である限り大神学校を有しなければならない」とある。これが基本原則だ。ただし、第2項には「しからざる場合には、聖なる奉仕職を目指して準備する学生は他の神学校に委託されなければならない。又は、諸教区共立神学校が設立されなければならない。」とある。深堀司教は同条文の第1項に則り、ローマ教皇の励ましを受けて、正当かつ合法的に高松教区立として「レデンプトーリス・マーテル国際宣教神学院」の設立を宣言された。

 しかし、日本の大方の司教たちの目には、その決定が時流に逆らった分不相応な計画と映り、皆一様に、早晩挫折するにちがいないと冷ややかに傍観を決めた。当時、日本のカトリック教会では、九州・沖縄の6教区が、教会法第2項に則って合同で「諸教区立大神学校」を福岡に持ち、北海道、本州、四国の10司教区のために、東京にもう一つの「諸教区立大神学校」があった。そして、今後の司祭召命の減少と教勢の衰えを見越して、両大神学校を統合した「東京大神学校」一校体制に移行する長期的展望に関する日本司教協議会の一般的了解があった。

 私が神学校教授の資格を取って高松に帰ってきたときは、高松の神学校はまだ貸しビルで運営されていて、毎月の家賃支払いでかなりの赤字を垂れ流していた。神学校の建設用地として広い土地が購入されてはいたが、教区の資金はそこでほとんど底をつき、建物建設の目途は全く立っていなかった。教区の会計主任になったばかりの私は、このままでは深堀司教が定年で引退された後に誰が司教になっても、赤字の神学校の維持は不可能と判断して、必ず閉鎖すると読んだ。日本中の司教様たちも一様に、深堀司教の分不相応な「夢想」に始まったこの神学校は、放置しておけばやがて消滅するのが必定で、全く相手にするに足りない、と冷ややかに無視していたに違いなかった。

 実は、このことと私の今回のマカオ行きが深く関係しているのだが、それをいま書き始めればまた長くなるので、その詳細は次回に割愛することにしよう。

 このテーマ、あと一回で終わることを誓います。

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★ 最後の徹夜祭

2024-04-07 00:00:01 | ★ 復活祭の聖週間

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最後の復活徹夜祭

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 私は前回のブログ〔「菩提樹」西の故郷、東のふるさと(そのー1)〕の最後に「なぜ私が急にマカオへ行く気になったのか、気になりませんか。それは、次回のブログ「菩提樹」(その-2)であらためてお話しすることにいたしましょう。」と書いたのに、復活祭を目前に、その他の事情も手伝ってなかなか筆が進みませんでした。そして、とうとう今になってしまいました。それで、「菩提樹」(その―2)は後回しにして、ひとまず復活祭風景を描いてみましょう。

 今年の復活の徹夜祭は、3月30日(土)の深夜に、東京の八王子大学セミナーハウスでおこなわれました。深夜の11時過ぎに始まって31日未明の4時半ごろまで、ほぼ5時間の長丁場でした。普段は夜は寝かされる子供たちも、この日ばかりは、昼寝をたっぷりさせられて、夜通し起きて過ごすことになります。

 ああ、これが東京での最後の徹夜祭になるのか、と思うと万感胸に迫るものがありました。真っ暗闇にまず復活のローソクに火をともし、そこからみんなが次々と手元のローソクに火を移していく光の祭儀は、世の救い主、神の子キリストによってもたらされた信仰の火が人々の心に伝えられ広まっていくのを象徴しています。とても神秘的な沈黙劇です。

 その中を、キリストを象徴する復活の大ローソクを高く掲げた私は、「キリストの光 ♫」と歌うと、一同は「神に感謝 ♫」と歌って答えます。それを音程を上げて3度繰り返しながら、私は会衆の中をゆっくりと進みます。

 

 

 その後、救いの歴史をたどる、新・旧約聖書から取られた長い九つの朗読が続きました。先ず創世記第1章「天地創造」に始まり、アブラハムによる息子イザクの生贄、出エジプトの物語、イザヤの予言、エゼキエル書、・・・パウロの書簡、そして福音朗読まで・・・

 

 

 交代で読まれる朗読のあいだ、後ろに座っている私の姿は、このアングルでは朗読台と祭壇の上のローソクの間にちょっと見えるだけで、ほとんど隠れています。この夜、福音だけは、私が朗読台からメロディーをつけて歌います。

 

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 その後、毎年の復活徹夜祭の慣例にもとづいて、今年も満1歳前後の3人の赤ちゃんの洗礼式が行われました。

 

 

 素っ裸の赤ちゃんを高くかかげ、私は、父と、子と、聖霊のみ名によって、あなたに洗礼を授けます」、と叫びながら、ザブーンと勢いよく赤ちゃんを3度水に沈めます。今年は3人とも泣かなかった。洗礼盤を取り囲んでそれを眺める子供たちは、大喜びではやし立てます。ちょっと大きな女の子たちは、私も赤ん坊の時あれをやられたのかと想像して、恥ずかし気です。洗礼は罪に汚れた古い人間が水に沈められて死に、復活の命を身にまとって新たに生まれることを象徴しています。ただ額に水を注いで清められるだけではありません。私の後ろには先ほど火を灯したばかりのま新しい復活の大ローソクが。

 それにしても、もっといい写真があるかと思ったが、最近はみんなスマホで動画を撮っているので、私がブログで扱える静止画像をくれる人はほとんどいませんでした。

 金曜日の午後3時から徹夜祭が終わる日曜日の未明まで断食していた一同は、ラマダン明けの回教徒さながらに、持ち寄りとケータリングのご馳走のアガペー(お食事会)でお腹を満たし談笑し、夜が白むころ、キリストの復活の確信と喜びに満たされて三々五々家路につくのでした。これぞ、キリスト教信仰の原体験というべきでしょう。

 さて、来年、私はどんな復活祭を祝うことになるのでしょうか。

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