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鶯と詩人
ホイヴェルス著 =時間の流れに=
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鶯と詩人
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私は五歳のとき、よく鶯の歌を歌いました。
Nachtigall, Nachtigall !
Wie sangst du so schön
Vor allen Vögelein !
「鶯よ うぐいすよ
なんと美しくうたったことよ
どの小鳥よりお上手に」
などと母からならって――けれども鶯の声を聞いたことがありませんでしたから、この不思議な鳥の声を始めて聞けるのはいつかしら、とあこがれていました。二、三年たってからいろいろな鳥の声を聞きました。中には、森の中に自分の名を呼んでいる郭公鳥の声もありました。鶯もそうしたらいいのに、と私は思いました。
ところがある五月の朝、森を通って行くと、突然中から、何かのラッパの音なのか笛の音なのか、大きな喜びの叫びや、また悲しいさえずりなどが響きましたので、私は息を押えました。確かに鶯です。すべての鳥よりも美しく歌うのです。
五月の朝のそうした出来事のあとで、私はいろいろな国を訪れました。新しい国にはいると、その国では五月になると鶯が歌うかしらと、すぐ気にかかりました。ずっとあとになって日本に来たときに、日本も鶯の国だと聞いて非常によろこびました。私が万葉集の和歌を研究したときには、春とともに必ず鶯の名もそこに出て来るので、鶯という言葉は、もう一番美しい感情にみたされた日本語となりました。日本の鶯の声が始めて耳に響き、深く心にはいるのはいつのことでしょうか。
私が来朝したのはちょうど八月のことでしたが、秋になり冬になりました。それから春――春のある朝八時頃、庭の中で短い笛の音がしました。 鶯かしら、と立ち聞きました。しかしやはり一つの短い歌でした。もっともっと聞きたい。庭の中へはいって、ひそかに歌声の方に近づいて行きました。やはり鶯です。鳥は枝にとまって速かにその歌を終わりました。それからあちこち飛んで虫を食べ景色を眺め、もういっぺん短く歌いました。鶯よ、そんなに短く歌うのにお前を Nachtigall といってよいのでしょうか。
ある若い詩人が、私に一人の有名な詩人の著した本を寄贈して下さいました。それは七百五十五首の和歌を納めたものでした。中には春と鶯についても、かなり詠んでありました。七百五十五の和歌、どういうわけでそんなに短いものにしたのでしょう。詩人もやはり鶯のように、その製作をあまりに早くまとめてしまい過ぎます。日本の鶯と詩人の気持はいつになったらわかるのでしょう。
しばらくたって若い詩人は七百五十五首の和歌を詠じた詩人のところに私をつれて行きました。一見その詩人は決して詩人のようには見えませんでした。都会の美術家や文芸作家などのように長い髪をしていません。またその目つきも普通です。ある若い美術家などは、サムソンの力が髪の毛にあると思っているかのように、非常に長い頭髪をたくわえ、その歩き方や目つきは、いつもダンテとともに地獄のどん底をめぐり、あるいはファウストとともに魔女の厨を訪ねるもののようです。この詩人には何もこうした怖しいところがありませんでした。
初め私たちは応接間の安楽椅子に腰をおろしましたが、なかなか話がうまく進みませんので、居間に案内され、そこに坐って、やがて楽しい会話となりました。詩人は心よく自分のほかの著作を見せましたが、それもおおかた三十一文字の和歌でみたされてありました。この詩人は自然のうちに潜みかくれ、静かにしていて、自然の息を感じると、柔かい手つきで捉え、三十一の珠玉の言葉の中に花束のように包み、読者に献げるのです。
詩人の夫人は茶菓をすすめて静かに詩人の後に坐りました。あとから詩人の合図でレコードを出し、作曲されたいろいろの和歌をきかせました。中には有名な蝶々の和歌もありました。また蝉の声、蛙の和歌を聞かせました。それがすむと、夫人は紅茶と菓子を新たに運んで来ました。そこで私は勇気をふるい起こして、詩人に私の悩みを言い表わしました。
「二、三日前に始めて鶯を聞きました。正直に申しますと、私は失望したのです。あまり早く歌い終わってしまいますから。もちろん歌うところは美しく響きますが。けれども日入る国々の鶯の荒々しい熱情、底しれぬ淵のような嘆き、あこがれの歓喜の声などはどこにあるのでしょう。そうしてまた日本の詩人たちも、失礼ですけれども鶯のように、何か軽く詩人の仕事を行うのではないかと思いますが、日本の詩人たちは、自然に沈み、ある景色と花とか、その魂にまで触れ、それから浮世のはかなさにあわれを覚えるなど、その感興を三十一文字の和歌に吹きこみます。この三十一文字は私たちには歌の表題としか思われません。歌そのものは与えられておりません」
などと私は言いました。
詩人は忍耐強く終わりまで私の言葉を聞いていました。私は、机の上に置かれた詩人の右手の指先が軽く机を叩くのを見て、その不賛成がそれも詩人の力強い返事としてわかってくるのでした。
「平和な自然のうちにありながら、何だって埃を立てたり、感情を鞭打っていらだたせたりするのでしょう。また山の上に山を置いたり、森を根絶やしにしたり! 自然においてはすべてはなれなければならぬ状態にあるのです。自然世界が移りかわって行くならば、その印象を受け、三十一字なり、十七字なりで表現したら十分ではないですか。自然に反抗したって何のためになるのでしょうか。花が咲き花が凋落する。それをあわれと思う人は、その感じる所を、決して反抗的な気持でではなく、優しい感情を紙に書き、涙ぐみながらその和歌を桜の木の枝に結びつけたらいいではないですか。と、こうわれわれ詩人たちは思うのですが――。今日知ったばかりですが、わが国の鶯もその通りするわけなんですがね」
詩人の夫人はもう一つ主人の歌のレコードをかけて、この対話の波をやわらげました。私たちはいい気持で別れを告げました。詩人は、しばらく私たちとつれだって歩み、草原を越えました。そこで私は三十一文字の謎をといたのであります。それはこういうわけなのです。小さい蝶々が詩人の袖に飛んで来てとまりました。私は日入る国の者として、すぐこの蝶が人類に与える害を思い、打とうとして手を上げました。けれども詩人は、さながらアッジジの聖フランシスコのように、この小さな生物を見えない力で自分の方にひきよせました。蝶は保護されたと感じて逃げません。詩人は、蝶の上に手をかざしてかばい、なでいとしみ、しばらくそのままで、歩いて小さい弟の蝶のために安全な場所をさがすのでした。ようやく手頃な所を見つけて、土にかがみ、小さいものを草の中に滑らせました。蝶はまもなく見えなくなってしまいました。
それは、どんなに美しい和歌になることでありましょう。
ホイヴェルス師はウグイスに託して、東西の文化の違い、こころの持ち方の違いをさり気なく書いています。
私もホイヴェルス神父様の祖国ドイツのデュッセルドルフに4年ほど住んで、その半分は市の中心のホーフガルテン(宮廷庭園)の森のそばに住んでいたので、この短編を読むと、短い夏の夜、夜通しさえずるサヨナキドリ・ナイチンゲールの美しい声を楽しんだことを懐かしく思い出します。
ヨーロッパのヨナキウグイスと日本の鶯と比べて、日本のウグイスの歌声が余り短くあっさりしていることに、師は正直に失望したと言います。
名は同じ「ウグイス」でも、ドイツのそれはスズメ目ヒタキ科ウグイス属の鳥であり、日本の鶯はスズメ目スズメ・ウグイス科の鳥で、日本三大鳴鳥の一つに数えられますが、種類が明らかに違います。たまたま「ウグイス」の名が共通したのでしょう。
YouTubeでドイツ語でNachtigallと引けば、ヨナキウグイスの音声動画が幾つもヒットします。懐かしい美しい、途切れなく長い変化に富んだ歌声です。日本の鶯のホーホケキョ、ケキョケキョ、もYouTubeで聞けます。
あとは、ホイヴェルス神父様の文章そのものが全てを語っているので、野暮なコメントは必要ないでしょう。
ただ、ナイチンゲールと言えば、19世紀クリミア戦争に従軍したフローレンス・ナイチンゲールが有名ですが、赤十字と繋がって近代看護師の基礎を築いた女性です。日本で、もし初めてでなければ、極めて初期のナイチンゲール章を授与された井深八重子さんという看護婦さんがいました。彼女は、良家のお嬢様育ちだでした。不幸にも癩病と診断され富士の裾野の神山福生病院に隔離され、1年後ぐらいに誤診と判明して、自由の身になったのですが、入院時の院内の生活の悲惨で絶望的状態が忘れられず、看護婦の資格を取って同病院に戻り、生涯そこで奉仕の生活を送られました。
私は、ホイヴェルス神父様と出会った学生時代、日本のカトリックの黄金時代の偉大な先達の跡を慕って、あちこち足を運びましたが、富士の裾野の神山福生病院には故岩下壮一神父の遺徳を偲んで訪れ、そこでまだ存命中だった井深八重子さんご自身に院内を案内していただきました。当時はまだかなりの数の癩患者が収容されていました。
岩下壮一神父と言えば、東大の哲学科の俊秀で、天皇から恩賜の銀時計を受けた人物ですが、カトリックの司祭になり、東京の初代の大司教・枢機卿の任命を受けたのに、それを断って、関西の岩下財閥の財力で神山福生病院を設立し、生涯を癩病の患者のために捧げた人です。彼は少年時代に足を怪我して、以来ビッコだったのですが、日本のカトリック教会の顔になるべき人間がチンバでは絵にならないだろうというのが辞退の理由でした。
聖書の翻訳では「癩病」は差別用語として避けられ、「重い皮膚病」などと訳されていますが、岩下師を語る場合に「思い皮膚病」の病院ではどうにもなりません。歴史的にも重い意味の込められたこの病気の聖書言葉の訳に「癩」の字が使えないというのであれば、一層のこと「レプラ」とカナ表示にすればよかったのに、と思います。
癩病院と言えば、私が高松教区の司祭として働き始めたころ、高松港から公営無料連絡ランチで30分ほどの小島の癩病院「青松園」に、二週に一度ミサをささげに行くのが大切な務めでした。数名のカトリック信者の患者さんがいて、ミサ後のお茶の時間は貴重なものでした。現在は、入園者が高齢化で皆他界し、閉園後はリゾート地か何かに変身するのではないかと風の便りにききました。80年以上も生きると、いろいろ世の移り変わりをみることになりますね。
「信仰の遺産 岩下壮一著 岩波書店 (2015、岩波文庫) 」の、「ある患者の死」を初めて読みました。この文の冒頭と「二」の一部を少し長くなりますが、引用します。
「『キリスト復活し給いし事なくば汝らの信仰は空し』(コリント前書一五ノ一七)」
「癩病の撲滅一日も速かなれかしと祈る社会は、そんな騒ぎしてまで患者を十年も余計に活かしておいて何になる、と云うかもしれない。しかし議論や理屈は別として「子を持って知る親の恩」である。患者から「おやじ」と云われれば、親心を持たずにはおられない。親となってみれば、子供らの苦痛を少しでも軽減してやりたいと冀(ねが)うのは、当然である。天国へ送り届ける前に、できるだけ現世の楽もさせてやりたい。就中(なかんずく)病苦を慰めてやりたい。併し如何に天に叫び人に訴えても、宗教の与える超自然的手段を除いては、私にはx x さんを見殺しにするより外はない。癩菌は用捨なくあの聖い霊を宿す肉体を蚕食してゆく。『顔でもさすって慰める外に仕方ありません』と物慣れた看護婦は悟り顔に云った。そしてそれが最も現実に即した真理であった。
私はその晩、プラトンもアリストテレスもカントもヘーゲルも皆、ストーブの中へ叩き込んで焼いていしまいたかった。考えてみるがいい、原罪なくして癩病が説明できるか。また霊の救ばかりでなく、肉体の復活なくして、この現実が解決できるのか。・・・」
上でホイヴェルス神父様が言及されているアシジの聖フランシスコは、ハンセン病と深く関わっていることを映画 "Francesco, Giullare di Dio(直訳 フランチェスコ、神の道化師)" で初めて知りました。監督は Roberto Rossellini です。高熱が出て、三日程寝込んだ後に観ましたが、そのとき初めて、当時は、ハンセン病の患者は鈴をつけていなければいけないことを知りました。実際には、映画を観た暫く後に、あるミサの説教で神父様がそのことを話され、ようやく映画のことと結びつきました。医学の研究は尊いことと思います。また、ことと離れていない神学は大切だと思います。次は、「信仰について ドン・ボスコ社 (1993)」のラッツィンガー枢機卿のことばです。「・・・! わがバエルンのカトリシズムは、祈りにも祝祭にも、苦業にも、愉快なことにも、人間的なものすべてを大事にしていた。喜びにあふれ、生彩があり、人間味に満ちたキリスト教であったた。・・・」cf. p. 220. カトリック教会に出会えたことは、有り難き事です。
実は、ナイチンゲールさんとも間接的に出会っていたようです、十九世紀のドイツのプロテスタントの復古運動を通して。この記事との出会いも含めて、出会いが交錯しているようです。長文をいつもすみません。
上のコメント「岩下壮一神父様 (谷口神父様)」を、下記のように訂正します。
コメントの書き手は「新米信徒」であり、タイトルは「岩下壮一神父様」です。そして、本文は「谷口神父様」から始まります。すみませんでした。
わたしが生活しているところでは、今年は、何処でも紫陽花が大変綺麗に咲いていますが、春が例年より早く始まり、立葵 の花がかなり上まで咲いてきています。急激な温度上昇により、体調を崩す人が多くでませんように。最近、救急車とよく出会います。立ち止まって、救急車をよく見て、早く病院に着くことを願うことしかできません。
昨日、エキュメニカルな葬儀にあずかりました。
親友は昔カトリック新聞の外信部に勤め、その奥さんになった人は日本基督教団の本部スタッフでした。
カトリック学連がまだ盛んな時代て、素敵なエキュメニカル結婚として話題をさらいました。
その畏友がなくなり、昨日奥さんの教会の教団大泉教会で告別式が行られ、そこの牧師さんが司式、斎場での式は私が司式しました。
初対面の牧師さんとも親しく話し合う機会があって、エキュメニカルな葬儀となりました。
皆が交わった集会室には、畏友の家の庭から夫人が切ってきたアジサイの花が美しく彩りを添えていました。
返信をありがとうございます。もしかすると、お互いに誤解をしている部分もあるかもしれないと思います。カルヴァンも初めから予定説を信仰のありかたに含めていなかったようですし。
わたしがカトリック教会で洗礼を受けた後に、初めに買った聖人についての本は「み心の信心のすすめ ベルナール・デクルー/クリスチャン・ゴー著 椿 歌子 編訳 ドン・ボスコ社 (2009)」です。当時は、本を手にしても、どうせわからないだろうと思っていましたが、この本は違うように感じました。ただし、わたしの心に響いたことは、聖マルグリット・マリー・アラコックが啓示を受けた後、修道院内で迫害を受けたこと、ラ・コロンビエール神父の霊的指導を受けたことでした。啓示自体も心に響きましたが。わたしは自分のことを祈ることがだめなようです。わたしは傲慢ですから。洗礼を受けてから数年後に「教会の祈り」を書店のシスターから勧められましたが、わたしには無理だろうと思って本を買う事をためらっていました。しかし、しばらくして、買いました。初めは、でたらめに朗読していましたが、少しづつ自然に唱え方がある程度わかってきました。総則も自己流ですが、一部分を読みました。そして、"Liturgia Horarum" は、個人の祈りではない、ということを自然に自覚しました。ある神父様からも「決して自分の祈りにならないように気をつけてください」、という意味のことばをいただきました。そして、昨年だった思いますが、"Liturgia Horarum" の「イエズスの聖心」を唱えた後に、「み心の信心のすすめ」のことを久しぶりに思い出しました。しかしながら、「信心」とあることに気がつきました。そしてごく最近、典礼の歴史についてのある論文とある本を読み、一般の信徒とミサとの乖離、信心業が盛んになっていた長い時期があることを知りました。わたしにとって、イエス様の聖心は、Io 19:34-37 であり、あるいは「聖ボナベントㇻ司教の著作 あなたのもとにいのちの泉はある」にある旧約聖書とのつながりです。大部前から自分のことを祈ることは止めましたが、3 年程前から、あることがあり、人をおもって「ロザリオの祈り」を祈るようになりました。人をおもって祈ると、逆にわたしが何か(息吹?)を受け取るように強く感じます。そのような意味では自分のために祈っていることになります。プロテスタント教会の信者の方からカトリック教会の信徒の信心業は誤解を受けているかもしれないと思います。今では、信徒もミサに積極的に参加していること、またそのことの大切さが相手に知られているのだろうかと思います。わたしは無知ですから、多くの勘違いをしていると思いますが、ミサの歴史を学ぶことは大切なことのように思います。また愚かな者が偉そうなことを書いて、すみません。
先に、わたし(新米信徒)が書いたコメントにおける、
「ラ・コロンビエール神父」を
「聖クロード・ラ・コロンビエール神父」に訂正します。
少し補足すると、先に引用した本「み心の信心のすすめ」の冒頭に、川村信三神父様(イエズス会)による「信仰の工夫ー現代版『み心の信心』のすすめ」ー」があります。ここに、「信心」について簡潔に詳しく説明されています。
先のコメントに「互いに誤解している・・・」と書いたことは、わたしがプロテスタント教会の相手によかれとおもってしたこと(相手の信仰のありかたを考えずに)が、相手の信仰のありかたによくないことをもたらしたようであるからです。
神父様が交わりをもたれた牧師先生そして教団の信者の方々の心は、カトリック教会に開かれているようで、すばらしいこととである思います。わたしの職場に、プロテスタント教会の信者の方がいますが、その方はカトリック教会に理解があり、カトリック教会の聖職者の知り合いの方もいて、お互いに普通に信仰について話をしてきました。しかしながら、そのことは、まだ普通のことではなく、有り難いことだったのかもしれません。
いずれにしても、キリストの教会の歴史を、独善に陥らないように気をつけて、ある程度知ることは大切なことのように思います。わたしには大変難しいことですが。
プロテスタント教会との関りの流れにあることと思いますので、以下のことをここに書くことをお許しください。
三か月ほど前のある主の日に、わたしの家にある二人の方が来ました。初対面の相手です。相手にカトリック教会の信徒であることを伝えましたが、暫くの間話しました。プロテスタント教会との関りがあったために、相手と話す気持ちになったのかもしれません。話し終わった後に、家に入って、相手が言ったことで引っかかることについて少し考えました。それは、主日のミサや礼拝に与ることに対して、相手が言った「そのような考えもありますが。」、ということです。そこで、聖書のことばを思い出そうとしましたが、はっきりと思い出せませんでした。カテキズムによると、聖伝に行きつくようです。カテキズムの「第 3 編 キリストと一致して生きる」の「第二部 神の十戒」の、 2178 は、98) を引用し、2179 は、101) を引用しています。このとき初めて「聖伝」の重さを感じました。新米信徒故のことです。また、念のため、
Nova Vulgata の Liber Exodus 20:8 をみると、
"Memento, ut diem sabbati sanctifices. "
Vulgate には、"," は無いようです。以前に気がついたことですが、日本語の口語の訳では、ラテン語訳の命令法と接続法の区別がつきにくいように感じます。間違いがあると思いますが、一応、日本語におきかえてみました。おもへ、而して安息の日を聖別すべし。「おもふ」は、このブログの「哲学者 ホイヴェルス著 =時間の流れに= 08/08/2022 」の "Vom liben Gott(懐かしい神についての)" につながっているように感じたので、古語も用いておきかえました。上の Nova Vulgata の訳の動詞の法だけを書くと、memento は命令法で、sanctifices は接続法ではないかと思います。カテキズムの訳は、「『安息日を心にとどめ、これを聖別せよ。・・・』」cf. p. 637 「第 3 項 第三のおきて」の冒頭。訪問者と話したことは、結果的には良かったように感じます。また、わたしが主日にミサに与ることができることは、主日に多くの人が働いているおかげである、ということにようやく思い至りました。
わたし(新米信徒)が上のコメント (22/06/2023) に書いた、Liber Exodus 20:8 ですが、「舊新約聖書 日本聖書協会 (1887)」の手持ちの一九八二(新組版)の出エジプト記 20:8 の訳は「安息日(あんそくにち)を憶えてこれを聖潔(きよく)すべし」。
また、今日(祭日)の Liturgia Horarum の朝の短い読書は、Mal 3:23-24 ですが、Mal は、Nova Vulgata と Vulgate では章の分け方が異なり、手持ちの「教会の祈り」(2012 年 第 20 版)は、Vulgate に従っているようです。念のため、Nova Vulgata と Vulgate をみると、Vulgate の Mal 4:6 のコロンの後は ":ne forte veniam, et " で、Nova Vulgata の Mal 3:24 では、",ne veniam et" です。ど素人の感想でが、"forte" があることと無いことは大きいことのように感じ、"forte" から恐ろしいことを感じます。来週 7/1 (土) の Liturgia Horarum の朝の短い読書は、2 Pet 3:13-14 だと思いますが、神の日を待ち望みながら、この日を信仰をもって生きる、ということで、今日の短い読書につながっているように感じます。このことは、ミサから、新約聖書からそして聖伝からも一貫して感じます。
2 Pet 3:14 の最後の "in pace" は、「平和に」と訳されると思いますが、大変重いことばだと思います。自分のことを棚に上げて書きました。
わたし(新米信徒)が上に書いたコメントの補足について書きます。
Douay-Rheims の The Prophecy of Malachias 4: 6 の訳は、
"And he shall turn the heart of the fathers to the children,
and the heart of the children to their fathers:
lest I come, and strike the earth with anathema."
Vulgate の Prophetia Malachiæ
4:6 の訳は、
"Et convertet cor patrum ad filios, et cor filiorum ad patres eorum:
ne forte veniam, et percutiam terram anathemate."
一応、コロンの後を古語におきかえてみました。: おのづから来ざるため、また禍事(まがこと)から地を打たざるため。"forte" は、ど素人には難解ですが、Vulgate の訳を参考に、"veniam" は、subjunctive の動詞、"forte" は、副詞と考えました。
Nova Vulgata の PROPHETIA MALACHIAE 3:24 の訳は、
"et convertet cor patrum ad filios
et cor filiorum ad patres eorum,
ne veniam et percutiam
terram anathemate ”."
このようなことを神父様のブログに書いたことは、これまでに何度か Nova Vulgata の訳と Vulgate の訳が異なる箇所で、上のコメントに書いたことと同じようなおもいを感じたからです。
以前、職場で、プロテスタント教会の信者の方に、行いについて話しましたが、無理、無理と言われました。そのときはそのまま引き下がりましたが、今は、神様の御手によだねて、信仰をもって行おうとするしかないように感じます。この地にあるカトリック教会の信者に「救われている」は、ないはずです。1 Pet 5:6 に、"potenti manu Dei" :バルバロ神父様による訳 (1980) 「神の力ある御手(おんて)」があることを知りました。機会があれば、その相手の方の話をまた聴いてみようと思います。愚か者がいつも偉そうなことを書いてすみません。
先日、「キリストに倣いて 岩下壮一神父 永遠の面影 モニック・原山 編著 学宛社(1991) 」を手にすることができました。そして、遺稿篇として所収の「御復活の祝日に際して(昭和六年四月、『声』)」を読み始めて、その「二」を数行読んでから、ようやく、わたし(新米信徒)が、19/06/2023 に、上のコメントに引用した、
「ある患者の死」の文であることに気がつきました。岩波文庫の「信仰の遺産」は、岩下神父様の弟子の吉満義彦先生が編集されたものがもとだそうですが、そこには、「一九四八年十二月『キリストに倣ひて』中央出版社」、とあります。この度、ようやく、御復活の祝日に、その前に帰天されたある患者の死を回想した文であることがわかりました。おろかものの鈍さ故のことです。いくつかの改変にも気がつきました。最後の文は、
「併し沼津の海を遥かに見下ろすこの箱根山の麓の墓地から、
xx さんと共に眠る二百有余の患者の魂は天地に向かって叫んでいる。
『われはわが救い主の活き給うを信ず、かくて末の日に当りて
われ地より蘇り、わが肉体に於いてわが肉主なる神を仰ぎ奉らん。われ彼を仰ぎ奉らんとす。われ自らにして他の者にあらず、わが目こそ彼を仰ぎまつらめ!』と。」
前に読んだときと心への働き方が全く変わりました。復活への信仰に貫かれているように感じます。上記の「ある患者の死」では、最後の祈りの「わが肉主なる」は、「我が救主なる」になっています。肉主と書いてすくいぬしと読むのだろうかと
思いましたが、よくわかりません。漢字と読み方に対して工夫をすることは、ラゲ訳や文語訳ではよくあることのように思います。
医学の研究がこつこつと進められることを願います。わたしがカトリック教会のミサに行こうと思った頃に「日本 FEBC」で聴いていた番組の一つは、百瀬文晃神父様が担当されていました。聴取者からの質問に神父様が答える番組でしたが、病気を信仰で無理に直そうとしないでください。すぐに病院に行ってください、という意味のことを仰ったことを強く覚えています。信仰と理性の両方が大切だと、今は感じます。おろかものの感想です。
「人間の分際 神父 ー 岩下壮一 小坂井 澄 聖母の騎士社 (1996)」(らい予防法の廃止は、1996 年 4 月 1 日から)
によると、わたし(新米信徒)が上のコメントに引用した 「ある患者死」のある患者の方は、上記の本によると、若くして修道女を志し、その道がはばまれると、準修道女会に加わって、奉仕をされていたそうです。しかし、アメリカで発病して、神山復生病院に隔離され過ごされたそうです。岩下神父様の前任者のレゼー神父様が院長であったときに、井深八重さんは、復生病院でその方と出会い、その方から「『小さき花』。テレジア(テレーズ)」を手渡されたそうです。その後、八重さんは、らい病でなかったことがわかり、看護婦の勉強を終え、復生病院に看護婦としてもどり、看護婦の仕事をされたそうです。八重さんの心の底はだれにもわからないかもしれませんが、上記の本にはそのことについて少し書いてあるようです。
厚生労働省の site にある、
「財 団 法 人 日 弁 連 法 務 研 究 財 団ハンセン病問題に関する検証会議(2005 年 3 月 1日)」による『ハンセン病問題に関する検証会議 最終報告書』 の、「第十三 ハンセン病強制隔離政策に果たした 各界の
役割と責任(2)」は、例えば神山復生病院の隔離された生活と修道院での生活との関連に言及しています。cf. pp. 426-427, pp. 445-446. 全くの偶然かどうかわかりませんが、1931 (昭和 6)年 8 月 1 日に「癩予防法」が成立し、その年の 11 月に岩下神父様は神山復生病院の院長に就任されたそうです。上記の報告書の p. 433 三 隔離政策存続に
宗教が果たした役割、の p. 436 2)「皇室の役割」との相関、に、「『癩予防協会』は、1931 年 3 月に、絶対隔離政策を支持する世論作りのために、大正天皇の后、貞明皇太后節子が深く関わり設立されたものである。」、とあります。
上記の「人間の分際」の p. 443 に、「就任を前に、壮一はごく親しいある人に『父の罪ほろぼしのためだ』ともらした。」、とあります。また、「父清周の葬儀で『父に代わってその罪を
つぐないたい』と述べた言葉は、いつも壮一の胸にあり、いま、その実行のときが到来したということであろうか。」、とあります。岩下神父様もこの地でのかかわりの中で生きた人、だと感じます。
随分前、プロテスタント教会の礼拝にときどき与っている頃に、その教会のある信者の方から「らい予防法」の廃止の署名を勧められ、署名をしました。
わたしの無関心の故、ようやく僅かにハンセン病のことを知り、少しだけつながりました。1930 (昭和 5)年 10 月 1 日に「癩の根絶策」が発表され、1931 (昭和 6)年 8 月 1 日に「癩予防法」が成立したことを
今、ようやく知りました。その署名を勧めてくださった方は、その後、カトリック教会に転会されました。
カトリック正義と平和委員会(通称、カトリック正義と平和協議会)はどうだろうかと思い、調べてみると、「ハンセン病に関わる日本カトリック司教団の謝罪声明」 (17/07/2019)がありました。それを読み、カトリック教会の信者である感染者の「声」は、例えば、1996 年以降に日本の司教団に伝わらなかったということだろうかと思いました。また、上記の謝罪声明に、「現在、全国の療養所に入所されている方々も家族の方々も年を重ね、すでに高齢になられていることを踏まえますと、これ以上の謝罪の遅れは
許されません。」、とあります。この文から奇妙なことを感じます。表に出すことができない何かがあるのでしょうか。無知なものの感覚では、戦争の責任にもつながっているように感じます。おろかなものが書いたこと故、お許しください。