:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 2012年 「ガリラヤの風かおる丘で」 今年も何かが・・・

2012-04-20 07:36:14 | ★ ガリラヤの風薫る丘で


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2012年 「ガリラヤの風かおる丘で」 今年も何かが・・・

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 ウイーンのシェーンボルン枢機卿、 元信徒評議会のコルデス枢機卿をはじめ、世界中に86の姉妹校を展開するに至ったレデンプトーリスマーテル神学院の、それぞれの設置者である各国の86人の司教のうち50人余りと、神学校の院長や私のような関係者、合計250~60人が、今年もイスラエルのガリレア湖のほとりのイエスの 「山上の垂訓」 の丘の上にある ドームス・ガリレア に結集しました。

 

完成したドームスガリレアの航空写真 今回わたしが宿泊したのは手前一番下の段の右から3つ目のテラスの奥の部屋だ

各室とも国際基準で5つ星のデラックスホテル並みの設備が整っている

上の左の丸いのが大ホール その右の四角いのが図書館

下の段の左側はマンション風の居住空間に囲まれた円筒形のチャペルの上に山上の垂訓のイエスとと弟子たちの群像が

 

 ドームス・ガリレア と言う総合施設は、キリスト降誕紀元2000年の聖年に前教皇ヨハネパウロ2世がこの丘の斜面で数十万人の世界の若者を集めて「世界青年大会」を開催したのを機会に、教皇自身が第一期工事の落成式を執り行った記念すべき建物で、今や世界のユダヤ教徒とキリスト教(カトリック)の出会いと友好の場となりつつあります。

 

2000年の聖年に教皇ヨハネパウロ2世が主催した世界青年大会は

新求道共同体のリーダーのキコ氏がイスラエル政府から借り上げて造成した緩やかな斜面に展開して開かれた

画面右端の黒い熱除けの巨大テントの下 赤い絨毯のプラットホームに教皇や枢機卿・司教たちが

その前の白い服の集団は神父などの聖職者

イスラエル中から駆り集めた約4千台のバスの駐車場はこの画面の外4キロ離れたところにあり 若者たちはそこから歩いた

左上 ヘリコプターの細い尾の上の方 山裾の C の字型に土が露出しているあたりが今のドームスのある場所

この日 エルサレムからヘリコプターで飛来した教皇の野外ミサに与った青年たちの数は20万人余りだったと記憶する

年寄りの私もその中に居た

 

 左下のテラスにある円筒形の小聖堂と その上の山上の垂訓のイエスと弟子たちの群像 

これもキコ氏とその弟子たちの共同作品 眼下に広がるのはガリレア湖

 

  カトリックの-と言うか-キリスト教の施設には必ずと言っていいほど、目立つところに十字架が立っているものです、厳格なユダヤ教徒-とくに聖職者であるラビたち-は、十字架を掲げた建物には決して入らないものです。ところがこのドームス・ガリレアには目立つ場所に十字架がない。だからというわけでもないでしょうが、このドームスには近年ユダヤ教徒の訪問者が著しく増加し、昨年あたりで年間12万人ほどのユダヤ人がこの建物の入り口を通って行ったということです。


上の段右側の図書館の外観


 シェークスピアのヴェニスの商人にあるように、過去2000年間、ユダヤ人はキリスト教徒によって卑しめられ、貶められてきました。それは、キリストは「神の子メシア」であり、「人になった神」であると信じるキリスト教から、キリストを殺した民、つまり 「神殺しの民」 として断罪されてきたからです。しかも、なぜか優秀な民族であるユダヤ人は、その優秀さの故に嫉妬され、迫害されてもきました。そして、常態的にゲットーに押し込められ、時には民族の存亡にもかかわるような-例えば、ヒットラーによるホロコーストのような-抹殺の対象にもなるのでした。

 ところが、先の教皇ヨハネパウロ2世の時、ユダヤ教徒、つまりイスラエルの民とカトリック教会との関係は、かつてないほど友好的になりました。 (私のブログ 「ちょっとさわやかな話」 

http://blog.goo.ne.jp/john-1939/e/af28860920e0e8f809dab37c43c1cbdb 

を参照してください。)

 ところで、ユダヤ民族、イスラエルの民、と言うのは実に神秘的と言うか、不思議な民族で、神に選ばれた民の自覚を持ち、音楽や科学や金融や国際政治の分野などで優秀な能力を発揮し、少数民族でありながら世界史に強い影響を及ぼす反面、すでに触れたとおり、歴史の古い時代から度々民族の存亡にかかわるような苦難に見舞われ、しかもその都度しぶとくそれを生き延びてきた民族です。

 ユダヤ教の信仰の太祖アブラハムが、遊牧生活を捨てて神の約束したカナンの地に定住すると、その孫のヤコブの時代に7年間の干ばつに見舞われ、そこには住めなくなってエジプトに移住を余儀なくされましたが、エジプトでユダヤ人の数が増えると、警戒したエジプト人によって奴隷の地位に落とされて辛酸をなめることになります。モーゼに引き連れられてエジプトを脱出して自由の身になったかと思うと、40年もシナイの砂漠を放浪することになり、やっと再び約束の地に戻ったものの、ヤーヴェの唯一神の信仰を離れて周りの民族のきれいな女達と結婚して彼女らの神の偶像崇拝に流れたため、ヤーヴェの神の罰を受けてバビロンに滅ぼされ、生き延びたものはバビロニアに捕囚として連れ去られ、長い奴隷の苦しみの後、やっとイスラエルの地に戻ることが出来ました。強力な指導者メシアを待望する中で、キリストが現れたが、政治的な指導力を発揮しないキリストに失望し、偽メシアだと思って 十字架の上で始末したら、キリスト降誕70年目にローマ軍にエルサレムを攻め落とされて国を失います。その後は、世界中にディアスポラ(流浪の民)としてに散り散りになり、国を建てることは愚か、個人として土地を持つことも許されず、窮屈なゲットー(居留地)に押し込められ、やむなく金融や商売で身を立てても、成功すると(ヴェニスの商人のように)嫉妬を買って苛められます。復活祭の日曜日の前夜には、金で買収された貧しいユダヤ人が、キリスト教に改宗を強いられ衆人環視の中で洗礼を受けさせられるというような忌まわしいことが、ローマのカトリックの教会で最近まで公然と行われてきたという話も聞きました。(私のようなキツイ言い方では身も蓋もないこの話も、表向きはもちろんもっと優しい美談に仕立てあげられるのでしょう。が、結局のところ実態には何ら変わりがありません。)

 第二次世界大戦中は連合軍の側に賭けて、その見返りにアメリカなどの後押しでようやく約束の地に建国を許されたまではいいが、その後は、国土を死守するために周りのパレスチナやアラブ諸国と絶えず戦争を重ねねばならず、核攻撃により一夜にして全滅する悪夢に苛まれながら回教圏の敵意の前に戦々恐々として生きなければならないユダヤ人のつらい運命をつくづく不思議に思います。彼らがどんな悪いことをしたと言うのでしょう。旧約聖書によれば、彼らは神から選民として特別に愛されたことになっていますが、それに対して他の民族の嫉妬を買ったとでもいうべきなのでしょうか。

 過去2000年の世界史の流れの中で、同じ唯一の創造主の神を拝むユダヤ教とキリスト教は、近親憎悪と言うか、常に犬猿の中であったのが、この10年ほどの間に、急速に関係が改善されてきたような気配が漂い始めたのです。いったい何が起きようとしているのでしょうか。ノストロアダムスの預言ではないが、世の終わりの前に流浪の民ユダヤ人はイスラエルに国を再建し、イエス・キリストが真のメシアであったことを認めてユダヤ教とキリスト教は和解する、と言うような予言がありますが、もしかしたら人類の終末(滅亡の日)が近いのではないかと(私に言わせればそんなことは馬鹿げた全くあり得ない話に思えますが)、真剣に囁く人が出てきてもおかしくない空気さえあります。

 私は、今回のブログを書き始めたときは、全く別のコンテクストで、ドームス・ガリレアにおける今年のレデンプトーリスマーテル神学院の姉妹校の集いで何が行われようとしているのかを、淡々と報告するつもりで書き始めたのに、出だしから話は思わぬ方向に発展して、すでに一回分の量として足りるほどの長さになってしまいました。今から本題に入れば、一回には読み疲れがしてしまうにちがいありません。思い切ってここで区切り、全体を3回ぐらいに分けて、次はなぜドームス・ガリレアにユダヤ人が惹かれてくるのかを説明し終えて、最後に今回の集まりの意義に触れて終ろうかと、方針を転換しました。

では、次回をお楽しみに。


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★ ガリラヤの風薫る丘で-4

2011-05-17 17:43:46 | ★ ガリラヤの風薫る丘で

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ガリラヤの風薫る丘で-4 

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前二回のブログで、普段は常識派、どちらかと言えば世俗的な仮面を被っている神父が、とんだ狂信的、原理主義的な本性を暴露してしまった。 実に面目ない!

そこで、バランスを回復するために、少しトーンを変えて、このドームスと言う場所がどういう位置付けにあるのか、クールにもう一度振り返ることにする。


 

 

ガリレア湖に向かう斜面に這うように展開する「ドームス・ガリレア」はれっきとしたカトリックの施設である。それなのに、どこから見ても十字架らしきものが見えない。同じ系列(同じキコ氏の設計)の施設で、イタリアのアドリア海に面したポルトサンジオルジオの丘にある建物には、巨大な十字架が建っているのとは好対照だ。


  

嫌でも目に飛び込んでくる巨大十字架                   向こうの質素な宿泊施設の上にも小さな十字架が

 

それは、この建物がイスラエル国内にあって、ユダヤ人を刺激しないためと言うような単なる消極的な理由からだけのことなのだろうか。

実は、この建物の中にはヘブライ語の文字、旧約聖書の聖句などがあふれ、まるでどこかのユダヤ教の施設かと錯覚するような雰囲気さえ一部に漂っている。

 


その極め付きが図書館だ。図書館の中心を占領するこのモダンな構造。

               

撮影位置が悪くて左右歪んで見えるが、実際はサッカーボールを半分に切ったような半球形

左の奥が白く見えるのは外の壁に窓としてはみ出しているからだ

 


それは、外側にも一部はみ出して全体で半球形をなしている。これは一体何の意味?

 

図書館の明かりとりを兼ねた半球の一部

 

その答えはこれだ。なんだかお判りかな。 

日本に居る日本人でユダヤ教の会堂の中に入った人は少ないかもしれない。私は、ローマのテベレ川の岸辺、昔ユダヤ人ゲットーがあったところにある巨大なユダヤ教の会堂に何度か入ったかことがある。かつて、アラブの過激派の爆破テロがあって、この会堂で多くのユダヤ人児童が犠牲になって以来、イタリアの軍隊によって24時間物々しく警備されているが、その地下にはユダヤ教の様々な祭具や衣服を展示した博物館がある。そこに行くとこれに似たものがたくさん並んでいる。それは、巻物、旧約聖書の巻きもので、ヘブライ語で「トラー」と呼ばれる。

 

モロッコで発見された貴重なトラー


この一巻のトラーがこの図書館の中心の半球形の大空間を占領している。それもそのはず、これは何処にでもあるありふれたトラーではなく、モロッコで発見された4世紀の希少品だという。そもそも、ユダヤ教で旧約聖書の聖典が確定したのは西暦紀元1世紀末のヤムニア会議でのことだそうだから、4世紀のモロッコの写本はその古さから言っても非常に貴重なものだ。ユダヤ人にとっては、のどから手が出るほど欲しいものに違いない。だから、ユダヤ教の信者やラビ(教師)たちが、わざわざバスを連ねてそれを見にこの建物を訪ねてくるのもわかるような気がする。聞き違いでなければ、この10年ほどの間にすでに10数万人が訪れたということだった。

偉大だった前教皇ヨハネ・パウロ2世の人柄のお陰も大きかったが(私のブログの 「ちょっと爽やかなお話」 を参照のこと)近年、ユダヤ教とキリスト教の関係は非常に友好的になっている。

キリスト教の中に伝わるある種の予言めいた伝承によれば、この世の終わりはユダヤ教とキリスト教が和解・融合した時に来ると言われる。キリスト教側からの解釈は、ユダヤ教徒が2000年前に偽メシヤとして十字架にかけたナザレのイエスが、実は彼らが今も待望している本物のメシアその人だったと認めることだと言うが、そこへ向けての遠い道のりの第一歩が、このドームス・ガリレアで始まろうとしているのかもしれない。

確かに、キリストはユダヤ教徒でありユダヤ教の先生とも呼ばれたが、その彼は同じユダヤ人たちの手で十字架に追いやられ、殺された。キリストの弟子たちもユダヤ人によって迫害された。しかし、キリスト教は、ユダヤ人やローマ帝国の迫害を受けながらも、次第に地中海世界に広がり、4世紀にはついに帝国の唯一公認の宗教の座についた。

その間に、ユダヤ人の国は西暦70年にローマ帝国によって滅ぼされ、エルサレムのユダヤ教の神殿は徹底的に破壊され、ユダヤ人は中世ヨーロッパ各地に離散してディアスポラと呼ばれ、キリスト教支配者からはキリスト殺した神殺しの民として差別されゲットーに収容されてきた。

復活祭にはローマの教会において金で買収された貧しいユダヤ人のキリスト教への改宗式が行われるというような忌まわしい習慣が横行したと言う話も聞いたことがある。先のアウシュヴィッツのホロコーストなども、単なるヒットラー個人の狂信的蛮行であっただけでは済まされない、キリスト教的ヨーロッパ人の深層心理に広くあったユダヤ人への差別・憎悪が、優秀民族である彼らに対する劣等感や嫉妬心とともにあったことも否定できないのではないか。

考えて見ると、ユダヤ人と言うのは実に不思議な民族だ。旧約聖書によれば、イスラエルの国はエジプトとバビロニアという二つの大国の間に挟まれた地中海沿いの豊かな回廊に位置する小国で、両者から入れ替わり立ち替わり絶えず蹂躙され、時にはバビロニアに国ごと捕囚になったりしながら、また、過去2000年近くの長きにわたり、祖国を失って世界中に離散しながら、常に、言語、文化、宗教、民族のアイデンティティーを失うことなく、ついにイスラエルの国を元の場所に再建した。その歴史は神秘に満ちている。

それが、日本民族ならどうだろう。大地殻変動で4つの島が太平洋の藻屑として沈んだり、原発事故による核汚染で何処も住めなくなったりして、世界中に散り散りのディアスポラ状態になったりしようものなら、数世代を経ずして、散った先々で同化し、日本語も、文化も、民族のアイデンティティーも、種族としての純潔も、すべて失って溶けて消えてなくなってしまうに違いない。

私がまだ学生だった頃、良く可愛がって下さった元上智大学の学長のヘルマン・ホイヴェルス神父(イエズス会士)は、2000年間国も無く世界をさ迷ったユダヤ人が民族と宗教のアイデンティティーを失わなかったのは、キリスト教が真正な宗教であることを示すためにユダヤ人の神ヤ―ウエが行っている「奇跡」だという意味のことを言われた事を思い出す。ホロコースト等の過酷な運命と併わせ考える時、この年になってなるほどと頷くものがある。(このパラグラフはローマ時間5月18日午前7時03分加筆)

ユダヤ人が再び祖国を建設することも世の終わりに先立つ印の一つなのだそうだが、そこに建てられたドームス・ガリレアは、何か不思議な象徴的建造物のような気がしてならない。


ところで、話はあらぬ方角に展開するのだが、「ガリラヤの風・・・-1」でちょっと触れた、音楽と歌で我々一行を歓迎してくれた奇妙な若者集団のことにもひと言触れておきたい。


ドームスを訪れたわれわれを歌で迎えてくれた若者たち


ドームス・ガリレアはイスラエル政府の例外的な許可のもとに建設された会議場・宿泊施設等を備えた複合建造物だ。政府はこのような建物には建設許可条件として核シェルターを作ることを義務付けている。敵対するパレスチナやアラブ諸国との核戦争を想定しての話だ。

      

      シェルターの中は野戦病院か蚕棚のようにベッドがズラリ       シェルターの唯一の出入り口の鉄の扉。

私は6年ほど前に、当時まだ未完成だったこのドームスに一カ月ほど滞在したと言ったが、その時はたまたま大きな団体の予約がなく、一人で一室を占領することが許された。国際的なスタンダードで5つ星のホテルにランクするほどの広々としたツインの部屋が80あまりあるようだった。毎日の洗面台・トイレの掃除からベッドメーキングに至るまで、5つ星の名に恥じない行き届いたサービスを受けた。ただ一つ違うところは、その仕事に従事しているのが雇われたおばさんたちではなく、全員若い青年たちだというところだった。そして、その彼らが、今回玄関ホールで歌ってくれたのだった。

彼らは、全員無給のボランティアーたちだ。住んでいるのは、だだっ広い窓のない、例の核シェルターの中だ。どういう素姓の若者たちなのか興味が湧いて訊ねると、彼らは、世界にざっと100万人ぐらいいるかと思われる「新求道期間の道」と言うカトリック教会の新しい流れのメンバーの子弟で、若気の至りでぐれたり、薬物中毒になったり、過ちを犯したりの、いわば熱心なカトリック家庭の頭痛の種のブラックシープたちなのだった。親たちによってここに預けられ、パスポートは取り上げられ、お金は持たされず、親元から遠く離れてイスラエルと言う特殊な外国で、車が無ければ何処にも行けないこのガリラヤの丘の上に隔離され、核シェルターの中に集団で寝起きし、修道院か兵舎の中のような規律のもとに、共同生活をし、毎日祈りをし、黙想をし、給仕、皿洗い、ベッドメーキングとホテルマンのような労働に従事して、更生の道を歩んでいるのだった。


      


そんな中から、一念発起して神父になって世界中に宣教に行こうなどと言う奇特な若者も出ないとは限らない。絶えず巡礼や研修・会議のグループが通り過ぎていくこの施設。近くに労働力を求めてもそれらしい村は一つも無い。シェルターはよほどキナ臭くなるまで用のない無駄な空間だ。タダの労働力確保と、問題児の矯正と、スペースの有効利用と・・・、一石2鳥も3鳥も兼ねた実にうまいやり方だと舌を巻いた。


ガリラヤ湖を見下ろすテラスのオブジェ

 

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★ ガリラヤの風薫る丘で-3(再構築版)

2011-05-10 08:47:22 | ★ ガリラヤの風薫る丘で

お待たせ~! 「再現版」:

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ガリラヤの風邪薫る丘で-3 

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ペトロ達の大漁の奇跡の浜辺で野外ミサに与った時、私は司式するウイーンのシェーンボルン枢機卿らの中に、キリストの現存、そしてペトロや他の弟子たちの現存を、2000年の時に隔たりを超えて生々しく体験したと言った。 

しかし、話はそれだけではなかった。私は、この同じ場所でキリストの声を聞くことにもなるのだった。 

野外ミサが行われた半すり鉢型の地形の木陰の傍を、低い生垣に縁取られた小道がガリラヤ湖に向かって緩やかに下りて行く。その生垣越しに、黒い石積の小さな教会が立っている。

いわゆる「ペトロの主位権」の教会


入り口の左右のゴシックアーチ型の窓のところに巣をかけたつがいのツバメが、大きな口を一杯に開けてシリシリと鳴く雛たちにせっせと餌を運んで来て休むことがない。実は、ミサの間中私は-現存するイエス様には申し訳ないが-あたりを忙しく飛び回る燕と、雛と、それからカメラのシャッターチャンスに結構気を散らしていたのであった。母親の腕の中に居る赤ん坊のように、安心感に浸って、気ままにいたずらをする心境であった。

土色の巣のすぐ下に、今まさに飛び立ったツバメの姿がわかりますか?

このシャッターチャンス逃してなるものか!


その教会は、岸辺側からみればこんなたたずまいで、カトリックの教会は「ペトロの首位権の教会」とも呼ぶ。

左側の濃い緑の木陰に、先ほどまでミサをしてい場所がある

私は、大漁の奇跡の湖畔に岸辺を背にして立っている


なぜなら、前回ブログでやや詳しくふれた、ヨハネの福音書の個所、つまり、ペトロが他の兄弟達と漁にでて、一晩何も獲れなかったのに、岸辺の見知らぬ人の言葉に従って網を船の右側に降ろしたら、引き上げられないほどの数の魚が取れたという、大漁の奇跡の話と、その直後、岸辺でその人から朝の食事をもらいながら、その人の中に復活したキリストの現存を信じたという話の続きに、「イエスとペトロの対話」が記されていて、その内容がそう言う表題に相応しかったからである。

関連個所はそれほど長いものではないので、たまには聖書の文字通りの引用も悪くは無いかと思う。

 

ヨハネによる福音書(21章15-17節)

食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上に私を愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、私の子羊を飼いなさい」と言われた。二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、私を愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「私の羊の世話をしなさい」と言われた。三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、私を愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「私を愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。私があなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「私の羊を飼いなさい。」

 

実は、この話には枕になる一つのエピソードがある。ヨハネの福音書によれば、イエスは受難と十字架上の死に先立って、「ユダの裏切り」を予言し、「互いに愛しなさい。私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。」と言う新しい掟を与え、さらに「ペトロの裏切り」をも予告された。

ペトロが、「あなたのためなら命を捨てます。」と言うと、イエスは「私のために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」と言われたのである。

事実、イエスが捕らえられ、尋問を受けた時、ペトロはひそかにその場所の群衆の中に潜り込んでいたが、気付かれて「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と問われると知らないと答えた。少しずつ違う状況で相次いで三度問われて、三度目には誓って知らないと否定した。するとすぐ、鶏が鳴いた。

イエスが三度「お前は私を愛しているか」と問われた時、ペトロはこの事実を思い出して悲しくなったのである。

さらに、このエピソードに先だって、マタイの福音書によると、イエスは「人々は、人の子(自分のこと)を何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは様々に答えたが、「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか。」と尋ね、シモン・ペトロが一同を代表して、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。「ヨナの子シモン、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現わしたのは、人間ではなく私の天の父なのだ。私も言っておく。私はこの岩(ペトロ)の上に私の教会を建てる。」(マタイ16章13-18節参照)という下りがある。

実は、これをもってカトリック教会は12使徒の頭、ペトロとその後継者、つまり、ローマ教皇をキリスト教のトップであると主張して譲らないのだが、このエピソードの舞台が、この小さな教会の中の祭壇の前にある岩のところであったと伝えられているのだ。プロテスタントの教会がこの点についてどういう見解を取っておられるのか、統一のとれた公式見解があるのか、など、まだ確かめたことがない。

前置きが長くなっていしまったが、ミサが終わると、キコはここで一つの提案をした。ミサを司式したシェーンボルン枢機卿に、ミサの祭服のままとなりの教会に入り、祭壇の前の岩のところに立って、30人余りの司教達と、100人余りの神父たち一人一人に、イエスがペトロにしたのと同じ質問をする。それに対して、一人ひとりの司教、司祭は、皆ペトロと同じように返事をするというわけだ。

この問答は、一人ずつ丁寧にやると結構時間がかかる。それで、先頭から一列になって教会に入るが、野外の木陰に残った者たちは、キコと仲間たちの奏でる音楽に合わせて歌いながら待つことになった。

こんな場面に相応しい歌をキコは沢山作曲している


私は、相変わらず忙しく飛び回る燕を目で追っていたが、自分の番が近付いて教会の中のひんやりした空気の中に入ると、さすがに真面目に祈る気分が湧いてきた。(それでも、聖堂の中にもツバメの巣があるのに気付くと、中の空間を回転するように飛ぶ親燕を上目づかいに追うのをやめなかった。)

そうこうするうちに、とうとう自分の番になった。

「名前は?」と聞かれると、「ジョン!」と答えた。私は30歳代から外資系の銀行ばかりを渉り歩き、同僚とは常にファーストネームで呼び合ってきた。ドイツの銀行にいた時も、リーマンブラザーズにいた時も、イギリスの銀行にいた時も、国際金融業界の共通用語は英語で、洗礼者ヨハネのクリスチャンネームをもつ私は、一貫して「ジョン」と呼ばれ続けてきたのだった。リーマンの当時の会長、ニクソン大統領の商務長官を務め、後にソニーの社外重役にもなったピーター・ピーターソンも、私を「ジョン」と呼び、私も彼を「ピート」と呼び捨てにしていた。

シェーンボルン枢機卿の前にはペトロの岩

その手前でわれわれ司祭、司教達は問答をする

二人後がいよいよ私の番だった


不意に「ジョン、この人たち以上に私を愛しているか?」と言う声が斜め上から響いてきた。私は思わず「はい、愛しています!」と心から答えた。本来なら、他の司祭達皆と同じように、「はい、主よ、私があなたを愛していることは、貴方がご存じです」と紋切り型に、正しく聖書の言葉通りに答えるはずで、直前まで私も口の中でそれを復唱して用意していたのだった。

しかし、この瞬間、その問いの声は復活して目の前に立つイエスその人の声として私の心に響いた。そして、私の答えは、神の子、ナザレのイエス・キリストに対する私の心からの答えだった。私は、復活祭の日曜日の後、ガリレア湖のほとりに行って、復活したキリストに逢い、確かに「彼の声」を聴いたのだった。これは理屈の入る余地のない直接体験だった。

私は心がいっぱいになって、目の前のペトロの首位権の岩に接吻すると、足ばやに明るい外に出た。

私の肉体の耳に響いた声は、もしデジタル録音してスタジオに持ち込んで声紋解析をすれば、もちろんオーストリア人の初老の男性、シェーンボルン枢機卿の声と一致しただろう。また、もし私が感極まってそばに駆け寄り、主よ!と叫んでシッカとその足を抱きしめたとても(もちろん少しは冷めている部分があってそんな衝動的な行動に出るはずもなかったのだが)、冷徹な客観的事実は、私が触れるのは、イエスの肉体とは別の人間に固有なDNAで構成された数十億個の細胞の塊である枢機卿の二本の足にすぎないのだが、そんなことはどうでもよかった。(復活の日の朝、墓の近くで園の番人の足を抱いたマグだらのマリアも同感してくれるだろう。)

大事なことはただ一つ、私は2011年4月の昼下がり、ガリレア湖のほとりで復活したキリストに逢い、その声を聞き、そのキリストに自分の言葉で答えた、と言う疑いようのない事実だ。その一生の大切な出来事を誰も私から奪い取ることは出来ないだろう。

私は、キリストを裏切った自分を責めて絶望し、首を吊って果てたユダと、おめおめと生き延びたペトロの裏切りと、どちらの罪がより重かったかなどと論ずるつもりはない。また、私がその二人に勝るとも劣らない大罪人であることを否定しようとも思わない。わたしは、怠け者で、傲慢で、好色で、ウソつきで、貪欲で、嫉妬深い、つまり、悪いことの限りを尽くしてきた救いようのない人間だ。しかし、そんな出来損ないにも、復活した主は現れてくださった。

「キリストはまことに蘇られた!」、と確信をもって告げる私の言葉を遮って、ちょっと待ちなさい、まあここはひとつ落ち着いて・・・と水を差そうとしても、誰も私を正気に戻すことには成功しないだろう。これは、信仰の問題であると同時に、神からの一方的な恵みの問題でもあるのだと私は思う。

福音をのべ伝えるということは、教会から教えられた通り、「知識」として身に付けたことを人に語り、受け渡すだけでは足りない。「生(なま)の信仰の体験」として、恵みとして与えられた「事実」を伝えるのでなければ迫力がない。

わたしは、ガリラヤ湖のほとりで、復活したキリストに出会い、その声も聞いた。だから、「キリストはまことに蘇られた」、と確信をもって証言できるのである。

   


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★ ガリラヤの風薫る丘で-2

2011-05-08 00:01:02 | ★ ガリラヤの風薫る丘で

 

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ガリラヤの風薫る丘で-2

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前回は俗っぽい話に脱線してとんだ失礼を致しました。 今回は回心して大真面目です。


復活祭明けの信仰の高揚したこの時、聖地に繰りこんだ私たち一行の上に、これから一体何が起ころうとしていたのだろうか。 

    

       ドームス・ガリレエを示す道標          上から見たドームスは背後の丘の斜面に沿って下へ下へと広く展開する


まず、どんな顔ぶれの集まりだったのか、その一端をご紹介するところから始めましょう。

ドームスの集いの会場 (もちろんキコの設計による)


まず、この会を呼びかけたのは、「新求道期間の道」と言う、聞きなれぬ名前でその実態を正しく把握するのがやや困難な集団の創始者、キコ・アルゲリオという一人の信徒である。司祭でも、ましてや司教でもない、一介のカトリック信者(非聖職者)である彼は、私と同じ1939年生まれ。「天は二物を与えない」と人は言うが、あれは真っ赤な嘘っぱちで、神様はこの男には二物どころか、八物、も十二物も、それ以上もの才能とカリスマをふんだんに与えられた。彼にはルネッサンス期の総合的巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチをもしのぐような一面があると私は評価している。

ワイヤレスマイクを持って話すキコのシルエット


今回の会場「ドームス」の全体構想から、細部の設計・デザイン、内部を飾る壁画、彫刻まで全て彼のアイディアによる作品で埋まっている。何百の歌を作曲し、それを自ら歌い、ギターを弾かせればプロのフラメンコギターリストもびっくりの腕前。最近では、モーツアルトやブラームスでも数か月を要するかと思われるフルオーケストラの交響曲の作曲を手掛け(本人は楽譜の読み書きすら出来ないと言うのに)プロの演奏家集団を使って正味数日で仕上げるという、その才能の輝きはまさに際限を知らぬ男だ。

そもそもこのドームスの存在自体が奇跡的だ。イスラエル政府は、十字軍の時代からキリスト教徒が死守してきた点の保持には手を出さないが、新しいキリスト教拠点の開設は原則として認めない。ところが、キコの尽力もあって、山上の垂訓の丘の背後に当たるこの場所で、2000年の記念すべき年に、教皇ヨハネ・パウロ2世を迎えて世界青年大会を開催することが許され、それに先だってこのドームスの建設許可が下りた。ドームスの部分的落成が教皇自身の手でなされた事はすでに触れたとおりである。そして、外見上は十字架が一つも見えぬこの建物は、内部にヘブライ語があふれ、ユダヤ教徒の見学者の数はすでに10数万人に上り、いわばキリスト教とユダヤ教の出会いのメッカのような様相を呈している。

彼の呼びかけに応えて今回は二人の枢機卿、即ち、バチカンの信徒評議会議長のリルコ枢機卿と、オーストリアのウイーンの大司教シェーンボルン枢機卿が参加した。それに加えて、世界中に78校の姉妹校を展開するレデンプトーリスマーテル国際宣教神学院の開設者、78人の司教・大司教らの内の30人余りが加わり、それに、当然のことながら、78人の神学院院長と関係する信徒の旅人たち、総勢では200数十人だろうか。私は、元高松にあった世界第7番目の姉妹校(今は事情があってローマに一時移転中)の院長平山司教の秘書と言うことで参加している。

   

左:シェーンボルン枢機卿 右:リルコ枢機卿             左:リオデジャネイロの補佐司教 右:平山司教


今回は、この一連の姉妹校の原型であるローマのレデンプトーリスマーテル神学院が前教皇の手で設立されてから25年を経過したのを機会に、世界に展開している神学校の関係者が一堂に会するのが目的だった。

 

次々と出席者を紹介するキコ


二日目には、ガリレア湖のほとりで野外ミサが行われた。

2000年ほど前、キリストはエルサレムの城外で金曜日の午後十字架に架けられて死んだ。三日目の-つまり日曜の-朝、婦人たちがキリストの墓に行くと、墓の入口をふさいでいた石は除かれていて、墓の中は空だった。一位の天使が、「あの方はここにはおられない。あの方は死者の中から復活された。そして、あなた方より先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。」と言った。(マタイ28章1-7節参照)

それで、今年の復活祭のあと、私も、枢機卿や、司教や、司祭や、旅人信徒のこの300人近い集団もガリラヤ湖のほとりにやってきたわけだ。

ガリラヤ湖の静かな岸辺


   

 白鷺に似た大きな水鳥は                       シャッター音に敏感に反応して飛び去った

 

ところが、不思議なことに、同じマタイの福音書は、そのあとガリラヤ湖のほとりで弟子たちが復活したイエスと出会った場面について全く何も記していない。慌てて、マルコの福音書を開いたが、そこにもガリラヤで逢えたという話は記されていない。それは大変とばかりに、ルカの福音書に期待したが、これまたガリラヤの「ガ」の字も記されていないではないか。???と言う感じで、最後のヨハネの福音書を開くと、あった。やっとあった。しかし、それにしてもちょっと様子がおかしい。

ガリラヤ湖のほとりでキリストに召し出され、キリストの弟子としてイエスと3年間寝食を共にした漁師たちは、この人こそ待望のメシアに違いないと期待して付き従ったが、その先生犯罪人として捕らえられ、殺されて葬られ、挙句の果てにその遺骸まで消えうせた(ビン・ラーディンのように水中にでも捨てられたか?)。

メシア運動が大失敗に終わったため、彼らは意気消沈して故郷のガリラヤ湖の湖畔に戻り、何事もなかったかのように元の漁師生活を始めていた。

そんなある日、シモン・ペトロが「私は漁に行く」と言うと、彼と共にキリストに付き従っていた数人の弟子たちは「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、船に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。すでに夜が明けたころ、見知らぬ人が岸に立っていた。その人が「何か食べるものがあるか」と言うと、かれらは、「ありません」と答えた。すると言われた。「船の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、最早網を引き上げることが出来なかった。さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であると知っていたからである。(ヨハネ21章1-12節参照)

この話は非常に興味深い。メシアだと信じて付き従ったあの魅惑的な青年イエスは、その事業半ばで挫折して、敵対者の手にかかって十字架の上であっけなく果てた。がっかり失望して故郷に戻り、元の漁師の生活を始めていたペトロ以下の弟子たちは、ガリラヤの岸辺で、見知らぬ人に出会った。生前のイエスとは、背丈も年齢も容貌も全く違う別人だった。現代風に言えば、DNA鑑定ではイエスとは別の個体であることは疑う余地がなかった。しかし、その人に接していて、弟子たちは目の前のその別人の中に霊的に復活したキリストが現存して居ることに気付き、イエスとともにいることを信じて疑うことが出来なくなった。だから「あなたはどなたですか」と敢えて野暮な質問はしなかったのだ。

ヨハネの福音書は、-プロテスタント教会では異論もあるようだが-カトリックでは12使徒のひとり、一番年若く、特にキリストに愛されていたヨハネが、1世紀の終わり頃に書いたものとされている。いわば、長寿を全うした使徒ヨハネ(今の私ぐらいの年頃か?)が、キリストの死の直後の自分たちの霊的体験を、晩年の信仰告白として吐露したものだろう。その頃のヨハネは、DNAを異にする他の個体の人間の中に、愛するイエスの現存を信仰の目で確信することが出来たとはっきりと証言しているのである。

私は罪深く信仰薄きものであるにもかかわらず、この日ミサを司式するウイーンのシェーンボルン枢機卿の中に、その傍にいる信徒評議会議長のリルコ枢機卿の中に、そして平山司教やキコの中に、復活したキリスト自身の現存を、或いはキリストの使徒たちの現存を、はっきりと見ることが出来た。その人たちの姿を借りて、2000年前にこの地に30年余りの生涯を生きた歴史上の人物ナザレのイエスが死者の中から復活して生きて現存していた。これは、脳みその知的神学的遊戯の産物ではない。人間が自分の力で思弁的に到達しうる境地でもない。まさに、からし種ほどの小さな信仰のかけらに一方的に上から注ぎこまれた神様からの恵みの問題だろうと思う。

     

奇跡の大漁の記念の岸辺でミサを指揮するシェーンボルン枢機卿        それを見守るリルコ枢機卿と平山司教                               

言葉が足りなくてなかなか的確に表現できないでいるが、一言で言えば、2000年前のガリラヤ湖の漁師だった弟子たちと、今ガリラヤ湖のほとりにやってきた自分達との間に本質的な時間的距離の隔たりはな無いと確信する。

     

パン(キリストの体)と葡萄酒(キリストの御血)の奉献、その傍らでギターを奏で歌うキコ(フルートも、ヴァイオリンも、チューバも、チャランゴも、ボンギも・・・ありったけの楽器を集めて)

 

それだけではない。何も復活祭明けの日程を選んで、飛行機代を払って、わざわざガリレア湖のほとりまで来なくても、からし種ほどの信仰があって、上からの恵みを豊かに注がれれば、東京や大阪の大都会の雑踏の中で、過疎の村で、また被災地の瓦礫の中でボランティアーをしながら、見知らぬ隣人の中に復活したキリストと出会うことが何時でも何処でも可能なのだと思う。それは、私の場合は、今ようやく観念的可能性の問題としてではなく、日々の現実的体験、ほとんど皮膚感覚となってしまったのである。キリストはまことに復活された。そして今私とともにいる。


 

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★ ガリラヤの風薫る丘で-1

2011-05-05 15:42:25 | ★ ガリラヤの風薫る丘で

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ガリラヤの風薫る丘で-1

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私が復活祭明けにイスラエルに行ったことを知った人たちから、ツイッターで、是非その時の様子をブログに、と言う要望が集まった。それで、2-3回に分けてその時の様子をお伝えしようと思います。 

ネプチューンの教会で主の復活の徹夜祭を無事に終え、日曜の昼にローマの神学校に戻り、一休みする間もなく、先週の月曜の早朝にローマのフィウミチーノ空港からイスラエルのテルアビブ空港に飛んだ。待っていたバスに乗ってガリレア湖のほとりのドームス・ガリレアに着くと、若者たちの一団が歌と音楽で歓迎してくれた。

この若者たちがいかなる素姓のものかは後に触れるとしよう

若い国際金融マンだったころのイスラエル旅行を別にすれば、神父になってからガリレア湖を訪れるのはこれで4度目になる。

一回目は西暦2000年の節目の年の夏頃だったと思うが、教皇ヨハネ・パウロ2世がこの建物のすぐ下からキリストの山上の垂訓の教会のあたりまで広がる緩やかで広大な斜面で開いた世界青年大会の時だった。全世界から20万人余りの若者が結集し、私も東京からの善男善女のグループに高松からの母娘を加えた敬虔な一団を引率して参加した。

当時、このドームスはまだ建設中で、教皇はようやく間にあった入口のホールのあたりと図書館の部分落成式を執り行われた。

   

                      正面玄関                  玄関の扉の上のガラスにはドームスガリレエの文字が   

  

   モダンな図書館 上の壁にはヘブライ語の文字がぎっしり

2回目は同じ年の12月末に「第二千年紀の最後の夕陽をガリレア湖の上で見送る会」と言う長ったらしい名前の会に招かれてやってきた。せっかくだから、ちょっと脱線してその時のことに触れようと思う。

 

夕陽のガリレア湖 手前はドームスの一部

手前の丘の地平線の森が山上の垂訓の教会の森 

左遠方はシリアのゴラン高原 右手がティベリアデの町のあたり

 

主催者は O.B.L.氏(この世界、インターネットで実名を出すと何処でどういう支障があるか分からないのでイニシャルだけでごめんなさい)と名乗るニューヨークベースの(多分)ユダヤ人で、本職は裏社会での債権取り立て業と理解している。本質的にはシェークスピアのヴェニスの商人のように、血も涙もない男で、通常の手段では到底回収の見込みのない不良債権をただ同然の安値で買い取り、鋼鉄の手に絹の手袋をはめてじわじわと債務者を締め上げ、金をむしり取るのが彼の商売だと私は今でも思っている。その結果、誰かが自分のこめかみをピストルで撃ち抜こうが、森の木の枝に首をくくってぶら下がろうが、一切お構いなしなのだろう。業界では彼のような男を「ローン・シャーク」とも呼ぶ。貸金業界の「人食い鮫」の意味だろう。

しかし、彼の一見した印象では、内実とは裏腹に、優しく、繊細で、趣味が良く、世界中に沢山の善い友人を持っていた。

O.B.L.が用意したティベリアデの町の眺望のいいホテルに集合した紳士・淑女たちは、いずれも謎に包まれた雰囲気で、パリから、リオから、ベイルートから、東欧から、もちろんニューヨークから、総勢30人に満たなかったように記憶する。


ドームスから眺めたティベリアデの夜景 街の明かりがほとんど見えなくて残念

 

2000年12月31日になった。快晴の空に太陽が少し西に傾いた昼下がり、彼は寸暇を縫ってナザレの近くのカナの町へ病気の親友を見舞いに行ってくるからと姿を消した。夕方の乗船前には必ず間に合って帰ってくる約束だった。行く先から相手はアラブ人だと察せられた。

時間になったので、私たちは揃って彼が手配した船に乗り、帰りを待った。彼と共にガリレア湖の沖に出て、シャンパンを抜いて乾杯して、豪華なビュッフェと上等のワインに舌鼓を打ちながら、2000年紀最後の日没を見送る手筈になっていたからだ。

アクシデントはその時起こった。

船の上でO.B.L.が戻るのを待ちわびていたところに、船頭の携帯が鳴った。

話し込んでいるうちにうっかり時が過ぎ、金曜の夕方から安息日に入る回教徒の運転手が仕事を拒んだというのだ。急遽、土曜日が安息日のユダヤ人の運転手を手配中だが、少し遅れるから構わず先に船を出して予定通りパーティーを始めていてくれ、必ず合流するからと言うことだった。

こうして、船は桟橋を離れ、彼抜きのパーティーは進み、無事太陽も沈み、夕闇が湖面を覆い、みんなに酒がまわり始めた。

再び、船頭の携帯が鳴った。

やっとガリレア湖に着いた。船からサーチライトを点滅させて場所を教えてくれ。最寄りの浜辺に車を止め、車のライトを点滅させるから、船を出来るだけ岸に寄せろ。など、一連の交信があった。

慎重に岸に近づいた船頭は、軽くスクリューを逆回転させて停船した。大ぶりの船体は遠浅の湖底に触れてそれ以上先へは進めなかったのだ。闇夜の岸までは、まだ200メートル以上はあろうかと思われた。船にも岸にも小舟はなかった。一体どうするつもりだろう?と思っていると、突然彼はパーティー用のスーツも、財布も、クレジットカードも、靴も岸辺に残して、下着のパンツ1枚になって、冬のガリレア湖の冷たい水に飛び込んだ。

しばらくして、船からのライトの中に彼の頭が見えてきた。水から上がった彼は、髪からしずくを垂らしつつバスタオルに身を包み、皆の拍手を浴びながら、優雅にシャンパングラスを飲み干した。何とも屈託のない彼の無邪気な笑顔に座はたちまちくつろいでいった。

当時私は高松教区に神学校の建物を建てるために資金集めをしていた。O.B.L.がそれに協力してくれるということで、世界中の富豪を紹介してもらった。その富豪たちを順次訪ねて募金への協力求めるのは、当時神学院の院長だったスペイン人のM.S.神父の仕事だった。しかし、どこでも話は空振りだった。やっと、ある富豪が親切に話を聞いてくれて、別れ際に長方形の紙包みの入った手提袋を渡してくれた。それを大切に胸に抱いて、タクシーでニューヨークの場末の安宿に戻った彼は、部屋の鍵を内から閉めて、震える手でその包みを開けようとしていた。彼は、中身は100ドル紙幣の厚い束だと信じて疑わなかった。しかし、実際はブランド物のチョコレートだった。

O.B.L.に振り回された後には、院長の世界1周の飛行機代だけがそっくり赤字として残り、その分だけ貧者の一灯の寄付残高を減らすことになった。

頭に来た私はO.B.L.に言った。金持ちを紹介してくれるのもいいが、まず君が善意の証しをしてくれたらどうか、と。私の率直な意見に、彼は(渋々?)-多分2000ドルだったかと思うが-1枚の小切手を送って寄こした。「せめてもう一つゼロを付けやがれ、このドケチ野郎!」と心の中では口汚く罵りながら、かつてはいささかの小金持ちだった自分のことを振り返りながら、表向きは最大限の謝意をこめた手紙を書いて、彼との関係はこのガリレアの船の上まで�壓がったのだった。彼とはその後も2-3度メールのやり取りがあったが、今は音信不通になってもうずいぶん時間が経過した。彼はまだどこかで生きているだろうか。

3度目のドームスへの旅は2005年、教皇ヨハネ・パウロ2世が亡くなった年の12月から次の年の1月にかけてだった。

その時はうまく車を手に入れて、一人でのんびり聖地をくまなく巡礼して歩いたのだが、その時のことは私の本「バンカー、そして神父」(亜紀書房)(http://t.co/pALhrPL)に詳しく書いたので、ここでは触れないことにする。

 

ようやくこの度の4回目のドームスへの旅にたどり着いたのだが、思いがけず前置きが長くなってしまったので、ここで一区切りつけることにする。

信仰の目から見た聖地での霊的体験記を期待された向きには、とんだ肩透かしを喰らわせる羽目になったが、次回はそのご期待にしっかりお答えするつもりなので、ここはひとまずお赦しをいただきたい。


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