:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ インカルチュレーション =キリスト教の受肉=(その-2)

2012-05-08 01:23:32 | ★ インカルチュレーション

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インカルチュレーション(その-2)

= 宗教と文化の関係 =

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昨日(この部分を書き出したのが5月4日夜)、マサチューセッツのボストンに入りました。アメリカは広いので、あちこち行ったことのあるつもりの私でも、ここは初めての街です。気温10度Cでちょうど新緑が始まったところです。16日までのこのアメリカの旅の話は、旅が終わってからシリーズでぼつぼつ書くとして、この2-3日の旅の隙間を縫って、つなぎに一つぐらいアップしたいものだと、これから数行ずつ書き溜めます。


ボストン郊外 ベッドフォード やっと新緑が萌えはじめたところ

マリオットチェインのコートヤードホテル 星条旗がいつも掲げられているのは いかにもアメリカらしい

このホテルの310号室で以下のブログを書いています


さて、以前から気になっているインカルチュレーションのことですが、このテーマのを論ずるとき、最初にはっきりさせておかなければならないいくつかの前提があります。

その一つが「宗教と文化の関係」です。私は最近教皇ヨハネパウロ2世の回勅「救い主の使命」(Redemptoris Missio)を読み直しているうちに、教皇がその回勅の中で「インカルチュレーション」を「人々の文化の中に福音を受肉する」と定義しているのを発見しました。実に単純明快、灯台元暗しとはこのことですね。

教皇ヨハネパウロ2世が回勅の中で言うインカルチュレーションの主体は「キリスト教」であり、その「福音」であります。

霊魂と肉体からなる人間に例えて言えば、体が「文化」で、体を生かす「魂」または「命」に相当するものが「福音」、或いはもっと普遍的にいえば「宗教」と考えるのが適当でしょう。決してその逆ではありません。

ある時代のある地域の「文化」に、特定の宗教がインカルチュレートすることによって、その文化に深い影響を与えるということはよくあります。

例えば、「汝の敵を愛しなさい」と言うキリスト教の固有の「教え」は、文化次第で変わるものではなく、まして特定の文化から生まれたものでもないということです。また「隣人をおのれのごとく愛しなさい」と言うキリスト教の特徴的「教え」も、キリスト教が伝搬するどの文化圏においても、不変の「教え」として、文化の中に受肉して変化をもたらします。

その逆に、新約聖書のマタイ513節に「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである」とあるように、文化によって信仰内容が浸食され、変質し、形骸化することがあれば、それは宗教の自殺行為であり、塩が塩味を失って、ただの白い粉に成り果てた姿であるというべきで、これはインカルチュレーションとは関係がありません。

もっとわかりやすい例を挙げましょう。

先に、ブログ「自殺者統計 -なぜキリスト教の宣教は必要か-」124日)

http://blog.goo.ne.jp/john-1939/c/1b4e9eb8c54531d4404fb2075429b7bd 

の中で「世俗化」と「グローバリゼーション」のことを書いたとき、私たちは世界中の文化が「宗教離れ」現象をお越し、「均質化」の一途をたどっている有様を見ました。

この変貌していく世界の文化に対して、教皇パウロ6世は1968年に回勅「人間の生命」(フマーネ・ヴィテ)を発表し、信徒の覚醒と生活の変化を通して、世俗化に対する歯止めとして「キリスト教的な生命に対する価値観」を現代世界にインカルチュレートさせようと試みました。

この教えの中で教皇は、「夫婦の性の営み」は「新しい生命の創造」という神のみ業に参加する神聖な行為であって、常に命の賜物に対して寛大に、英雄的に開かれたものでなければならないことを、信仰の真理、カトリックの教義として、高らかに宣言しました。それは、一言で言えば、夫婦の愛の一致と喜びは、生殖と種の繁栄から切り離して取り扱われてはならないということに尽きます。

これは、迫りくる世俗化の脅威に対する教会の先制的対応でした。そして、それはキリスト教が世俗化し変貌していく社会の中で生き延びるための必須の要件でもありました。

しかし、時すでに遅く、全世界のカトリック教会は、上は枢機卿、司教たちから、下は第一線の神父たちに至るまで、それを時代錯誤の実行不可能な「絵に描いた餅」として顔をそむけ、無視し、教皇の教えを信徒に伝える義務をサボタージュしました。彼らは、それを口にしたら、ただでさえ減り始めた信者たちが一斉に教会に来なくなると恐れて、信徒たちに実践を求める勇気を持たなかったからにほかなりません。

これは、教皇の言葉こそ教会を救う切り札であることが理解できず、塩が塩味を保つための決定的なよりどころであるという預言的な意味を読み取りえなかった、独身の聖職者たちの招いた悲劇だったと言うべきでしょう。その意味で、フマーネ・ヴィテの教えは世界規模でいずれの文化にもインカルチュレートすることに失敗したと言ってもいいでしょう。

世俗化しグローバル化した社会の堕胎と避妊の「死の文化」(脚注)を前にしながら、最高の指導者である教皇の声に耳をふさいで、世俗化の攻勢に対して、無抵抗のまま組織を挙げて全面降伏したのが今のカトリック教会の姿です。これはインカルチュレーションでもなんでもありません。世俗化し、神聖な、超越的なものに対する感性を失った社会の力に飲み込まれた宗教の死骸、「塩味を失った塩」の唾棄すべき姿にすぎないと言うべきではないでしょうか。

「死の文化」に対して、キリスト教は教皇の説いた「生命の教え」をもってインカルチュレートして、社会を生かすべきものでした。

ある年寄りの司教様は(脚注)、ユーモアをこめて、パウロ6世教皇の回勅「フマーネ・ヴィテ」(人間の生命)を真剣に受け止め、世俗化の怒涛の流れに逆らって、勇気をもってその普及に努め、果敢に戦ってそれなりの成果を収め得た男は、10億のカトリック信者の中にたった2人しかいなかった、と言われました。その一人はポーランド人のヴォイティワ司教、後に教皇となったヨハネパウロ2世と、もう一人はスペイン人の一介の信徒、新求道期間の道の創始者、キコ・アルゲリオでした。

少なくともこの二人と、その二人の後に従うカトリック信者たちは、塩味を失っていない塩、本当の「地の塩」として信仰を証しする宣教者たちに育っていきました。

もちろん、10億の信徒の中には、個人の信仰と良心の声に従って、教皇パウロ6世の回勅の教えを誠実に実践した無名の貧しい子沢山の人たちもいたに違いありません。しかし、孤立してばらばらに生きられた彼らの信仰の行為は、教会と社会を大きく変革するだけの起爆力を持ちませんでした。

バチカンの大謁見場を満たしたキコの薫陶を受けた家族たちを前に、前教皇ヨハネパウロ2世と現教皇ベネディクト16世は、100家族単位で延べ数百組(多分すでに1000家族以上)-それも多くは10人以上の子沢山の-宣教家族を全世界の最も世俗化が進んだ国の、しかもしばしば最も貧しい地域に派遣しました。派遣に際して、教皇が彼らが必然的に担うであろう困難と苦しみを象徴する銀の十字架を手渡す感動的な場面を、何度も私は目撃してきました。

 そういう家族が一人っ子政策の中国に入ると、人々は驚嘆と羨望の眼差しでこのキリスト教の生きられた証しを見守ります。こうして、キリスト教の教えは「パンだね」のように現代中国の市民生活と文化を内側から変革し、インカルチュレーションが実現していくのです。

 カトリック教会が説くインカルチュレーションは、教会が新しい文化と社会を前にして、それと妥協し、融合し、自らを適応させ、折衷し、変身していくことを意味しません。あくまでも文化と言う「体」の中に「不滅の生命」として受肉し、キリスト教的魂をそれに与え内面から変革するということです。

 日本でもそのことはすでに実際に起こりました。具体的な例として、古くはフランシスコ・ザヴィエルの時代に、堺の豪商千の利休によって茶の湯の世界に起こったこと、近くはホイヴぇルス神父によって能と歌舞伎の世界においてなされた試みについて述べたとおりです。 


 ここまでの説明で、キリスト教、カトリック教会のインカルチュレーションに関する正しい在り方、正当な教義についてはっきりさせることができたかと思います。

次は、その基準、原則に照らして、過去半世紀ほどの間に、日本のカトリック教会で行われてきたインカルチュレーションの様々な試みについて検証し、私の眼には疑わしい、あるいは誤っているのではないかと思われるケースについて述べてみたいと思います。


お祭りでもないのに住宅街が星条旗にあふれている ここはアメリカのボストン郊外

6日はボストンのシンフォニーホールで キコ氏の作曲したシンフォニー{無垢なる者たちの苦しみ」

のコンサートとレセプションがありました


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(脚注)ある老司教との会話の中で、「ピルが解禁されるまでに日本で行われた人口妊娠中絶(堕胎=殺人)の数は約6000万件だった」と聞きました。

私は、今回 Wikipedia の「人口妊娠中絶」の記述の中に現れた厚生労働省の統計から数字を拾い上げ、積算して過去60年ほどの間に約3500万件以上の中絶があったと理解しました。しかし実態はそんなものではないでしょう。ひょっとしたら、日本の人口ほどの数が直接、間接に闇に消されていったのかもしれません。これは、戦争や、地震や、津波によるよりもはるかに大きな恐るべき人命の損失です。それにしても、1975年頃は10代の未婚の少女ならいざ知らず、40代の女性が妊娠した生命の90%が、2000年でも70%が、人工中絶(堕胎)の対象にされていたという数字にはさすがにショックですね。これが、世俗化しグローバル化した「死の文化」の実態ではないでしょうか。

今も急速に増え続けている地球人口の中で、カトリック人口は伸び悩み、回教徒人口はカトリックをしのいで伸び続けています。パウロ6世教皇の「フマーネ・ヴィテ」の教えは、この「死の文化」の中にあらためて「インカルチュレート」しなければならないのです。さもなければ、カトリック教会は世俗主義に飲み込まれて、静かに、ゆるやかな安楽死を遂げることになるのではないかと恐れます。


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7日 今朝ボストンを発って バスでニューヨークに向かい

 

日本の長距離観光バスよりだいぶ胴長

オーケストラとコーラスを引き連れた我々旅の一座は

このバスを 5 台連ねて巡るのだ


午後 ニュージャージーのレデンプトーリスマーテル神学院に旅の荷を解きました


人間がそばに立っていればデカさが引き立つのだが…

要するに フロントガラスが小さく見える分だけ 全体が大きいのだ

運転席の後ろには大きなキャンピングカーほどの居住空間が


晩の9時から ミサです


(つづく)


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★ インカルチュレーション =キリスト教の受肉=

2012-02-10 15:35:44 | ★ インカルチュレーション

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インカルチュレーション

=キリスト教の文化への受肉=

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二回続けて軽いタッチの雪のブログを書きました。評判はまずまずでした。今朝からまたローマは雪ですが、このテーマはもう新鮮味が失せたので繰り返しません。

 重い能に軽い狂言が混じることによって舞台は立体化しますが、狂言ばかりでは能楽の舞台は成立しません。それで、私のブログの舞台もまた少し重いテーマに戻りましょう。

 



人々がどのようにして私のブログに辿り着くかは、「検索キーワード」というツールを監視していると、ある程度見えてきます。そして、最近気が付いたのですが、度々上位にランクするのが「インカルチュレーション」というキーワードです。

何かおかしくないですか?

なぜって、私のブログの読者の中でクリスチャンは必ずしも多数派ではないと考えられるのに、きわめて特殊なキリスト教の「業界用語」が頻出しているのですから。

 

 「インカルチュレーション」つまり、直訳すると「カルチャーの中に入ること」という言葉は、アジアのカトリック教会では以前からの流行語です。日本では盛んにキリスト教の「土着化」とか言い換えられていますが、私は直観的に危険な臭いを感じて、その言葉を好んで使う人たちを常に懐疑的な目で見てきました。

 手始めに、「新カトリック大辞典」と言うのをひも解いてみました。他の項目とは不釣り合いに、「インカルチュレーション」の記述は2ページ余りにわたる長文のものでした。しかし、案の定これと言う収穫はありませんでした。こんなのを話のベースに用いるなんてとんでもないぞ、とも思いました。

 



 やはり、確かな出発点は教皇の教えでしょう。前の教皇ヨハネパウロ2世は、1990年に「救い主の使命」Redemptoris Missio)という「回勅」を発表しています。「回勅」の内容には、カトリック教会の正しい教えとしての権威があります。

 教皇は(したがってカトリック教会は)インカルチュレーションを「福音の文化内開花」としてとらえ、「人間のいろいろな文化のなかにキリスト教を入れること」「その文化の実際の価値を親しみをもって変容させる方法」と定義しています。また、教会は「『インカルチュレーション』をとおして福音を種々の文化の中に受肉(インカルネート)させる」とも言っています。

 ヒントとしては、これで十分でしょう。

 

 手始めに、私の理解したインカルチュレーションの具体的な例を2-3のべましょう。

 

 私がまだ20歳台前半の若い学生だった頃の話です。東京四谷の聖イグナチオ教会の当時の主任司祭は、戦時中に上智大学の学長の座を軍部の圧力で解任されたヘルマン・ホイヴェルス神父でした。哲学者、詩人で、戯曲作家としても活躍し、皇居で外国人が受けることの出来る最高の勲章にも輝いた優れたドイツ人イエズス会士でした。私は、18歳で上京して以来、神父が亡くなられるまで、ずっとその薫陶を受け、幸せな青年時代を過ごしたものでした。

 

 最初の例は、ホイヴぇルス師が宝生流のために新作能「復活のキリスト」を創り、上演したことです。木戸久平という能面師が、世界にただ一面キリストの能面を打ちました。能楽の伝統と歴史にとって画期的な出来事でした。初演以来、毎年春、神父の没後も、復活祭の頃になると宝生流ではこの「復活のキリスト」の能を上演するならわしになったと聞いています。日本の文化の代表的な能と能面の世界に、キリスト教の最も大切な教え、「キリストの復活」がインカルチュレート(受肉)したよい例だと思っています。

 

在りし日の中村歌右衛門


 二つ目の例は、同じホイヴェルス師の原作の歌舞伎「細川ガラシア夫人」が、東京の歌舞伎座で一カ月にわたって上演されたことです。戦後を代表する立女形六代目中村歌右衛門が舞うガラシア夫人の姿は怪しいまでに美しく、大好評でした。私は、初日、中の日、落の日の3日間、常にホイヴェルス神父の隣の席にいて、舞台を見つめる師の真剣な横顔を何度も見上げたことを懐かしく思い出します。ホイヴぇルス師と歌右衛門の二人だけのはずのところにも、なぜかちょこんと同席した学生の私に、師はカトリック新聞に劇評を書くようにすすめられ、怖いもの知らずで書いた殆ど半ページに及ぶ記事が新聞に掲載されました。今のカトリック新聞とは全く違う編集の雰囲気でした。 

 これなども、「人間のいろいろな文化のなかにキリスト教を入れ」「その文化の実際の価値を親しみをもって変容させる」という教皇の定義にぴったりの例ではないでしょうか。


在りし日のホイヴぇルス神父様


 三番目の例は、やや時代を遡りますが、日本の茶道です。私は小学校に上がるか上がらないかの頃に、父親から本籍地の地名を暗記させられたものです。キョウトシ・ウキョウク・サガ・シャカドウモンゼン・ウラヤナギチョウ・○○バンチ、と72歳になった今でも、すらすらと口をついて出てきます。嵯峨釈迦堂門前・・・とは、嵐山に近い清凉寺前のことで、その裏の竹藪を抜けると厭離庵という尼僧院があって、その側に旧大蔵次官をしていた父の長兄の家がありました。私はその門構えから玄関に続く敷石道の両側の楓の林をよく覚えています。私の祖母は、晩年は京都のこの家から、父を頼って私の家に移ってきました。

 祖母は表だったか裏だったか、茶の湯をとても愛していて、子供の時よく正座させられて、足がしびれて往生したものでした。その後もイエズス会の修練院では毎週一度お茶の先生がやってきて、たて方を教わりました。

 長くなるので堺の豪商の千の利休が密かに洗礼を受けていたかどうかの議論には入りませんが、聖フランシスコ・ザビエルのもたらしたカトリックの信仰を、彼は深く深く理解していたと私は断言できます。古田織部、細川忠興、高山右近ら、利休七哲のうち5人までが熱心なキリシタン大名であったことを見ても、利休が彼らと同じかそれ以上にキリスト教の真髄をきわめていなければ、キリシタンの弟子たちを導き、茶の湯の精神的世界を樹立することは絶対に不可能だったに違いありません。

 下手な作文をするよりも、裏千家講師で春日部福音自由教会の高橋敏夫牧師が19941月の「福音自由誌に書いた一文を引用しましょう。

 


茶道は、日本文化の結晶である。(中略)(当時)キリスト教と茶道とのかかわり、歴史的な事実を、痕跡さえも意図的に抹殺しようとする力が働いたので、その事実関係を明らかにすることは、まことに困難を極めている。思想においても、造形においても、キリスト教とは全く無縁のものとして、茶道はその拡がりを見せていったのである。

 以下は、まことに一般的なことであるが、キリスト教と茶道の関わりについて申し述べよう。

 先ず第一に庭である。庭園の思想は、そもそもパラダイスの思想である。(中略)茶庭におけるいわゆる坪庭、露地は天国に旅する求道の道である。蹲踞(つくばい=低い手水鉢)があしらわれ、その傍らに灯篭が置かれ、一人しか歩くことのできない飛び石が打たれる。この庭を考案したのは、キリシタン大名古田織部である。その飛び石は、一人でしか歩めず、自らを赤裸々にして歩み、蹲って命の水によって清められる。世の光なるキリストに照らされて歩む歩みでなければならない。まさにそれは天路歴程の姿なのだ。

 そして、である。茶室に入る折は、躙り口(にじりぐち)を通らなければならない。これは千利休が考案した茶室特有の出入り口である。(中略)なんとその利休考案の躙り口、前述した山崎の妙喜庵に国宝待庵の茶室として、400年の月日を経て現存しているのである。それはまさに主の御言葉、「狭き門より入れ」の御教えでなくて、なんであろうか。(中略)

 高山右近の高潔な品格と交わりが、秀吉に接近しつつも、真の交わりは、世にあるものをすべて捨て去れなければならないことを、利休に気付かせたのではないか。その茶室の入り口において、彼はそれを表現したのである。

 しかも、利休は述べている。花は野にあるごとく。なんと、主の山上の説教を彷彿とさせる言葉ではないか。

 そして、一椀の茶をみんなですするのは、わが主の命じ給いし聖餐を暗示しているのではないか。しかも、である。利休は、客をもてなす折に、帛紗(ふくさ)を腰につけたのである。これこそ、あの最後の晩餐の席で手拭いを腰に巻いた主イエスの、しもべとなった姿をあらわしている。

 などなど、キリスト教と茶道の関わりについて、申し述べたらキリがありませんが、紙面の都合で、ここまでと致します。

 

 これこそ、インカルチュレーションの極致ではないでしょうか。私に言わせれば、利休の茶室庭園は、キコがインスピレーションを得て開いた「新求道期間の道」を庭園の形にして表現したものです。坪庭、露地は、高橋牧師が言うように、まさに「天国に旅する求道の道」つまり「求道期間の道」であり、飛び石は「道」の各段階であり、蹲踞(つくばいは)は「洗礼盤」であり、傍らの灯篭は受洗者が洗礼の時に受けるともし火であり、「道」を照らす光だと言えましょう。聖書のたとえの「狭き門」である「躙り口」から入った空間(茶室)はまさに聖餐式(ミサ)が執り行われる場所(聖堂やチャペル)です。カトリック教会が第2バチカン公会議以前(利休の時代)に用いていたミサの道具の多くが、茶道具として今日に伝えられています。ミサのホスチア(パンをかたどったもの)は茶菓子に、ぶどう酒は抹茶にと姿を変えてはいますが、茶碗、菓子鉢、帛紗(ふくさ)、茶巾(ちゃきん)、水差し、なつめ、香合、花入れ、などなど、「ああ、これはあのころのミサのあの小道具、この小道具と一対一で対応するな」、と思われるものがたくさんあります。

 それらの道具を用いて利休が象徴的に表現したのが、カトリックのミサだったのです。キリストの最後の晩餐の記念は、戦国時代の将軍や豪商の風流であったと同時に、明日は戦場で死ぬ戦国武将らの最期の宴、能の舞のように最期の心を整える魂の儀式にまで深められた違いありません。

 茶道は日本ではキリシタン伝来以前から愛好されていましたが、それが、利休の手にかかると、見事にキリスト教の魂をインカルチュレートする手段となったのでした。

 子供心に、帯に帛紗を挟んで、両手を帯の下あたりにピタリと揃えて、能の舞のようにすり足でしずしずと畳の上を歩いて入ってくる祖母を見上げながら、早くお菓子が欲しいとしびれる足をもじもじさせていた私は、教会で赤いスカートと白いケープを着けてミサの侍者をさせられたとき、丸暗記した意味不明のラテン語でミサ答えをしながら、「ふーん!ミサっておばあちゃんのお茶みたいだ」と直感的に思ったのが、今は、利休の茶の湯はカトリックのミサを日本の伝統文化の茶道にインカルチュレートしたものだと分かって納得しています。

現代の茶道愛好家たちは、気付かずに400年前にインカルチュレートしたカトリックのミサを日々行っているのです。そして、カトリックの神父たちも信者たちも、流行語のインカルチュレーションを盛んに議論しながら、茶の湯を自分たちの信仰とは無縁の日本の伝統文化だと思って眺めているというのは、考えてみれば実に奇妙な話ではないでしょうか。


「新求道期間の道」の典礼に則ってミサを捧げ、パンを裂くる教皇ヨハネパウロ2世

金銀の器や、手焼きの大きな種無しパン、多数の大きな銀色の盃になみなみと注がれたぶどう酒

確かにここに茶の湯との共通点を読み取るのは容易ではないが・・・

 

一回分のブログの原稿としては既に限度を超えて長くなりました。次回からは、インカルチュレーションの言葉のもとで-またその関連で-行われている、誤った、あるいは、危険な、試みについて論じてみたいと思います。乞う、ご期待。

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★ 「インカルチュレーション」 (その-1)

2008-09-15 14:28:24 | ★ インカルチュレーション



イスラエルで見つけた野生の孔雀

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★ 「インカルチュレーション」 (その-1)

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問題提起!

「キリスト教が、ナザレのイエスの平和の教えを裏切って、戦争の一方の当事者の後ろ盾としての宗教に変質してしまったのは、コンスタンチン大帝がキリスト教をローマ帝国の国教扱いにした時期と明らかに符合する。
キリスト教は、その時を境にして、ローマ帝国の中で不協和音を奏でる異分子、気持ちよく共生できない嫌な存在、であることをやめて、ローマ帝国の文化(カルチャー)に滑らかに融合・土着化した。つまり、現代的なカトリック用語で言えば、『インカルチュレート』したのであった。」
と、こう書けば、「たまには奴もまともなことを言うではないか!」と褒めていただけるであろうか?
ところが・・・、である。
まことに残念ながら、私は、上のいわば定説とも言うべきものの捉えかたに、異議を差し挟むのである。
この定説は誤っている。そう私は断言できる。何故か?
それは、追い追い説明するとして、今はただ、上のような「インカルチュレーション」の言葉の誤った恣意的な使い方を、もしここで許してしまったら、第三千年紀におけるキリスト教のアジアへの、そして日本へのインカルチュレーションを論じるとき、再び、人々を同じとんでもない重大な過ちに導き入れる危険性が予想される、とだけ言いたいのである。

キリスト教のローマ帝国による国教化は、どのようにして進められたのか?

キリスト教徒ヘレナを母とするコンスタンティヌスは、一時期ミトラ教に傾倒したが、それ以前に信じていた宗教から身の破滅を予言され、無神論者になりかけていたと言われる。
コンスタンティヌスは、イタリア・北アフリカを制圧していた簒奪皇帝マクセンティウスを312年にミルウィウス橋の戦いで破り、ローマへ入城、ローマ皇帝(西の正帝)となった。
通俗的に流布している歴史によれば、この戦いの前にコンスタンティヌスは光り輝く十字架(キリストを意味する Ρ と Χ の組み文字という説もある)と「汝これにて勝て」という文字が空に現れるのを見たため、十字架を旗印とし、兵士の盾にその印を描かせて戦い、そして勝利した。
十字架がキリスト教の世界で広く重視されるようになったのはこの出来事以降のことであるらしい。ネロ皇帝による禁止以来、迫害され続けてきたキリスト教徒の間では、キリストの処刑の道具を信仰のシンボルとして用いることはそれまでなかった。
コンスタンティヌスは帝国の統一を維持するため、宗教面では寛容な政策を採り、313年ミラノ勅令によってキリスト教を公認し、後に国教にまでしたことは、後年キリスト教がローマ帝国領であったヨーロッパに浸透する決定的なきっかけとなった。しかし、それはまた、キリスト教の教義決定に異教徒の皇帝の介入を許す事態にもつながっていく。
コンスタンティヌス自身は、337年に小アジアのニコメディアで死去する直前まで、改宗して洗礼を受けることはなかったのである。
彼本人は、キリスト教とは異なり、「太陽神」を「御父」とした。
321年、キリスト教徒が主イエスの復活を祝う「週の初めの日」を「太陽を敬うべき日」と定めた。サンデー、つまり日曜日の起源である。さらに、太陽神の誕生日(12月25日)をキリストの誕生祝日に置き換えた。(実際のイエスの誕生日は5月頃であるという説もある。)
クリスマスの起原は太陽神崇拝にあるのであって、12月25日を祝う習慣は聖書の教えにはない。コンスタンティヌスはキリストの誕生日を「征服されざる太陽の誕生日」を祝うローマの異教の祭りの日と同じ日付にすることによって、異教徒を名目上の(つまり、回心の内実を伴わない)大量改宗に導くことに道を開いた。また、12月24日までの1週間は、ローマの農耕の神をたたえるサトゥルナリア祭で、そこからプレセントや食事の習慣がキリスト教に紛れ込んだ。このように、クリスマスが異教に起源を持っている事は広く認められていたので、17世紀ごろのイングランドやアメリカの植民地ではクリスマスを祝う事が禁じられていたという記録もある。
324年、コンスタンティヌスは東方の正帝リキニウスを破り、全ローマ帝国の単独皇帝となる。翌325年、キリスト教徒間の教義論争を解決するために初の公会議である第1ニケア公会議を開催、アリウス派を異端と決定し、こうして、皇帝がキリスト教の教義決定に介入する先例を作った。十字架が象徴として認知されたのも、「新約聖書」が現在の形で成立したのもこの頃である。このように、異教徒の皇帝が教義決定というようなキリスト教の重要な内部問題に介入すると言う事態が、ローマ帝国によるキリスト教受容の背景にあった。

「インカルチュレーション?」 (土着化、受肉)

問題は、それをもってキリスト教のローマ帝国文化へのインカルチュレーションと短絡的に言ってしまっていいものかどうかである?
もちろん、答えは断じて「ノー!」でなければならない。
先ずもって、コンスタンティヌスが「光り輝く十字架」と「汝これにて勝て」という文字が空に現れるのを見た、と言う話を、無批判に史実として信じ、受け入れることが出来るだろうか?
現代人の合理的理性から言って、それはとても無理な話である。
百歩譲って、仮に彼がそういう白昼夢を見たというのが事実だったとしても、それを、キリスト教の神からのものだなどと言うのは、とんでもない話である。他の異教の神々ならいざ知らず、ナザレのイエスの天の御父は、そんな子供だましを弄ぶ神であるわけがない。
「友のために命を捨てるほど大いなる愛はない」と言う自分の教えを、生涯の最後の瞬間に十字架上の壮絶な死をもって体現して見せたナザレのイエスが、その愛の印である十字架、罪によって引き裂かれた神と人類との間の和解と一致の印である十字架を、ローマ帝国の覇権をめぐって野蛮な血なまぐさい戦争をするプロの殺人集団の旗印にすることを、神が許す、ましてや望む、ことなど絶対に有り得ないではないか。
元を糾せば、キリスト教はユダヤ教から派生したものである。旧約聖書において、既にモーゼの十戒の中に「殺してはならない」とあった。イザヤ書には「彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」と言う理想が掲げられてもいた。類似の表現は旧約聖書の随所に見られるのである。
ナザレのイエスは、そうしたユダヤ的精神風土、霊的遺産の完成者であった。
神が、殺人で生計を立てる職業軍人の軍旗の印としてイエスの十字架を用いよと告げることは、まさにイエスが命がけで説いた愛の教えを否定し、神が自らを冒涜し、神自身が自己矛盾を犯す行為に他ならないではないか。
あれは、神からではなく、人間の勝者、権力者によって、自らの行為の権威付けに、後付けで捏造された神話であって、無論史実ではなく、その背景には、別の様々な事情があったに違いないと考えるのが常識であろう。
当時のローマ帝国内では、既に300年の長きに亘って、ユダヤ教から派生したキリスト教が、危険分子として弾圧と迫害の対象とされてきた。
なぜ危険分子か?
ローマ皇帝を神として認めず、ローマ帝国の伝統的神々の偶像崇拝を拒否し、イエス・キリストへの信仰を守るためなら拷問も、十字架上の死も、貴族の戯れのショーのため円形競技場で野獣の餌食にされることすらも恐れない貧しい民衆(中には少数ながら、後の皇帝の母へレナのような高貴の出の人も混じってはいたが)の存在は、帝国の安定を脅かす危険な要素であった。
迫害すればするほど、燎原の火のごとく増え広まっていくキリスト教徒の群れをコントロールするには、ただ弾圧をエスカレートさせればよいというものではなかった。狡知に長けた政略家なら、むしろ、政策を転換し、キリスト教を積極的に帝国のシステムの中に取り込み、「去勢」し、骨抜きの体たらくにして、思い通りに制御する方が得策であることに気付くであろう。そのアイディアがコンスタンティヌスの頭に閃いたのであった。そして、その政策転換の権威付けとして「光り輝く十字架」と「汝これにて勝て」という文字が空に現れるのを見た、と言う神話が作り出されたのに違いないと私は考える。そして、その政策転換が、簒奪皇帝マクセンティウスを312年にミルウィウス橋の戦いで破る上で決定的な役割を演じたものと考えるべきだろう。
神話の部分はさておき、では、実際はどうだったのだろうか。
アダムが眠っている間に、神がそのわき腹の肋骨を抜き取って、それで人類の母、「エヴァ」を形作られたと旧約聖書の創世記にある。
十字架上のキリストの開かれたわき腹から血と水と共に生まれた「教会」(ラテン系の言語では女性名詞)は、キリストの花嫁(浄配)と呼ばれる。異教の神々を拝んでいた粗暴なローマ皇帝が、自分の好きなように何をしてもいいと思って虐げてきた「はした女」にも等しい「帝国の底辺に喘ぐ貧しい人々」が、自分を捨ててキリスト教に帰依し、「キリストの花嫁」、「キリストの妻」となって、最早自分の意のままにならなくなった。これは皇帝のプライドをいたく傷つける出来事であったに違いない。実際面でも、税収の減少や、秩序のほころび、反乱の恐れさえあったろう。
色男「キリスト」に対する嫉妬とライバル意識から、皇帝は一度自分を捨てた「女」=「貧しい民衆」=「教会」を奪還し、手篭めにして再び自分の思い通りにしたい、と言うのが、ミラノ勅令の歴史的な真実ではなかったろうか。
皇帝は、一旦キリストに靡いた女(教会)が、再び自分の腕の中に戻ってくることを条件に、褒美として、豪邸を与え、きらびやかな衣装を纏わせ、それまでの「側女たち」は退け、彼女を「女神」として祭り上げ、偶像の神々の最高神祇官(さいこうじんぎかん)の称号を彼女(教会)の司祭たちの頭に贈ることを約束した。
「豪邸を与え」:(翻訳すると)皇帝による国教化に同意したキリスト教会に、褒美として「バジリカ」を与えた。バジリカとは、ローマの元老院などが、帝国の儀式や集会に使っていた方形の大型建造物である。今でも、ローマの遺跡、フォロ・ロマーノに行けば同種の建物を見ることが出来る。バチカンのサン・ピエトロ寺院を始めとして、サン・ジョヴァンニ・ラテラノ教会など、主だった大聖堂がバジリカと呼ばれる所以である。
「きらびやかな衣装を纏わせ」:(翻訳すると)カトリック聖職者の祭服はローマの元老院の議員たちの礼服を模したものから始まったと言われる。
「それまでの側女たちを退け、彼女を『女神』として祭り上げ」:(翻訳すると)皇帝が拝み、市民にも拝むことを命じてきたギリシャ・ローマの神々を退け、その神殿を破壊し、破壊した神殿の石柱を再利用してそこにキリスト教の教会を建て、祭壇を築き、十字架を祀った。時には、異教の神殿をそのまま使って、偶像を取り除いた後に十字架を安置するだけの略式の宗旨替えもあった。
「最高神祇官の称号を彼女(教会)の司祭たちの頭に贈った」:(翻訳すると)キリストの12使徒の後継者たちとその協力者の司祭たちに、古代ローマの国家の神官職を与えた。以来、ローマの司教は「教皇」(法王)又は(ポンティフェクス・マクシムス、Pontifex Maximus)と呼ばれてきたが、それは、本来は、偶像の神々を拝んできた共和政ローマにおけるすべての神官の長として神官団 (Pontifices) を監督していた最高神祇官のことを指す。任期は終身。ローマには伝統的なローマ神については専任の神官が存在せず、その職は高い権威と人格を認められた一部のエリートが市民集会の投票で選出された。宗教的権威を統治機構の権威の源泉としていたローマでは、政務官として選ばれるに足る人物でなければ神官職に選ばれることはなく、また神官職の権威は選ばれた者に政務官にふさわしいとの権威を与えた。こうした神官職の頂点に立つ最高神祇官の権威は、他の官職と比べ何の権限も持たない割には非常に絶大で、神官団の中で最も権威と実績を持った高齢者が就任することが通常であった。最高神祇官にはフォルム・ロマヌムにあった公邸が与えられた。
これらのことは全て1対1で現代の教皇にそのまま当てはまる。彼は文字通りポンティフェクス・マクシムス(Pontifex Maximus)を自分の称号として用いている。彼の任期は終身である。かれは、キリスト教界の最高エリートである枢機卿達の間で互選される。彼は、宗教的権威と統治機構の権威を兼ね備え、バチカン市国の元首として宮殿に住んでいる。
このように、コンスタンチン体制は今もカトリック教会にしっかり生きている。
コンスタンチン体制とは、キリスト教がローマ帝国の歴史と文化にインカルチュレートしたものではない。キリスト教の魂が、ローマの歴史と文化に受肉しそれを生かし、帝国の風土に土着化しそれを豊かにしたのでもない。
キリストの花嫁、聖なる浄配であったものが、世俗主義の化身、ローマ皇帝に手篭めにされ、囲い込まれたあられもない姿である。キリスト教の魂は抜き取られ、ローマの偶像崇拝の精神がキリスト教の中心に忍び入ったというほうがむしろ正しいくらいである。
だから、教会は「サンタ・ペッカトリーチェ “Santa Peccatorice”」(聖なる罪の女)と呼ばれる。「聖なる」、なぜなら聖なるキリストの浄配だから。彼女は不実でも、彼、キリスト、は忠実で今も彼女を愛している。「罪の女」、なぜなら世俗の権威に魂を売り、身体を任せた自堕落な女だから・・・・。

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こんなこと書いてしまって、いいのですか?と心配の向きもあろう。
もちろん、そのまま言いっぱなしでいい訳はない。上の何倍もの言葉を費やして、私の愛する教会を弁護し、擁護しなければならない。しかし、それは次回以降に回すほうがいい。
今は既に長く書きすぎたし、今回の目的は、「コンスタンチン体制はキリスト教がローマ帝国にインカルチュレートしたものだ」などと言う、誤った粗雑な俗説に水を差すことに成功しさえすれば、それで十分なのである。 (つづく)


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★ 「インカルチュレーション」(その-2)

2008-09-11 14:27:31 | ★ インカルチュレーション





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「インカルチュレーション」(その-2)

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私は前回のブログの最後に「こんなこと書いてしまって、いいのですか?と心配の向きもあろう。もちろん、そのまま言いっぱなしでいい訳はない。上の何倍もの言葉を費やして、私の愛する教会を弁護し、擁護しなければならない」と書いた。

確かにそうである。だから、まず前回書いた「こんなこと」の中身を要約することから始めよう。

西暦紀元ゼロ年前後のローマ帝国においては、帝国の底辺に喘ぐ貧しい人々、疎外された人々は、皇帝にとって、抑圧して搾取しようが、手篭めにしようが、弄んだ末に命を奪おうが、何をしてもいい「下女」か「女奴隷」のようなものだった。
ところが、その「女」、つまり、帝国の底辺に喘ぐ貧しく虐げられていた人々が、ユダヤ人の間から彗星のように現れ十字架の上で惨たらしい死を遂げたナザレのイエスに出会うと、その福音を信じ、回心し、洗礼を受け、教会を構成して、「キリストの花嫁」となった。
皇帝にしてみれば、キリストと言う強烈なライバル、「色男」に、自分の「女」を寝取られて、いたくプライドを傷つけられた気がしたにちがいない。実利的にも数々の不都合が生じる恐れがあった。自分をもはや神として認めない。自分が拝む偶像を一緒に拝もうとしない。兵隊を向けて脅し、迫害しても、自分に従わない、殉教を恐れない。そのまま放っておけば帝国の秩序が崩壊する危険さえあった。
そこで考えたのが、弾圧しても駄目なら、取り込んで篭絡してしまえ、だ。
それまでの皇帝の「そば女」たち、つまり、ギリシャ・ローマの神々を全部廃止して、キリスト教を自分の宗教、自分の唯一の「愛人」として迎え入れた。
神々の神殿を壊してその址に教会を建て、ローマの代表的建造物を大聖堂としてあてがい、キリスト教の祭司たちを宮殿に住まわせ、ローマの元老院の議員たちが着ていたようなきらびやかな礼服を祭服として纏わせ、異教の神々の神官の地位「ポンティフェックス」をこれに与えた。ローマ教皇が今日「ポンティフェックス・マクシムス」(最高神祇官)の称号を受け継いでいるのはその由縁である。
ガリレアの無学な漁師たちの後継者だった神父や司教たちは、急に偉くなって決して悪い気はしなかったに違いない。彼らも人間だもの。
キリストが十字架上の苦しみに満ちた死を通して自分の血でもって贖った女、「教会」は、キリストを裏切って、奴隷女であったときの元のご主人様、「ローマ皇帝」とよりを戻して、皇帝の「正室」の座に着いた。これが「コンスタンチン体制」の本質だ。
キリスト教会が「聖なる罪の女」(サンタ・ペッカトリーチェ)と呼ばれるのは、「聖なるキリストの浄配」つまり「神の花嫁」でありながら、この世俗の覇者、「皇帝」に手篭めにされ、身を任せた「自堕落な女」に成り下がったからに他ならない。
ヨーロッパ中世を通じてつい近い過去まで、皇帝と教会は最強のコンビだった。世俗の覇者「皇帝」に「教会」は神のご加護を約束し、「教会」はその見返りに「皇帝」の手厚い保護を手に入れた。
キリストが「神のものは神に、セザル(皇帝)のものはセザルに」と、互いに相容れない対立概念として厳しく分けたものを、キリストの遺言に背いて「神聖なキリスト教帝国」の概念のもとに地上における不可分の一体として結婚させたのである。
この「蜜月」関係は、西暦313年のミラノ勅令の頃から、ヨーロッパ中世からルネッサンス、大航海時代とプリテスタンとによる宗教改革、産業革命、第二次世界大戦を経て、大体1964年の東京オリンピックの頃まで綿々と続いたのである。

ただそれだけのことか?

上の粗いスキームは、「コンスタンチン体制とはキリスト教がローマ帝国にインカルチュレートしたものである」などと言う、誤った粗雑な俗説に水を差すことに成功しさえすれば、取り敢えずはそれで十分だと言った。確かにそれで当面の目的は達せられた。
しかし、本当の問題はそこから先にある。
コンスタンチン体制下では、目に見える地上の教団、生身の人間が寄り集まって構成する宗教団体としてのキリスト教は、ナザレのイエスを裏切り、皇帝とよりを戻した不貞の女に成り下がってしまったのは紛れも無い歴史的事実であった。
では、キリストの死は無駄に終わったのだろうか?
決してそうではない。
人間が神を裏切る事はあっても、神は常に自分の約束に忠実である。キリストの浄配、つまり、イエスを頭とし、目に見えない神秘的なキリストの身体を構成するものとしての教会は、コンスタンチン体制下にあっても、まるで砂漠の伏流のように脈々と生き延びていたのである。
それを可能にしたものは何か?それは、伝統的教会用語で言えば、「聖書」と「聖伝」と、そして、それらに命を与える神の霊、「聖霊」であり、また、それを命がけで生きた有名・無名の聖人たちの群れである。そして、新しい酒であるキリストがユダヤ教の古い皮袋から拒まれ、十字架の上で非業の死を遂げたように、それら聖人たちの多くも、キリストに倣って迫害され苦しみを背負ってその多くは殉教の死を遂げていった。(このあたりのことは、カトリックでない読者のために、またあらためてゆっくり説明しなければならない。)
コンスタンチン体制以前の教会においては、迫害者はキリストを拒んだユダヤ教指導者であり、それと気脈を通じたローマ帝国の異教徒であったが、コンスタンチン体制下になると、その役割を担うのは地上の権力となった教会当局それ自体であることが多かった。
教会社会の中で、教会の権威によって迫害され、疎外され、しばしば異端として断罪され、魔女として焼かれてきた人々の中に、キリストの花嫁、神の浄配としての純潔を生きた人たちが多かったに違いない。彼らこそ、復活の日に殉教者、証聖者として、人々と天使たちの前で勝利の栄冠に輝くに違いないのである。
この点については、多くを語ることが出来るし、語られねばならないが、それはいずれの機会に譲ることとする。

そのコンスタンチン体制が、東京オリンピックの頃に終焉を迎えた

この点に入ると、またまた長い話になる。だから、今日はここで一区切りつけるのがよかろう。



高松の神学校のスロープに育つ「地中海松」の若木。
神学校の建設に先立ってローマを訪れ、教皇ヨハネ・パウロ二世に謁見し、ローマの神学校を見学したとき、地元三本松の大手企業社長(当時)が、その神学校の庭の松の実を持ち帰り、屋敷の庭師に育てさせた苗が生長したもの。

その神学校は日本を追われ、今ローマでの亡命生活を強いられている。この神学校の運命やいかに?

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