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〔完全版〕教皇のインタビュー(その-9)
(最終回の一つ前)
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現場と研究室
そう言うわけで、イエズス会員にとって創造性は重要なことです。教皇フランシスコはCivilta Cattolica チビルタ・カットリカ(カトリックの文明)誌 の司祭たちとその協力者たちを謁見した際、イエズス会員の文化的な働きにとって大切な他の三つの資質について詳しく語った。去る6月14日の記憶に戻ろう。あの日、私たちのグループ全体との対話に先立って行われた打ち合わせの中で、教皇は私に「対話」と、「識別」と、「現場主義」の三本柱についてあらかじめ話した。そして、教皇パウロ6世がある有名な演説の中でイエズス会員について述べた箇所、すなわち、「最も困難で先鋭化した問題の分野にあっても、イデオロギーが衝突する場所においても、社会の掃き溜めのようなところでも、教会の中のあらゆる場所で、火がついた人間の緊急事態と福音の普遍的のメッセージとの間の対決がかつて存在し今もある場所にイエズス会員はいたし、今もいる。」を引用しながら、特に最後の点、つまり、現場主義のことを強調した。
教皇フランシスコにいくらかの説明を求めた。「わたしたちに《現場を都合よく手なずけてしまう誘惑》に陥らないように、現場の方に出向くべきであって、現場を家に持ち帰って化粧を施して飼い慣らしてしまわないよう気を付けるように」と言われました。それは何のことを指して言われたのでしょうか?正確には何を言おうと意図されたのでしょうか?このインタビューはイエズス会が編集している幾つかの雑誌のグループの間で合意されたものです。彼らに対してどのような勧告をなさりたいのでしょうか?彼らの優先課題はどのようなものでなければならないのでしょうか?」
「チビルタ・カットリカに向けた鍵になる3つの言葉は、多分それぞれの性格と目的によって強調点は異なってくるとしても、イエズス会のすべての雑誌に当てはめられることが出来るだろう。私が現場にこだわるのは、人がその中で働きそれについて考察する状況の中に溶け込む文化を形成することがその人にとって必要であることを、特別な形で指摘したいからだ。そこには、研究室の中に生きる危険性の罠が常に待ち受けている。我々の信仰は研究室の信仰ではなく、歩みの中の信仰、歴史的な信仰である。神はご自分を抽象的な真理の要約としてではなく、歴史として啓示された。私が研究室を恐れるのは、研究室の中では問題を取り上げ、自分の家に持ち帰って、その問題を現実の状況から切り離して飼い慣らし、ペンキで塗りこめるからだ。何も現場を家に持ち帰る必要はなく、現場にとどまって生きて大胆にふるまうべきなのだ。」
教皇にご自分の個人的体験に基づいた例を何か語ってもらえないかと聞いた。
「社会的な問題について語るとき、一つのやり方はvilla miseria(麻薬患者収容施設)の建物の中で集まりを開いて麻薬の問題を研究することで、もう一つのやり方は麻薬が常用されている現場に入って、そこに住み込んで問題を内側から理解し研究することだ。ここにアルーペ神父のCentros de Investigación y Acción Social(研究と社会活動センター)宛の貧困に関する天才的な手紙がある。その中で彼は、もし貧しい人たちが生活しているその現場に直接入って体験しないならば、貧困について語ることは出来ない、と明白に述べている。しかし、この《現場に入る》と言う言葉には危険も含まれている。なぜなら、ある種の修道者らの場合、それが一種のファッションのように受け取られ、識別の欠如のために大失敗に終わったからだ。しかし、実に大切なことではある。」
「現場は実にたくさんある。病院で生活している修道女たちのことを考えてみよう。彼女たちは現場を生きている。私はこのような彼女たちの一人のお蔭でいま生きている。私が肺を患って病院にいたとき、医者は私にある量のペニシリンとストレクトマイシン処方した。対処した修道女は一日中患者と接しているので勘が働き、何をすればいいか知っていたので、その薬の量を3倍にした。医者は実に有能ではあったが、自分の研究室に住み、修道女は現場に住み、一日中現場と対話していた。現場を飼い慣らすとは、研究室に閉じこもり、現場から距離を置いた場所から物を言うことを意味する。そこにも有益なことは多々あるとはいえ、私たちの考察は常に現場の経験から出発しなければならない。」
人は自分自身をどのように理解するか
そこで、このことは人間論的な挑戦の重要な文化的現場に対しても当てはまるか、またどのように当てはまるかについて教皇に訊ねた。教会が伝統的に言及する人間論と、教会がそれについて用いてきた用語は、社会的な賢明さと経験の結果として堅固な基準の上に据えられている。しかしながら、教会が向き合っている人間はもはやその基準を理解していないか、又はそれを十分なものとは考えていないようである。私は、人が自分を過去とは違ったやり方と違った範疇で解釈し始めている事実について論じはじめた。これはまた、社会における大きな変革と、自己自身に対するより広範囲な研究の原因でもある・・・。
ここで教皇は、立ちあがって自分の事務机の上から聖務日課書を取りに行った。それは、もうすっかり使い古したラテン語の聖務日課書だった。そして、年間第27週の第6週日、つまり金曜日の読書課のところを開いた。彼はレリンスの聖ヴィンチェンツォの第一集(Commonitórium Primum)から取られた一節を読んで聞かせた。ita étiam christiánae religiónis dogma sequátur has decet proféctum leges, ut annis scilicet consolidétur, dilatétur temper, sublimétur aetáte (キリスト教の教義もこの法則に従わなければならない。時代とともに統合されながら、時間とともに発展しながら、年代とともに深みを増しながら進化するのである)。
そして教皇はこう続けた。「レリンスの聖ヴィンチェンツォは人間の生物学的な成長と、ある時代から別の時代へ時間の経過とともに信仰の遺産が成長し、より統合されながら受け渡されていくこととを対比した。この通り、人間に対する理解は時間とともに変化するし、また人間の意識も深まる。奴隷制度が許容され、死刑が何の問題もなく許容されていた時代の事を考えてみよう。このように、真理の理解においても成長がある。釈義学者や神学者は教会が自分の判断を成熟させるのを助ける。他の学問も、その進化も、この理解の成長によって教会を助ける。教会の二義的な規範や規則の中には、かつては有意義であったが、今日では価値や意義を失ったものもある。教会の教義をニュアンスの余地のない固守すべき碑文のようにとらえるビジョンは誤っている。」
「いずれにしても、あらゆる時代に人は自分自身をより良く理解し、より良く説明しようと努力してきた。そして、人は時間とともに自己理解のあり方を変えてきた。サモトラケのニケー(訳注:ギリシャ彫刻の勝利の女神)を刻んで自分を表現したのも人であれば、カラバッジョが表現したのはまた別の人間像であり、シャガールのも別、またダリのものもさらに別のものである。真理の表現の仕方もまた多様で有り得るし、それはむしろ福音のメッセージの普遍的な意味内容を伝えるために必要なことである。」
「人間は自分自身を探求するものであり、この探求の中にあって誤りを犯しうることも明らかである。教会は、例えばトミズムの時代のような天才的な時代を生きたこともあった。しかし、思想の退廃(デカダンス)の時代も経験した。例えば、私たちは天才的なトミズムとデカダンスのトミズムを混同してはならない。残念なことに、私は堕落したトミズムの教科書で哲学を勉強した。だから、人間について思考するに際しては、教会は非凡さをこそ目指すべきであってデカダンスを指向すべきだはない。」
「思想の或る表現が無効なのはどんなときか?それは、思想が人間的な視点を失ったとき、或いは人間的であることをすら恐れたとき、または自分を欺くに任せる時である。それは欺かれた思想であって、それはシレーネ(人魚姫)の歌声の前のユリシーズの姿として、あるいはサテュロスの半人半獣の森の神や酒神バッカスの巫女たちの乱痴気騒ぎに取り巻かれたタンホイザーや、ワーグナーの楽劇の第二幕の中のクリングソルの王宮におけるパルシファルのようなものとして描かれることが出来よう。教会の思想は非凡さを取り戻し、その固有の教えを発展させ深化させるために、人が今日どのように自己を理解しているかを常により良く知らなければならない。」
長かった教皇フランシスコのインタビュー記事も次回が最終回になる。しかもその量は今までの一回分の平均の半分ほどになるだろう。今まで忍耐して読んで下さった方には感謝する。また、面白くもないのに、一回おきにこれが現れる煩わしさにもかかわらず、見限らずにフォローし続けて下さった方にも感謝したい。
(つづく)