:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 〔完全版〕 教皇フランシスコのインタビュー(その-2)

2014-02-11 17:02:07 | ★ 教皇フランシスコ

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〔完全版〕教皇フランシスコのインタビュー(その-2)

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1月21日に「教皇フランシスコとは何者か?」と言う題でブログを書いたら、かなり好評でたくさんのアクセスがあったのですが、すかさず「残念賞!貴男のブログは二番煎じでした」 と言わんばかりに、3-4人の方から「中央公論」の1月号に同じような内容が出ている、とのご教示が相次ぎました。

当方の事情としては、去年の割合に早い時点で訳し終えていたものの、依頼主の版権交渉が宙に浮いたために、見切り発車で試しにブログに載せてみたまでの事で、「中公」の事はローマに居てもちろん知りませんでした。

そこへ追いかけるように、親切な方から同記事をスキャンしたものがメールに添付されて来たので、早速比べてみた所、あちらは全体の3分の1ほど、それも雑誌の読者を意識してか、一般向けの部分しか載せておらず、キリスト教と教皇フランシスコの人となりに興味のある人にとって面白そうな肝心の部分の多くが全く反映されていないことが分かりました。

 それで、そのことをブログに書いたら、「ではぜひ全文掲載を」と言う要望が多く寄せられたこともあって、原文通りの順序による完全紹介に踏み切ることにしました。

 なお、翻訳のベースは、この際 “La Civiltà Cattolica” の雑誌ではなくバチカンの公式サイトで自由に見られるイタリア語版(一語一句まで同じ)をダウンロードしたものに依拠しました。

 

さて、最初の小見出しは:

「ホルヘ・マリオ・ベルゴリオとは何者か?」

でしたが、それは見出しだけ「教皇フランシスコとは何者か?」という言葉に捻って既にブログに紹介しましたので繰り返さず、早速その続きから入ります。

 

なぜイエズス会員になったのか?

 このような形での受諾(訳注:教皇職の受諾)は、教皇フランシスコにとっては一つの身分証明書のようなものだと私は理解した。そこにはそれ以上何も付け加えることはなかった。そこで、あらかじめ第一番目の質問として選んでおいたことに移った。「教皇様、イエズス会に入ることを選ばせた動機になったものは何だったのですか?イエズス会の何に惹かれたのですか?」

 「私はなにか普通以上のものを望んだのです。だけどそれが何であるかわかりませんでした。神学校に入りました。ドミニコ会員たちのことが気に入ったし、ドミニコ会員の友達もできました。しかしその後、神学校がイエズス会に委託されたので、その結果よく知るようになったイエズス会を選びました。イエズス会について3つの点に心を打たれました。宣教精神と共同体と規律でした。奇妙なことに、私は生来規律のキの字にも全く縁遠い存在でした。けれども、時間を秩序付けて用いる彼らの規律は私をとても惹きつけました。」

 「さらに、私にとって本当に根本的だったのは共同体性でした。私は常に共同体を探し求めていました。私は自分を一人で居られる司祭だとはみなしていません。私は共同体を必要としています。そのことは私がこのサンタマルタの建物に居る事実からも理解できます。私が選ばれた時、私はくじ引きで207号室に住んでいました。私たちが今居るこの部屋は客室用の部屋でした。私はここの201号室に住むことを選びました。なぜなら、教皇のアパートに入った時、私は自分のうちにはっきりとした《ノー》を感じたからです。《使徒的宮殿》の教皇のアパートは豪奢なものではなかった。古典的で趣味が良い広いものではあったが贅沢なものではなかった。しかし、詮ずるところ、漏斗(じょうご)をひっくり返したようなものでした。中は大きく広々としているが、入り口は本当に狭かった。まるで一人だけスポイトで吸い入れられるようなもので、人と一緒でなければ生きられない私には、とにかくノーでした。私は自分の生活を他の人と一緒にすることを必要としていたのです。」

 教皇が宣教と共同体について話しているあいだ、私の頭には「宣教のための共同体」について語っているイエズス会の文献のすべてが浮かんできたが、それらは彼の言葉の中に再発見されたのだった。

 

一人のイエズス会員にとって教皇であるということは何を意味するか?

 私はこの線に沿って話を進めたいと思い、彼がローマの司教に選ばれた最初のイエズス会員だという事実を出発点として、教皇に一つの質問をした。「イグナチオの霊性に照らして、あなたが行うように呼ばれている普遍教会への奉仕をどう理解しておられますか?教皇に選ばれるということは、一人のイエズス会員にとって何を意味しますか?ご自分の職務を生きる上でイグナチオの霊性のどんな点がより助けになりますか?」

 それは「識別」だ、と教皇フランシスコは答えた。「識別は聖イグナチオが内面的に最も深く探究したことの一つだ。彼にとって主をより良く知り、主により近い位置で従うための戦いの道具の一つだ。私の心を常に最も強く打ったのはイグナチオのビジョンを描写する《最大》という言葉だ。“Non coerceri a maximo, sed contineri a minimo divinum est.” (最大を要求するのではなく最少で満足するのが神のやり方だ)と言う言葉だ。統治するに際して、目上の立場にあって、この言葉について熟慮した。より広い裁量の余地の中で狭量にふるまうのではなく、より厳しい状況の中でも余裕を持って振舞うこと。大きいことと小さいことに関するこの能力は、我々が置かれている立場から常に地平線を見渡すことのできる度量の大きさを意味する。それは、毎日の小さなことを神と他の人々に開かれた広い心で行うこと。小さなことを神の国という大きな視野の中で評価すること。」

 「この《最大》は、神の事柄を《神の視点から》感じ取る識別の正しい立場を身につけるための判断基準を与えてくれるものである。聖イグナチオにとって、これらの大きな原則は、場所と時と人の状況に受肉しなければならないものだ。ヨハネス23世は、この《最大》を繰り返し言うとき、ご自分なりのやり方で統治の地位に身を置いた際に、omnia videre, multa dissimulare, pauca corrigere,(すべてを見て、多くの事に目をつぶり、僅かなことだけ矯正する)と述べているが、それは、全て(omnia)を見る、それも《最大限に》見るが、僅か(pauca)なことについて《最小限度に》行動する、という意味でそう言ったのだ。大きな企画を持つことが出来るが、それを実現するのはわずかな極く小さなことを行うことを通してだ。あるいは、聖パウロがコリントの信徒への第1の手紙に言っているように、弱い手段を用いながら、強い手段を用いるよりもより効果的な結果を生むことが出来る、と言ってもいい。」

 「この識別には時間が必要だ。例えば、多くの人は諸々の変化と改革は短期間に達成できると考えるが、私は本当の効果的な変化の基礎を置くためには常に時間が必要だと信じる。これは識別するために必要な時間だ。時には、識別の結果として、当初は後ですればよいと思われていたことを、すぐにやるべきだという結論になることもある。それは、この数カ月の間に私にも起こった。識別と言うものは、常に主のみ前で、印を見ながら、起こってくる出来事に聞きながら、人々の、特に貧しい人々の声に耳を傾けながら、実現していくものだ。つつましい車を用いるなどの生活の規範に結ばれたことなどに関する私の選択も、事柄や、関係する人や、時の印の読み取りなどからの要請に答える霊的な識別と結ばれている。主における識別が私の統治形態を導く。」

 「だから、その反対に即興的になされた決定には信を置かない。もし何か決定をしなければならない場合は、いつも最初の決定、つまりこうしようと最初に頭に浮かんできたことは信用しない。たいていの場合、それは間違っている。待って、内面的に評価するために必要な時間をかけなければならない。識別の知恵は、生活に必然的に付きまとう曖昧さから解き放ち、大きくて強く見えるものと常に結びつくとは限らない適切な手段を見つけさせてくれる。」

(つづく)

 

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★ ローマから見た世界(2) =キリストへの感謝のために命を捧げる=

2014-02-06 22:35:32 | ★ 教皇フランシスコ

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ローマから見た世界(2)

「ミッシオ・アド・ジェンテス」

"Missio ad gentes"

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キリストへの感謝のために命を捧げる

世界のあらゆる場所に福音を告げるために教皇に派遣された家族の証し

 

バチカン市国の通信社 ZENIT は、2月1日の新求道共同体の謁見について記事を配信した。コメントを要しない明快な内容なので、私が下手に手を加えるより、そのまま翻訳して伝えるのが適当と思った。ZENIT をはじめとして、カトリック報道の世界ではどこでもその日のトップに扱っているのに、日本の教会では全く扱われないところに、何か問題の根が潜んでいると思えてならない。写真は当日私が撮ったものだ。



(バチカン市国発=ZENIT)2014年2月1日(Zenit.org) Salvatore Cernuzio, Junno De Jesús Arocho Esteves | 

「愛をもって宣教しなさい。あなた達は熱意に燃え、喜びにあふれた宣教者です。喜びを失ってはいけません!」これが復活したキリストの福音を地上のあらゆる隅まで伝えるために今日派遣された「新求道期間の道」の400組以上の家族に与えられた教皇フランシスコの派遣の言葉だった。特に、ヨーロッパとアメリカとアジアの最も非キリスト教化した地帯に対する40の新しい「ミッシオ・アド・ジェンテス」(異邦人への宣教団)の中核をなす174の家族は、この教皇の言葉を大切に心に納めた。

 


派遣される宣教団毎に壇上に上がって跪き教皇の派遣の祝福を受ける


キリストを信じない人と教会から遠ざかった人たちを教会に再び近づけるためには、家族間の愛と完全な一致の証しに頼るほかはないと考える司教達に対して、この「非キリスト者」への宣教は「道」が提供する強力な手段だ。大勢の母親と父親と子供たちが、人が受ける事のできる最大の恵みはイエス・キリストの愛を知ることだという確信に基づいて、今日、家を棄て、仕事を棄て、愛する者たちを棄てて、この召命に応える。 

 

6の子持ちで、そのうち一人はダラスの神学校に入っているニュージャージーの夫婦、ペドロとカルメンは、この同じ愛をまず彼ら自身が直接に体験し、教皇から今日フィラデルフィアへの宣教に派遣された。ペドロはZENITに語った。「神は死の状態にあった私に手を差し伸べて下さいました。私はギャングたちの仲間に入って、麻薬漬けになり、街を彷徨っていました。主はそんな私に妻と子供を与え、何よりもキリスト教的家庭を与えて新しい人間に変えて下さいました。だから、神がわたし達を愛してくださったその愛を告げるために、世界に旅立つ召命を感じたのです」と。


 


「確かに怖くないわけではない-それは認めます-しかし、さっき言ったように、神は死の中にいた私に道を開いて、私に幸福を与えて下さったのを経験しましたから・・・。私たちは、確実に遭遇するに違いない困難を越えて神に信頼を置きます。」妻がその後を引き取って、「私は宣教の困難よりも私の罪の方を恐れます。けれども、私は神がどんな状態から私を救い上げて下さったかを、また、私にはもったいないような具体的な恵み-18歳での結婚と6人の子供たち-を与えて下さったことを忘れません。子供たちは両親のこの選択に満足しているのか、との質問には、直接小さい子供たちが「もっちろ~ん、私たちは大満足よ!」と声をそろえて答えた。「私たちはこの宣教をすることをとても幸せに思う-とカルメンは結論付け-決行の日のことは考えないで、主が私たちのために用意してくださったことだけを見るようにしています」とも言った。


 


教皇が今日の話の中でも言われた通り、主は「常に私たちに先立って行かれ」、「最も遠い場所にも」、また「最も異なった文化の中にも」道を準備してくださっている。この事を確信して、4人の子供と、7人の子供を「天国」に持つミゲルとベアトリスの家族は、1年前にスペインを離れてマンチェスターへと旅立った。「初めのうちは厳しかった-とミゲルはZENITに語った-言葉のこと、生活習慣のこと、食べ物のこと・・・。1年ほどは話すことが出来ず、話かけられても解らず・・・実に《惨めな》状態だった。だけど、神様は私たちの信仰を強めて下さるだけではなく、家や仕事など具体的なものを与えながら、いつもわたし達を助け、何も不足することがないようにはからって下さった。」


 

「私たちが一番心を打たれたのは、-と夫は続けた-子供たちがどんなにうまく適応し、着いたばかりですぐに満足し、英語も見事に覚えていったかを見たことだった!」結論として、この宣教では「私たちの言い方によれば、神様がなさったすべての事、私たちと私たちの子供たちに与えて下さった命に対して、ただただ感謝するばかりです。」

 

壇の上では教皇が一人一人の子供にキスをして、愛撫して・・・私の席からは見えないところは、テレビの大スクリーンから

 

ドリックとクリスチーヌと彼らの4人の子供たちも、感謝のためにインドのラージコットへ宣教に旅立つ決心をした。それは、この国がキリスト教徒に対する根強い迫害で有名であることを考えると、並外れた信仰の行為だと言わなければならない。「危険がたくさんある」ことを、インド人は臆病なイタリア人に対して隠さない。「人口の大部分はヒンズー教徒で、中には狂信的なのもいる。何もかも困難だ。インドに踏みとどまるにしても、新しい言葉を習わねばならないし、文化も異なる。何もかもが違うのだ!」ではどうして出かけるのか?「なぜなら、神に対する感謝がとても強く-とセドリックは言う-私たちはあまりに多くの奇跡とあまりにも多くの愛を見てしまったので、それを他の人々と分かち合わずにはいられないからです。」彼は一つの例を語った。「私の妻は何度も困難な妊娠をして、非常に危険な目に遇いました。しかし私たちは信仰をもって祈り、神様は私たちに4人の子供たちを恵んで下さいました。本当に奇跡でした。一人一人の赤ん坊が贈り物でした!子供たちも、彼らに命を与えたのは主であることを知っているので、彼らはみな旅立つことを幸福に思っています。」


   

教皇ヨハネパウロ2世が試みに初めて宣教家族の公式派遣を行われた時は4家族だった。その後も数十家族家族までの派遣式では、一家族ずつ壇上に招き、手ずからこの銀の十字架を授与された。しかし、今回のように400家族ともなれば、最早、時間的に不可能になった。それで、代表として選ばれて十字架を直接授与されない各家族は、あらかじめ十字架を受け取り、会場で一斉にそれをかざし、教皇の祝福を受けることになった。

う一つの美しい証言をしたのは、トリエステのとても若い夫婦(彼は28歳、彼女は25歳)だった。小さい二人の赤ん坊の父親と母親で、今日アジアに派遣されることになった家族の中の一組だ。「私たちはイエス・キリストに出会いました。私たちは愛されていると感じて、世界中どこであれこの愛をもたらすために出かける準備が出来ています。」何が彼らをすべてを棄てて出発するように突き動かしたのか、という質問にパオロは簡潔に答えた。「いつも簡単だというわけではない、時には生活は苦しい」と言ってから、「しかし、聖霊に信頼しています。それなしには何も出来ないのですから。」と付け加えた。


     

 

       

「これらの人たちが皆、自分の家も生活の安定も何もかも捨てて旅立っていくのは、本当に奇跡だ」とグアム島のアガーニャの大司教でカプチン会員のアンソニー・サブラン・アプロン師はZENITに話した。「何よりも私の心を打ったのは、新しい言葉と、全く反対の文化を学び、自分たちの命をかけて中国に送られる家族たちの姿だ。主が彼らを助けて下さることを確信する。」


  

 

12家族が今日「異邦人への宣教」に派遣されて出発することになったフィラデルフィアの補佐司教のジョン・マッキンタイル師も同意見だ。「この集まりはとても美しく感動的だった-と同補佐司教は言う-、特に教皇の家族に対する心遣いと、彼らの子供たちに対する思いやりを見ること、また何よりも、教会の宣教のためにこのように驚くべき形で自分を奉献するこの人たちの寛大さを見るのは感動的だった。」「私たちは-と彼は続ける-これらの家族と、司祭たちと、そして神学生たちにとても感謝している。特に、彼らの前に立ちはだかるであろう人間的な困難、それは単に言葉や新しい文化のみならず、仕事を見つけ彼らの子供たちのために学校を見つけること、などに立ち向かう彼らの勇気に心を打たれた。私は彼らが諸問題や、罪や、死に打ち勝ったキリストに対する信仰に支えられて、全ての困難を乗り越えていくものと確信している。」

(01 Febbraio 2014) © Innovative Media Inc.

あとから知らされたことだが、教皇フランシスコの謁見開始が遅れたのは、午前中に終わるはずだったポーランドの司教団の個別謁見で(5年に一度、各国の司教団は教皇に表敬訪問をし、教皇は司教一人一人と個人的に話す慣例になっている)かなり多くの司教が通訳付きだったので全体が長引き、予定を大幅にオーバーしたためと報道された。

そのために、新求道共同体の謁見は全体で30分短縮されたが、それを埋め合わせるために、異例の措置として、今回派遣式が出来なかった14組の宣教団をあらためて14日に招いて、派遣の銀の十字架を授与し、派遣の祝福を与えることを約束された。これは、教皇にとっても初めての体験のこの派遣式が、彼の心をしっかり捉えたことの印と考えられている。

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★ ローマから見た世界 =教皇フランシスコ「新求道期間の道」を謁見=

2014-02-04 16:15:00 | ★ 教皇フランシスコ

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ローマから見た世界

教皇フランシスコ「新求道期間の道」を謁見

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パウロ6世ホールで414家族が宣教に派遣される 

その内174家族が「異邦人」への宣教に

 

 

2月2日に私は教皇フランシスコの謁見の模様の第一報を書いた。

実は、謁見に先立って、バチカン市国の通信社 ZENIT が予告記事を発表していた。 

私は、今回の謁見について続報とコメントを書こうと思っているが、明日の午後からアドリア海に面したポルトサンジオルジオで開かれるキコとの集いに参加することになっているので、そこでキコが謁見についてどんな話をするか聞いた上でゆっくり書くことにして、ここでは ZENIT の記事を全文紹介するにとどめたい。

  

 

「ローマから見た世界」 

バチカン市国(ZENIT=ゼニット発) 編集2014年1月31日(472号)

明日12時、バチカンのパウロ6世ホールで教皇フランシスコは約1万人の「新求道期間の道」のメンバーと会う。教皇がこの2008年に聖座から正式に認可された「成人のキリスト教入信の道」の何千人ものメンバーを謁見するのは、教皇に選出されて初めてのことだが、昨年の9月9日には教皇フランシスコは既に使徒的宮殿における私的謁見で「道」の創始者であり責任者であるキコ・アルグエイヨ、カルメン・エルナンデス、とマリオ・ペッツィ神父を迎えていた。

教皇ヨハネパウロ2世とベネディクト16世の前例に倣って、教皇フランシスコは新しい宣教家族を全世界、今回は特にアジアの国々に宣教のために派遣する。より詳しく言えば、414家族が宣教に派遣され、その内の174家族は40の新しい「異邦人への宣教団」の構成員として、既存の52の宣教団に加えられる。謁見には参列者の全家族の約900人の子供たちも出席する。そのほかに、世界の様々な国ですでに宣教に携わっている100家族も出席する。

パウロ6世ホールでの教皇との出会いには、「新求道期間の道」の創始者兼責任者の他に、世界中にある100の「レデンプトーリスマーテル宣教神学院」の院長と、ヨーロッパ圏内の神学院で養成を受けた司祭たちと現在養成中の神学生も出席する。さらに、カテキスタのチーム-「道」の国際宣教者たち、そしてスペインとイタリアの各第一共同体の責任者やヨーロッパの多くの小教区の共同体の代表者も参加する。

異邦人への宣教、つまり「非キリスト者への宣教」とは、まだ福音が届いていない「初めての宣教」が基礎から行われなければならない場所での福音宣教を意味する。教皇フランシスコが今回派遣する家族の大部分は、ヨーロッパ人の家族、特にスペインとイタリアの家族だ。各宣教団は4つの家族と、一人の司祭と彼の協力者(一人の青年か神学生)、一人の年配の協力女性と宣教を助ける3人の若い女性(誓願を立てていない)で構成される。

初代教会の使徒的モデルに倣った「異邦人への宣教団」は、洗礼を受けていない人々のただ中に住んで、家庭から宣教活動を始める。彼らは一団となってキリスト教的共同体を創りだし、非キリスト者のただ中で信仰の印を示す::愛の印(「私があなたがたを愛したように」)と、完全な一致(「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。」)

現在「道」は5つの大陸の124か国に存在し、1479の司教区の6,272の小教区に2万432の共同体が展開している。この教皇フランシスコの謁見の結果として、「新求道期間の道」には:100の教区立「レデンプトーリスマーテル」宣教神学院と、この「道」を歩みながら司祭職を目指す2300人の教区神学生と、それらの神学校での養成を終えた1880人の司祭と、93か国に展開する1000以上の宣教家族と、92の「異邦人のための宣教団」が存在することになる。

(31 Gennaio 2014) © Innovative Media Inc.


 

 

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★ 教皇フランシスコの宣教家族派遣式

2014-02-02 23:34:28 | ★ 教皇フランシスコ

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教皇フランシスコの宣教家族派遣式

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2014年2月1日(土)10時30分から、バチカンのパウロ6世ホールで、1万人の新求道共同体のメンバーを招いて、教皇フランシスコは宣教家族の派遣式を行うことになっていた。我々の神学校からは、ほぼ全員が参加した。

教皇ヨハネパウロ2世が共同体の最初の家族を宣教に派遣された時以来、派遣される宣教家族には教皇様自身から銀の十字架が渡され、「この十字架を荷って宣教地に赴きなさい」と言って派遣されることが習わしになっている。


教皇が銀の十字架を渡すところ

 

午前10時半を待たずにパウロ6世ホールは満席となった。外には入りきれなかった大勢の仲間があふれたが、どうしようもない。

 

ホールの正面の壇の右手には赤いキャップの11人の枢機卿と紫のキャップの53人の司教達が控えていた。

この数は、教皇ヨハネパウロ2世やベネディクト16世のどの宣教家族派遣式の時よりも多いと思われる。

手前左は日本人でただ一人参加した平山司教。

 

教皇のお出ましは12時きっかりと告げられていた。それまでの1時間半、キコが中心になってリードし、派遣式の次第を説明したり、式の間に歌われるべき歌の練習をしたり、この式の歴史的意義を説いたり、注意事項を確認したりするうちに、雰囲気はいやが上にも盛り上がっていった。

 

 舞台の左、司教・枢機卿の一団の更に左端にキコのオーケストラの縮小メンバーが控えている。彼らの中からは「オイ、ジョン(私の事)。日本公演はいつになる?」などの雑談が飛んでくる。

 

           

正面ステージの左右の大型ディスプレーには外の聖ペトロ広場の様子や、会場の中の家族ずれの様子などが映し出されている。

 

12時数分前になった。数台のテレビカメラが一斉に緩やかに後ろにせり上がっている会場の中央通路の一番奥の扉にレンズを向けた。それを合図にそれまで、ざわざわと雑談で賑わっていた人々が一斉に真ん中の通路に寄り始めた。教皇に触ろう、握手をしよう。祝福をしてもらおうと言うわけだ。柵まで寄れない人たちは、かまわず靴のまま椅子の上に立ち並んだ。私は背が低いので、初めから諦めて床に立って人のお尻や足を眺めることになった。何も見えないまま、3分が経った。今や遅しと会衆は熱していって、ビーバー・パーパー(教皇万歳!)とか、調子をつけたフランチェスコ!フランチェスコ!の大コールが盛り上がった。キコが教皇歓迎の歌を先導して、一万人の大合唱になった。5分が経過した。そのまま10分が経過した。まだみんなは中央通路の柵を押し倒さんばかり。椅子の上に立った若いお父さんが小さい子供を肩車したまま後ろの扉を凝視している。

そこへ、背後からキコの声が聞こえてきた。教皇様は少し遅れられる模様だから、みんな席に戻って座るように。この時間を使って、列席の司教様方を紹介しよう。あとで時間が無いかもしれないから。と言うことになった。世界中から司教様方が集まっていた。

たいていは、宣教家族の派遣を教皇様に依頼した教区の司教方だ。

 

予定を30分以上オーバーして、12時半を回ったところで、突然会場の正面に向かって左前方の群衆から歓声が上がり、たちまち会場が総立ちになった。事前の打ち合わせにはなかった番狂わせなのだろう。後ろの扉ばかりをマークしていたどのテレビカメラも不意を突かれて教皇の入場の瞬間を捉えきれなかったのではないか。教皇は向かって左手の袖から全く唐突に入場してきた。

キコは話を中断した。

私はまたしても椅子の上に立つ男女のお尻と足しか見えない谷間に沈んだ。カメラも全く役に立たない。会場はタダ騒然としている。

 

  

一番見晴らしが効いたのは恐らくこの女の子のような肩車族だっただろう。

 

ビーバー・パーパーのコールや、フランチェスコ、フランチェスコの連呼が終り、一同が席に着き、私語が収まって、やっと私の前にこのような景色が展開した。柱を一本も使わない特殊な巨大ホールだ(イタリア人の設計による)。正面の大きなオブジェは復活のキリストをイメージしている。私はこれで前から7分の1ぐらいの位置にいる。

 

キリストは裸で、髪を横に流し踊るような手つきをしている。私は個人的にはあまり好きになれないのだが・・・

 

キコの感謝と歓迎の挨拶。新求道期間の道の歩み方の説明。今日の派遣式の参加者の紹介。等に耳を傾ける教皇の顔には、トレードマークのフランシスコ・スマイルが絶えることはなかった。

  

やがて、教皇は手渡された原稿に従って、短い今日の挨拶を読み上げた。前半3分の1ほどは、教皇フランシスコの人柄と調和した心のこもる挨拶だったように思う。後半は、写真を撮るのに気が散っていた私はあまり気に留めなかったが、あとで聞いた話では、新求道共同体が定着し発展し、存在感を増している地域に対する、2-3の助言、注意事項に終始したのだそうだ。私は、それを式後バチカンのインターネット公式サイトからダウンロードして印刷してじっくり読んだ。

先ず、以下に教皇フランシスコの謁見の様子を伝えるバチカン機関紙オーッセルバトーレ・ロマーノのバチカン放送版から訳して載せよう。

 今朝、2月1日の土曜日、パウロ6世ホールで、教皇様の周りでは本当にその名にピッタリの「家族の祭典」が展開した。その主役が何百人もの子供たちだったことは全く議論の余地がなかった。この170組の家族にとって今日の教皇様との出会いはとても特別な意味合いを持っていた。なぜなら彼らは教皇様自身から《ミッシオ・アド・ジェンテス》(異邦人への宣教)の任務を託されたからだ。この派遣命令の授与こそ、何千人もの新求道期間の道のメンバーに対する謁見の中心的瞬間だった。

(中略)

教皇フランシスコは、新しい宣教者たちを派遣するに際して、世界のあらゆる場所に、とくに「最も非キリスト教化した場所に」、福音をもたらすように励ますことを忘れなかった。


このあとに、今日の謁見のハイライト、「ミッシオ・アド・ジェンテス」(異邦人への宣教団)の派遣式が続く。一つの団は4家族(それも8人、10人、13人の子沢山の若い家族も少なくない)と、一人の司祭と、3-4人の独身女性の協力者と、司祭を補佐する若い青年信徒からなっている。子供を入れると一つの団で40人から50人になることもある。

今回特筆すべきは、アジアへの派遣が多かったことだ。中国に4チーム。トナムに3チーム(だったかな?)。インドにも2チーム?そして蒙古のウランバートルにも1チーム。等々。ヨーロッパにはベネディクト16世の時代にすでにかなりの数が入っているが、今回もなお多数の補強がなされた。

日本にはまだ「ミッシオ・アド・ジェンテス」(異邦人への宣教団)の形はとっていないが、すでに歴代の教皇から派遣されて25家族(だと思う)が入っており、今回も名を挙げて紹介される時間はなかったが、大勢にまじって1家族が派遣された。

クライマックスの派遣式の様子は写真アルバムの形で、今回の謁見の歴史的な意味についての考察と合わせて次回のブログに譲るが、すでに私のブログにはこの派遣式について匿名のコメントが前のブログのコメント欄に入っていたので、それを改めてこの本文のの中で紹介して一区切りとしたいと思う。

 

2月1日の謁見 (MG)2014-02-02 12:38:57

谷口神父様

YouTubeで見せていただきました。
アジアへ相当数の派遣があるようですね。
もちろん、日本にも??(笑)

それにしても、Radio Vaticanaを見ると、
何語版をみてもトップ記事で伝えているのに、
今のところ、日本語版だけ扱いがないのが不思議です。
(中国語版でさえあります!)
意図があってのものか、
単に翻訳が間に合わなかっただけかはわかりませんが、
これでは、ますます世界の動きから遅れてしまいますね。
大丈夫でしょうか?

当日の詳しいようす、
お伝えいただけること楽しみにしています。

 

 

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★ 教皇フランシスコのインタビュー記事 (後日談)

2014-01-29 18:25:34 | ★ 教皇フランシスコ

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教皇フランシスコのインタビュー記事 (後日談)

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今日こんなメールを発信しました。

K.K.さま

頂いた情報にもとづき、早速手配していたら、そのルートより早く思いがけない方から、中央公論の1月号の「教会は野戦病院であれ」とその関連対談記事が手元に届きました。

ちょっと字数を数えてみましたが、中公の「野戦病院」1万2000字余りでしたが、私の手元の訳では3万4000字余り (オリジナルのイタリア語の月刊誌 "LA COVILTA' CATTOLICA"  ではびっしり29ページに及んでいました) で、約2.7倍の大ボリュームでした。

結果的には、カトリック信者(クリスチャン一般にも)にとっては美味しい教皇の詳しい肝心の情報が大部分カットされたものでした。

やはり、「中公」の一般読者向けにわかりやすいところだけを一部抜粋したのでしょう。

実態が分かったので、意を強くして、あらためて私のブログで 「シリーズ」 を組んでじっくり紹介していくことにしました。

楽しみにお待ちください。ご主人様によろしく。

谷口幸紀拝


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★ 教皇フランシスコのインタビュー記事

2014-01-23 14:40:48 | ★ 教皇フランシスコ

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教皇フランシスコのインタビュー記事

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1月21日に「教皇フランシスコとは何者か?」と言う題でブログを書いたら、早速、ブログを読んだ親しいご婦人の K. K. さんから、以下のようなメールをいただきました。

 

          谷口神父様:

        ブログ「教皇フランシスコとは何者か?」拝読しました。

        実は同様の記事が 中央公論2014年1月号に記載されています。

        題名は「教皇フランシスコ・インタビュー 教会は野戦病院であれ」

        質問者:アントニオ・スパドロ神父

        翻訳者:門脇佳吉神父

        大変な長文で素晴らしいものです。

        こちらでは U.さん等と読んで 感銘を受けました。

        K. K. 拝

 

それで早速お返事を書きました:

 

        アハハ、出ましたか。今頃になって?!

        私は、去年のわりあい早い時期にある出版社の社長さんに頼まれて訳したのですが、

        彼の版権取得の交渉が宙に浮いてそのままになっていたので、痺れを切らして試しに

        ブログにちょっと使ってみた矢先でした。

        中央公論の事を知らせていただいて助かりました。

        それでないと、つまみ食いの飛び飛び掲載で、次は「野戦病院」かな?

        なんて呑気にやっていたら、無知をさらして恥をかくところでした。

        Civilità Cattolica の原文では30ページほどで、長いと言えばまあ長いですね。 

        版元も私の友人の中小出版社にではなく大手の「中公」に版権を渡したのは理解できます。

        とにかく、門脇師訳で「中公」から一応出たことが分かったので、

        こちらはこちらで自分の訳の使い道をひと工夫しましょう。

        私のブログの読者の全員がわざわざ「中公」を買って読まれるわけでもないでしょうから。

        とにかく、お知らせ有り難うございました。

        寒さの折柄お大切に。

        谷口幸紀拝

 

 

 門脇佳吉師と言えば、日本のイエズス会の大御所の一人。3年間だけイエズス会の釜の飯を食った私にとっても大先輩です。もう88歳になられたかと思いますが、今も翻訳を手掛けられるとは大したエネルギーだと敬服いたしました。

 教皇様のインタビュー記事は、日本のイエズス会の機関誌に出してもどうせ読者が極めて限られるから、「中央公論」は発表の場所として正解でしたね。

 それに比べれば、私の友人の場合は中小出版社(おっと失礼)に属し、版権が取れたとしても、原文で30ページの独立したインタビュー記事は単行本としては半端に短く、かといって自前の月刊雑誌もなく、商品化に困難を伴ったかもしれません。

 ただ、中央公論や文芸春秋などは、読者がある階層に偏り、私のブログの読者の多くが毎月読んでいるとは限りません。その上、2月号が出れば、1月号は図書館にでも行かなければたちまち読めなくなります。

 そこにブログの利点が浮上します。パソコンを開けばいつでもすぐにタダでアクセスできるからです。下手な素人訳で恐縮ですが、私の手元ではすでに完成して久しい全訳の中から、特に面白そうなところを私の主観で拾って、多少の解説を添えて独自性を出しながら、折に触れて順不同で紹介することを今後も続けたいと思います。原文は(内容は全く同じですが)バチカンの公式サイトからダウンロードして入手したものということにしましょう。改めてよろしくおねがいいたします。

(おわり)

自分で言うのも何ですが、近頃コメントが面白い!ぜひ下をクリックして読んで下さい!コメント者に感謝!

                       

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★ 教皇フランシスコとは何者か?

2014-01-21 18:49:25 | ★ 教皇フランシスコ

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教皇フランシスコとは何者か?

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 このやや尊大な設問は、実は私の考え出したものではない。それはイエズス会の機関誌の一つ “La Civiltà Cattolica” の編集者でイエズス会士のアントニオ・スパダロ が昨年8月29日(月)9時30分聖マルタの教皇の住居で行った教皇の単独インタビューの冒頭の質問

ホルヘ・マリオ・ベルゴリオとは何者か?

にヒントを得たものだ。日本の多くの読者には念のために説明するまでもないことだが、ベルゴリオ とは教皇の本名の事だ。

このインタビュー記事は、直ちに世界中のイエズス会の機関誌に翻訳掲載されたが、何故か今もって日本語で発表される気配がない。バチカンの公式ホームページではタダで自由に読める公開された資料だし、印刷し有償で配布するなど商業目的でなければ、自由に翻訳引用できる物だとその道の専門家に教わったので、今後折にふれてブログのなかで私の関心を引いたページを紹介していこうと思う。

ここですぐに、表題の質問と教皇の答えに入ってもいいのだが、編集者アントニオの導入の言葉もなかなか味があって捨てがたいので、それも一緒に載せることにした。

 

編集者アントニオの導入 

 今日は8月19日の月曜日。教皇フランシスコは私に聖マルタで10時の約束をくれた。しかし、私は父からいつも予定より早く着くことの必要性を受け継いでいた。私を迎えた人々はひとつの小部屋に私を坐らせた。待った時間は短く、1-2分で私はエレベーターに乗せられた。その2分ほどの間に、私はリスボンで開かれたイエズス会の幾つかの雑誌の編集者たちの会合で、教皇のインタビュー記事を一緒に出版しようという提案が浮上したことを思い出していた。私はみんなの関心を反映すると思われる幾つかの想定質問について他の編集者と話し合ったのだった。エレベーターから出ると、教皇がドアのところで私を持っているのが見えた。と言うよりも、実際には、むしろ敷居を跨がないで控えていたことに好ましい印象を受けた。

 彼の部屋に入ると教皇は私を肘掛椅子に座らせた。彼は背骨の問題のためにより高く固い椅子に腰を下ろした。飾り気のない質素な雰囲気だった。机の仕事面積は小さかった。備品ばかりでなく、万事が必要最小限であることに強い印象を受けた。少し本と、少しの紙と、すこしだけの物しかなかった。その中には、聖フランシスコの絵と、アルゼンチンの守護のルハンの聖母像、十字架と眠っている聖ヨゼフ像など、どれも聖ミカエルのマキシモ会にあった彼の管区長兼院長室で見かけたのとよく似たものばかりだった。ベルゴリオの霊性は、彼が言うところの「調和の取れたエネルギー」からなるものと言うよりは、むしろ、キリスト、聖フランシスコ、聖ヨゼフ、マリア、などの人間の顔から成り立っているように思われる。

 教皇は今では世界中を何度も駆け巡って人々の心を開かせたあの微笑みで私を迎え入れた。私たちはたくさんの事を話し始めたが、中でも特に彼のブラジル旅行について話し合った。教皇はその旅行を本当に恵みであったと考えていた。休息をお取りなったかと聞いた。かれは休んだ、調子はいいと答えたが、特に「世界青年大会」(WYD)は彼にとって一つの「神秘」であったと言った。大勢の人の前で話すのには全く慣れていなかったと言った。「わたしは一人一人の顔を、一人ずつ見ることが出来て、私の目の前の人と個人的な形でコンタクトを取ることができた。大群衆には慣れていなかった。」私は、その通りだ、それは見て取れた、そしてそれがみんなの心を打ったのだ、と言った。彼が人々の中に居る時、彼の眼は実際に個々の人の上に向けられているのが見て取れる。そして、テレビカメラはその映像を映し出し、それをみんなが看ることが出来るのだが、こうして彼は、少なくともアイコンタクトとしては、彼の前に居る人と直接の触れ合いに留まる自由を感じることが出来るのだ。つまり、コパカバーナの浜辺で起きたように何百万の人の前に居ても、他の人と対話する普段の自分のやり方を変えることなく、あるがままの自分でいることができることに彼は満足しているように見えた。

 わたしが録音機のスイッチを入れる前に、他のことについても話し合った。私のある出版物に関してコメントとするなかで、彼は自分が愛好している現代のフランスの思想家はアンリー・ド・リュバック(この人は次のブログで登場する予定なのでお見知りおきいただきたい)とミシェル・ド・セルトーの二人だと言った。他にも彼に何かより個人的なことを言った。彼もまた、自分について、特に彼の教皇選挙について話してくれた。彼は、3月13日の昼食時に、自分が選ばれる恐れが高くなったことに気付き始めたとき、言葉に表しがたい内面的な深い平和と慰めが彼の上に下って来るのを感じるとともに、完全な闇、それ以外のすべてのものの上に下る深い暗がりを感じた。これらの感情は選挙の時まで彼に付きまとった。

 実際のところ、私はこのようにまだずっと親しい対話を続けたいとは思ったが、幾つかの質問を書き留めた紙を取りだし、録音機のスイッチを入れた。そして、何よりも先に、このインタビューを出版するイエズス会の雑誌の編集者たち皆の名において彼に感謝の意を表した。

 チヴィルタ・カトリカ誌のイエズス会士たちに賜った去る6月14日の謁見の少し前に、教皇は私にインタビューの許可を出すことに対する大きな困難につて話した。彼はインタビューに対して一気に答えを出すよりも、じっくり考える方が好きだと言った。適切な応えは口をついた最初の答えの後にやってくるように感じるからだ。「リオ・デ・ジャネイロから帰る機中で、質問してくる記者たちの質問に答えながら、自分の事が良くわからなかった」と私に言った。それは確かにそうだ。このインタビューの中で、教皇は度々ある質問に答えて話していることを中断して、前の質問に対して言ったことに何かを付け加えることを平気で行った。実際のところ、フランシスコ教皇との話しと言うものは、互いに結び合った考えの爆発的な流れのようなものだ。メモを取る作業には、湧き出るような対話の流れを中断する不快な気分にさせるほどのものがある。教皇フランシスコは講義よりも対話に慣れているのは明らかだ。



ホルヘ・マリオ・ベルゴリオとは何者か?

 

 私には準備した質問があった。しかし、あらかじめ決められた筋書きには従わず、多少はぶっつけの質問をする事にしていた。「ホルヘ・マリオ・ベルゴリオとは一体何者でしょうか?」教皇は沈黙のまま私をじっと見つめた。私はそれが許される質問だったかどうかを聞いてみた・・・彼は質問を受けいれたことを身振りで示しながら私に言った。「わたしはどのような定義がより相応しいか知らないが・・・私は罪人だ。これがより適当な定義だ。それは物のたとえとしてではなく、文字通りに意味においてだ。私は罪人だ。

 教皇は熟慮を続け、まるでこのような質問は予期していなかったかのように、まるでさらに深く考えるよう強いられたかのように、考えに耽った。

 「そうだ、少しばかり抜け目がない、身の処し方を心得ている、と言ってもいいかもしれないが、またちょっと馬鹿正直なところがあるというのも本当だ。そう、だがよりよい、より内面から出てくる、より真実に思われる要約は 《私は主が目を止めて下さった罪人》 だということではないかと思う。」そして、繰り返した。「私は主から見られているものだ。憐れみをもって選ばれた者 と言う私のモットーは、いつも私にとってとても真実なことと感じられる。」

 教皇フランシスコのモットーは聖ベーダ尊者の 説教集 から取られたものであり、それは聖マテオの召命の福音的エピソードに注釈をつけたもので、「イエスはある徴税人を見て、愛情をこめて彼を見つめ、彼を選んで 《私に従いなさい》 と言った」と書いている。

 そして「ラテン語の 憐れむ の分詞形の miserando は、イタリア語にもスペイン語にも翻訳不可能と私には思われる。わたしはむしろそれを実際には存在しない別の分詞形の misericordiando と訳したいところだ。」と書き加えた。

 教皇フランシスコは彼の内省を続けながら、とっさには意味不明の飛躍をしながら私に 「わたしはローマの事は知らない。ほんの少ししか知らない。そのわずかなことの中にサンタ・マリア・マッジョーレ教会がある。そこにはいつも行ったから。」と言った。私は笑って「教皇様、とても良くわかりましたよ!」と言った。「ほら、その通り-と教皇は続ける-サンタ・マリア・マッジョーレ、聖ペトロ大聖堂・・・だけど、ローマに来るたびに私はスクロファ通りに宿を取った。そこから度々フランス人のサン・ルイジの教会を訪れ、そこへ行ってカラヴァッジオの聖マテオの召命の絵を黙想した」と言った。私は、教皇が何を私に言いたいのかを理解し始めた。

 「イエスのこんな風な・・・マテオに向けられたあの指。私はそのようなものだ。私はそんな風に感じる。マテオのように。」ここで教皇は彼が探していた自分のイメージをついに捉えたかのようだった。「マテオの身のこなしにとても心を打たれる。自分のお金をしっかり握って、《駄目です、わたしは駄目!いけません、これは私のお金です!》 ほら、《主がご自分の目を向けられた一人の罪人》これが私です。私が教皇職を受けるかどうか聞かれた時私が言ったのはこの事でした。」そして小声で(ラテン語で)「Peccator sum, sed super misericordia et infinita patChristi confisus en in spiritu penitentiae accepto.我、罪人なれど、我らの主イエスキリストの憐れみと限りなき忍耐の上に信頼を置き、償いの精神をもって受けたてまつる。)」とつぶやいた。

(つづく)

 

 

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★ 一部追加補足版 〔速報〕 教皇フランシスコ新枢機卿の名前を発表

2014-01-16 18:32:49 | ★ 教皇フランシスコ

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一部追加補足版

〔速報〕 教皇フランシスコ新枢機卿の名前を発表

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新枢機卿がかぶる赤い帽子

(バチカン放送) 日曜日のお告げの祈りの後、教皇フランシスコは最寄りの機会に枢機卿として任命される人のリストを発表した。以下に教皇のアナウンスの全文を掲げる:

すでに以前に知らされた通り、2月22日のペトロの椅子の祝い日に、私は枢機卿会議を招集することを喜びとする。その中で私はローマの教会と世界中の教会の深い教会的関係を代表する世界のあらゆる部分からの12の国の16名の新枢機卿を指名するだろう。その次の日(2月23日)私は新枢機卿たちとの荘厳な共同司式ミサを主司式するだろう。他方、2月20日と21日にはすべての枢機卿たちと枢機卿会議を開き、家庭のテーマについて考察するだろう。

以下が新枢機卿の名前である:(全員の名前が続くが、私は関心のある2-3の名前にコメントするにとどめる。)

ピエトロ・パロリン:アクアペンデンテの大司教(国名はないがイタリアだと思う)。ベルトーネ枢機卿の後任として教皇フランシスコが国務長官に任命した人。就任直後病気を理由にすぐに職務に着かなかったので心配したが、今は順調に教皇を補佐している。

ゲルハルト・ルードヴィッヒ・ミューラー(ドイツ):教理省長官。 

英国、スペイン、ニカラガ、カナダ、アイボリー・コースト、ブラジル、イタリア、アルゼンチン、韓国、チリー、ブルキナ・ファソ(アフリカでも最貧の小国)、フィリッピン、ハイチ、(そのほか私には国が良くわからなかった人もいて、とにかく合計16人)

詳細は1週間後にはカトリック新聞にも出るだろうから、そちらに譲るとして、今日神学校の夕食のメインテーブルの司祭たちの雑談から拾ったことも含めると、軽い話としては、ハイチの候補の事だと思うが(もし聞き違いだったらごめんなさい)、長髪でジーンズ姿の若者向けには実に恰好のいい枢機卿が生まれるとか・・・・。 

ブラジルの Orani Cyprine Lacroix リオ・デジャネイロ大司教は、先のWYDのホスト役だったが、レデンプトーリスマーテル神学院を誘致し新求道期間の道を積極的に進めている。私はキコがイスラエルのガリレア湖のドームスガリレアに司教達を招待した時、たまたま食卓を共にし、親しくなり、2012年夏にリオに招待されたが、諸般の事情で実現しなかった。

アイボリーコーストとブルキナ・ファソのアフリカの二人の新枢機卿も、何れも新求道期間の道を自分の教区に導入しており、第2バチカン公会議の教会改革路線に忠実な司教達だ。(この赤字部分は1月16日に追加補足したもの)

私が、一番注目するのは韓国のソウルの大司教になってまだ2年ほどにしかならないアンドリュー・ヨム・スジョン新枢機卿の誕生だ。実は私はこの人物をいささか知っている。(私はその前任者のキム枢機卿の形骸に触れたこともある。)

日本では東京の白柳大司教が1994年に、浜尾枢機卿が2003年に枢機卿に挙げられ、一時は信者50万人に満たないカトリック小国が、経済大国の威光を反映してか、一国2人枢機卿体制にあったが、前者が2009年に死去して以来5年間というが、高齢と病気があってそれ以前から退位同然、後者が2007年に死亡してからは7年間枢機卿のいない状態が続き今日に至っている。

一方韓国は、1969年にキム・スーハン大司教が46歳の若さで枢機卿になっているが、2008年に死去して以来6年間、枢機卿空白が続いて、日本と似た状態にあった。

折しも日本で高松の神学校の存在の是非が問題になった時、バチカンはキム枢機卿を選んで日本に派遣したが、彼は初めから同神学校の対しては反対の立場で、公平な報告は期待できなかったように聞いている。

ところが、新しいソウルの大司教は、私のブログ イエスの町カファルナウム ―アジアの教会の未来を占う―」

http://blog.goo.ne.jp/john-1939/e/b3a1349fcdb41fc3051ea6a38bb99426

でも書いたように、キコの「新求道期間の道」に対して極めて好意的で、レデンプトーリスマーテル神学院のソウル誘致についても前向きに発言をしていた。(思い出していただきたい。レデンプトーリスマーテル神学院は福者教皇ヨハネパウロ2世が世界に先駆けローマで開設した全く新しい理念に基づく神学校で,現在世界の100以上の司教区にその姉妹校が存在する。)

 教皇フランシスコが、同じような枢機卿の空白が長く続いている日韓両国に対して、新求道期間の道に好意的なヨム・スジョン大司教をわずか2年ほどで枢機卿に登用し、新求道期間の道に対して一貫して反対してきた日本のカトリック教会のベテランの司教達からは枢機卿を誰一人も選ばなかったという、際立った対応の違いに世界の消息通は注目している。

 ここからは私の全く個人的な感想だが、今回の教皇フランシスコの対応は、2010年12月13日の教皇ベネディクト16世の御前会議で「その決定は無効」を告知された《「新求道期間の道」の5年間全面禁止》の決定に同意していた全司教様たち、そして、教皇の明白な意思表示にもかかわらず、その後に自分の教区で新求道共同体の禁止をあらためて文書で確認された司教様たちに対する教皇フランシスコの最初の明白な回答として、今回の枢機卿任命に伴う日韓の明暗が分かれたと考えることは出来ないだろうか。

 バチカンから車で15分の近さに住む風見鶏としては、この3-4年の間に任命され、2010年の司教団決定に関与しなかった新しい日本の司教様の中から、ローマの方針に協調的な(つまり、新求道期間の道などに代表される新しい福音宣教のカリスマに理解を示す)勇気ある司教様が生まれたら、その人物こそ次の枢機卿任命に際して最も有力な候補になり得ると観測するのだが・・・。日本的な年功序列など、この際バチカンの気にするところではないだろう。

 ブルキナ・ファソ(面積は日本の7割、人口日本の1割強)のようなアフリカ内陸の小国からさえ、この度枢機卿が生まれた。栄光の26聖人を生んだ日本の教会に、今後さらに何年も枢機卿空白時代が続くとすれば、それは極めて異常な事態と言わざるを得ないだろう。

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★ 〔また速報〕 1月15日の水曜 《一般謁見》 で教皇フランシスコ日本の隠れキリシタンに言及。

2014-01-16 01:06:48 | ★ 教皇フランシスコ

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 〔また速報〕 1月15日の水曜 《一般謁見》

教皇フランシスコ日本の隠れキリシタンに言及。 

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私たちは皆、教会の中では使徒であり宣教者だ

 

バチカン市国、2014年1月15日 (VIS=バチカン情報サービス) 

  洗礼は「わたしたちをキリストの体の肢体とし神の民とする(・・・)。第二バチカン公会議の教えるところによれば、今日わたし達は洗礼が私たちを神の民に加入させ、旅する民、歴史の中を巡礼する民のメンバーにする」ことを、教皇フランシスコは「洗礼の秘跡」を主題とした水曜日の一般謁見で確認した。「事実、世代から世代へ生命(いのち)が受け継がれていくように、-と教皇は説明する-恵みは世代から世代へ洗礼の泉からの新たな誕生を通じて恵みを受け継がれ、この恵みによってキリスト教の民は、川が地をうるおすように世界に神の祝福をひろめながら時間の中を歩んでいく。」

 「弟子たちが洗礼を授けるために出かけた時から今日まで、洗礼を通して信仰の鎖が繋がっている。そして、私たち一人一人はその鎖の一つの環として、地をうるおす川のように絶えず一歩前へと進む。そのように、神の恵みも私たちの信仰も、私たちの子供たちに、赤ん坊に、彼らが大人になった時に彼らの子供たちに受け渡すことが出来るよう受け継がれていかなければならない。私たちを子の神の民に入らせ私たちに信仰を伝える洗礼も。同じように受け継がれなければならない。」

 「わたし達は洗礼の力によって福音を世界にもたらすために呼ばれた宣教する弟子となる。洗礼を受けた各人は、教会の中でどのような役割を受け持っているにしろ、またどのようなレベルの信仰教育を受けているにしろ、福音宣教の活動的主体でなければならない・・・。新しい福音宣教は、全ての人、神の民全体が新しい主役になることを意味しなければならない。それは洗礼を受けた各自が主役になるということだ。神の民は-信仰を受けたから-弟子の民であり、-信仰を受け渡すから-宣教者である。洗礼は私たちに恵みを与え信仰を受け継がせる。洗礼は私たちの中でそのように働く。私たちはみな、教会の中でいつまでも、生涯にわたって弟子であり、私たちは皆、各人が主によって与えられた場所において宣教者である。」

 「みんな、最も小さいものも、宣教者だ-と教皇は続ける-。そしてより大きいと思われるものは使徒だ。司教は何でも知っているから弟子ではないし、教皇も全てを知っているから弟子ではない、と誰かが言うかもしれない。しかしそれは違う。司教達も教皇も弟子でなければならない。なぜなら、もし弟子でないなら、善をおこなうことは出来ず、宣教者であることは出来ないし、信仰を受け渡すことも出来ないからだ。分かりますか?このことが解りましたか?大切なことです!私たちはみな弟子であり宣教者です。

 「一人で救われるものは誰もいません-と教皇は聖ペトロ広場に集まった何千、何万の人々に言った-。私たちは信仰者の共同体、私たちは神の民であり、この共同体の中で私たちは私たちに先立つ愛の体験を互いに分かち合うことの美しさを経験すると同時に、私たちの限界と罪にもかかわらず、互いに恵みを伝え合うパイプであることが求められています。共同体的拡がりは単なる《枠組み》または《輪郭》ではなく、キリスト教的生活と証しと福音宣教の総合体なのです。

  教皇フランシスコは、この神の民にとっての洗礼の重要性に関するカテケージスを終えるに際して、日本のキリスト教共同体の歴史を想起させた。この共同体は「17世紀の初めに激しい迫害を経験した。そのとき数多くの殉教者が生まれ、聖職者らは追放され、何千人もの信者が殺された。司祭は全員日本から追放され、一人も残らなかった。共同体は地下にもぐり、信仰と祈りを隠れて守った。赤ん坊が生まれると、父親か母親が洗礼を授けた。なぜなら、特別な状況の中ではすべての信者が洗礼を授けることが出来るからだ。約2世紀半、つまり250年ほど後に、宣教師たちが日本に戻った時、何千人ものキリスト教徒が発見され、教会は再び花開くことが出来た。彼らは洗礼の恵みによって生き残ることが出来たのだ!これは偉大なことだ。神の民は信仰を伝え、子供たちに洗礼を授け、こうして前進した。そして、秘密裏に強い共同体精神を保った。なぜなら、洗礼が彼らをキリストにおいて一つの体にしたからだ。彼らは孤立し隠されはしたが、かれらは常に神の民のメンバー、教会のメンバーだった。私たちはこの歴史から多くの事を学ぶことが出来る!」



(急いで訳したので生煮えの日本語でごめんなさい)


 

 

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★ 教皇の横顔

2013-06-08 06:21:44 | ★ 教皇フランシスコ

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教皇の横顔

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6月2日(日)は「主の御聖体の祝日」と言って、カトリックではミサの時に使うパンとフドー酒が

主イエス・キリストの体(肉)と血であり、そこに復活したキリストは実体的に現存しておられる、

と信じ、教え(そこはプロテスタントの教会と大きく違うところ)、

この祝日に特別の信仰をこめて、ミサの時に司祭が聖別したパン

(実際は小麦粉で作って焼いた丸くて薄いウエハー状のもの)

を顕示して礼拝する習慣がある。

この日、聖ペトロ大聖堂では、その礼拝式が盛大に執り行われた。

私は、二週間前の聖霊降臨の祝日の聖ペトロ広場の群衆の余りの混雑に怖気づいて、

この日はテレビの中継で様子を見ることにした。


暗くした集会室のスクリーンに、式の様子が映し出されていた

試験期だが15~17人の神学生が見に来ていた、一人の神学生の隣の空いた席に坐った

 

 

聖体礼拝はどうやら聖ペトロ大聖堂の中で行われているらしい。

 

 

大聖堂内部の主祭壇の周りがアップされた。中央奥の白いローソクが6本立っている主祭壇の中央の

金色まぶしい顕示台の真ん中に、キリストのからだである薄いパンが収まっている。

主祭壇の真下、地下一階のところに12使徒の頭で最初の教皇の聖ペトロの墓がある。

よく見ると、画面最前列の席の左端、槍を持ったスイス衛兵の左手に白いガウンの人物が椅子に座っているが

その人が新教皇フランシスコのはずだ。

因みに右奥の白いケープを着た一団がバチカンの少年合唱団

 

 

祭壇中央、金の十字架の基台の前にあるのが、ご聖体の顕示台。

宝石に囲まれた中央の窓の中にキリストの体のパンが収まっている

この一点に向って、聖ペトロ大聖堂を埋め尽くした信徒が祈りと礼拝に耽るのが今日の儀式だ。

 

 

テレビの画面にこの顔がアップで写った時、私は隣の神学生に思わず

「この人誰?」

と大声で聞いてしまった。かれは、呆気にとられて、

「パパ フランシスコだよ!」 と、事も無げに答えた。 

エェ~ッ??? 頬の肉の垂れ下がった生気のない疲れた顔のこのお爺さんが???

まさか?! いや、やはり本物か?横から見た本物を初めて見た。

この席に、代理のおじいちゃんが座るはずもないか!

それにしても、前からの顔と全くイメージが違う! この横顔は別人かと思った。

 

 

遠くから見ると、豆粒だから顔の表情まではわからないものだ。

それに、就任後メディアに現れた写真はすべて群衆や人の目を意識した

まさにスターの表の顔の正面ばかりだった。

だが、こうしてテレビのズームカメラで引き寄せた

人目を意識していない教皇の横顔は全く違った

 

 

声変わり前の少年たちの天使のソプラノが雰囲気を盛り上げる

 

 

遠くから見守るまだ若いシスターも写っていた

 

 

これは、他の日の聴衆を意識した前からの顔。

目に力があり、口の周りに笑みがある。上の横顔とは全く違う。

~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

この人、教皇になっても、教皇ヨハネパウロ2世がコンクラーベのために

枢機卿たちの宿舎として新築したアパートに居座って動かない。

どうやら、歴代の教皇が住みなれた教皇の宮殿には住まないつもりらしい。

このままだと、次の教皇もあの御殿に住むことは気がひけて出来なくなるだろう。

夏休みを取らず、ローマ郊外60キロの湖水のほとりの教皇の夏の別荘も使わないらしい。

徹底した清貧路線だ。これが、彼のわかりやすいバチカン改革の第一歩か。

ふり返って見ると、この3-4代の教皇で、多くのことが変わった。

教皇の地上の王権を象徴するかのような三重宝冠がまず消えた。

人に担がせて移動した教皇の椅子(輿)が消えた。

教皇ヨハネパウロ2世の時に一旦消えて、ベネディクト16世で復活した

教皇の赤い靴も、今の教皇でまた消えて、こんどこそ永久に消えるだろう。


ベネディクト16世がはいていた赤い靴 (フェラガモご謹製だったとか?) 

 

法王の宮殿を出たことも、夏の別荘を棄てたことも、

もはや後戻りのできない改革の一つとして歴史に残るだろう。

しかし、本当の教会の改革、バチカンの改革は単なる外見・習慣の手直しでは済まされない。

本格的な精神的改革が待たれる。新教皇の手腕が問われる。

アジアの教会に対して、日本の教会に対しても、

彼は何か新しい手を打ってくるだろうか、期待される。

 (おしまい)

 

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