:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 初めて新教皇の姿に直接ふれて (そのー2)

2013-05-20 13:02:35 | ★ 教皇フランシスコ

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初めて新教皇の姿に直接ふれて (そのー2)

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日本とローマとの間にはいま7時間の時差があります。

昨日のブログは、深夜を過ぎたところで、導入だけで終わった妥協の産物でした。

こちらは4時間寝たか、寝ないかで早朝6時の祈りとなった。

朝の祈りの後、コンピューターを立ち上げてメールを開いたら、

「昨日のブログ、あれは一体なんのつもりだ?教皇の姿も言葉もなく、見出し倒れだ!

どういう了見であんな内容のないブログをアップしたのか?怪しからん!木戸銭返せ!」

の強いお叱りが入っていて、恐縮!恐縮!起きるなり小さくなりました。

それで、名誉挽回のために、以下、本論に入ります。

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一晩ぐっすり休んで日曜の朝、目が覚めたら、ああそうか、ここは神学校の自分の部屋ではない。この家の主人が沸かすコーヒーの香りが、テレビの朝のニュースの音と一緒に寝室の細く開いたドアの隙間から流れ込んできました。ライ・ウノ(RAI-1)と言う番組は日本のNHK総合テレビの位置にあります。昨夜は、バッテリー切れのカメラでなす術もなかったが、その同じ光景のダイジェスト版を今まさに目の前のテレビが放映しているではないですか。主人の買い置きのバッテリーを分けてもらって、カメラは息をふきかえしました。以下の映像はテレビ画面からカメラで写し取ったものです。

やはりブログは写真がないと気の抜けたビールみたいですね。何だか元気が湧いてきました。

「信徒と共に、広場の教皇」(Il Papa in piazza con i laici)

と言う文字が画面の下に出ています。朝の番組で詳しく取り上げています。日本のNHKが靖国神社や伊勢神宮の行事を朝の番組で長々と実況解説しながら流すでしょうか。イタリアはカトリックを国教に謳ってい居るわけではありません。カトリックの教会に通っているのは国民の10%にも満たないのではないでしょうか。それでも残りの90%も違和感なく教皇の催しをテレビが流すのを何とも思わないようです。腐っても鯛。まだまだカトリックは庶民の心の底に生きているのでしょう。

アメリカ合衆国も大統領の就任式には聖書に手を置いて宣誓をします。カトリックのケネディーも黒人プロテスタントのオバマもそうしました。しかし、モルモン教の大統領が選ばれていたら、ちょっとややこしいことになっていたかもしれませんね。手を置くべき聖書が違ってしまいますからね。回教徒の大統領になったらコーランにとって代わるのでしょうか?天皇の国事行為には特に神道色は無いようですが・・・

 

 

聖ペトロ広場の真ん中の通路の突き当りの屋根のあるところに教皇フランシスコが坐るはず。



群衆の奥の方、白く左右に見える細い線が実は広場中央の通路の位置です。その向こう側の前から2列目に私はいます。午後4時からそこでじっと待っているあいだ、この画面の左奥の正面の舞台では歌や踊りや、体験談の証言などが女性の司会者によって展開されていました。教皇のお出ましは6時だと思っていたら、5時半に左右の大型電光スクリーンにパパモビレ(ベンツ製の白く塗った大型ジープのオープンカー) が写り始めました。どうやらテベレ川の橋のあたり、大群衆の中をゆっくりサンピエトロ寺院に向かってパレードしている様子。広場の中に入ってからは、あらかじめ設けられた通路を左右に移動しながら、なるべく多くの群衆の身近を通過する工夫がなされていました。私の前もゆっくり左から右に通っていきました。


 

ひょっとしたら、ヨハネ・パウロ2世が銃弾を受けて瀕死の重傷を負ったときに乗っていた車と同じではないかと言う思いが、ふと頭をよぎりました。大勢の手を身を乗り出して握り、赤ん坊を祝福し・・・、これもヨハネ・パウロ2世の姿と重なるものがありました。でも、もう教皇を撃たないで、と祈りました。


 

素朴さ、温かさ、率直でユーモアたっぷりの庶民的な姿には好感を受けました。

「皆さんはヴィーヴァ・パパ!(教皇万歳!)とか、ヴィーヴァ・フランチェスコとか叫んでいるが、ここで皆さんの歓呼を浴びて迎えられるべきは、私ではなく イエス・キリスト》 ではないですか?!と切り返した。」

私は思わず声を出して笑ってしまいました。そして、群衆の中からは、多少戸惑ったようなヴィーヴァ・ジェズー!(イエス万歳)の声も波のように起こりました。ハッとするような真実の言葉を、アドリブでこともなげにばら撒くあたりは、ヨハネパウロ2世(JP-2)とはまた一味違う。(JP-2)は温かい優しさと重々しい荘厳さが混在した男っぽい近づきがたさもあったが、この教皇は貧しさにも飢えにも寄り添ってきた庶民の近づきやすさがある。

 

この日の話からいくつかのポイントを拾ってみましょう。

「政治に倫理が欠けるなら、何でもやり放題になる。倫理の欠乏は人類にとって悪である!」

「ちょっと投資が翳るだけで、銀行は大悲劇だと騒ぎたてるが、家庭のやりくりが苦しくても、人々が飢えていても、そんなことはどうでも構わないと言うのか!?」

「わたしは貧しい人たちのための貧しい教会を望む。」(彼は中世の王侯の宮殿のようなバチカンの「教皇の舘」に住むことを拒み、簡素なアパートに住んでいる。)

「着飾った気位の高いキリスト教信者はうんざりだ! 実存的に社会から忘れ去られた人たちに寄り添う勇気こそ必要だ!」

「教会は政治的運動体でもなければ、良く組織されたシステムでもない。教会がNGO法人の一種に成り下がったら、味を失った塩にすぎないではないか!」

彼のメッセージはわかりやすく実に歯切れがいい。

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この日、この夕べ、聖ペトロ広場は100種を超える信徒の運動体のメンバーが掲げる色とりどりの旗や横断幕やプラカード埋め尽くされていました。しかし、何か変だぞこの雰囲気??? 何故って、後ろを振り向いて広場の端まで見渡しても、この種の集会ではいつもはいやでも一番目立つ「新求道共同体」の横断幕、キコの絵のプラカード、各共同体の旗やスローガンな全くない。地下鉄から広場までの道々、何人も知った顔にで会っているから、そこそこの数の兄弟が混じっているはずなのに、まるで存在の気配が消えている。何か変ではないか?

その謎が今日の昼食のテーブルで解けた。今回の大集会を組織したのは、新しく設けられた信徒の「運動体」を取りまとめるバチカンのお役所だった。私もグレゴリアーナ大学で神学の講義を聞いたイエズス会のリノ・フィジケラ教授が今は枢機卿に出世して、そのお役所の初代長官になった。彼には、新求道共同体の存在が見えていなかったのだ。彼の頭にあるのは「運動体」であって、「共同体」ではなかったのだ。その点がこれまでの教会と違った。キコは一個人として壇の下の群衆の中にはいたが、巨大な共同体組織の指導者として壇の上で脚光を浴びることはなかった。

しかし、そんなことはどうでもいい。この新教皇もキコの新求道共同体の最も信頼するに足る深い理解者であり保護者であることは、すでに疑う余地はないからです。パウロ6世の時代から、ヨハネ・パウロI世、II世、ベネディクト16世、そして今回の教皇フランシスコまで、一貫して大切にされてきた新求道共同体は、これからも着実にその使命を果たし続ける事でしょう。

 

 

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★ 初めて新教皇の姿に直接ふれて (そのー1)

2013-05-19 21:20:46 | ★ 教皇フランシスコ

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初めて新教皇の姿に直接ふれて (そのー1)

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しばらくブログ更新をさぼっていました

書かないとアクセスが減るのは当たり前の現象ですね。でもこれと言う材料が・・・

と思っていたら、ここ3-4日の間に、話題にしてもいいような出来事が立て続けに起こりました。

一番最近の出来事から順にアップしましょう。

今日は聖霊降臨の大祝日。

イエスの弟子たちは、ユダヤ人の指導者に売られ、ローマ人兵士たちの手で十字架の上で苦しみもがきながら息絶えて死んだナザレのイエスが、三日目に甦ったという婦人たちの報告に始まり、不思議な体験を通じてそれを信じるに至ったとはいえ、イエスを売ったユダヤ人の指導者やイエスを処刑したローマ兵を恐れて、イエスとの最後の晩餐を食した秘密の隠れ部屋に怯えてひっそりと隠れていました。

ところが、キリストの復活から7週目のこの日、彼らの上に神の霊、「聖霊」が降って勇気を得た弟子たちは、公然と復活のキリストを告げ、最初の宣教活動を開始しました。その「聖霊降臨」の出来事を今日カトリック教会は盛大に祝ったのです。

新教皇フランシスコは、この日を記念するために、前晩の昨日の夕方から一般信徒の様々な運動体のメンバーを聖ペトロ広場に呼び集め、祈りと対話の集会を催しました。

教皇選挙のニュースを日本で知った私にとっては、たとえ遠くからでも直接パパ・フランシスコを見ることの出来る最初の機会とあって、何を置いても広場にはせ参じることを早くから決めていました。

大群衆で混乱すると踏んで、車はやめて地下鉄で出かけました。3時に広場が開くということだったが、バチカンの最寄りの駅に着いた4時ごろには、広場はもう満員御礼の状態でした。ブログに書くことを意識して、道々写真を撮り始めました。

 

角ごとに金網で窓を護っているイタリア政府の機動隊の車が待機している。

 

 

ボストンマラソンの爆弾テロが脳裏をかすめる。空港のセキュリティーチェック並みの手荷物検査を通過して聖ペトロ広場に一歩足を踏み入れると、そこは派手な制服のスイス衛兵と、ドゴールハットのバチカンの正規兵と、耳にイヤホーン、袖口に隠しマイクのダークスーツのセキュリティーガードがうようよしている。

今日はいい写真が撮れそうだとほくそ笑んで、次の被写体にレンズを向けてシャッターを切ろうとしたら、突然ファインダーがブラックアウトした。冷や汗がタラリと首筋を流れた気がした。どうやら起こり得る最悪の、最も愚かな失敗を犯したらしい。部屋を出る時、手持ちのバッテリーをカメラに詰替えて来たのだが、間違えてほとんど使い切った古いのを入れてしまったようだ。適当な撮影ポイントを求めて、ビニールシートを敷いて座り込んで2時間も先の式典の開始に備えて休んでいる若者たちの頭の上をまたぐようにして前へ前へと進んで、椅子席が用意された柵のところまでやっとたどり着いて、席取をしていた女性の予備に取っていた貴重な一席を運よく分けてもらうことに成功したばかりだった。この席を逃したくないし、第一広場の外にバッテリーを買いに行こうにも退路はすでに絶たれていた。広場をあふれ、遠くテベレ川までの大通りまで25万人の群衆が、これから4時間あまり、トイレに行くことさえ出来ない状態の中にいる。大人しく自分の目と耳でしっかり記録する以外どうしようもない。しかし、写真なしにはブログにもならないと観念した。

2時間、ただひたすら待って、正味2時間余りで8時過ぎに式は終わった。待ち始めたときはカンカン照りの午後の日差しで汗をかき、熱中症予防のために無料配布されたペットボトルの水を2本飲み干したが、どうやら全部が汗で蒸発したわけではないらしい。集会が解散するころには、日没後急に襲ってきた冷気に包まれて、下腹部のタンクは破裂寸前だった。25万人が多かれ少なかれ一斉に同じパニック状態にあると想像していただきたい・・・。

と、こんなバカなことを書いてこのブログを終わらなければならないかと思うと情けない。

解散直後のバチカン周辺は、新宿や池袋の朝のラッシュ時以上の大混雑だ。どれだけ待てば地下鉄やバスに乗れるか分かったものではない。私は引き続き、ローマの中心にある自分の教会の聖霊降臨徹夜祭の9時のミサに間に合わなければならない。大通りで、しかも人が一番向かいそうにない方角に急ぎ、流しのタクシーを探し回った。しかし、25万人も人がいれば、同じことを考える人間が他にも居ても驚くにあたらない。厚かましさにおいてはイタリア人に勝てない。あきらめてふて腐れてバーに入ってビールを注文した。すると、物陰に車を停めて、ピッツァで腹ごしらえをしているタクシー運転手を見つけた。食事中を強引に交渉して乗り込んだ。彼は片手でハンドルを操り、片手でピッツァを口に運びながら急いでくれた。それでも教会に着いたのは10時前だった。祭服を着て祭壇に立つには遅すぎた。幸い司式は招かれた司教さんで、我々平の神父たちはその他大勢にすぎない。一人多くても少なくてもどうってことはない。空の電池に始まって、ついていない日はどこまでもついていないものだ。広い教会の後ろの信徒のあいだに紛れ込んだ。

11時過ぎていわゆる徹夜祭は終わった。次の日は朝から自分の共同体の一日の集いが待っている。それは自分一人で仕切らなければならないから、すっぽかすことも遅れることも許されない。しかし、もう神学校に寝に帰って出直す時間も体力も残っていない。自分の共同体の兄弟の家に潜り込んだ。しかし、眠れぬまま頭の中は「どうやって写真なしのブログを書こうか」と言う思いで一杯だった・・・。

一日の集いも無事に終え、自分の部屋に帰ってここまで書いたところで、ローマの真夜中12時を過ぎました。明日朝は5時半起き。6時から日本のための神学校は日本語で朝課の祈りをします。私が寝ていては若い神学生に示しがつきません。ハードな2日間だったので、ここで一旦筆をおきます。

明日は、奇跡の写真入りのブログで新教皇のお話の内容や、聖霊降臨のバチカンでの前夜祭の内容をお伝え出来るでしょう。

どうやってそれが可能かって?それは明日のお楽しみ!

お休みなさい。  

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★ 教皇フランシスコ 改革に着手

2013-04-17 17:26:28 | ★ 教皇フランシスコ

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教皇フランシスコ 改革 に着手

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 昨日(4月16日)の「朝日新聞」朝刊11面に、「世界の現場派招集」と言う見出しの記事が載っていました。記事の本文は:

 

 ローマ法王庁(バチカン)は13日、フランシスコ法王が法王庁改革のため、8人の枢機卿による諮問委員会を設けると発表した。うち7人は世界の各大陸の「現場派」を招集した。

 法王庁は内部文書流出など様々な問題が起きている。新法王は、3月13日の就任から1カ月の節目にあわせて改革に乗り出した。

 7人はアジア、北米、中米、南米、欧州、アフリカ、オセアニアから1人ずつ選ばれた。現場への分権が持論のホンジュラスのマラディアガ枢機卿がまとめ役を務める。コンクラーベ前に法王庁改革を強く訴えていたオマリー・ボストン大司教やペル・シドニー大司教も含まれている。

 一方、バチカンからは「バチカン市国」トップのベルテッロ行政庁長官のみ。バチカンは、世界の信者をまとめる立場の「法王庁」と、世界最小の独立国である「バチカン市国」の2部構造だが、法王庁からは誰も入らなかった。法王庁トップのベルトーネ国務長官やソダーノ主席枢機卿らを外したことで、「官僚派」の抵抗も予想される。

 法王庁の現在の官僚組織は、27年在任したヨハネ・パウロ2世の時代に確立された。前法王が自ら退位を選んだのも、改革を志しながら法王庁内で孤立したのが一因と報じられている。

 「現場派」には法王庁の醜聞が教会の威厳や正統性を失わせたとの不満があり、フランシスコ法王誕生の原動力とされている。 諮問委の最初の会合は10月初めの予定。 (ローマ=石田博士)

 

 よく記事を読んでみると、世界の各大陸から7人とあるが、実際は南北アメリカから3人と、圧倒的に比重が高いのがわかる。バチカンの宿弊を正すために、官僚機構の解体が期待される。

 ボストンのオマリー枢機卿は、カトリック教会の聖職者による幼児に対する性的虐待問題の主要舞台となったボストン大司教区の改革に取り組み、その難題を乗り切った人物として知られている。

 その間の消息は、私のブログの 「アメリカレポート」19編のうち 《ボストン》 ①~⑨ に詳述しているので、是非ふり返って頂きたい。

http://blog.goo.ne.jp/john-1939/m/201205

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★ 〔改訂〕 教皇フランシスコ ―教皇の生前退位と新教皇選出劇の裏を読む―

2013-04-06 16:16:13 | ★ 教皇フランシスコ

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教皇フランシスコ 〔改訂版〕 

― 教皇の生前退位と新教皇選出劇の裏を読む ―

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新教皇フランシスコについて何か書かねば、何か書きたい、と思いつつ、あっという間に51日が過ぎてしまいました。こんなに長い間ブログの更新を休んだことはかつてありませんでした。しかし、一時ローマを離れて、旅烏を続けている私に届く情報は極めて限られていて、しかも、多くは二番煎じであるうえ、全てに目を通す時間もありません。だから、いま書けることはと言えば、行間に感じ取る私の個人的・主観的印象だけです。間違っているかもしれないし、論証不能な一方的な思い入れの域を一歩も出ないとも言えます。でも、いつまでもブログ更新を怠っているわけにもいきませんので・・・。

 

(1) コンクラーベ

どういうわけか、ローマ教皇の退位と選挙が日本のメディアにこんなに賑やかに取沙汰されたことがかつてあったでしょうか?

おかげで、コンクラーベが日本語の 「根くらべ」 のイタリア語なまりではなく、「鍵で閉じ込める」 と言うラテン語であることぐらいは、今や日本人の常識でしょう。それはスマホやアイポッドなどのなかった中世に、選挙人・被選挙人の枢機卿たちを、外部の政治的、宗教的、経済的勢力の圧力や干渉から遮断する上では効果的だったでしょうが、現代にどれほどの意味があることか・・・?

 

(2) 黒い煙と白い煙

選挙の行方を外部の人が推し量る唯一の手がかりは、伝統的にシスティーナ礼拝堂の屋根の上の煙突から出る煙の色だけであるということは、裏を返せば、繰り返される投票の結果がどうであれ、その記録と証拠を一切残さないために、毎回投票用紙を即座に焼却処分する必要があったということでしょう。

また、コンクラーベの中でどんなに熾烈な駆け引きや戦いがあったとしても、一旦誰かが三分の二以上の得票を得て選ばれたなら、システィーナ礼拝堂から再び世間に出てくる枢機卿たちは、その経緯について、墓場まで完全に秘密を守り通すという約束事が厳格に守られねばならない決まりです。そのことは、今回のフランシスコ教皇の選出後、彼を選ぶに至ったコンクラーベの中身がどうであったかについて、一切何も漏れてこないことからも明らかです。

そう考えると、今回の選挙直前の下馬評にホルヘ・ベルゴリオ枢機卿の名前が全く上がっていなかったことが良く理解できます。それは、前のコンクラーベの中身の機密厳守が良く機能したことを物語っています。しかし、前回のコンクラーベに臨んだ枢機卿たちは彼が今回の最有力候補の一人であることは、コンクラーベに入る前から先刻承知のことであったわけで、とりわけベネディクト16世はそのことを一番強く意識していたに違いありません。

 

(3) 緘口令にほころびが?

その緘口令が次の教皇の選出の頃には解除されるということなのでしょうか。そうではありますまい。

だとすれば、教皇フランシスコが誕生した途端、どこからともなく「実はベネディクト16世を選んだコンクラーベで、ベルゴリオ枢機卿は第二位の得票だった」とか、「決選投票の前の投票の結果では、どちらも3分の2には達しなかったものの、ベルゴリオがラッツィンガーを抑えて優位に立ったらしいのに、ベルゴリオが『どうかわたしを選ばないでくれ』と涙して同僚枢機卿たちに懇願し、その結果、最終投票ではベルゴリオが票を大幅に減らして二位になり、ラッツィンガーに3分の2以上の票が集まった。」と言うような「いかにもありそうな裏話」がまことしやかにささやかれていのは一体どうしたことでしょう。

誰も「わたしがリークした」と名乗り出て、証拠をもって真実を語る立場にない以上、結局全ては闇の中ですが、いずれにもせよ、ベネディクト16世教皇自身は自分が選ばれたときの経緯を忘れたはずは決してありません。

 

(4) スキャンダル

初のドイツ人教皇ベネディクト16世が、若い頃ヒットラーユーゲントと関係があったとか、ペドフィリア(小児性的虐待)問題の処理に責任があったとか、「烏(カラス)」事件、つまり教皇の寝室から機密文書が執事を通して漏えいしたスキャンダルや、バチカン銀行による黒い資金の洗浄疑惑、それにとどめを刺すかのように、バチカンのナンバー2(国務長官)のベルトーネ枢機卿の身辺にまで黒い噂が立つに至って、バチカンの混沌は収拾がつかないところまで行ってしまった観がありましたが、それでも突然の生前退位の爆弾発言直前までは、教皇が最側近のベルトーネ国務長官を更迭し、蜥蜴(トカゲ)の尻尾切りで彼に一切を負っ被せて去らせ、新しい国務長官を任命して体勢の立て直しをはかる以外に手はないのではないか、と考えていました。

 

(5) 生前退位

しかし、結果から見れば、急激に体力が弱ってきた(特に足が衰えた)ベネディクト16世ではありますが、もともと学究肌で政治家ではなく、行政手腕に長けてもいない老人として、新しい国務長官を選んでそれと組んで体制の立て直しをはかる気力も興味もすでに失せていたのではないでしょうか。

それよりも、自分が生前退位という600年ぶりのウルトラCを使って、全ての問題を未解決のまま一身に背負って ― 国務長官も道連れに ― 自分とともに過去に葬り、新しい教皇に注目が集中し、新しい体制がダイナミックに動き出す陰で、諸問題を静かに埋葬する道を選んだのではないでしょうか。今のところその目論見は的中しているように見受けられます。現に、誰も新教皇フランシスコを前教皇の末期に騒がれていた過去の諸問題の新しい追及ターゲットとして責任を迫る気配が全くみられないからです。

 

(6) ではそれだけでしょうか?

今回の教皇交代劇には、待ったなしの時間とのギリギリの競争がなかったでしょうか?偉大な福者教皇ヨハネパウロ2世の没後のコンクラーベでは、決選投票に残った二人の間で時間の問題に関して何らかの暗黙の駆け引き(あるいは「無意識の数合わせ」とでも言い換えましょうか)がなかったでしょうか?その要素は

①   福者教皇ヨハネパウロ2世が亡くなられたときすでに78歳だったラッツィンガー枢機卿にとって、すぐに自分が後継教皇に選ばれなければ、年齢的に次のチャンスは絶対にないことはだれの目にも明らかだったこと。

②   福者教皇が亡くなった時まだ69歳だったベルゴリオ枢機卿には、「次の教皇」が短命なら、まだ「次の次」の座につくチャンスがあったこと。

③   ずば抜けて偉大だった福者教皇ヨハネパウロ2世直後では、誰が新教皇になっても、見劣りは絶対に避けられないこと。

この ①、②、③ の要因を調和的に融合させる道は、

教皇ヨハネパウロ2世 → ラッツィンガー枢機卿 → ベルゴリオ枢機卿

の流れ以外によりよいシナリオはなかった、と言うことではなかったのでしょうか?教皇ベネディクト16世が退位した時、ベルゴリオ枢機卿は既にベネディクトが登位した時のより二つ若いだけの76才に達していたことは、それがぎりぎりのタイミングであったことを物語っています。

 

(7) 教皇フランシスコの名前

歴代266番目の教皇が、史上初めてアシジの聖フランシスコの名を採ったことの意味合いは何だったのでしょうか?

彼は魚や小鳥に説教をしたという詩的な逸話で有名な ― ある意味で日本人に最も知られ愛された ― カトリックの聖人です。聖フランシスコの最大の特徴は、①「清貧の聖者」、②腐敗し堕落した当時の教会を刷新し立て直した「改革の聖者」、だったことです。

聖フランシスコが世を去ってから約800年にわたって、誰もその名を自分の教皇名として採用しなかったということは、裏を返せば、誰一人として「清貧の教皇」「教会刷新と立て直しの教皇」を表看板に堂々と掲げる勇気を持ち合わせていなかった、と言うことではなかったでしょうか。新教皇が名前負けしない偉大な業績を残すことを祈りたいと思います。

 

(8) 「黒い教皇」か「白い教皇」か?

イエズス会と言う修道会の世界のトップ、つまりバチカンの目と鼻の先に国際本部を構えるイエズス会の総長は、いつのころからかその黒い僧服にちなんで「ブラックポープ(黒い教皇)」という異名を戴き、バチカンを、そして世界のカトリック教会を、裏から操る陰の権力者とささやかれるようになっていました。

今のニコラス総長は、イエズス会の元日本管区長を務めた人物ですが、その二代前のペドロ・アルぺ総長も元日本管区長でした。私は若い上智の学生だった頃、四谷の聖イグナチオ教会でこのアルぺ管区長のミサに与かり、侍者の役を度々務めたことがあり、親しみを覚えるのですが、彼は黒い教皇になった後、初代総長聖イグナチオ以来歴代終身制であった伝統を破って、1983年に生前辞任しました。

表向きは前教皇同様に健康上の理由からでしたが、いくつかの点で福者教皇ヨハネパウロ2世との方針の違いもあり、辞任に追い込まれたというのが真相のようです。黒い教皇が白い教皇に対して弓を引いて逆に敗れたということでしょうか。

白い教皇に一致しない黒い教皇アルぺ総長の方針に同意できなかったアルゼンチンのイエズス会士ベルゴリオ管区長(つまり、新教皇フランシスコ)は、抗議の印として管区長の職を辞任しました。

その辞任を受けて教皇ヨハネパウロ2世は彼を首都ブエノスアイレスの大司教に取り立て、さらに自分の後継者としての被選挙権のある枢機卿に任命したのでした。その時すでに黒い教皇への道をなげうったイエズス会士ベルゴリオに、後日白い教皇になる道が準備されていたということも出来ましょう。

現在の黒い教皇ニコラス総長は、おおむね二代前の故アルぺ総長の路線を受け継いでいるのではないかと思われますが、同じイエズス会出身の白い教皇と黒い教皇の対峙と言う図式が、奇しくも新たに再現される結果となったと言えないでしょうか。

これは「インカルチュレーション」(福音の土着化)と言う「間接宣教」のイデオロギーと、「ケリグマ」(良い知らせ=福音)を単刀直入にぶっつける「直接宣教」の対峙の図式でもあるのです。

この「インカルチュレーション」については、私の近著 《 司祭・谷口幸紀の 「わが道」 》 (フリープレス刊) の第III章 「キリスト教が異文化に受肉する条件」 に54ページにわたって展開していますので、ご一読をお勧めします。 ↓ をクリック!

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(おわり)

 

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