:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 「世の中、一寸先は闇」 =さようなら日本= (その-2)

2011-12-12 22:15:08 | ★ 旅行


 
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世の中一寸先は闇

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= さようなら日本 =

(その-2)

 

 先のブログの副題に「さようなら日本」と書いたら、「もう日本には帰ってこないのか」とか、「さては日本の教会籍を捨てるつもりになったか」など、気の早い憶測や心配の反応が相次ぎ、かえってびっくりしましたが、別にそんなに深刻な意味で書いたものではありません。5か月余りと異例に長かった今回の日本での生活に、ただ名残を惜しむ気持ちを込めたかったに過ぎません。

関空に二日の足止めを食らった後、やっと無事に機中の人となり、成層圏の水平飛行に移って、ワインとおつまみが届いたころには、窓の外の中空に13夜の月が明るく照っていました。その写真と、今回の休暇中の忘れがたい思い出の写真を2枚貼り付けながら、「世の中、一寸先は闇」という言葉をもう少し味わってみたいと思います。

 

 

機内から見る13夜の月

 

上の写真から30分後、太陽の光の余韻がすっかり消えた成層圏の夜空の月は、空気が澄んで希薄なためか、この写真よりさらに黒々とした宇宙の闇に銀盤のように冴えわたっていました。まして、真空の中を駆け巡る宇宙飛行士の見る空は、凄いまでに漆黒であるに違いありません。

この秋、私がまだ野尻湖の山荘にいたころ、11月の満月の夜は曇りで、十七夜になってやっと雲が切れました。それで、何かに誘われるように、湖畔に出て月の出を待ち、そのまま夜更けまで月の写真を撮り続けました。月明りのまばらな星空と、雲と、月を映す湖面とで、光と蔭の絶妙な対話があったせいか、その夜は不思議と孤独を感じませんでした。月の写真を配しながら、光と闇の考察を今しばらく続けたいと思います。


 

  斑尾山の稜線の落葉した木々の向こうからぬっと顔を出した17夜の月 

 

「一瞬先は闇」と言いましたが、本物の闇には確かに恐ろしいものがあります。

「闇」と言えば、私は、香川の三本松教会の田舎司祭をやっていた頃、カトリック教会の典礼にある復活祭の徹夜祭の「光の祭儀」を忠実に完璧に演出しようと、自分で設計して建てた窓の多い聖堂を完全な暗室にするために細心の注意を払ったことを思い出します。

暗幕と黒い厚手のフエルト紙で、あらゆる光を遮断しました。廊下の明かりも消し、聖堂内外の非常口の緑の誘導灯も消し、窓はもとより、ドアの上下の隙間も塞ぎ、日暮れの街になお残るかすかな光まで完全に遮断しました。灯りを順次消して、最後の一灯が消えた瞬間、聖堂の中はピンホールほどの光の漏れもない真っ暗闇になりました。万歳!大成功!

30センチと離れていない人の存在感が忽然と消えました。人の心臓の音までは聞こえないものです。一瞬にして完全な孤独に包まれる点では、聖堂にいつもの人数の会衆が入っても状況はまったく変わりませんでした。

大汗かいて準備を手伝わされた信者さんの中には、「ほんの数分間の儀式のために、こんな大そうな手間暇とお金をかけて、一体何になるんです?よその神父さんはこんな物好きなことをしませんよ。ただ電気を消すだけではだめですか?」と不平を言うものもいましたが、私は聞こえないふりを装ってかわしました。

復活の徹夜祭に、うちの信者さんたちには日常生活では決して経験することのない「本物の闇」の凄さ、恐ろしさを是非体験してもらいたかったのです。

私たちが、洗礼の恵みを受けて、キリストの光に心を照らされる前は、みんな罪と欲望と孤独の絶望的な闇の中を這いずりまわっていたのだ、ということを、現実の暗闇の体験を通して思い出してほしかったのです。

会衆が本物の闇の「凄さ」をたっぷり身に染みて味わった頃合いを見計らって、司祭である私は、火を点した復活の蝋燭を掲げてその闇に入ります。太い一本の蝋燭の明かりが闇を切り裂くと、その光は聖堂の隅々にまで届き、遠くの人の顔までもぼんやりと見えてきます。

「ルーメン・クリスティー♪!」(キリストの光♪!)と私が歌うと、会衆は「デオ・グラチアース♪!」(神に感謝♪!)と答えます。

それから、近くの者が復活の蝋燭から小さな蝋燭に火を点し、その火を周りの人の蝋燭に順繰りに分けていくと、聖堂の中はみるみる光の海になり、各自の蝋燭はその人の顔とまわりを明るく照らし出していきます。

教会の一年の典礼の暦の中で、私の最も好きな美しい儀式です。

キリスト教の福音宣教とは、復活の蝋燭のように、闇に支配されたこの世俗社会に入って、キリストの光を人々の心に点し、広めていくことではないかと思う次第です。

 

雲を照らす月


今はキリストの降誕を待つ「待降節」。そんな時に復活祭の話は季節はずれと思われるかもしれません。しかし、「闇と光」のテーマは、両方に共通します。

キリストが生まれた日、その季節、についての確かな証言は、聖書にもどこにもありません。

クリスマスが12月の25日と決まったのは、インド、イランを経てローマに入った太陽神のミトラス教の、冬至の祭りの風習に合わせたもののようです。闇の支配が強くなって日中が次第に短くなる状態から、再び日が長くなる変わり目、つまり、光が闇に勝つことを祝う祭りを、世の光であるキリストの降誕の祭りに置き換えたのでしょう。

まじめな宗教がどれも全くお呼びでなくなった 「一寸先は闇」 のこの世、世俗化が行き着くところまで行った病める現代社会に、どうしたらキリストの光を人々の心にアピールする新鮮なプレゼンテーションの仕方で伝えることができるかと、ローマの空のもとで思いめぐらす日々がまた始まりました。

(つづく)

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★ 世の中一寸先は闇 =さようなら日本=

2011-12-06 22:55:29 | ★ 旅行

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世の中一寸先は闇

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= さようなら日本 =



前夜、私はホテル日航関西空港に泊まった。次の日、少し早かったが、11時半にホテルをチェックアウト。歩く歩道の向こう側のターミナルビル4階の日航ABCカウンターでスーツケースを受け取って、余裕たっぷり出発ロビーのEブロックに向かった。前日の下調べでは、そこにアリタリアのカウンターが開いているはずだった。

おや~ァ? ないな! 変だぞ!! どうして?

出発便のディスプレイのところに行って目を凝らした。12時台の便が4便。1時台の便が5便。2時台の便が4便。3時台のが・・・

その中に、私の便、アリタリアAZ792便14 時20分発ローマ行きは・・・ ン? 無い! なんで~ェ? 悪い予感がした。

 


目の前の 〔?〕 印の案内ボックスのお嬢さんのところに急いだ。「すいません、AZ793便のチェックインカウンターはどこですか?確かEブロックのはずですが・・・」

「少々お待ちくださいませ。」 分厚いファイルをパラパラとめくり、もう一度パラパラと繰りもどして、中の一枚のページをじっとみながら。「お客様、その便は今日は飛んでおりません。」

「えーェ?!そんなーァ!見てくださいこれ。 ほら、ここに (自分のチケットに代わる用紙を見せた):

                    2 Voli

                    AZ - Alitalia

                Volo 792

                    Data: martedi 6 dicembre 2011

                    Da: Kansai International Arpt, Osaka Japan

                    A: Fiumicino Arpt, Rome Italy

                   Partenza: 14:20 Arrivo: 19:15

                    Stato: confermato

つまり、復路 AZ アリタリア航空 793便 日付:2011年12月6日火曜日 関西空港 大阪 日本 14時20分(発)  フィウミチーノ空港 ローマ イタリア 19時15分(着) 

ステータス: コンファームド(確認済み)、 と書いてある。

最近の航空券は、E-チケットとか言って、手軽にメールの添付ファイルで届き、それをプリントアウトしてパスポートとともにカウンターに提示すれば、簡単にチェックインできるようになった。私は、今まで何度もその方法でヨーロッパを往復してきた。それなのに今回に限って躓いた。しかも、ボックスのお嬢さんは冷静に、アリタリアのローマ便が飛んでいるのは、月、木、土、日だけですね。火、水、金は飛んでいません、と言い切った。飛ばない火曜日にぼくの予約が入っている? いったいどういうことだ!

 


大阪のアリタリアのオフィスに問い合わせた。「お客様は昨日5日の便に予約が入っていました。予約された便にお乗りにならなかったのでその切符は規定によりすでに無効です。あらためての変更はできません。新しく切符を買って予約していただくしかありませんね。とにかくこちらで申しあげられることはそれだけです。後は発券元の代理店とお話しください」と、冷たく突き放された。

のんきに、今夜は久しぶりにローマのイタ飯だ、と思っていたのに、「世の中、一寸先は闇」 とはこのことか!

今夜のホテル代ぐらいはまだ何とかなるが、新しい航空券を正規料金で請求されでもしようものなら、たちまちお手上げではないか。どうしよう。

 

デジカメのシャッタータイミングは難しい 着陸の瞬間に押しても 右のタイヤの擦れた煙は後ろに残った


チェックアウトしたばかりのホテルに舞い戻り、8時間の時差があるローマの夜が明けるのをじりじりしながら待った。日本の夕方4時過ぎにやっと連絡がとれた。「なんとか対処するから、30分ほど待ってくれ」 と言われた。30分のわけがあるものか。何しろ相手はローマに住むスペイン人だ。案の定、4時間後の7時を過ぎてやっと電話が鳴った。

 


「済まなかった。代わりに8日の便が取れた。今は外だから帰ったら新しい予約の詳細をメールに添付してすぐ送るから、安心しろ」と言う。 すぐ送る?怪しいものだ。

悪い予感が的中して、深夜の12時まで待ったが、頼みのメールは来なかった。そして、睡魔に負けて不安のままいつしか寝てしまっていた。

虫が知らせたか、早朝4時過ぎに目が覚めた。トイレに行ってから、やおらパソコンを開け、祈る思いで立ち上がるのを待った。「あった!あったぞ!!」 これで一件落着! 

 

「世の中、一寸先は闇だ」 という言葉があるが、すべて順調に運んで当たり前と思っているまさにその瞬間に、今回のようなアクシデントに突然見舞われる。東電の幹部だけではなく、3.11の地震と津波の被災者のだれが、次の瞬間に自分が死ぬ、あるいは家族や家を奪われると予測して、それに備えが出来ていただろうか。

聖書を少しでもかじった人なら、ノアの洪水や、ソドムとゴモラの滅亡、紀元70年のイスラエルの滅亡が突然に訪れたことをすぐ思い出すに違いない。

ぬるま湯に浸かり、怠惰に流れ、人を顧みず、自己中心的に生きているこの瞬間に、私の「死」も突然やってくる。わたしに「死」を迎える万全の心の準備ができているか?!

ここまでは前置き。ここから本題の =さようなら日本= に入るはずだったが、長さの都合で次回に譲ることにする。明日の午後、仕切り直しでローマに発つ。そうすれば、来年の6月末まで、シャワーばっかりの生活に戻ることになる。妙高や関、燕の温泉とまではいかずとも、せめて、ホテルの湯船にどっぷりつかって、神経を休めることにしよう。

 

日航ホテルのエレベーターホールの生け花

(つづく)


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★ デュッセルドルフー4 (追憶)

2011-08-02 18:25:35 | ★ 旅行

 

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デュッセルドルフ-4 (追憶)

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 ガラリ と トーンを変えよう。 

 

 若者たちは夕食をたっぷりとったら、また22時間のバスドライブでローマに帰ることになっていた。

 私は、あの過酷な夜行バスに恐れをなして、デュッセルドルフに延泊を決めていた。レストランから宿にレイトチェックインを告げようとしたが、何度かけても電話が通じない。見かねたレストランのオーナーが自分のベンツで送ってくれた。何と気さくな飾らない人だろうと思った。

 着いて見てわかった。一人でレセプションに居た若い女性が、ホテルの代表ナンバーで彼氏と長電話していたのだった。

右が親切なレストランのオーナー


デュッセルドルフ。それは、私が長期にわたって居住した最初の外国の町だった。30歳台半ばの若さで、今はドイツで第1位の銀行にのし上がった当時のコメルツバンクにおける唯一の日本人スタッフだった。

 いつかはカトリックの神父になりたい、と言う思いはひとまず封印して、派手で刺激的な国際金融業の武者修行に、初めの一歩を踏み出したばかりだった。言葉に尽くせない様々な想い出のこめられた場所だ。

 週末は陸続きの地の利を生かして、西ドイツ各地は言うに及ばず、ペルギー、オランダ、フランス、オーストリア、等々、日帰り、一泊二日、又は有給休暇を一日足して23日のドライブで地方都市や田舎の村々をめぐり歩いたものだ。

 時あたかも、日本では友人のジャーナリストが、秋田郊外の湯沢台と言う場所にある女子修道院で、聖母マリアがシスターSに現れ、重大なメッセージが託され、仏師が彫った木彫りのマリア様像が涙を流すなど、不思議な出来事の数々が起きていると言うニュースを、彼の編集するカトリックグラフと言う月刊誌で特集連載していた。メッセージの内容は、「このまま奢った罪深い生活が続けば、大きな災害が起こる」と言うような意味のものだったと記憶する。今の地震や津波、それに原発の人災がそれと関係があるだろうか?

 日曜日に教会に通うと言うカトリック信者にとって基本的な習慣を完全に放棄してしまっていた私だが、その記事に刺激され、それに呼応して、私もヨーロッパ中のマリア様の出現の地を、史実や伝承を頼りにくまなく巡り、彼のカトリックグラフにたくさんの写真を送って連載記事を書いていたのを懐かしく思い出す。

 40年も前の話だ。当時の交友関係のアドレス帳も持ち合わせなかった。しかし、自分が住んだ二つのアパートの通りと番地、建物のたたずまいぐらいは覚えていた。ひょっとしたら、当時の家主の息子ぐらいには会って昔を懐かしむことが出来るかも知れないと言う淡い期待を抱き、足を向けた。しかし、最初に住んだホ―フガルテン(宮廷公園)の傍のアーノルド・シュトラーセ26番地の表札には、往時を偲ばせる名前はもう一つもなかった。

ホ―フガルテン(宮廷公園)のすぐ側の角のこのクリーム色の建物の2階から私の海外生活が始まったのだった


ホ―フガルテンに入ると結婚披露パーティーが開かれていた。 

  

公園をパーティー会場に使うとは粋なアイディアではないか?


トラムに乗ってテオドールホイスブリュッケでライン川を渡り、対岸のオーバーカッセルのジークフリードシュトラーセ31番地に向かった。

   

真ん中の建物の二階が私のアパート。家主のパイプオルガン奏者 Dr.エシュマン は3階に住んでいたのだが・・・

往時と変わらぬ静かな佇まいだった。見上げると、大家さんが住んでいた3階の大きく開いた窓から、若い男性が下を見降ろしていた。

「ひょっとしてドクター・エシュマンの息子さんですか?」 と叫んだ。

すると、その人は、「いや、私はただのペンキ職人だ。ここの家主さんはもう代ったよ。」と返ってきた。過去とのつながりを暗示するような印は、もう何処にも見出せなくなっていた。

 当然と言えば当然だ。十分にあり得ることではあったが、急に孤独感と寂寥が私の身を包んだ。昔に繋がる手掛かりを見つけたら、その糸を辿って時を過そうと1日半の時間を取っていた。

 デュッセルドルフの市街をただ当てもなく、くまなく歩いた。40年間何も変わっていないと言えば変わっていなかった。駅前は確かにきれいになっていた。ケーニヒスアレーは今もドイツの「小さなパリ」の名に恥じない垢ぬけした気品さえ漂わせていた。

ケーニヒスアレーの真ん中の掘割り


 青春の甘酸っぱい想い出がこみ上げてきた。脚が棒になるまで歩いて、アルトシュタットで休んで黒ビールを飲んだ。

  

詩人ハインリッヒ・ハイネの生家。いまは文学書の商社になっている。


デュッセルドルフの遊覧船にも乗った。しかし、それでもまだまる一日時間が残った。

   

遊覧船の上から眺めるデュッセルドルフのシンボルのランベルト教会の傾いた鐘楼と、水源のスイスの湖から745KM地点。


 そうだ、本格的なライン下りをしよう。

 汽車でリューデスハイムまでライン川を遡り、そこからコブレンツまで船で下る、定番のコースを選んだ。

 リューデスハイムにはドロッセルガッセ、訳すと「ツグミ横町」と言う狭い短い坂道があって、両側にはワインレストランやみやげ物屋が並んでいる。

  その日は生憎と降ったり止んだりの冷たい小雨模様だった。


    

ブドウの房をあしらったツグミ横町の看板              狭い横町の人通り     


作曲家ブラームスの道


   

ライン川を見下ろす丘へ行くザイルバーン(空中ケーブル)ですれ違った子供連れ    眼の下のブド―畑を行くトラクタートレイン  

 

   

     小雨の中を急ぎ足の少女たち                   ワインレストランで歌う楽師さん  


   

古城の下を行く私の乗った船の同型船                          ライン川沿いの家並み       


   

ローレライの岩が目前に現れると遊覧船内にローレライのメロディーが響く    ライン川はここで鋭角に曲がりそこに危険な岩礁が現れる  


ザンクト・ゴアルハウゼンはローレライの町


ライン川に沿って立つ無数の古城の一つ


   

終点のコブレンツに着いた。 町のあちこちにユーモラスなブロンズの彫刻が

 

 今はカトリックの神父をしている私だが、40年近く前、コメルツバンクの社員としてデュッセルドルフに住み、色彩豊かなビジネスマンの生活を楽しんでいた。私の遅い青春で最も輝いていた時代ではなかったかと、懐かしい想い出をかみしめる1日だった。 

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★ デュッセルドルフ-3

2011-07-19 10:16:37 | ★ 旅行

 

 

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デュッセルドルフ-3

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帰国後、移動が激しく、なかなかゆっくりとパソコンに向かってブログの原稿を書く暇が見つからない。アッと言う間に二週間が過ぎていった。しかし、焦ってみてもどうしようもない。こうして旅の一夜の宿の夜更けを利用して、数行ずつでも書き貯めていくしか、他に手がないのだ。 

「デュッセルドルフ-2」 は、大スタジアムにおける新求道共同体の若者たちの集会の前座にあたるキコ氏の交響曲の話で終わった。ブログ訪問者の多くが、「新求道期間の道」の公式ホームページの日本語サイトから動画に入って、キコ氏の新しい音楽を聞かれたようだったが、その反響は概して良かった。

さて、次はいよいよこのイベントのクライマックスである。

 

広いステージはなんのため?


今回の全ヨーロッパの共同体の若者たちの集いは、明らかに8月15日を中心にマドリッドで開催される教皇ベネディクト16世主催の「世界青年大会」を意識してのものであることは言うまでもない。

ケルンのマイスナー枢機卿の話しや、キコ氏自身の長い熱烈な呼びかけは、いずれも、現代世界における福音宣教の緊急性と必要性を強くアピールするものであった。

 

若者たちに話しかけるケルンの大司教マイスナー枢機卿


会場の熱気が最高潮に達した頃、キコ氏は、集まった若者たちに呼びかけた。

「生涯を福音宣教に捧げ、独身を覚悟して司祭職を志す若者は立って前の壇上に集まりなさい!」

するとどうだろう。フィールドから、スタンド、それも最上段に至るまで、実に大勢の若者らが立ち上がって、通路に沿ってフィールドまで下りてきて、前に進んで広いプラットホームに駆け上がってくるではないか。

キコ氏の巨大な絵の下に、一列に並んでそのドラマを見守る来賓の枢機卿、司教方の前に若者たちが跪く。広いステージは見る見る内に若者たちで埋まっていくではないか。蟻の行列のように各通路から壇に向かう若者の流れが続く間、キコはギターを弾きながら歌っている。まるでハーメルンの魔法の笛の音に誘われて付いて行く子供たちを見ているようだ。

 

広いステージを埋めた若者たち


最後のものが壇に登った時、その若者たちの数は300人を優に超えたかと思われる。スタンドを埋めた3万人の半数が女性だとすれば、会場の若者50人に一人が司祭の召命を感じて立ったことになる。

跪いた若者は、一人ひとり来賓の枢機卿、司教、司祭達から按手を受けて、もとの席に帰って行った。世を挙げて司祭への召命不足で教会が危機に瀕している今の時代に、何とも目を疑いたくなるような光景ではないか。

世俗化が進んだ現代文明社会では、信仰ゆえに世俗を捨てて聖職に就こうなどと言う奇特な若者はほとんどいない。回教世界のことは知らないが、日本の仏教界も、お寺さんの後継者不足の深刻さは知る人ぞ知るだ。戦後日本で宣教活動を展開していたプロテスタント教会諸派の中には、宣教師の後継者不足で日本から撤退した派もあると言う。

続いて、同じ手法で、今度は若い女性たちに呼びかけがあった。

「生涯独身で、修道院の禁域の中で祈りと犠牲の生活に身を埋もれさせる生活への召命を感じたものは立って壇の上に来なさい。」

 

    


またも、キコ氏のギターの音色と歌声に誘われるかのように、スタンドの上の方からも立った女性たちが列をなして壇に向かった。見ると多くの女性たちが滂沱の涙を拭おうともせずに急ぎ足で進んでいく。跪いて祝福を受け、自分の席に戻る時、壇のうえで友達と抱き合って泣いている彼女たちの姿は、見る人の胸に熱いものを感じさせるに十分だ。

 

抱き合って激しく泣く二人


彼女たちを突き動かして立たせ、壇の上に進ませ、公にその決意を明らかにさせた力は何処から来るのだろうか。それは、何か非日常的な、崇高な、超自然的な力ではないだろうか。私は、「神は居る!」、現代世界においても「神は死んではいない!」と言う確信を、あらためて深くした。

 

 

キコが歌う

諸君!次はマドリッドで会おう、と叫ぶキコ


キコ氏とともに歌う歌があって、祈りがあって、実務的なアナウンスがあって、この「召命」の集いは終わった。3万人が一度に外に出るにはそれなりの時間がかかる。フィールドで待つ若者たちは、思い思いにギターや打楽器などを奏でて、歌い輪になって踊っていた。

 

祝福を受けて女性たちが壇を下りると、オーケストラの演奏家たちが壇を占領して踊り出す。

サッカーグラウンドの広さのフィールドを踊りの輪で満たす若者たち

踊れ、踊れ、心行くまで!

仲良しになった若者たちと


広いバス駐車場まで行くと、それぞれのグループはバスに乗ってあらかじめ予約してあったレストランへたっぷりの夕食を取るために散っていった。私たちのグループ、4台のバスに分乗した200人は、デュッセルドルフのアルトシュタット(ライン川沿いの旧市街)のシッフヒェンと言う古い有名なビアーレストランに入った。

 

ビアレストラン、シッフヒェンの看板のレストランの文字の上には金色の帆かけ船が

 

シッフヒェンのステンドグラスには創業1628年以来を表す数字が


骨付き豚肉とザウアークラウトとマシュポテトの典型的なドイツ料理だった。そして、もちろんアルトシュタットの郷土ビール、濃い茶色のアルトビアーは飲み放題だ。何しろ、この食事の後、またローマまであの過酷な22時間のバスの旅が待っているのだから。 

 

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★ デュッセルドルフ-2

2011-07-05 19:24:48 | ★ 旅行

 

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デュッセルドルフ-2

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前回の 「デュッセルドルフ-1」 は、実のところ不評でした。それは内容のせいと言うよりは、スタイルの問題でした。長いベタ文字の部分を読者は好まれないことがよくわかりました。それで、今回はその点にもいささか配慮したいと思います。 

 


3時を少し回る頃から、会場の空気が高揚し始めました。この日、この会場を目指した若者たちは、すでにほとんどが場内に入っただろうと思われます。北欧や、遠くポーランド、ロシアからも来ています。


正面の舞台のステージが何故こんなに広いのか、その理由は次回のお楽しみ


正面のひな壇には、ケルン大司教区のマイスナー枢機卿や、高松の神学校設立で大変お世話になり個人的に親しくもなったドイツ人のコルデス枢機卿らをはじめ、招かれた枢機卿や司教達が並んでいました。彼らも、今や遅し、とキコ氏が壇上に現れるのを待っています。

キコ氏とは、新求道期間の道の創始者のことで、私と同じ1939年生まれ、いつの間にか70歳を超えたが、かつて全共闘世代の若者だったころに、この「道」を始めたのでした。

しかし、キコ氏はなかなか現れません。正面の壇の左側には、盛装したオーケストラが待機しています。音を合わせたり、気になるパッセージを黙々と確認したり、しかし、それにも飽きると、パートごとにおしゃべりやおふざけに余念がありません。みんな若い優秀な演奏家の集団と見受けられます。

 

私が壇上に上がってカメラを向けると、みんな喜んでポーズをしてくれます。最後列左端の白髪の男は、ジャネスと言って、ローマの神学校で私の二年先輩、もとは旧ユーゴスラビアの国立放送管弦楽団の第一ヴァイオリンを弾いていたプロ中のプロだ。

    

それぞれに自分のラッパを頭にかぶる、   フルートを吹き矢のように口に当てる、   刀のように振り回す。


待つほどに、拍手とどよめきの中キコ氏は壇上に現れました。まず、慣例に従って、会場の参加者の紹介が行われます。


ドイツ語で若者たちに挨拶を送るお隣りケルン大司教区のマイスナー枢機卿

その後ろに控えるのがキコ氏

 

あらかじめ届けられた通り、次々に国籍とおよその人数が読み上げられると、そのグループは叫び声をあげ、熱狂的に旗を打ち振ります。ローマ教皇の一般謁見の時と同じ雰囲気です。

 

   


第一部は、キコ氏が最近手がけたシンフォニア(交響曲)が紹介されました。彼がフルオーケストラのために作曲を手掛けるのは、今日発表される曲が第一作目です。キコ氏はそれを「信仰教育的な交響曲」と言うジャンルに位置付けています。

彼はプロの画家であり、壁画や建築や造形には非凡な才能を発揮したが、音楽は専門的に勉強していません。従って、ギターを弾き語り、歌の作曲は何百編も手掛けているが、そのあたりが彼の限界だと思われていました。彼は元来楽譜が読めず、まして楽譜を書くことなど出来ないのです。そう言う彼が、オーケストラ用の交響曲の作曲に挑戦すると言うのです。それも、クラシックの著名な作曲家が数カ月を要するかと思われる大曲を、正味数時間で作り上げると言うのだから、驚くほかはありません。

どうしてそんなことが可能なのか。その秘密兵器が、先ほどまで私の目の前で時間をもてあましてふざけたり談笑したりしていた若い演奏家集団です。

 

本番開始


キコ氏は、心に浮かぶメロディーや曲想を、孤独な作業で楽譜に書きこんで曲を仕上げ、その出来上がった楽譜を各楽器の演奏者に配って合奏させるというオーソドックスな手法を使いません。いや、楽譜が読めず、書けない彼には、そもそもそのようなオーソドックスな手法を用いることが不可能なのです。

彼は、自分の魂の中に聞こえるシンフォニーを、オーケストラの前で口ずさんで歌って聞かせる。弦には弦のパートを、管には管のパートを、打楽器にはそれ相応のリズムを、と言った具合に、全て自分のさえずりで口移しする。すると - 相手はプロの演奏家だから - このへんかな?と見当をつけて、それぞれに演奏してみせる。それを聴きながら、キコは、いや、そこはこう、あそこはもう少し、と修正を加えながら何度も演奏をし直して行く。そして、即興で思いつくまま、ここで管は黙りハープがこんなソロを挟み、オーボエがすすり泣く、とメリハリをつけていく。その過程が全部録音されていく手筈になっているのです。

納得がいくまで、何度でも繰り返す。一応の出来上がりに達するとその録音されたものを各パーツの演奏家が採譜して、それを持ち寄り、一冊にまとめると楽譜が完成と言うわけです。

一回の作業の結果を録音したものを、彼はその後何度も何度も聴きながら、細部のインスピレーションを膨らませて完成度を高める。そして、またオーケストラを集めて浮かんだインスピレーションを実際に演奏させて確かめ、また人の手を借りて楽譜に固定していく。多声部の合唱もソロの部分も同じようにして仕上げていく。彼自身も一部をソロで歌う。・・・と、まずはそんな具合なのだろうと思います。

 

キコ氏の信頼篤き若き指揮者と出だしのソロパートを歌うキコ氏


クラシックの作曲家で、キコ氏のような手法を用いて曲を作る人を私はまだ見たことがありませんでした。

だから、そんなこと本当にうまくいくものだろうか、とこのブログの読者が疑われるのも無理からぬことです。だから、百聞は一見に如かず、と言うが、この場合は、百聞は一聴に如かずと言うべきでしょうか。

「新求道期間の道」の公式ホームページで、実際に聴くことが出来るから、その方法をここにご紹介しましょう。

最近、新求道期間の道の公式ホームページは、私のいささかの努力もあって、一部日本語でも読めるようになりました。そのホームページからキコ氏の交響曲のサイトに入る方法をお教えしましょう。ただし、そこにあるのは、デュッセルドルフでの演奏ではなく、それより少し前に、イスラエルの「ドームス・ガリレア」という建物の中で、大勢のカトリックやオーソドックスの教会の司教達、ユダヤ教のラビたちの前で演奏された時の音源と映像です。

http://www.camminoneocatecumenale.it/new/evento.asp?lang=en&id=138

で、先ず「新求道期間の道」の公式ホームページに入って下さい。

左上の言語バーの中から日本語を選んで下さい。

日本語ページの右側の上から二つ目の涙を流しているマリア様の絵をクリックしてください。

説明の後に、一連の動画が続きます。最初のキコ氏の顔が移っている動画は、キコ氏のイタリア語の話で終わるので、イタリア語のわからない方はそれを飛ばし、第二番目の動画以降を開いて下さい。

下のバーの右向きの三角のスタートボタンををクリックすると、キコ氏の交響曲を聞くことが出来ます。

お試しください。 「百聞は一聴」 に如かずとはまさにこのことです。

 

 

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★ デュッセルドルフ-1

2011-06-25 16:19:09 | ★ 旅行

 

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デュッセルドルフ-1

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空飛ぶ教皇と呼ばれたヨハネ・パウロ2世は、教会の明日を担う世界の青年達と直接交流するために、2年に一度の「世界青年大会」(ワールド・ユース・デー)を世界各地で開催する先鞭をつけ、現教皇ベネディクト16世もそれを継承している。 

今年は8月15日の聖母マリアの祝日を中心にスペインのマドリッドでそれが開かれる。200万人以上の参加が見込まれと言う話も聞いたが、もし本当なら、その日325万人のマドリッド市の人口は一気に1.6倍に跳ね上がる計算だ。 

今回は、その準備として、ヨーロッパの「新求道共同体」の若者たちを対象にした集会がドイツのデュッセルドルフで開かれることになった。

気持ちだけは若者に負けないつもりながら、すでに70歳を超えた私は、ローマから夜行バスで22時間の過酷な旅にはさすがに腰が引けた。しかし、デュッセルドルフと言う言葉の響きには、私にとって特別なものがある。それは、血気盛んな30歳代の半ばに4年近くを過ごした私にとっては最初の海外生活の土地だったからだ。当時、私はコメルツバンクと言うドイツの銀行の社員だった。

ローマの沢山の教会が積極的にこの企画に協力する。ティーンエイジャーから30歳台までの青年男女を中心に、それぞれの教会が独自の企画で参加するようだ。私は、思い悩んだ末、ぎりぎりに「カナダの殉教者教会」の企画に参加を決めた。その教会からは200人余りの若者が、4台のバスを連ねて出かけることになっていて、私は3台目のバスの添乗神父を仰せつかった。

出発の前日の夕方には、参加者を対象に「赦しの秘跡」が執り行われた。このブログの読者の大部分にとって「赦しの秘跡」は聞きなれない言葉に違いないから、念のために解説する。

「赦しの秘跡」とは、別の言葉では「集団懺悔式」、又は「共同告白式」とも言う。要するに、大勢で集まって、聖書の言葉を聞き、聖歌を歌い、その後で一人ひとり神父に近づいて前の懺悔以来の自分の罪を告白し、神の名において赦しを受けるという式だ。

皆の前、聖堂の各所に立つ司祭の一人に近づき (この日はたまたま200人の若者に対し9人の司祭が聞き手にまわった)、みんなの見守る中、立ったまま司祭と向かい合い、自分の罪を赤裸々に、しかも淡々と告白する若者たちの姿は、罪にまみれて70年の人生を歩いてきた老神父にとっては、毎度のことながらとても感動的な場面である。

青年たちは司祭にはっきり聞きとれるしっかりした声で告白する。そんなことをしたら周りの人にまる聞こえだろうと心配するなかれ。それを、ギターに合わせて聖歌を歌う歌い手の声がかき消すから、3メートルも離れれば告白者と司祭の会話は近くの会衆に全く聞き分けられない仕掛けになっている。

このセレモニーは、次の日バスに乗って2000キロ近い巡礼の旅に立つための絶対不可欠の前提なのだ。心の奥に罪の影を宿したままでは、稔りある巡礼は期待できない。

いま時の日本の若者たちの中に、自分が神の前に罪人であることを認め、自分の心の動きのどの部分が罪であるかを意識して正直に告白し、その赦しを神に求める真摯な魂がどれだけいるだろうか。その意味で、イタリア社会は世俗化し堕落したとはいえ、腐っても鯛、まだキリスト教社会の残滓は一部に息づいていると思った。

次の日、午後5時半の集合で、実際にパスが動き出したのは7時半と言うのも、日本人の私には、今もって理解できないのだが、サービスエリアの15分のトイレ休憩が簡単に40分~45分に延びるのもイタリア的と言えばイタリア的だ。



夜が明けて、まわりを見ると北イタリアの山岳地帯だった。スイスとの国境を過ぎて湖のほとりを走って、また国境を超えて南ドイツに入る。


遅い昼食がホテルで待っているから、先を急ぐぞ。トイレ休憩は15分厳守! と言っても、全く効き目は無い。てんでに、好きなようにたばこを吸ったり、パニーノ(サンドイッチ)をかじったり、おしゃべりをしたり・・・いい気なものだ。



何しろ、4台のバスに分かれている自由奔放なイタリア人の若者200人余りを統制するのは並大抵のことではない。恐れた通り、ホテルには5時半過ぎに着いて、遅い昼食の話はいつの間にか消え失せていて、しかも誰も文句を言わない。馬鹿正直に何も食べずにバスの中で出発の早からんことを祈っていた日本人神父が分かっていないだけの話なのだ。腹を減らして不機嫌になるだけ損と言うわけ。

長時間かけて部屋割をして、夕食が終わったのが8時過ぎ。昨晩はバスの中でほとんど寝ていない。やれやれこれでやっとベッドに入れるか、と思ったら、10時からミサをするだとさ。何が10時なものか。10時になんか始まるわけがないとふてくされて、10時半にホールに下りていったら、係りがミサの設営中。まだほとんど誰も来ていない。ミサが終わったら深夜をはるかに過ぎていた。

そのミサの最後には祭壇のまわりを輪になって踊る。復活したキリストの喜びがあふれる高揚した瞬間だ。



明けて、集会当日の朝。宿から会場のスタジアムまでの6-7キロの道のりは、徒歩で巡礼することになっていた。



ドイツ語で用意した「神様はあなたを愛しています!」 などと書かれたスローガンの横断幕を先頭に、長い列をなして進む。

 

ギター、ボンゴ、バイオリン、タンバリン、カスタネット、持って歩ける楽器なら何でも、を奏でて、歌いながら練り歩く。途中、歩き疲れると道を逸れて公園に入り、芝生の上で朝の祈りを唱え、歌を歌う。



歌えばみんな踊り出す。黒い服の若者はやがて神父になる神学生達。



また道へ出て会場までの残りの道を歩く。ドイツ語が出来ればそれに越したことは無いが、イタリア語でも、スペイン語でも、何でも、相手に通じる言葉を探して、片端から道行く人に語りかける。人々は好奇心の目でながめ、アパートの窓から顔をのぞかせる。

若者たちの話に耳を傾ける道行くドイツ人


ライン川の橋を渡って左に折れると、後は会場まで川沿いの道を行く。ラインはヨーロッパの河川交通の幹線だ。大型の船がひっきりなしに上下する。


目的の会場のスタジアムが近付くと、前晩デュッセルドルフの郊外や、近隣の町や、オランダやベルギーなどに泊った全ヨーロッパからの若者たちが続々と到着し、指定のゲートから続々と中に入る。



午後3時ごろ、ほとんどの若者を飲みこんだ屋根付き大スタジアムは、若者の熱気にむせかえった。椅子も何もないフィールドは座り込んだ若者で一杯。

 

10万人ぐらい入るかなと思われる会場、長辺に大きなステージが設置され、その正面のスタンドは最上段まで、左右が中段まで、約3万人の若者で埋まった。

  

 

ステージの後ろにはキコ氏の描いた壁画の巨大な幕が。天井には同時通訳のFM電波の周波数が。ここには8カ国語が上がっているが、実際にはモナコなどの小国も数えると45ほどあるヨーロッパ諸国の内20カ国前後から若者が来ている。

   

 

ここでこれから一体何が始まるのか?


   

                                            それは次回のお楽しみ!


                   (つづく)

 

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★ フランス旅行

2007-04-10 02:46:48 | ★ 旅行

ブログ作成練習のため、きょうはフランスに行ったときの写真の貼り付けをやってみましょう。
2006年4月に、ルルドからパリまで、レンタカーで走った途上、シャルトルで虹を見ました。

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