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クリスマスイブの 「夢」
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ナザレのイエス・キリストの誕生日とされる12月25日向けて、お祝いの挨拶を贈ります。
ローマ時間の24日午前3時ごろ、長い(と感じられた)浅い眠りとも深い夢とも言える思考の時間の後、誰一人居ない(普段は100人ほど住んでいる)静まりかえったローマの神学校の自室の電気スタンドだけつけて、パジャマのまま机に向かいました。
夢はなかなか捕えがたく、今までに一度だけブログで取り上げたままです。
今夜の夢は、大天使ガブリエルが処女マリアに受胎告知した場面と、もう一つ、ヨゼフが婚約者のマリアの妊娠を知って悩んでいた時に、天使が夢に現に現れて、マリアは悪い男に強姦されたのでも、浮気して他の男と関係したのでもなく、聖霊(神の霊)の力で懐妊したのだと告げられて、納得して妻としたと言うくだりを、行きつ、戻りつ、していたようです。
マリアの場合は白昼夢というか、昼間に天使が現れて、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。」「あなたは身ごもって男の子を産む。」「神には出来ないことは何一つない。」と言った。そこでマリアは「わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように。」と言ったことになっている。
私は夢うつつの中で、一つの重大なことに気付いていた。それは、13歳の時に洗礼を受けて以来、ずっと重大な思い違いをしていたらしいということだ。私はずっと、受胎告知のとき天使はマリアに「神様はあなたを処女のまま妊娠させようとお考えだが、あなたは同意しますか?」と質問したように錯覚していた。そして、マリアが自由に「はい、同意します。私はいいですよ。」と答え、その答えの瞬間妊娠した、と考えていた。しかし、今夜の夢のなかの私は、いや、待てよ、天使は同意を求めていない。マリアが、「はい!フィアット!同意します。」と言っても言わなくても、お構いなく天使はマリアに「妊娠」するという事実を一方的に告知したのではないか。
と言うより、そもそも、背中に大きな羽を生やした中性っぽい若い人間の姿をした天使が目に見える姿で現れて、マリアに解るアラマイ語(?)で話しかけたという芝居がかった話は、実は全部キリスト教の聖書に描かれた宗教寓話にすぎないのではないか。現実に起こった史実は、15-6歳か13-4歳の少女がある日、男とセックスした事実が無いのに妊娠しているという、なんともぶっきらぼうで全くあり得ないような現実に気付かざるを得なかった、と言うだけのことではなかったのか。
神を信じない現代のそこそこインテリの人にも なるべくわかりやすいように説明をすれば、2000年ちょっと前のパレスチナの一人の少女の子宮の中で、彼女の卵子の一つが無精卵のまま細胞分裂を開始し、しかも彼女のDNAの女性の性決定因子が突然変異で男性の組み合わせに転換して胚になり胎児になり、彼女のお腹は大きくなっていったということだろう。無神論者でも、キリスト教を生理的に嫌悪する人であっても、自然放射線のいたずらか、はたまた宇宙飛来の素粒子に叩かれてか、その少女の胎内の卵細胞でそのような生物学的、生理的突然変異が起こったのが事実であったとしたら、あり得ないと言って頭から否定することは出来ないだろう。
これらの事は、全て私の今夜の夢の中の話だ。
しかし、もしそれが歴史上起こった事実だとすれば、前例がない、とか、実験で再現できないとか、要するに科学的にその可能性が証明できる、出来ない、を議論しても始まらないではないか。もし、あくまで「もしも」の話だが、そういう事実があったとしたら、それを受け止めようではないか、と合理主義者の私は言う。
興味があるのは、そんなありえないような事実の当事者になった少女は、その事実とどう向き合ったかという問題だ。
当時のパレスチナのユダヤ教社会の律法によれば、婚約中に密通して妊娠したふしだらな女は石殺しの刑を受ける事になっている。広場で真ん中に立たされ、ばらばらと飛んでくるこぶし大の石をよけて無意識に両手で頭をかばうが、ついに一発が後頭部を直撃し、くずおれうずくまった。しかし、息絶えて死ぬまで群衆から石つぶてを投げつけられる、と言う実に残酷な刑罰に処せられることになっていた。
婚約者のヨゼフは、義しい人なら、彼女を会堂に突出し、その石殺しの処刑を求めなければならなかっただろう。
身に全く覚えがないのに、あっと気が付いたら、自分のお腹が膨らんでいく。世に言う妊娠兆候が顕著になってきた。どうしたらいい?進退窮まった彼女は、自殺するか、堕胎するか(もし当時そんな可能性があったらの話だが)、或いは、身元の分からない村に逃れて娼婦にでも身を落とすほかはなかっただろう。またそうしても、乳飲み子を抱えて生き延びられる可能性は限りなく低かっただろう。両親にこっそり打ち明けても、父ヨアキムも、母アンナも信仰篤い律法主義者で、下手をすれば石殺しに突きだされるか、憐れに思い律法をまげて家族の中でかくまっても、家族ぐるみの苦難の道が待っている。狂人を装って、或いはあまりの苦しさに本当に心が壊れて、当てもなく彷徨い出る恐れもあっただろう。
しかし、マリアは毅然として自分の身に起こったことは神の意志だと信じ、死を覚悟して真実を-と言うか起こったありのままの事実を-婚約者のヨゼフに告げる決心を固めたのだ、と私は思う。その事実を指して、新約聖書は「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と天使に言った、と寓話化したのだと考えると、すんなり理解できるのではないか。
困ったのはヨゼフだ。そんなありえない馬鹿げた話を誰が信じられるか。自分と一度も関係していない婚約者のマリアから、私は神の霊の力で妊娠しました、これは神の意志、神の働きです、と言われて、はいそうですか、と信じられるだろうか。それは無理だ。
ヨゼフに常識と理性があるならば、言うだろう。マリア、お前は嘘をついている。妊娠しているなら、強姦されたか、密通したか、どちらかしかないではないか。どうしてその真実を告白しない。嘘をついた上に、妊娠の事実を神の所為にするとは、人を馬鹿にするのもいい加減にしろ、と怒鳴りたくもなるだろう。義しい人、律法を重んじる人であっても、強姦された事実を告白し、または密通の裏切りに対して心から後悔して赦しと憐れみを乞うというのならば、考えてもみようが、お前が嘘をつき通し、それを恐れ多くも神の所為にして白を切り通すというのであれば、石殺しもやむを得ない、お前の神をも畏れぬ強情の報いとしてそれも仕方のないことだ。真実を告白しないお前が悪いのだ。と、これが、普通の男と女の行き着くところだろう。
ところが、ヨゼフは違った。聖書によれば、ヨゼフは正しい人であったので、マリアの事を表ざたにするのを望まなかった。思い悩んでいる彼に主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨゼフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
何で聖書はこんなことを書くのかねェ?と夢の中の私は呆れている。これも、キリスト教的宗教寓話ではないのか。ポストフロイドの現代に生きる、キリスト教をとっくに卒業してしまったヨーロッパのインテリに、そんな夢の話、そのまま文字通り信じられるわけがないだろう。日本の高校を出た常識人だって、夢に天使が現れて問題が解決するなら、世話無いや、と言って笑って相手にしないだろう。天使がもっとどんどん現れて、世の中のややこしい問題を片端から解決してくれるというのなら、キリスト教の人気は回復するかもしれないし、何なら私も入ろうか、と彼らは思うだろう。
夢の中の私は考えている。そうではない。ヨゼフはアブラハムの正統な子孫だ。アブラハムはユダヤ教的、キリスト教的、(ひょっとして回教もかな?)の信仰の父、信仰の太祖だ。アブラハムとその子孫には「神様にはお出来にならないことはない!」と言う確固たる信仰がある。ヨゼフにもこの信仰が機能した。
マリアの純真な、純粋な、真剣な眼差しを見ながら、「私は嘘を言っていません、私は真実を告白しています。私は強姦もされませんでした、不倫もしませんでした。だのに、不思議なことに事実私は身ごもってしまったのです。これは神様の意志であるとしか思えません。私はそう信じます。あなたもどうか信じて下さい。」と言う命がけの真剣な訴えを前にして、アブラハムの信仰、「神様にはお出来にならないことが無い」がヨゼフの心に甦った。それなら、私もお前マリアの言葉を信じよう。世間に対しては私の子だということで押し通そう。私は神の子の父親になろう。そう決心して、心が平和になったヨゼフの内面的展開を、聖書は寓話化して、夢の中の天使の現れとしたに違いない。
私が夢うつつの中で思弁したことは、2000年以上前のパレスチナの迷信深い文盲の一般大衆の理解を越えていたので、解りやすく、手っ取り早く宗教的真実を寓話化して記録に残したのだと思って、夢の中で納得した。
下等動物では日常茶飯事の単性生殖が、最も高等な人間の女性の胎内で再現されたという、極端に稀な突然変異的な自然現象に対して、2000年前のパレスチナの処女マリアが、類まれな天才的理性の推論と、ユダヤ社会の深い信仰とが結びついて、冷静に事実を受け入れたことと、ヨゼフの「神様には不可能はない」として常識では有り得ないマリアの話を真実として受け止めたアブラハム的信仰のお蔭で、イエス・キリストは危ういところで闇に葬られることなく誕生することが出来た。
その年、その日が現代の科学的歴史観ではいつであったにしろ(12月25日である可能性は限りなく低いが)、クリスマスおめでとうございます!
ここまで書いてローマ時間では朝の6時25分。これから読み直して、ローマ字入力の誤変換などチェックして、適当な写真を一枚貼り付けてアップするまで、まだ1時間やそこらはかかるだろう。
前に「夢」というテーマで東山魁夷の絵の夢を題材にしたブログ(2011年11月7日)を書いたが、今回の夢は本当にはっきりしていて、論理的で、覚めてもすぐに消えていかないで、文字にして書き留めることが出来た。
断っておくが、これはあくまで「夢」のメモであって、信仰告白でもなければ、まして神学の論文でもない。
あらためて、
Merry Christmas and a Happy New Year!
(つづく)