:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 〔完全版〕 教皇のインタビュー(その-4)

2014-02-26 18:59:25 | ★ 教皇フランシスコ

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〔完全版〕 教皇のインタビュー(その-4)

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 一回分の量をすこし少なめにしました。

これぐらいでいかがですか?


教会と共に感じる

 教会のテーマの一環として聖イグナチオが自分の霊操の中で書いている《教会と共に感じる》ということは、教皇フランシスコにとって何を正確に意味しているか理解しようと試みた。教皇はためらいもなく一つのイメージからその答えを始めた。

 「私の気に入った教会のイメージは神に忠実な聖なる民である。これは私が度々用いる定義であり、Lumen gentium(教会憲章)12番の定義でもある。一つの民に帰属するということには神学的に強い価値がある。救いの歴史の中で神は一つの民を救われた。一つの民への帰属なしに完全なアイデンティティーはない。孤立した個人として救われるものは誰一人おらず、神は共同体の中で生じる複雑な人間関係の絡み合いを考慮しながら私たちを引き寄せる。神はこの民の躍動性の中に入られるのだ。」

 「主体はあくまでも民だ。そして教会とは喜びと苦悩をもって歴史の中を歩んでいる神の民だ。だから、私にとってSentire cum Ecclesia(教会と共に感じる)とはこの民の中にいることだ。そして信者と共にいるということは、信じることにおいて誤謬に陥らないということで、infallibilitas in credendo(信じることにおける不謬性)は、歩んでいる民全体の信仰の超自然的な感性を通して明らかになる。つまり、これが聖イグナチオも言うところの《教会と共に感じる》の今日的な意味だと私は理解する。人々と司教と教皇の対話がこの道の上にあり、またそれが誠実なものであるなら、その時その対話は聖霊によって助けられている。だから、感じるというのは神学者たちだけを指しているのではない。」

 「それはマリアについても同じで、彼女が誰であるかを知りたければ神学者に聞きけばいいが、彼女がどのように愛しているかを知りたければ民に聞かねばならない。彼女の場合、Magnificat(聖母マリアの頌歌)にある通り、マリアはイエスを民の心で愛した。従って、《教会と共に感じる》の理解は、単に位階制度がどう感じるかだけの問題ではないことは、考える必要もないことだ。」

 そして教皇は、ちょっと間を置いた後、誤解を避けるために乾いた明確さでいった。「そして、私が公会議の光に照らして言おうとしているこのすべての信者のinfallibilitas(不可謬性)は、明らかに民衆主義の一種として考えるべきものではないと言う点に良く注意する必要がある。そうではなくて、それは聖イグナチオが言うところの《聖なる母である位階制的教会》、神の民としての教会、牧者と民を一つに合わせたもの、の経験である。」

 「私は神の民のなかに聖性を、民の日常的な聖性を見る。そこには、マレーグがそれについて語っているように、みんながそれに参加できるような、一種の《中級的な聖性》がある。」

 教皇は彼のお気に入りのフランスの作家、1876年生まれ出1940年没のヨーゼフ・マレーグについて話している。特にその未完の三部作Pierres noires(黒い石たち)について。Les Classes moyennes du Salut(救いの中流階層)。或るフランスの批評家たちは彼の事を《カトリックのプルースト》と定義する。

 「わたしは忍耐強い神の民の中に聖性を見る-と教皇は続ける-:子供を育てる女のなかに、家にパンを持ち帰るために働く男の中に、病人たち、たくさんの傷を負いながらも主に仕えてきたために微笑みを忘れない年老いた司祭たち、たくさん働いて隠された聖性を生きている修道女たちの中に。これが私にとってみんなの聖性だ。私がしばしば忍耐と結びつける聖性:ただのhypomoné(我慢)としての忍耐ではなく、生活の中の出来事と状況の重荷を担っていくこと、また毎日毎日前に進んで行く粘り強さ。これが聖イグナチオも語っているIglesia militante(戦っている教会)の聖性だ。これが私の両親:私の父、私の母、私をいっぱい可愛がってくれたローザお婆ちゃん、の聖性だった。聖務日祷書にローザお婆さんの遺訓を挟んでいて、私は度々それを読むが、私にとってそれは一種の祈りのようなものだ。彼女は倫理的にもたくさん苦しんだが、いつも勇気を持って前に進んで行った聖女だった。」

 私たちが《共に感じ》なければならないこの教会は、みんなのための教会で、選ばれた人たちの小さなグループだけしか入れないような狭いチャペルではない。普遍教会のふところを私たちの凡庸さを護るための巣に矮小化してはならない。そして、教会は母なのだから-と続ける-、教会は多産なものであり、またそうでなければならない。見るがいい、教会の神父や、修道士や修道女のダメな振舞いが目に止まると、真っ先に考えに浮かぶのが、《なんだ、この男やもめ》とか《この行かず後家》とか言う言葉だ。彼らは父親でも母親でもない。命を与えることの出来ない無能者たちだ。それに対して、例えば、パタゴニアに行ったサレジオ会の宣教師たちの生涯を読むと、命の物語り、子沢山の話を読む思いがする。」

 「最近の別の例を見よう。私が私に手紙をよこした一人の青年にかけた電話のことについて新聞がたくさんの記事を載せたのを見た。私が彼に電話をかけたのは、その手紙の内容が実に美しく素朴だったからだ。私にとってそれは実り豊かさの行為だった。私には彼が成長しつつある一人の若者であることが分かったが、彼は一人の父親を知り、彼に自分の人生についてなにかを語った。父親として《それは私にとってどうでもいいことだ》とは言えない。このような多産さは私に多くの良い結果をもたらした。」


 

若い教会と古い教会

 教会のテーマに留まりながら、教皇に最近の世界青年大会に関連して質問をした。「この大きな催しは、若者たちの上に、従ってまた、《霊的な肺》であるより最近に設立された教会の上にもスポットライトを当てることになった。あなたにとって、これらの教会から普遍教会にもたらされると思われる希望とはどのようなものですか?」

 「若い教会は、より古い教会によって展開されてきたものとは違う形で、信仰と文化と生成する命の新しい総合体を発展させる。私にとっては、より古い時代に設立された教会とより新しく設立される教会の関係は、一つの社会における若者と老人の関係に似ている。一方は力によって、他方は知恵によって未来を築きあげていくのだ。常に危険がつきまとうのは明らかだ。若い教会には自己充足的であろうとする危険性があるし、より古い教会はより若い教会に彼らの文化的モデルを押し付けようとする危険性がある。しかし、未来は共に築いていくべきものだ。」



(つづく)

コメント (4)
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