:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 友への手紙 インドの旅から 第6信 焼け跡のような景色

2020-11-10 00:00:01 | ★ インドの旅から

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友への手紙

ーインドの旅からー

6信 焼け跡の景色

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1964年、東京オリンピックの頃の日本は、まだ戦後の貧しさを引きずっていた。貿易収支は赤字。1ドル360円の固定レートで、渡航者には外貨持ち出し規制がかけられていた。JRの最小区間料金が10円、20本入りの紙巻きタバコが30円の時代の話だから、単純に計算すると、当時の1ドルは今の15倍、1500円以上の値打があったことになる。

いま思えば、その頃の私は、キリスト教がカトリックとプロテスタントに分かれていることに異常な関心を持っていた。

それにはまず家庭の事情があった。

私が小学校に上がったばかりの頃この世を去った母が、ピュア―なプロテスタント信者であり、姉も母の母校の神戸女学院に入ってそこでプロテスタントの洗礼を受けたが、私はカトリックのミッションスクールでカトリックの洗礼を受けた。私が上智大学で心惹かれた後輩がたまたま山梨英和出身のプロテスタン信者だったことも関係していたかもしれない。だから、プロテスタントは私にとって極めて身近な存在だった。

しかし、世間一般では、カトリック教会が「旧教」と呼ばれ、プロテスタント教会は「新教」と呼ばれていて、前者は「旧約聖書」を、後者は「新約聖書」を、それぞれの聖典とする、というようなとんでもない誤解が通用するような時代だった。

そんな時代に、私はカトリック教会の閉塞感を打ち破ろうと模索しながら無意識のうちに―須賀敦子の言葉を借りれば―「カトリック左派」の道を歩き始めていた。そして、そういう姿勢が当時の教会の中では受け容れられないものであるという事情は、海外でも同じであったことが須賀敦子の体験からもわかる。 

だから、以下の旅日記はそんな時代背景の中で書かれたものとして読んで頂きたい。

 

 

6信 焼け跡の景色

Sさん、お元気ですか?

 

 昨日シンガポールを出港しました。これからセイロン(スリランカ)まで最後の航海です。

 まず、マレー半島の南端の都市国家の印象を、色が褪せないうちにお届けしましょう。

 シンガポールの初日は、船の中で仲良くなった連中と、ポンティアックの新車を借りてドライブしました。植民地的に良く整った美しい街。植物園など亜熱帯の強烈な太陽に照らされて、日本では考えられないほど多彩だった。二日後の月曜日には、アメリカ、カナダ、オーストラリアなどの連合軍のジェット戦闘機や爆撃機の大編隊が到着すると聞いた。ベトナム戦争との関係か?

 終戦直後、まだ少年だったぼくは、よく伊丹空港に占領軍の飛行機を見に行ったのを思い出す。滑走路のはずれまで行って、鉄条網をからめた杭の根元に自転車を倒し、自分もクローバーの絨毯に寝っ転がって、未来のジェットパイロットを夢見ながら、キーン、ゴーッ!と低く頭上をかすめるジュラルミンの塊を飽かず眺めたものだった。今はまた、フッとそんな無邪気な心で次々と着陸する大編隊を迎えて見たくなった。不安定な東南アジア、マレーシアの華僑問題など一切わからない童心に返って・・・。

 ところでSさん。目をつぶって緑したたる草原や湿地や森の広がる処女地と、崩れ落ちたレンガや、溶けて曲がった鉄棒などの累々とした焼け跡とを思い浮かべて下さい。どちらも家が建っていないという点を除けば、何という違いでしょう。前者は蜜の香りが漂っているのに対して、後者は焼け焦げた臭いをとどめている。ぼくはシンガポールでまるで焼け跡を見るような体験をしたのです。それも二度までも。その次第は次のようでした。

 2日目、ぼくのタクシーのドライバーはシンガポールに住むインド人だった。彼はたまたまカトリック信者で、マリア様のメダルなど首から下げていた。祖国インドで開かれるカトリックの国際的祭典に参加するためにはるばる日本からやってきた青年を自分の車に乗せることが出来た幸運にいたく感激して、自分のアパートに連れて行って自慢の息子に紹介してくれたうえで、「明日も是非手前の車でご案内を」ということになった。

 さてあくる日、ひとまわり街を走った彼はこう切り出した。「あなたはインドに行こうとしているが、向こうではインドのお金が要るだろう。インドに入ってから銀行で両替するとレートは低い。だからいま私がずっと良い率で替えてあげるから是非ここで替えていきなさい」と。

 ぼくはこう言うことにはうとかったので、彼がカトリック信者だということですっかり信用して、かなりの額のドルをインドルピーに替えた。シンガポールはホンコンなどと同様に自由港だから、ブラックマーケットでは色んな通貨が動いている。それがドルやポンドならすぐ右から左へと流れていくが、低開発国の通貨となるとなかなかそうはいかない。どこでもダブついて厄介物扱いだ。そこで、そういう国への旅行者を見つけると、闇値で売りつけると言うわけだ。

インドの場合、何らかの理由で一度国外に流出した紙幣を再び国内に持ち込むことは法律で禁じられていた。しかし僕はそんなこと知らなかったし、彼もその点を隠していた。考えようによってはいくら外貨事情が苦しくても、自国の発行した通貨を引き取らないと言うのは変な話だ。どこの家にも玄関があれば裏口もある。だから、今度のこともキツネとタヌキになったつもりでお互いに利用し合えばいいのかもしれない。それでも、この取引は非合法の誹りを免れない。入国時にバレたら私の旅行はそれだけで一巻の終わりだった。自分の無知に付け込まれ、自分は自分で欲に目が眩んで、まんまと騙され、法を犯した。背負い込むリスクを知っていたら、きっと思いとどまっていただろう。カトリック信者同志だからと気を許したことを痛く後悔した。信仰とビジネスは別物なのだ。

 しかし、思えば、ぼくは既に四谷のイエズス会の総会計ビッター神父から平然と闇ドルを買って日本を出ていた。当時海外に出る信者ならみんなやっていたから私もやった?しかし、それも日本の法に触れる行為だった。どこが違う?現に、ビッター神父は外為法違反で臭い飯を喰った豪の者だとあとで聞き知った。

その時、ぼくはふとベルメルシュ事件のことを思い出した。イエズス会であれ、サレジオ会であれ、修道会の組織は世俗的な目で見ればれっきとした国際的シンジケートだ。外貨や物品に関しても、違法性のある取引に手を染める誘惑はさぞ多いことだろう。一人のスチュワーデスの死をめぐって「黒い福音」として世を騒がせたあの忌まわしい事件も、容疑者の神父の間一髪の出国で、白黒つかぬまま忘れられようとしている。宣教の妨げとなる躓きは一刻も早く世間から忘れ去られるがいい。しかし、キリスト者各自は、自己に対する戒めとしていつまでも忘れてはならない。地上の教会は常により清くなることが出来るのだということを。

もう一つの話を簡単にしよう。

シンガポールでプロテスタントの大きな教会を見に行った。カトリックの教会が豪華でプロテスタントの教会が簡素だと言う日本的イメージは、東南アジアの旧植民地では必ずしも当てはまらない。この教会も石造りの古く立派なものだった。牧師さんに挨拶して中を見せてもらっていると、一人の中年男が話しかけてきた。この教会の伝道師だと言う。彼は、「日本の青年と聞いて話がしたくなった。かまわなければ町の見物にお供したい」と言うので、気安く一緒に出掛けた。彼は道々親し気に僕の腕を取って親切の限りを尽くしてくれたので、お礼に夕方レストランで食事を共にして別れることにした。その時、彼はこんなことを言い出した。

「あなたはカトリック、そしてわたしはプロテスタント。しかし同じクリスチャンだ。私たちの教会は経済的にあまり楽ではない。もしあなたが教会一致の精神から、私たちの教会になにがしかの献金を申し出てくれたら、それを私はビショップに取り次ごう。彼はあなたのために神に祈り、あなたの名を恩人のリストに加えて永く記憶するだろう。前にも寛大に20ドル寄付していった旅行者がいた。快く10ドル置いて行った人もいた。道々あなたは心の広い青年だと感じていた、云々・・・」。

ぼくは先の両替詐欺でクリスチャンは特に注意すべき人種だと学習していたので、(インドルピーなら腐るほどあるが、彼のお目当ては虎の子のUS$だ)今度もこんなペテン師に10ドルも着服されてはたまらないと思って、「それは良いお考えですね。では献金のついでにそのビショップとやらにお会いして『あなたはこんな親切な伝道師さんを持たれてお幸せですね』と、半日案内してくれた労をねぎらうことにしましょうか」と言ったら、彼は、「ビショップの屋敷は遠いから、疲れたあなたをこれ以上歩かせたくないし、今は面会の時間でもない。それともあなたはクリスチャンの私の言葉を信用しないのですか?」と気色ばんで開き直ってきた。

正体を見た思いがした。そこで、ビショップ宛てのねんごろな言葉に添えて、貴重な米ドルを少々渡した。彼は何故、「町を案内してやったのだから、ガイド料を米ドルでよこせ」と率直に言えなかったのだろう。

大自然の中では犬の糞でさえ調和の美に輝いている。しかし、キリスト者が偽善で腐ると、焼け跡のような荒涼たる様相を呈する。

美しい自然の調和に、超自然の美を添えたいものだと思う。大伽藍の焼け崩れた廃墟には、新しい神の家を建てよう。

Sさん、あなたはまだ具体的信仰を持たぬ人として、この話をどう読まれましたか。あなたの魂はまだ超自然の口づけを待つ処女地なのです。

ではお元気で。

若い頃の私はカトリックとプロテスタントの違いに過敏だったが、80歳になった今、違いよりも両者の親和性により関心がある。

この心境に達するまでにはいろいろな出来事があった。姉が、どういう心の変化か、若くしてカトリックに改宗し、そのままシスターになり、アフリカの最貧国ブルキナファソに宣教に行ってしまった。その後、マラリアと肝炎に罹って帰国した。そして、東京は中落合の聖母病院の外国人患者の受付兼通訳をして晩年を過ごした。肝臓がんで亡くなってはや2年になる。これも、そうした出来事の一つだった。

 

プロテスタントから改宗してカトリックの修道女になったばかりの姉

 

今、私はこれまでのブログがご縁で知り合った一人のプロテスタントのご婦人と交流がある。彼女はある教会の長老の地位にあり、知性に溢れ音楽の才能に恵まれた「プロテスタント左派」と呼ぶにふさわしい心の広い教養人だ(失礼があったらこめんなさい)。私の拙いブログには度々丁寧なコメントメール寄せられ、私もそれにお答えする仲になった。

キリスト者はいま宗派を超えて、世界中で共通の敵と向き合っている。世俗化した社会。神不在の社会。神聖なもの、超越的なものが見失われ、世をあげて「お金の神様」の奴隷となって地に這いつくばる姿がグローバル化した世界。

私たちキリスト者はこの希望も救いもない状況との戦いに負け、今は後退に次ぐ後退を余儀なくされている。キリスト教以外でも、長い間人々の魂を引き付けてきた真面目な宗教は、一様にこの負け戦の中で苦悩している。世界中どこでも、栄えているのはお金の神様とその化身であるご利益宗教やカルト宗教ばかりだ。

心ある宗教者は、違いを超えて、世界を創造し人間を愛し、その魂の永遠の救済を願う「神」の復権のために手を取り合わなければならない。人間は本能的に愛されたいと欲している。死を越える永遠の命にあこがれている。人間の苦しみに答えを与えなければならない。この世の闇に光をもたらさなければならない。

中性ヨーロッパの人口の半数以上を死に追いやったペストのパンデミックの後に、プロテスタント改革が起こったという事実は実に示唆に富んでいる。16世紀、人口4.5億の内、1億人が死んだという。イングランドやイタリアでは人口の8割が死に、全滅した町や村もあった。そのペストの効果的な治療法は日本の北里柴三郎博士の出現まで300年も待たねばならなかった。

COVID-19のパンデミックはまだ始まったばかり。この1年足らずの間に、世界で5000万人以上が新型コロナウイルスに罹った。今後、半年以内にその数は1億人に達する勢いだ。来夏の東京オリンピックまでに有効なワクチンが出回るかどうか注目される。コロナレースではトランプ選手が1000万人以上の患者を出して金メダルに輝いた。

コロナパンデミックの後に、その教訓に学んで、宇宙における「生ける神」の復権に向けて、宣教活動を新たにしなければならない。ペストの後にプロテスタント改革が起こったように。

 

     

中世のペストの治療に当たった医者のマスクとガウン   COVID-19の医療従事者の姿  

 

ペストもコロナも人間の弱さ、愚かさ、を思い知らせるために「天の生ける神」から贈られたものだ。

もし、コロナ後まで生き延びることが出来たら、キリスト者はグローバル化した世俗主義と「お金の神様」への奴隷状態に対して、「神様の現存」を掲げて、宗教の復権のために果敢な反撃に立ち上がらなければならないと思う。 

 

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