:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 私の「インドの旅」と遠藤周作の「深い河」(3)

2021-05-07 00:00:03 | ★ インドの旅から

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私の「インドの旅」と遠藤周作の「深い河」(3)

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 人間は自然の中に生きている。人間自身も自然の一部分であると言ってもよい。

 人間は長い歴史の中で自然界のあらゆる存在に名前を付けた。今でも、新しい存在―例えば新しい彗星や新種の生物などーを見つけると、必ずそれに名を付けずにはいられない。名前が付くと存在界にその「もの」の位置が定まる。

 神秘的で広大無辺の宇宙の片隅にある美しい地球に生きる太古の人間は、平時は恵みをもたらすが、ひとたび荒ぶると恐ろしい災厄をもたらす自然のはかり知れない力に畏怖の念をおぼえ、その力の背後に神を思った。思うだけにとどまらず、その神に名前を与えることで、あたかもその「神」が存在するかのように考えた。そして、名付けた神のために社を建て、神官・祭司を立て、供え物をし、祈りを捧げて、平穏な生活を祈願する。

 神道の場合、古くは、神とされたのは、自然のもの、つまり、岩であったり、巨木であったり、山そのものであった。それは、宗教としての素朴さを物語っている。現在の社殿を伴う「神社」の場合であっても、ご神体は神が仮に宿る足場とされた御幣や鏡であったり、あるいはまったくの空間であることもある。

 しかし、そもそもこれらの神は人間の心象に過ぎないから、「存在するもの」としての実在感がない。そこで、人間は見えない神に何らかの具象性を与えようと神々の像を刻んだ。

 ヒンズー教の場合は、人面のシバ神もあるが、象の頭のガネーシャ、猿やヘビの顔の神像もある。イスラエルの民が神としてつくった金の雄牛も同類だ。仏教の場合は好んで釈迦牟尼を像とした。

 しかし、木や、石や、ブロンズなどに細工して作った像には命がない。それらは足があっても歩けず、目があっても見えず、耳があっても音を聞分けることができない。のどがあっても声を発することもないただの物体、「偶像」に過ぎない。

 このように、宗教と言うものは、自然の一部である人間が生み出したもので、大自然の中で生起し、大自然の中で完結する。「自然宗教」と呼ばれるのはそのためだ。キリスト教の源流であるユダヤ教を生んだセム族も、もともとは「自然宗教」の神々を拝んでいた。

 自然宗教は、もともとは人間が自然の力に神を投影し、その神の像をつくり、供え物と祈祷でその神を制御し、恵みを引き出し、禍を遠ざけ、ご利益を得ることを目的とした。人々は神との交渉を神官・祭司に委ね、祭司らは日々の祭祀の報酬として人々の供え物を自分のものにする。ここに、神官・祭司が売るご利益を人々が買うと言う関係性が成立する。こうして、自然宗教は強大な集金マシーンと化していった。集まったお金で、壮麗な神社、仏閣、教会が建て、肥え太っていく。静岡県には国宝級の美術品を蔵する美術館が新宗教によって建てられたが、聖ペトロ寺院やバチカン博物館などはそのはるか上を行く究極の例だ。

 科学の進歩と共に大自然の脅威の仕組みが解き明かされ、予知や制御が可能になると、神々の神秘性は急速に色あせていく。地震、津波、台風などは未だに制御不能だが、人々はそこに得体の知れない恐ろしい神を思うことはもはやない。しかし、自然宗教から生まれたご利益への願望だけは人間のDNAの中にしっかり組み込まれた。今日、人間の不安や弱みに付け入って次々に新しい宗教が生まれ、ご利益を売りにして巧妙に金集めに走る。庶民は病気や貧困や心の悩みなどから逃れようと、現世のご利益を求めて宗教に金を注ぐ。宗教がご利益を売るのは金が目当てであるが、信者もあらゆる欲望を満たす万能・究極の御利益はお金であることに目覚める。こうして自然宗教は人類の歴史の中で進化し、変容し、いつの頃からか祭司も信者も挙げてお金を拝み、お金の神様の奴隷に身を落とすこととなった。 

 お金は一万円札や100ドル紙幣、金貨、銀貨とは限らない。今や預金通帳の残高や、仮想通貨の資産のように、偶像としての見える姿はなくても、人間の魂を支配し、奴隷にする現世最強の「神」としての確かな地位を確立した。現代社会の世俗化と拝金主義はお金の神様、別の名では「マンモン」の神様を、諸々の自然宗教の神さまを押しのけて別格のグローバルスタンダードとして拝む時代に突入した。

 無論、普段の生活の中で接する自然宗教は、荘厳で、崇高な、アリガタイ雰囲気を醸しだしている。仏教のお寺やキリスト教の教会には安らぎや神秘的静けささえも漂わせている。修練や修行を積めば高い精神的境地にも達することができる。芸術も文化も生み出した。

 しかし、原初の人類の間に芽生えた素朴で純粋な自然宗教心の奥には、最初から人間に自分を拝ませ、奴隷として跪くことを要求する意思を持った「お金の神様」が潜んでいたのだ。その神は集まったお金で建てられた壮麗な寺院、神殿、教会の中に巧妙にその本性を隠し、慈愛に満ちた有難い神仏の姿や抽象的偶像の背後に身を潜めている。

 意地悪い私は、四国の札所では、境内に賽銭箱が何個あるか、ヨーロッパの教会を訪れると、聖人像の足元に献金箱が幾つ置かれているかを数えるのを楽しみにしている。

 私の話は何処へ迷い込んでしまったのか。私は一体何のためにこんなことを書いているのか。方向感覚を失ったのか? 

 いや、そうではない!

 それは、私の「インドの旅」とのかかわりで、遠藤周作の「深い河」や「沈黙」の世界の背後にある「インカルチュレーション」のイデオロギーの危険性と指摘し、その誤りを正すためだ。

 ブログ2-3回分で簡単に片付けられるかと見くびって書き始めたが、そうは問屋が卸さなかった。あともう1-2回でケリをつけるつもりなので、もう少しだけ忍耐してお付き合い願いたい。

(つづく)

コメント (2)
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