:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 私の「インドの旅」と遠藤周作の「深い河」(5)

2021-06-23 00:00:01 | ★ インドの旅から

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私の「インドの旅」と遠藤周作の「深い河」(5)

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 弟子たちは、まず地中海の港、港、のユダヤ人コロニーに「ナザレのイエスは復活した」と言う報せを届けた。メシアの噂の高かったイエスは、ユダヤ人の指導者たちから偽メシアと断罪され、ローマ軍の手を借りて十字架の上で処刑され、死んで葬られた。

 人々を驚かせたのは、そのイエスが予言通り復活したと言う報せだった。

 繰り返しイエスの口から「私は復活する」と言う言葉を聞いていた弟子たちでさえ、イエスが実際に復活して見せるまで、誰も信じることも、理解することも、想像することすら出来なかった。

 それもそのはず、本当の意味での「復活」、すなわち、死者が蘇えると言うことは、超自然の「神の介入」なしには起こり得ないことで、自然宗教の範疇を凌駕し、人知の及ぶ範囲を超越した全く新しい概念だったからだ。 

 しかし、復活したイエスが弟子たちに現れたとき、「死者が復活する」とういう出来事がはじめて現実のものとなった。

 この全く信じがたい驚くべき「事実」を前にして、「回心して洗礼を受けてキリスト教を信じれば全ての罪を赦されて『永遠の命』が得られる」と告げられた人々、特に、自然宗教のもとではこの世的にも救われることのなかった貧しい人々は、こぞって超越神である「天の御父」と復活したキリストを信じて洗礼を受け、入信し、その数は日ごとに増えていった。

 それまで、ギリシャ・ローマの神々を拝み、民衆には自らを「生き神様」として拝ませてきた皇帝にとって、ローマ帝国の版図の最下層の貧民など、言わば、生かすも殺すも意のままの女奴隷のような存在だったが、その「女奴隷」が、自分を捨てて神の子キリストの「花嫁」となって去って行くのを見たとき、皇帝はナザレのイエスとか言う「色男」に自分の側女を寝取られた思いがして怒り狂ったことだろう。そして、そんな女は皆殺しにしてしまえと、キリスト教徒を片端から捕え、拷問し、円形競技場に引き出して、ライオンに食い殺される姿を観衆に見せてサディスティックな楽しみに耽った。

 しかし、信仰の光に照らされて神の前に自分の罪の深さを痛感して改宗したキリスト教徒は、神の無条件の愛と罪の全面的赦しを信じ、イエスの復活と永遠の命を確信して、迫害と死を恐れず、弾圧されればされるほど燎原の火のごとく広がり、貴族や上流階級からも帰依するものが現れた。

 話は飛躍するが、キリストから1600年下って、日本でも同じ現象が起きた。キリシタンは増え続け、それに手を焼いた幕府は支配体制の崩壊を恐れて禁教令を発し、キリスト教を迫害した。しかし、キリシタンは殉教を恐れず、信仰を捨てることを拒んで死を選び、なお増え続けた。

 日本の場合、幕府は、一方では、キリスト教徒に「転びなさい、形だけでも棄教したふりをしたら、命は助けてやろう」と甘く囁きかけながら、他方では、鎖国して海外からの干渉を断ち、国内で虱潰しの徹底的迫害に狂奔した。人が住めないほどの離島か、鉱山の地底か、遊郭の囲いの中以外は、取り調べの手の届かないところがないほどに、徹底した密告通報の網がかけられ、キリシタン狩りが断行された。その結果、日本だけで歴代ローマ皇帝下よりも多いと言われるほどの殉教者が出た。それは、どこまでも地続きのヨーロッパでは、気まぐれに迫害が起きても、運の悪いのろまな信者だけが殉教し、あとは蜘蛛の子を散らすように逃げ延びることが出来たのに、島国の日本ではそうはいかなかったからだ。

 自然宗教の世界に超自然宗教が闖入すると、時代と場所を越えて常に同じパターンの現象が起るものらしい。南米を舞台にした映画「ミッション」に描かれた悲劇とも、どこかで繋がっている。

 このように、自然宗教と超自然宗教は互いに水と油のように反発し合い、常に戦い合うしかなかったのだろうか。

 

 力ではねじ伏せられないと悟った支配者が考えることは、いつでも同じだ。「押して駄目なら、引いてみよう」とばかり、皇帝は手の平を返したようにキリスト教を体制の中に取り込み、優遇し、懐柔することに熱中する。

 迫害をやめ、皇帝が率先して改宗し、洗礼を受け、キリスト教の祭司を貴族並みに取り立てて、元老院議員の式服を祭服として着せ、元老院の建物(バジリカ)を教会堂として使用することを許し、皇帝の命令で偶像の神殿を壊し、その石材を再利用して教会堂を建て、人々には神々の像に替えて十字架を拝ませた。紀元312年ごろを境に、コンスタンチン大帝の時代に実際に起こったことだ。 

 迫害を恐れず従容として死を受け入れていたキリスト教徒も、この誘惑的な皇帝の策略の前には脆かった。ガリレアの貧しい田舎漁師の無学な息子たちとその弟子たちにとって、突然ローマの貴族並みのきらびやかな生活が許されると言うのは、現世的に見ればきわめて美味しい話だった。困窮と迫害に耐えながら、日々命がけで、ひたすら死後の永福を希求する厳しい生活より、いま、この世で、富とご馳走の上に安全を保障され、人々の上に立てる身分の方が人間的に見れば絶対いいに決まっているではないか。だから皇帝の誘惑の手には抗しがたい魅力があったのだ。

 皇帝にとっても、一旦は「キリストの花嫁」になって自分から去って行った「女奴隷」が、甘い口説きに応えて「娼婦」のようにすり寄って再び身をまかせてきたのを見て、きっと悪い気はしなかっただろう。皇帝はそのようなキリスト教を国教とし取り立て、保護し、ローマ軍によって護った。教会もその見返りとして皇帝に神のご加護を祈願する。ここに「政教一致」、「聖俗一体化」の目出度い新体制が成立した。「神聖ローマ帝国」などと言う歴史用語は、この状態をピッタリと言い当てた言葉だと言う他はない。

 

 皇帝が、今まで拝んできた神々を廃止し、迫害をやめ、キリスト教を国教として公認するという180度の転換を断行するのを見ていた風見鶏のような民衆は、「寄らば大樹の陰」とばかり、それまでの偶像を捨てて、われ先にと洗礼を受け、教会の中になだれ込んできた。こうして教会は見た目には大発展の時代に入るのだが、その結果、キリスト教が根底から大きく変質していくことは避けられなかった。 

 ユダヤ人が中心だった迫害下の初代教会では、異教徒の入信志願者に対して、自然宗教のご利益主義とお金の神様への隷属を脱ぎ捨て、超自然の神様に帰依するための回心の道程を時間をかけてしっかりと歩み、確かな回心の証しを立てたものにだけ洗礼と入信を許すという、極めて慎重で厳格な手続きがあった。しかし、コンスタンチン大帝の新しい体制下では、怒涛の如く教会になだれ込んできた異教徒たちに対して、それまで存在していた「回心の道程」があっさりと省かれ、形だけの洗礼を受けて即席の信者になることが一般化した。

 超自然宗教として誕生したはずのキリスト教は「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなた方は、神と富とに仕えることはできない。」と言って、神を愛し富を軽んじることを求めたキリストの根本的な教えから完全に離反した。

 またキリストは「神のものは神に、皇帝のものは皇帝に返しなさい」と言って「神」とこの世の覇者である「皇帝」に兼ね仕えることを厳しく禁じたのに、その教えも踏みにじった。

 それだけではない。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもしないのに、あなた方の天の父は鳥を養って下さる。あなたがたは鳥よりも価値のあるものではないか。」「野の花がどのように育つかを見なさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、栄華を極めたソロモン王でさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」「なにを食べようか、何を飲もうかと思い悩むな。それらはこの世の『自然宗教』の信者が切に求めているものだ。回心して『超自然宗教』を信じて、ひたすら神の国だけを求めなさい。」そうすれば、あとのことはすべて神が計らって下さる、と言う神の摂理への絶対的委託の原点からも遥かに遠ざかった。

 今や、入信の動機は「洗礼を受けてキリスト教に改宗すれば自分も罪を赦されて永遠の命が得られるから」ではなく、「新しいご時世では、キリスト教徒でなければローマ市民として日の当たる身分にあり付いてうまい汁を吸うことができないから、とにかく洗礼だけは受けておいた方が得だ」という風潮が支配的となった。

 多くの改宗者は、「自然宗教」を信じていたときと全く同じメンタリティーを引きずりながら、「回心」の要件を満たすことなく、形だけキリスト教徒になった。いわば、キリスト教を名前に冠した巨大な新型「自然宗教」が生まれたというか、キリスト教の変異株としてキリスト教の自然宗教化が進んだと言うべきか・・・。

 すでに述べた通り、迫害の時代には自然宗教をきっぱりと捨てて「回心」の証しを立てたものにだけ洗礼と入信が許されたのだったが、今や、キリスト教の教えの心髄を全く理解しないものがキリスト教の服をまとって教会の要職を占領した。

 それは、悪貨が良貨を駆逐するように、また、現代風に言えば、より伝染力の強い変異株のウイルスが、あっという間に在来型を駆逐して置き換わっていくように、真正な「超自然宗教」としてのキリスト教は、俗っぽい「自然宗教的キリスト教」に置き換わってしまった。

 

 もちろん、まことの回心の意味を理解し、ナザレのイエスの教えの原点に忠実に生きることを望むキリスト者が全く居なくなったわけではない。しかし、あくまでも超自然宗教の本質に忠実であろうとする本物のキリスト者は、「自然宗教キリスト派」の大海のなかでは生きづらい時代になってしまった。

 それで、本物のキリスト教を追求しようとする者の多くは、砂漠の隠遁者になって世俗を捨てるか、塀をめぐらした大修道院の中に立てこもって理想を生きるか、の道を選んだ。

 しかし、修道院の中にも自然宗教化の誘惑は巧妙に忍び寄る。土地を所有しない農奴の生産を基盤とした中世の封建主義社会では、国王や封建領主たちは、自然宗教化したキリスト教を掲げる皇帝を頂点にした支配体制の中で、地位と権力に応じて領民の上に君臨し、富を築いていったように、大荘園を経営する宗教貴族、つまり教皇をはじめ、枢機卿、大司教たちだけではなく、囲いの中の修道院長らまでも、世俗の封建領主と同様に、農奴である領民の上に権力をふるい、収奪し、富を築いて堕落していった。

 こうなると、せっかく純粋に超自然宗教としてのキリスト教の原点を守ろうとして世俗から退いた修道者たちも、結局は自然宗教に変質したキリスト教の波に呑み込まれまれてしまうのだった。 

 とは言え、イエスの純粋な教えは、幸いにもごく早い時期(紀元1世紀の終わりまで) に聖書として文字に固定されて残った。そして、初代教会のキリストの弟子たちの生き様は、回心した信者たちの間で生きた伝承として脈々と語り継がれ、いわば、地下水脈のように密かに受け継がれていった。

 だから、自然宗教化したキリスト教体制の中にあっても、本物のキリスト者の生き方を証しする人々が時おり現れ、教会によって聖人として認められ、信者の模範として顕彰されてきた。聖女も、聖人の王様も、聖人の教皇、司教、大修道院長も稀に現われないわけでもなかった。また、その他にも、人目にとまって聖人として晴れがましく尊崇されることのないまま、ひっそりと生きて死んでいった無名の偉大な聖人たちが、実際にはたくさん市井に隠れていたに違いないと私は信じている。

 こうして、このコンスタンチン体制は長い時の流れを経て、形を変えながら、今日にまで及んでいる。

  ここで一区切りつけよう。

 私は一体何を書いているのか?

 私の「インドの旅」と遠藤周作の「深い河」の話は何処へ行ってしまったのか?

 「インカルチュレーション」というイデオロギーの徹底批判はいつになったら書かれるのか?

 実は、すでに複数の読者から疑問や、問い合わせや、催促が寄せられていて、私もいささか焦ってはいる。しかし、始めてしまったこの話は、行きつくところまでいかなければ終わりそうにない。どうか今しばらくお付き合い願いたい。

(つづく)

 

 

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