:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ インドの休日

2021-06-28 00:11:20 | ★ インドの旅から

~~~~~~~~~

インドの休日

~~~~~~~~~

 能の舞台の幕間に軽い狂言が挟まると、なぜか次の能に備えて心の準備が整う。

やや重いインドの旅の話の連続の間に、たまに軽い小話も息抜きにいいかと思って、パソコンに向かっている。

タイトルの「インドの休日」はもちろん「ローマの休日」を意識したものだ。 

 

ブラッドレーとアーニャ姫 最後の記者会見で

 

 「ローマの休日」は王女様と新聞記者の恋物語だが、確かオードリー・ヘップバーンのデビュー作だったかと思う。キュートな彼女の相手役のグレゴリー・ペックがこれまたなかなか良かった。ローマに通算15年ほども住んだ私は、何度も見たし、ロケ地も隈なく歩いて回ったものだ。

 わたしは1964年の第1回東京オリンピックの開会式を白黒のテレビで見て、その晩、横浜からラオス号と言うフランスの貨客船で日本を脱出した。

 

見送ってくれた仲間たち

 

 まだ海外旅行をする日本人が極めて少なかった時代で、10人ほどの友人が横浜港に見送りに来てくれた。ホイヴェルス神父がインドのムンバイ(当時はボンベイと呼ばれていた)で開催される国際聖体大会に参加すると言う。私は先に出かけて現地で合流する手筈となった。パウロ6世教教皇が、歴代ローマ教皇としては初めてヨーロッパの外に旅をすると言う時代だった。

 当時、私は25歳の大学院生で、貧乏だった。一計を案じてカトリック新聞社に乗り込み、「おたくはアジアで初めて開かれるカトリック教会の一大イベントに特派員を出すだけの実力がないだろう。私が行って臨時特派員として記事を書いてあげるから、お金を出せ!」とヤクザまがいの脅迫をして、船賃の一部をゆすり取った。挙句に、カトリック新聞社の特派員の証明書を英語で書いてもらったが、これが現地で驚異的効果を発揮した。

 それまでまともなところに泊まることのなかった私は、ムンバイ空港で無事にホイヴェルス神父様と合流してからは、一緒に郊外の聖スタニスラウ・ハイスクールのイエズス会修道院に投宿した。

 

ハイスクールの神父たちとホイヴェルス神父と運転手

 

 ハイスクールの隣には女子修道院があり、そこに聖体大会に参加するためにムンバイを訪れていたスペインの王女様のマリア・テレサが、護衛もつけず、侍女のカルメンと二人だけで泊まっていた。

 彼女は君主主義者でありながら、社会主義者でもあり「赤いプリンセス」の異名で呼ばれていた。しかし、熱心なカトリックでもあった彼女は、毎朝、私たちの宿舎のチャペルのミサにやってきて、朝食は私とホイヴェルス神父とお姫様たちの4人で、ハイスクールの応接間でとるのが日課になった。毎朝のことでもあり、たった4人の食卓だったから、たちまち親しくなった。とても聡明で好奇心の強い、話題豊かな活動的女性だった。一言で言えば、無鉄砲なお転婆娘でもあった。

ハイスクールの応接間で朝日を浴びる王女様

 

 私はジャーナリスト=日本のカトリック新聞の特派員=という触れ込みで彼女に接した。聖体大会のプレスセンターで発行される「記者証」には、どの扉も自由に開くまるでマスターキーのような魔法の力があった。これ一つで一般人の入れないところにほとんどフリーパス同然だった。

会場に着いて車から降りてくる教皇 (白いキャップ)

 教皇パウロ6世の到着のときも各国の記者団にまじって教皇の車の側にいた。聖体大会の壇上でも教皇を間近に見られる位置に居た。

 

 

大会会場のメインステージ中央で両腕を前に差し出しているのがパウロ6世教皇

 

VIP席に近づき、お友達になった王女様の側には、度々私がいた。

マリア・テレサ スペイン独特のべっ甲の高い櫛の上から黒いヴェールの盛装で

 ノートパソコンやインターネットが出回る25年も前の話だ。海外からの文書通信の最速手段は鑽孔リボンを使ったテレックスだった。無論、私も会場のプレスセンターのその設備を使える立場にはあった。しかし、私はテレックスを使いこなした経験がなく、東京のカトリック新聞にもそれを受信する設備が無かった。私にとって記事を送る最速の手段は航空便の手紙だったが、インドから東京まで1週間近くも要した。1本か2本原稿を送ったが、あとは週刊新聞の紙面を飾るには遅すぎて役に立たなかった。

 

昼も夜も、私は彼女の専属カメラマンのような顔をして近くをうろうろしていた。

 

いつの間にか、目があえばアイコンタクトでほほ笑みを交わし合うほどの仲になっていた。

 

 お別れの日、マリア・テレサと侍女のカルメンと仲良くスリーショットを撮ることを忘れなかった。

 

「日本に帰ったらプリンセス美智子にぜひよろしくね!」と、こともなげなことづてをもらった。彼女はどこかの留学先で美智子妃と深い交流があったようだった。

Yes, sure! Pprincess. とかなんとか威勢のいい返事をしたのだが、今もって美智子妃にお伝えする機会に恵まれていない。

* * * * *

 

 このブログを書くに際して、ふとマリア・テレサについて調べてみたら、昨年3月26日にパリで新型コロナウイルスに感染して亡くなっていた。86歳だった。世界の王族でコロナウイルス感染による死亡が確認されたのは彼女が初めてだった。

東京オリンピックといい、コロナウイルスといい、王女の最期といい、何とも物悲しい、

それでいてどこか甘酸っぱい、青春の追憶でした・・・

19f984389b9cb41d5c0953798573e967.jpg

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする