:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 私の「インドの旅」 総集編 (9) 田川批判ー1

2022-01-10 00:00:01 | ★ インドの旅から

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私の「インドの旅」総集編 

(9)田川批判-1

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     (1)導入

     (2)インカルチュレーションのイデオロギー

     (3)自然宗教発生のメカニズム

     (4)超自然宗教の誕生―「私は在る」と名乗る神

     (5)「超自然宗教」の「自然宗教」化

     (6)神々の凋落

       a)自然宗教の凋落

       b) キリスト教の凋落

       c) マンモンの神の台頭 天上と地上の三位一体

     (7)遠藤批判

      (8)悲しき雀

          (9)田川批判    

       (10)超自然宗教の復権

 

(9)田川批判    

 私は遠藤周作の長編「沈黙」にも「深い河」にも山ほど物申すべきことがあった。そこへ田川建三氏の遠藤批判に出会って、すっかり意気投合し、胸がスカッとして、快哉の叫びをあげた。

 1935年生まれ、4年先輩でご存命中の田川氏には、雑学の私など足元にも及ばない博識と緻密な研究心に敬意を表して、「先生」とお呼びしたいと思う。

 

 田川先生の遠藤周作のイエス像を完膚なきまでにこき下ろした「イエスを描くという行為―歴史記述の課題」には大喝采を送ったが、それは、先生が49歳のときに出版された「宗教とは何か」第四部に収められていた。

同じ著書には、「第一部」として「宗教を越える」という論文が載っている。

そもそも、「宗教とは何か」は、その「まえがき」の中でも述べられている通り、「批判的に宗教と取り組むための視点を提供する」ために書かれたもの、一言で言えば「宗教批判」の書である。

 田川先生は「人間のいとなみの全体が、あるいはそこにはらまれる矛盾、よじれ、断絶、痛みが、宗教と呼ばれるものを時として噴出させるのである」と言われる。宗教は人間が生み出したものであり、裏を返せば、人間のいとなみの全体が、健康的で満ち足りていれば宗教などが出てくるはずがない、と言うことなのだろうか。

 この「宗教」の由来説は、「宗教とは神と人との関係」として捕える私の単純明快な思考回路とは全く観点を異にしている。私の宗教は人間の営みの様態などには左右されない。

 しかし、田川先生は続ける。「『宗教』は克服されるべきものであるが、『宗教』という現象を克服するために先ず必要なことは、『何故、どのようにして人間が宗教を生み出し、維持してしまうのかを知ることである。』そして、批判的に取り組むということは、そのようにして宗教を知る行為が、宗教を必要としてしまうような人間の状態・現実を克服し、変革しようと努める行為に連なる」のである。

 言葉を変えて言えば、宗教批判は宗教が出てくる必要のないような健全な営みを実現することを目標としている、と言うようにも受け止められる。

 「宗教とは何か」という設問に正しく答えることが出来れば、人間は「宗教を越える」ことが出来ると田川先生は考えているのだろう。そのことは「宗教とは何か」という一冊の《第一部》が「宗教を越える」と題されていることからも類推できる。

 そしてその最初の提題は「人は何のためにいきるか」であるが、先生はそれを「人間は何のために生きるか、などと問うこと自体間違っている、と 答えればよい。」とはぐらかす。

 そして、「人間は何のために生きるか」と問う場合も、また設問を変えて「人間は何によって生きるか」と問う場合も、結論的には「人間の生の原因は人間の生であり、人間の生の結果として人間の生が生みだされる。因と果は分けることできない。そしてこの複雑多岐な働き方の総体が人間の歴史である。」と、人を煙に巻いて話は終わらせようとする。しかし、私に言わせれば、そのように言葉を弄しても何も生産的な回答は生まれてこないのだ。

 私なら、「人間は何のために生きるか」と問われた場合は「神を愛し、隣人をおのれのごとく愛するために生きる」と即座に答え、「人間は何によって生きるか」と問われれば、「神の創造的愛によって生きている」、と、躊躇なく反射的に答える。このように、私と先生の思考回路は、最初から全くすれ違っているように感じる。

 ところで、田川先生には「宗教」のある様態を批判して克服するために用いる一般的論理がある。

(A)の批判として(B)が提示される。

― しかし、(B)(A)の中に最初から含まれていたものを、ただ新しい表現に包んで提示したもの(A’)に過ぎない。

― だから(B)(A’)は元の(A)とくらべて本質的な新味はない。

 と言って(B)(A)に対する批判とした思考を却下して終わる。しかし、先生自身は (B)に代わる自分なりの批判(X)を決して展開することはしない。

 田川先生はこうも言う。

 「人間は何によって生きるか、などと問うと、ついあわてて、人間の生の根拠なるものを人間の生の外に探すことになる。或いは人間の生の一部を外に投影して、そこから人間の生が生まれて来るかの如くに錯覚したりする」という。しかし、これも、上の(A)(B)の関係性の応用問題である。

 「こういう場合、『根拠』は目的と大差なくなる。『何によって』がいつのまにか『何のために』にすりかえられる。人間の生の外にあるもの、あるいは外にあると錯覚した人間の生のごく一部分の抽象、によって人間の生の全体を取り仕切ろうとすれば、人間の生に対していやらしいゆがみをもたらすことになる。そういうゆがみを我慢できる人がいるとすれば、自分自身の食って寝る現実の生活は自分の思想と切り離してある程度円満に充実して営むことができているからである。」

 お言葉を返すようですが、先生が「宗教とは何か」などという悠長な思索に耽っていられるのも、ご自身「食って寝る」ことがかなり余裕をもって確保できているからではないでしょうか。それは、カトリックを売りにして流行作家にのし上がった遠藤周作が、印税で「食って寝る」をしっかり確保して、なお余勢を駆って銀座かどこかのクラブで女性と酒を酌み交わしているのとどう違うでしょうか。

それなのに先生は仰る。

「もしも人間の生とは何か、などとたずねられたら、それは人間の生の全体である、と応える以外にない。それ以外は危険である。以上の点を押さえた上で、なおかつ敢えて鮮明に言い切っておこう。人は何のために生きているか、なんぞとたずねられたら、本当は、そのように尋ねることが間違っている、と答えてすましておけばいいのだが、なかなかそう言ってもわかってもらえないので、敢えて、我々は食って寝るために生きている、と私は言う」と。

 また、別のところで「人間にとって『正しさ』の基準は食って寝ることの確保である」とも言われる。このような語り口を私は田川節と呼ぶ。

 さらに続く。

 「人間が食って寝ることを『たったそれだけのこと』などと呼ぶのは、あきれるべき暴言である。たかが食って寝るだけのこと、などと鼻の先であしらうような奴に出会うと、わたしはぶん殴りたくなる。現在、飢えて死ぬ危険に直接さらされている者は、世界の人口の過半数をしめる。」

 まさに「田川節」の真骨頂である、と私はいいたい。

 「宗教とは何か」の第一部「宗教を越える」の(二)では「『知』をこえる知」が論じられ、そこに「宗教的感性では知性の退廃を救えない」と付言されている。

 曰く、「知に対して宗教を対置させるのは、実は近代のものの考え方の特徴である。近代以前では、むしろ宗教こそが最高の知を与えるものだと考えられたことが多かった。啓蒙主義が出現するまでは、宗教こそが人間の知の最高形態、最も奥深い知、とみなされていたのだ。」

それはまあ、そうかも知れないな、と、私も一応同意しよう。

 だが、「人間の営みの中で宗教がしめている位置がいつも同じということはないので、時代によっては知性を代表し、知の中の知、最高知、とみなされたし、時代によっては宗教が『最も深い感性』を代表するものとみなされる。しかし、宗教がこのように『感性』の側に位置づけられるのは、世界史の大きな流れの中では、近代にのみ見られる特殊な視点なのだ。」

 ああ、そう言うものですかね、と、宗教史に弱い私はうなずくしかない。

 「キリスト教で言えば、生まれたばかりのキリスト教は、ユダヤ教の『知』の権威を克服しようとした。当時のユダヤ教においては、『聖書』(旧約)が知の最高かつ絶対的な形態として固定化されていた。そのように『書物』の文字に固定化された『聖なる知』は、当然のことながら、生きた人間の生活を不当に束縛するものとなる。生まれたばかりのキリスト教は、ユダヤ教を克服しようとしながらも、なおこの『聖書』の権威主義にとらわれていた。だからこそ、自分を『使徒』と呼んだパウロは、その種の『知』に対して、『霊』の自由な働きを強調したのである (2コリント3・6) 。パウロは他方で、ヘレニズム的な地中海世界の文化・宗教の状態に広く接していた。そしてそちらはそちらで、『知』が人間性の根本として宗教的な憧憬をはらんで主張されていた。それに対してもパウロは、『人間の知』を越えるものとして『福音宣教のおろかさ』を持ち出した。(1コリント1・23)」

 おやおや、田川先生、あなたは「宗教批判」と「宗教の克服」を論じる時の「宗教」は、仏教、回教、キリスト教などの個々の宗教の個別性を捨象して抽象化した「宗教」のみを扱うと言われたのに、思わずご自分の溢れるほど膨大なキリスト教の知識がここにチビリと漏れ出てしまいましたね。それは、まあ許します。

だが、先生はさらに、「この『霊』は宗教的『感性』ではなく、『神の霊』であり、『おろかさ』は『神の賢さ』なのである。」と続ける。

 ここまでくると、先生のキリスト教に関する蘊蓄は、「おチビリ」の抑制を越えて、もうダダ漏れの「お漏らし」の観がありますが・・・!

「本来『神の知』であるはずの『宗教知』が、人間の作った宗教的権威によってだめにされたので、もう一度『神の知』を持ち出して、『人間の知』の限界を越えようとしたのだ。」 

 この辺りは田川先生の十八番(おはこ)の論理が躍動する: (A)(B)が克服したという、しかし(B)(A)を別の言葉で置き換えた(A’)にすぎない。だから(B)(A)の単なる言い換えで、結局、なにか変わったかのように錯覚するだけのことだ。そして、ここでも先生は(B)説をコケにしておきながら、ご自分の独自の批判(X)は一切語らない。ずるいぞ!

 「そもそも、古代の伝統的『宗教知』は、そこに人間性に関するさまざまな真実が内包されているいうものの、同時にさまざまな迷信も含まれ、かつ、それが社会的な権威になればなるほど、体制秩序をゆがんで表現するイデオロギーともなった。」

 この点には私も100パーセント同意できそうだ。自然科学や社会科学の進歩は宗教を迷信から浄化し迷信を駆逐する力を持っており、是非そうあってほしいと私も願う。

 「近代になって、知の領域においては、宗教はとても近代科学にたちうちできなくなった。知に関しては、近代科学がそれまで宗教のしめていた位置にとって代わった。」

 それは当然の成り行きだと私も言いたい。事実、私自身も「自然宗教」一般について語ったとき、全く同じ主張を展開した記憶がある。

「はじめのうちこそ(18世紀から1960年ごろまで)、最高知の王座を追われた宗教はぐんぐんと衰退していくように見えたが、うまい逃げ場にはいりこんで、逆に今ではかえって活気づいている。」

 えっ?そうなんですか?一体それはどういう意味でしょう?

 「近代合理主義の『知』は。その対立物としての『宗教』をかえって必要としたのである。」

へえー!なるほど、そう言うことですかね。

 「ニュートンだのアインシュタインだの、やや落ちるが湯川秀樹だのと言う『優秀な』自然科学者が、実に安っぽく愚劣に宗教を崇拝し、宗教を持ち上げる発言を繰り返した理由はそこにある。」

 確かにそういう面はありますよね。なるほど。

 「近代的合理主義の方は、『人間性の深み』という虚妄な部分、本当は存在しない虚妄な部分に手をふれなければ全てが許されるので、じっさいには、人間の現実生活のすべての領域において権威をふるい、今もふるい続けている。他方宗教の方は、虚妄の領域において『知性』を批判、克服する『作業』に安住することによって、現実の領域での『合理主義』の横暴を追認する役割を果たしている。」

 皆さん、田川先生の言いたいこと分かりますか?もし、分かりづらかった、もう一度よーく読み返してください。先生は大切なことを言っていますよ!

「けれども人間性の深みは、それだけを取り出して見ることなどできはしないのだ。(中略)『人間性の深み』が虚妄になるのは、それを特別に担当する部門として宗教が立ち現れる時である。『人間性の深み』を特別に担当する部門がつくられれば、『深み』が人間性から切り離されて、虚妄になる。」

 お分かりかな?難しければ、読み飛ばしていただいて結構です。

ここから話は(三)「近代の克服としての宗教」批判  ―宗教学という逆立ち― へと進む

「(宗教学は)これも啓蒙主義の申し子として生まれた学問ですけれど、これそのものが一つのイデオロギーです。」

 私も全く同感です。

 「まさに近代科学が行き着くところまで行き着いた現代こそ、近代科学ではつかみきれない、もっと奥深い宗教によって人間の心底に至ろうではないか、という形でもう一度宗教の復興が叫ばれる、というのが『近代の克服としての宗教』と言うことです。」

 実にうまいこと言われますね。田川先生。

「宗教が近代を克服するものとしてしゃしゃり出てくるのは、目くそが鼻くそを笑う類いでございまして、近代宗教は実は近代合理主義と根は同じ仲間のくせに、相手の悪口を言っているという構図になるわけです。」

 ますます面白くなってきました。

「いわゆる宗教学というものは決してすべての宗教をていねいに研究するものでもなければ、個々の宗教を、例えばキリスト教ならキリスト教、仏教なら仏教といった個々の宗教を、丁寧に研究ものではございません。宗教学は、特にキリスト教とか仏教の研究を意識して避けて通っている学問だ、と言うことをお知りいただいてもいいんじゃないかと思います。」

 だから言ったでしょう?田川先生の「宗教学」とはまさにそういうものなのです。そして、私はひと言付け加えたい。田川先生、貴方もそのイデオロギーの信奉者ですよね、と。

「結局、その中で今日まで生き残っている考え方は何かといいますと、すべての人間に何か宗教的なものがあるんだと、これが、キリスト教社会では、キリスト教という形で表現され、仏教社会では仏教という形で表現され、それぞれのところでいわゆる歴史的宗教として表現されるんだけど、それは歴史社会それぞれに従って表現されているにすぎないのであって、一番根本には『宗教』そのものがあるんだという考え方です。つまり『宗教』の普遍的な本質を抽象するのに、それを何かはっきりしたものとして示さないで、何となく曖昧に『宗教的なもの』としておくわけです。それは、まさに近代科学の発想そのものなのです。」

 先生、これこそ「イデオロギー」の一種ですよね?!

「すべての人間に共通する宗教そのものなるものがあるのだという発想は、啓蒙主義から出てきているという点に、ご注目頂きたいと思います。(中略)ある意味でキリスト教を克服して、近代科学を打ち立てようとした、そこにあるイデオロギーの動きが啓蒙主義だったわけです。ですから啓蒙主義の段階におきましては、これはキリスト教に対する反発として言われていたわけです。」

 ちょっとだけ皮肉をいわせえてください。もしすべての人間に共通する宗教そのもの」があるのなら、現代社会でかくも大勢の人が無神論者、乃至は無宗教者である事実をどう説明されますか?ひょっとして、先生もキリスト教に反発して、キリスト教を越えたいとお考えなのでしょうか?

 しかし、私は言わせていただきたい。すべての宗教をそのイデオロギーの対象として処理されるのは結構です。ただし、どうかキリスト教だけは除いていただきたい。なぜなら、キリスト教の「宗教」は啓蒙主義とは無関係に上から来るもので、キリスト教の宗教的な真理に限っては、人間がみずからつくり出したわけではなく、上から、つまり、「わたしはある」というご自分の名前を名乗られた天地万物(宇宙)を無から存在界に呼び出し、今も呼び出し続けている神から「啓示」として与えられたものだからです。その啓示は一回的な出来事として、「イエス・キリスト」において決定的に示され完成されたのであって、つまり神の側からの選びによって生じた出来事だからです。それは自然の一部にすぎない人間が自分の知恵で考え付くことのできる事柄ではないはずです。

 実は、先生ご自身も、これとそっくりなことを考えておられますよね?私は知っていますよ。

 しかし、そのあとが違います。田川先生は、「ところが、世界のあらゆるところでいろいろな宗教を知ってしまうと、別にキリスト教に全然触れたことない他の諸民族においても似たような宗教的発想は多く創り出されているではないか、と言うことに気がつく」と言われます。

 ちょっと待った!そんなことが簡単に言えるでしょうか。先生は遠藤周作を批判する時、遠藤は聖書を引き合いに出しておきながら、肝心なところで全く真逆の解釈を平然と持ち込む。しかも学問的な外見のもとに!と痛切に批判されたのではなかったでしょうか?今先生ご自身がなさろうとしていることは、それとどこがちがいますか?

 ここで田川先生は、世界のあらゆるところでいろいろな宗教、例えば、ゾロアスター教、ヒンヅー教、イスラム教、神道、などの諸宗教を知ってしまうと、キリスト教と似たような発想が作り出されていることに気付いた、というようなメチャクチャな結論にご自身も達した、と強弁されるおつもりですか?

 私なら、これらの諸宗教を正確に観察しさえすれば、だれでも誤ることなく、キリスト教だけは上からの宗教、啓示宗教、つまり「超自然宗教」であるのに対し、他の宗教はまがいもなく全て「自然宗教」である、という決定的な違いに簡単に気付くはずではないかと考えます。

 私は前のブログでホイヴェルス師の「悲しき雀」の話を書きました。

 僅か5ミリ立方にも満たない脳みその雀でさえ、実像と虚像の区別をたやすく見分けたのに、生物の中で最大の脳みそを備えた人間の学者が「ザイン」(Sein=実在)としての神と、「シャイン」(Shein=虚像)としての神との厳然たる区別をどうして見分けることができないのか不思議でなりません。

 この明白な事実に敢えて目を覆い、白を黒と言いくるめるような大嘘を無理やりに取り込まなければ、啓蒙主義も、それを批判的に克服した近代宗教学も、現代宗教学も成り立たないのでしょうか?

 啓蒙主義は、キリスト教を否定し克服するための科学的イデオロギーであって、「この段階の宗教論は宗教を『上』から引きずり下ろすことにのみ懸命で、その結果逆に、人間性を抽象性の高みへと追い上げてしまったのです。」「これがつまり近代科学の発想です。」と田川先生は言われる。

 しかし、宇宙を無から創造した「わたしはある」超越神をひきずりおろして、無理矢理に自然宗教の神、つまり人間の想像力が自然に投影した神と同列に置くことによってしか近代科学的宗教学が成立しないとすれば、それはキリスト教を否定し、乃至は拒絶するイデオロギー以外の何ものでもありません。私にはそのような歪んだ、誤った、イデオロギーと付き合っている暇はない、と言いたいです。

 啓蒙主義は自然宗教の概念を復権して「要するに、まず宗教と言う基礎がなければならない。(中略)どんな啓示宗教であろうとも、何らかの形で自然宗教の岩の上に建っていると言える」と言うのでしょう。

 百歩ゆずって、「超自然神」が初めてアブラハムに語りかける以前は、アブラハムも確かに自然宗教を信じていたでしょう。たとえば、独り子のイザークを生贄として殺して、祭壇の上で焼き尽くせと神に要求されれば、アブラハムは苦しみながらも自然宗教的なメンタリティーでそれに従おうとしました。しかし、天使に制止され、思いとどまって以来、彼はその意味での自然宗教性から解放されていったのでした。また、4世紀初め、コンスタンチン大帝がキリスト教をローマ帝国の国教として取り立てたときを境に、自然宗教を拝んでいた民衆が自然宗教のメンタリティーのまま圧倒的な勢いでキリスト教になだれ込み、それがキリスト教徒の主たる部分として定着して今日に至っていますから、現代のキリスト教の中に自然宗教的要素を探せば有り余るほど見つかるのは当たり前です。だから、宗教学がその面にのみ着目してキリスト教も自然宗教の一つと見做したければ、出来ないことではありません。しかし、それはキリスト教の本質的部分を捨象することなしにはできないはずです。

 話はミルチャ・エリアデに飛ぶ。

 ルーマニア人の宗教学者だが、田川先生によれば怪しからんいい加減な学者だそうです。私も若いころ注目したことがありますが、よく覚えていません。

 「エリアデは、宗教的象徴がそのまま実在であり、実在の根拠であると勘違いしているのです。」「近代の克服としての宗教という手品は、こうして、まさにずぶずぶの近代主義の表現なのです。実際は現状に居直りつつ心情だけは異質を求める現代の小市民が、理論的にはまったくの近代主義でしかない発想に頼りつつ、近代を克服すると言って騒いでいるにすぎません。こういう手品は成功するはずもありません。」「学問的作業のおそろしさはそこにあります。出発点におかれた理論はもうまったく単純な、およそ無反省なままのずぶずぶのイデオロギーにすぎないのに、非常に大量に、しかも世界的な規模での多人数の学者集団の知的エネルギーが注ぎ込まれていますから、それがずぶずぶの無反省だということには気がつきにくいのです。」

 この「ずぶずぶの近代主義・・・」とか、「ずぶずぶのイデオロギー・・・」とか、「ずぶずぶの無反省・・・」とかは、私が愛してやまない「田川節」のまさに真骨頂です。この「田川ぶし」を私は先生の遠藤周作批判の中でもすでに何回か聞きました。それが今回は豪華3連発。私はもう大満足で今回のブログを終わりたいと思います。

 ただ、最後にもう一節だけ引用させてください。

「以上、宗教的な『非合理性』をかつぎだして、これこそが近代科学のもたらした退廃状況を克服するものだ、とする立場は、実は近代科学の発想の申し子にすぎない、とい言うことがおわかりいただけたと思います。ただし、最近目立つ現象は、宗教学のことなど全然知らない人も、宗教について何となく同じような考えを持つようになってきております。これは、現代世界の状況が、宗教学を知らなくても、何となく同じことを考えるようになる、と言うことだと思います。イデオロギーとはそういうものです。ブルジョワ的な学問である宗教学と同じ発想が、いまや宗教的庶民層に広くひろがった、ということです。我々に関心があるのは、こういう宗教的庶民層の状況にどのように切り込めるかということです。」

 田川先生の宗教批判はここでひとまず置きますが、鋭い指摘を含む上のパラグラフは次回でいささか重い問題になるでしょう。

 私は、田川先生の鋭い指摘をお借りして遠藤周作をメッタ切りにしましたが、実は、その返す刀で田川批判に切り込もうと企んでいたのです。しかし、結果的には先生の啓蒙主義に基礎を置く宗教理解というイデオロギーを拝聴するだけこんなに長くなってしまいました。

 しかし、「宗教とは何か」という一冊を著した田川先生は、結局、最後まで「宗教とはこれだ」というご自分の結論(X)を出すことから逃げたまま終わっている。

 本当の「田川批判」はこれからです。

コメント (33)
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