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わが友
ホイヴェルス著 =時間の流れに=
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わが友
友は、私とは全く違って、身体はたくましく、頭は丸くて、髪の毛を短く刈ると、なおさらまん丸くなりました。友といっしょに散歩するときには、友が話し役で、私は聞き役にまわります。友が論ずれば、私はいつも相づちをうつのです。何事であれ異議なく賛成できますから、友は本当になつかしい友となりました。私たちは毎年一度ずつ会うことにしました。それこそたいへんな喜びの祭典で、その日を待つ喜びと、またあとで心に残っている喜びとの三重の喜びは、すばらしいものであります。
わが友は勇ましい馬のよう、実際「ミュンヒハウゼンの軍馬」のように、垣根も濠も跳び越えて、いつもまっしぐらに走っていくのです。
友にとっては、世界宇宙は明るい見事な秩序でととのえられたもので、世の中の人間の心もまた、同じような気持で見られています。人生の諸問題は、信仰と理性とで処理されるのです。信仰と理性とは睦じく完全な調和をして活動し、相互に助けあっていて、この調和は友の顔にいつも輝いています。が、時々だけ曇ります。それは信仰を軽んじたり信仰と理性とが敵対しているという人がある時です。そして友は人々が故意に真理に対して耳も目もふさぎ勝手にめかくしをしているのだと思い、それだけにまた一心に、人々の目隠しをとってみたいと考えるのです。
友は、人々の目を覚ますには、神の存在を証明することが、何よりも一番適したよい方法だと考え、何よりも好んでこの仕事にかかります。そして天地万物すべての物を呼び集め、創造主のためにものをいわせます。そうすれば必ず自分の生きている間にすべての人が真理の前に頭をさげるだろうと希望し、度々人々を集めては、彼らの頑固な頭脳に神の存在を感じさせようと試みるのです。友はまるで手品師のように袖の中に色々な珍しい種を隠しておいて、それを、ぼっ、ぼっ、と人々の前に取り出しては、さかんに証拠をならべ立てます。
中でも自分で最もすきなものはアリストテレスの発見した Primus motor immobilis で、これは「太初の、一切を動かして自らは動かざるもの」の義で、すなわち世界宇宙を動かし給うものは、それ自身においては動かないものであるという意味であります。友は勝利者のように聴衆の上に叫ぶのです。
「世界を動かした者はだれか、やはりこのプリームス・モートル・インモビリス。これに対してはいささかも反駁などは許されない。二千年来、この創造主に対していわれた反対説などは皆知っているが、そのすべてに対してその誤謬を明らかにしてみせる」
と論をすすめて、その手品の袖のもっと奥から物を取り出す……そして挑戦的に呼びかけます。
「この地球に生命を与えた者は一体だれか、最初の生物はどこからきたか、鶏と卵とどちらが早かったか、卵か鶏か」と、しばらく黙って聴衆をみつめる。聞き手は息がきれる。友は嬉しくなってもみ手をする。目には満足が溢れる。途端に友の手も口もまるで手品師のようになって「鶏」と「卵」の二つを毱のようにしてしまい、お手玉にとり、二、三分間つづけて、鶏、卵、鶏、卵、とますます早口にいって、終わりに大きな声で叫ぶのです。
「どうか言ってください。どっちが早かったか」
聴衆の中には鶏と卵の問題を性急に全能の神にもっていきすぎたと考えているものがあるかもしれないので、友は、この活潑な生命はいかにして鈍重な物質に入ってきたか、生命の問題をおもむろに根本的に扱い始め、学者の説に基いて唯物論者を真向正面からたたきつけるのです。と、いよいよ攻撃は白熱化します。唯物論者は特別の仇敵です。彼らをかたずけるために前にも「無神論をつく」という著作を発表しましたが、この講演のクライマックスでもやはり唯物論者に直接論鋒をつきつけるのです。
「君たち唯物論者は物質崇拝者だといっていい。しかし君たちは物質が何であるか知っているか。君たちの崇拝する物質というものは一体どういうものか。自然科学者たちは、まだだれも知らないと断言する。しからば君たちはどうして知らない物質をもって、天地万物を説明するのか。私が君たちに向かって主張することはこうだ。――物質は精神よりもわかりにくいものだ。生命のないものは生きているものよりも珍しいものだ。生命よりも死は大いなる神秘だ。なお人間よりも動物は珍しい。また永遠の神よりも限りある人間は珍しい。一体だれが人間にその『限り』を定めたのか」
私の友は、真理をこうして哲学的に種まき、やがて芽を出さないかとその畑を眺めわたす。友は花は必ずみのると信じています。そして秋になって少ししか実のついていない枝の下に立っても、来春には花がひらきやはり本当にみのるだろうと思うのです。それがために私は友をとてもなつかしく思っています。
どうか私の友には毎年この新しい希望がわき出るように。衰えぬ力でつねに人々にこの最も大切な真理、創造主は至善であり、そして主に造られたものはことごとく善であることを教えるように。とにかく、私の友は善いものとして造られたのであります。
私はホイヴェルス神父様からこの「わが友」を直接紹介されたことはついになかった。しかし、この小品のモデルに合致する人物を知っている。生粋のドイツ人哲学者のイエズス会士、ジーメス教授だ。
ジーメス教授は上智大学では独哲科で教えていた。他に私の学んだラ哲科があるが、こちらはラテン語を第一外国語とし、トマス・アクイナスに発するスコラ哲学を中心に未来の神父を目指す全国からの神学生たちのクラスであるのに対して、独哲科はドイツ語を第一外国語とし、主に近代ヨーロッパ哲学を中心に学ぶ一般学生が中心で、キリスト教を信じていない学生も多かった。
一つ腑に落ちないのは、ホイヴェルス師とその「わが友」が七夕様のように年に一度だけ会って哲学談義に耽るという話だ。なぜなら、ホイヴェルス師は上智大学に隣接するイエズス会の管区長館に居住し、ジーメス神父は上智大学の敷地内の教授館に住んでいて、互いに目と鼻の先に生活していて、会いたければ毎週だって会える距離にいるからだ。だが、ホイヴェルス師が哲学談義に花を咲かせるような相手が他にいる気配もなかった。でも、ドイツ人ならそんな友情の形も有りかな、とも思う。
まあ、それはひとまず置いて、ジーメス教授を紹介しよう。彼はドイツの農夫のようにずんぐり、がっちり、骨太で、短い坊主頭は丸く、赤ら顔で声は太い。独哲の学生たちに愛され、慕われ、日本の銭湯が大のお気に入り。学生も出入りする四谷の銭湯の熱い風呂が大好きで、湯船の水道の蛇口のそばに鰐か河馬のように口のあたりまで沈んで陣取り、熱い湯が苦手のひ弱な学生が水でぬるめようと蛇口に近づいても許さない。男ならこれぐらい我慢できなければ情けない、と譲らないのだ。
このジーメス教授なら、親友のホイヴェルス師をつかまえて、信仰と理性の矛盾なき調和の上に立って、神の存在を一点の淀みも曇りもなく理路整然と証明し、無神論者、唯物論者を見つけようものなら、熱情をかたむけて、手品師のようにあらゆる論理を駆使して、次々に神の存在証明をまくしたてる姿が目に浮かぶ。
ホイヴェルス師は、その論証の一つひとつがどれも理に適い真実であることを信仰の立場からも十分に理解しながら、友の情熱を賛美し、こころのゆとりのどこかで、迷える人間を理性の論理だけで折伏しきれるものではないことを知っておられるのだろう。哲学者は真理の番人でなければならないと信じる師は、友の理性の健全性を頼もしく思い、それが疲れてしまわないことを切に願っておられるのだろう。
さて、私はジーメス教授に極めて似た一人の老司教様を知っているような気がする。哲学者ではない。別の視点に立つ信仰の番人だ。長年の間に培われた深い信仰の立場から、神の愛について、赦しについて、真理、善、美について、人間について、豊かな温かいお話が泉のようにこころに湧いて、吐露される。
司教様、今日のお説教は5分ぐらいでお願いします、今日の講話は20分でお願いします、講演は50分ほどで、というと、何のテーマから入っても、いつも豊かなお言葉が溢れるように口をついて流れ出す。それは、あたかも手品師が口から糸を吐き出し、その糸に小さな万国旗がいっぱいついていて、あら不思議、両手でその糸を口から引き出すにつれ、小旗の列が次から次へと際限なく吐き出されて止まらない。付き人が、司教様そろそろお時間ですと言うと、一言、二言の結びの言葉とともにピタリと口は閉まり、小旗の列は何事も無かったかのように消え失せ、その後には顔に満足げな温和な微笑みが漂っている。そして、聴いた人たちも何故か満ち足りた気分になる。
私はどうしてか、ジーメス教授とこの善良な司教様との間に不思議な共通点を感じ取る。ホイヴェルス師の暖かい友情のこもったユーモアと共にこのお二人にホマージュとしてこのコメントをささげたい。