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どんなことの中にも神を見つけましょう
ホイヴェルス著 =時間の流れに=
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どんなことの中にも神を見つけましょう
どんなことの中にも神をみつけなさい、とある聖人が教えてくれました。なるほど、探してみようとすれば、そこここに神をみつけるのはむずかしいことではありません。私はたいてい毎日、いつも目あたらしい仕方で神をみつけます。六月二日の今日も、まっ黄色に咲いた『たんぽぽ』の光輪の中にみつけました。このつまらない草は、だれかがお聖堂のそばに植えておいたもので、陽あたりのよい場所でとてもみごとに咲いていました。でも、はじめに植えた草はかわいそうにたいてい引きぬかれてしまいました。ほかの人がきて、こんなきれいな花のことに気がつかず雑草だと思いこんだからでしょう。さいわい一つだけ残ったのが元気に伸びて、今朝お初の花を咲かせてくれたのです。私はその花の上にかがんで、こんな茎に、もえるような黄色の冠が咲きひらいたので驚きの目をみはりました。この花を眺めて神をみつけるのことはむずかしくはありませんでした。
小さな太陽のようなこの花は偶然に咲いているのでも、勝手に開いているのでもありません。神のいつくしみを教えているのです。私の歩みをしばらくとめさせて、静かに深く考えなさいといっているのです。神は大きな太陽をもって地球を照らし、小さな太陽の花を方々に燃え上らせるのですが、けさもこのたんぽぽを咲かせてくださいました。
同じ朝、私はお父さんに抱かれたユミ子ちゃんに会いました。私たちは洗礼のときにこのお嬢さんにマリアという霊名をつけました。私が「お早う」というと朝陽にまぶしそうに目をあけてちょっと考えているようでしたが、やがてほおえみました。子供のほおえみは偶然にあるものでなく、たしかに大いなる創造主の計画や腕前なしにはできたものではありません。この子供が私にほおえみかけるためには、いろいろなわけが重なりあっているのでしょう。みち足りたという気持よさ、お父さんの腕に抱かれているという安心さ、聞きおぼえのある声、それからこの子供の心をぱっと照らして、喜びという目に見えぬものを顔の上に描き出させた小さな肉体の中に私はこのほおえみを眺めます。どうしてこんなにほおえむことができるのでしょう。子供は自分でほおえみのわざを少しも心得ていません。小さな顔をこんなにほころばせて明るい心が見えるようにさせるとは、一体子供にどうしてこんな微妙なことができるのでしょう。
このほおえみとて目的なしにあるのではありません。小さな口は心のうごきをまだ言葉にして出すことはできません。このほおえみがあれば父母の苦労はむくいられます。子供が幸福なのだ、とわかります。ほおえみをもって子供は友だちをつくります。神はその大いなる父の愛を両親の心にわけ与え、そして草花に一しずくの花蜜をお入れになることを忘れないように、生まれてまもない子供の心に、ご自分のやさしい心の一しずくをそそいでくださるのです。そしてこの一しずくがまるで魔法を使ったようにほおえみを呼びだすのです。子供の顔には神のやさしさが輝いています。このほおえみのうちに神をみつけることはやさしいことです。
たやすく神をみつけられるように私はどこかへいくとき、めったに自動車に乗りません。バスや電車に乗る方が好きです。一ばん好きなのは省線に乗っていくときです。
省線に乗っていけばいろんなことが頭の中にうかんできます。私たちがプラットホームに立って待っていますと、勢いよく向うから電車が入ってきます。ブレーキがかかって、車輪がきしみます。電車がとまります。――なるほど、微細な原子のすべてや車輪のしくみが、今までわかっている、そしてまだわからないもろもろの法則にきわめて忠実にしたがって、私たち人間に仕えてくれるのは、まことに驚くばかりです。
ときどき、おかしなことさえ考えつきます。たとえば、私たちが省線の中でぎゅう詰めになって立っているとき――全く大勢の人がよくもこんなにすし詰めになるものです――人間はこのようなかっこうに造られたことを喜んでいいはずです。もし牛や馬のような体だったらどうでしょう。車の中に少ししか入れないでしょうね。ところが私たちはまっすぐに立って歩きます。これについてはプラトンやアリストテレスも大いに驚異の目をみはって叫んだものです。自由なる歩み、上に向かうまなざし、自由なる手、自由なる胸、などと。古代のギリシャ人はこの立派な人間の体を神にふさわしい体と思いました。私たちキリスト信者は、神ご自身が私たちのような肉体をおとりになって私たちの間に住み給うことを知っております。
省線に乗っている人はみな同じ考え方の法則に従っています。いずれも必然的に善と幸福とを追い求めています。しばしばまちがった善、まちがった幸福をつかまえますけれど。みな少し愛をもちたいと思っています。たいての人はまた愛を与えたいと思っています。省線に乗っている私たちはみんな旅の途中です。しばらくの間はいっしょにいます。そしていつかは一人残らず同じ目的地に着かなければなりません。男も女も子供も省線に乗っています。男と女と子供、考えてみれば、これは不思議の中の不思議です、神は人間を二つの型に考案されました。その二つを相対するようになさいました。そして目に見えぬ力をもってまた合せ近づけます――数限りない数の中から、いつも二人をお選びになって、ちょうど二人だけです。この二人はほかのものをことごとく、ほかの人びとをさしおいて、とこしえにいっしょに旅をしたいのです。するとある日この二人は朝日の中で子供を抱いています。そしてその子がほおえんでいます。なるほど、人びとを眺めて、そこに神をみつけることは何とやさしいことでしょう。
私はむかし一度、神を見つけるのが、難しいように思ったことがありました。それは病んでいる婦人を見舞ったときでした。この人が病気だということを十年前に聞かされて、私はいつもたずねてみたいと思っていたのでした。今は病院に寝ています。関節の痛みにたえかねて、彼女はときどき自分の腕を切り落として下さいと訴えたそうです。もう十年以上歩くことはできません。医者はいよいよ手術をやってみると言います。腰と膝の関節を切開して膝の骨を特製の釘でつなぎ合わすのだそうです。そうすれば後で家の中ぐらいは歩けるだろうということです。
いちぶしじゅうを聞いて私は一言も口をきかず黙って考えました。痛みもやはり神からきたものだ。痛みの中にどうやって神をみつけようか、神のいつくしみはどこにあるのだろう。たぶんこの婦人はそれを知っているだろう。私は彼女がどう思っているか聞いてみました。するとにっこりほおえんで「けさ車でお聖堂へつれていってもらいました。私が始めてあずかったごミサでした。」たったそれだけしか彼女は言いませんでした。
帰りのバスの中で、やっと今までのすべてのことにつじつまが合いました。詩人ブレンターノの二行詩に
ああ星と花、精神と衣服、
愛と苦しみ、時間と永遠
とあります。この詩はどんなことを意味しているのでしょうか。星である神のみ子は、百合の花である乙女マリアに宿られ、精神すなわち神性と衣服である人性とを一つにして、苦しみを通じて愛の道を歩み、こうして時間的な人間を永遠のまことの幸福へ救い上げたもうのであります。
先日信州の野尻湖のほとりの小屋に一人泊まって、朝5時頃に目覚め、その日の朝焼けのすばらしさに思わず目を見張った。空をマダラに覆う雲は、赤、ピンク、橙、と見事なグラデーション!雲間の青空は深い藍色から薄い水色までに染め分けられて、荘厳のひと言でした。風はなく、小鳥はさえずり、草は露にぬれていました。日頃鈍感な私でさえ、姿勢を正し両手を合わせて神を思い、賛美をささげました。
ホイヴェルス師はどんなことの中にも神を見つける名人です。自然の中に、動植物の中に、人間とその営みの中に。それは、ドイツのウエストファーレンの森の中に育ち、両親の愛に包まれて、信仰に恵まれて、心豊かに育ったことの賜物でしょう。)
師は病人の訪問のために省線(今のJR)で行かれるときも、よく私を誘って一緒につれていってくださいました。混んでいない電車の中でベンチシートに二人並んで座っていて、私が何気なく足を組んだ時、思いがけず師の手が私の重ねた膝をポンと払いました。ハッ!としました。普段はめったに見せないしつけに厳しい師の一面をその手に感じました。若者の振る舞いとしてはやはりお行儀が悪いと思われたのでしょう。しかし、普段の師は私に対してこころ優しい、愛情深いお父さんでした。
師は上智大学の二代目の学長をつとめられたが、大学の教室で哲学を講じることはなさらなかった。けれども、私に「哲学する」とはどういうことかを、その生き方を通して教えてくださったように思い、今も感謝しています。