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100の広場に飛び出そう!
= 教皇フランシスコの呼びかけに応えて=
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5月3日、ローマの4大バジリカの一つ、「城外の聖パウロ教会」で、
ローマ司教フランシスコ教皇代理のヴァリーニ枢機卿 (このブログではお馴染み) の司式で、
ローマの 《「100広場」 街頭宣教》 の派遣式が行われた。
これは、正式には昨年教皇フランシスコが全世界のカトリック教会に呼びかけて、
復活祭の後の50日間の復活節の期間中、
街の広場に出てキリストが復活した事実の喜ばしい知らせを街行く人々に告げ知らせるよう励ましたことによる。
だから、これは教皇の命による全教会の公式行事だ。
聖書によると、十字架上の死後、3日目に復活したキリストに出会った弟子たちは、
広場に出てその喜ばしい事実を人々に伝えた。
現代のキリスト者も、キリストの復活を信じていることの証しに、同じことをしようではないかという発想だ。
ローマ4大バジリカの一つ 「城外のサンパウロ」 のバジリカ(大聖堂)
これは4列の円柱で支えられた古いスタイルの教会だ。実はバチカンの聖ペトロ大聖堂も、昔はこの形だった。
聖堂の正面はほぼ西を向いている。この日は高曇りだったが、夕日が当たるときはこのモザイクは金色に輝く。
内部の中央の身廊には、ローマ中の共同体の仲間が集まっていた。
柱列の上、窓の下の明るい直線部分には、丸い縁取りの中に歴代の教皇の肖像がモザイクで描かれている。
よく見ると、両側に2列ずつある側廊の柱列の上にも、祭壇のある内陣の柱の上にも、
教皇の肖像画はずらりと並んでいるが、その数、266人と言われている。
祭壇を正面に見て右側の側廊の柱列の上の一番左端には、現教皇フランシスコとベネディクト16世の
現役とまだ存命中の前教皇のモザイク画がすでに見られる。
教皇フランシスコの左側には、未来の教皇のための余裕の丸い枠がまだ3~4個みえる。
それを見て、あと3~4代教皇が現れた後に世の終わりが来るという悪い冗談を言う人もいる。
左端にちょっと見えるのが余裕枠。その右が教皇フランシスコ。そして、ベネディクト16世。
その右が聖教皇ヨハネパウロ2世、教皇ヨハネパウロ1世、パウロ6世、聖ヨハネス23世、と歴史を遡っていく。
聖堂正面の右側の1番目には、イエスの12使徒の頭、初代ローマ教皇の聖ペトロのモザイク画があった。
悪玉教皇ボニファチウス8世もどこかに居るはずなのだが、余り多くて見つけそこなった。
人工照明がついていないときは、側廊の部分は昼間でも薄暗いが、それは、
窓がステンドグラスではなく、光を緩やかに透すアラバスタ(雪花石膏)の石の薄板で出来ているからだ。
自然が織りなすアラバスタの模様は実に美しい。
その聖堂に集まったのが新求道共同体のメンバーたち。
横断幕には
「パパ・フランチェスコと共にイエス・キリストを告げ知らせるために広場に行こう。彼は私たちを救うだろう。」
と書かれている。
教皇の名において派遣式を行うヴァリーニ枢機卿。
復活節に広場に出て宣教を行うことを、全世界に向けて正式に呼びかけたのは確かに教皇フランシスコで、
去年が最初の年だったが、実は同じことは既に教皇ベネディクト16世の時代から、
新求道共同体の手で、世界中で行われてきた。
そして、それは実は教皇ヨハネパウロ2世の時代にまで遡る。
派遣式を荘厳に執り行うヴァリーニ枢機卿。右端の顔が半分切れているのは、
キコがオサマ・ビン・ラーディンと渾名するフローリアン神父。
彼はローマのレデンプトーリスマーテル神学院の副院長だ。
「物見の塔」や「エホバの証人」のような戸別訪問の伝道活動、駅頭や広場での大衆伝道は、
歴史と伝統のある正当派カトリック教会の品格に合わないヤクザな手法と考える向きがなかっただろうか?
新求道共同体はその活動の一番最初から、それを大事な基本的宣教手段として積極的に活用してきた実績がある。
それに注目し、肯定し、励ました最初の教皇が聖ヨハネパウロ2世だった。
ベネディクト16世もそれを積極的に奨励した。
そして、教皇フランシスコはついに、それを教会の復活節の正式の行事として、全世界の全信者に求めるに至った。
私は、10数年前、ローマでまだ学生神父をしていた頃、
カトリックの信者でないグレゴリアーナ大学の日本人学生と仲良くしていた。
今も当時と同じかどうかは知らないが、
彼らはたいてい、天理教や立正佼成会などの地方大教会長の御曹司、後継ぎであることが多かった。
(創価学会の人には逢わなかったが、出自を隠して中に混ざっていないとも限らなかった。)
???、何故それらの宗教の次世代を担うホープたちが、カトリックの最高学府の大学院で勉強しているのか?
信仰としてのキリスト教に学ぶため?そうは思えない。キリスト教の神に近寄り、改宗しそれを信じるためではもちろんない。
それは、自分たちの宗教団体の組織を強化するためのノーハウを獲得するためのようだった。
解りやすい例を挙げよう。
雨上がりの畑の土の上に、赤く艶やかに光るミミズがピチピチ、クネクネと動いているのを見たことはありませんか?
伸びたり縮んだりしながら、結構器用に前進していく姿は面白くもあります。
では、ミミズを同じ組織構造のまま20倍に拡大したらどうなるでしょうか?
直径10センチ、長さ2メートルほどのお化けナマコ状になるでしょう。
大蛇なら長い脊髄を包む強靭な筋肉を使って蛇行して進む事が出来ますが、
それがミミズと同じ素朴な組織内容でできているとしたらどうなるでしょうか。
大部分が水分の体は円形の断面を保つことすら出来ず、搗きたての伸し餅のように扁平に潰れ、
地面との摩擦で身動きが取れず、伸縮を繰り返して自由に地面を移動することなど全く不可能でしょう。
これでは、エサも取れず、干からびて、死んでしまうほかはありません。
何が言いたいか、ですって?
つまり、ミミズは直径4~5ミリ、長さ10センチほどの間は敏捷に動けても、20倍にしたら自重でペッタンコに潰れ、
身動きが取れなくなるように、宗教団体も、信者300万人程に教勢が拡大すると、
素朴で未発達な教義と組織体系のままでは、それ以上の発展が鈍って壁にぶつかるということなのです。
カトリックが10億の信者を抱え2000年の歴史に耐え抜いた秘訣は、
ユダヤ教の伝統の上に、ギリシャ哲学やローマ法典やローマ帝国の版図拡大を支えるだけの組織力を持ち、
壮大な神学体系を形成して、強靭な骨格と筋肉を身に着けたからです。
恐竜や象のような体格と筋肉があり、人間の英知を結集した頭脳をそなえてこそ、カトリックの大教団が出現できたわけです。
日本の新宗教は、それに比べると、神道系も、仏教系も、折衷型も、何れの場合も、
骨格と筋肉と頭脳の面ではまだまだ未熟で、それが信徒数300万位までは伸びられても頭打ちになり、
歴史の中を長期に生き延びられない弱点になるのではないのでしょうか。
グレゴリアーナ大学にそれらの宗教の明日を荷う優秀な人材が勉強に来るのは、
その様な背景があると私は見ました。
その人たち、会ってみると、みんなとってもいい人たちでしたよ。たいてい、小ざっぱりしたマンションか何かに住んでいて、
教団からの豊かな送金に支えられ、若い綺麗な奥さんとかわいい子共さんが一人いたりして・・・
食事に招かれて話し込んで打ち解けたとき、
「カトリックでも街頭伝道や、個別訪問伝道に行く部分が生まれ始めましたよ」、
と新求道共同体の活動の話をすると、
「いやー、それは参ったな!
業界最大手のカトリックさんが、来るもの拒まず、去るもの追わず、品よく、おっとり構えている間隙を縫って、
わたし達は只ひたすらそれだけを頼りに教勢拡大に励んでいるのに、
その十八番(おはこ)をカトリックさんに盗られたら、私たち全く太刀打ちなりませんよ!お手上げですね。」ときた。
教皇フランシスコは、新求道共同体を使って、そこに目をつけたのでしょうか。
教皇の檄が飛んだとあっては、ローマ教区長のヴァリーニ枢機卿も、もうやるっきゃないですよね!(笑)
新求道共同体は、去年からこの復活節の頃重点的に、世界中の広場で街頭宣教をやり始めました。
ひょっとして、日本でもささやかにやっているのではないでしょうか。
次回は、わたしのローマの共同体の広場での宣教の模様を中継致しましょう。
(つづく)
今回もまた刺激的なブログをありがとうございました。
まったくおっしゃる通りです。
日本の教会も目覚めないとだめですね。
この日曜日,私は
いつもと違う教区の教会におじゃましましたが,
主任司祭は何と84歳の外国人神父でした。
まあ,この世界,老齢でも元気な方は多いですが,
84歳といえば,
どんな人でもとっくに引退している年齢です。
あの松下幸之助でさえ,80で引退しています。
主任司祭の仕事は,
ミサをするだけではないはずです。
それこそ,広場にも出て行かなければなりません。
確かにお説教なんかは味があってよかったのですが,
足元も危なっかしいですし,
福音朗読も2,3行飛ばしてしまったり...
それが悪いというのではなく,
このような神父様に頼らなければやっていけない
日本の教会の事情が悲しすぎます。
神父様は,高度経済成長期に日本にやって来られたそうです。
50年間,宣教に心血を注がれ,
たくさんの人を救い,
キリスト教のよき文化を日本に根付かされました。
ですので,もうお休みいただくべきと思います。
もうお役目は終わっているはずです。
本来なら役目は終えたはずなのに,
いまだに働かされている神父様は,
今でも少なくないのではないでしょうか。
本人たちは好きでやっているのでしょうけれど,
私はちょっと違うような気がします。
信者さんたちも,
神父様,いつまでもお元気でやってくださいね~
みたいな感じなんですね。
年老いた神父様に主任司祭をしてもらってるのが,
当たり前のことになっています。
それでいて共同祈願の中で,
「私たちに司祭をお与えください」
などと大まじめに唱えるわけです。
何だかよくわからないですね。
召命は少ないし,信者も育たない。
先進国が抱えている問題は同じだと思いますが,
何の解決策もないという点において,
日本はきわだっているように思います。
どうすればいいのでしょうか...