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私の「インドの旅」総集編(6)神々の凋落
(b) キリスト教の凋落
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(1)導入
(2)インカルチュレーションのイデオロギー
(3)自然宗教発生のメカニズム
(4)超自然宗教の誕生―「私は在る」と名乗る神
(5)「超自然宗教」の「自然宗教」化
(6)神々の凋落
a)自然宗教の凋落
b) キリスト教の凋落
c) マンモンの神の台頭 天上と地上の三位一体
(7)遠藤批判
(8)田川批判
(9)絵に描いた餅は食えない
(10)超自然宗教の復権
(b)キリスト教の凋落
312年のローマ皇帝コンスタンチン体制以来、自然宗教化したキリスト教は、当然のことながら一般の自然宗教と同じ理由で凋落の道を辿ることになる。しかし、キリスト教には最初からそれとは別の凋落の要因が内包されていた。
世界の教会の母ラテラノ教会の入り口脇を固めるコンスタンチン大帝の騎馬像
「皇帝」と「キリストの花嫁」の結婚、つまり、皇帝と教会の結合は、当初ローマ帝国の版図拡大と教会の宣教努力とが相まって、キリスト教の教勢拡大に大いに貢献した。しかし、中世をとおして一貫して機能していた政教一致体制のウイン・ウインの関係も、その後の歴史の展開においては最初から内包されていた矛盾が次第に露呈していく運命にあった。
表現は少しえげつないが、実体を的確に言い表すにはぴったりなので、ご辛抱願いたい。
皇帝にとって生かすも殺すも意のままの女奴隷ぐらいに軽く見ていた帝国の底辺の貧しい民衆が、ある日、「生き神様」の自分を見限って白いドレスをまとってキリストの花嫁として超自然宗教に走った。その後ろ姿は若々しく美しさと生命力に輝いて魅力的に見えた。皇帝はライバルの色男キリストに嫉妬し、自分を捨てた女を殺そうとしてキリスト教を迫害したが出来なかった。そこで、彼女を取り戻すために手練手管を尽くして篭絡にかかった。女はその甘い誘惑に負けて皇帝とよりを戻し、側女の地位に収まった。その時、教会は「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(マタイ22:21、マルコ12:17、ルカ20:25)と言って、地上の覇者と馴れ合うことを厳しく禁じたイエスの戒めを破って、神の命令に背いた。
ドイツの銀行に勤めてデュセルドルフに住んでいた頃、私は車でよくアーヘンの大聖堂を訪れたが、それは不思議な魅力の漂う教会だった。紀元800年にカール大帝は教皇レオ3世によってローマで神聖ローマ皇帝として戴冠されたが、カール大帝によって建造された北ヨーロッパ最古の大聖堂は、その後16世紀まで歴代30人の神聖ローマ皇帝の戴冠式が教皇によってとり行われた場所でもあった。
アーヘンの大聖堂とカール大帝の胸像
しかし、そのような皇帝と教皇の蜜月関係はいつまでも続くものではなかった。宮沢賢治の「どんぐりと山猫」の話ではないが、森の中では金色に輝いていたどんぐりが、家に持ち帰ってみたらただの茶色のどんぐりだったように、帝国の底辺の貧しい人たちが超自然宗教に走った姿は若く美しく輝いて見えたが、自分の手に取り戻して自然宗教の光のもとでながめたら、ただの醜女(しこめ)に過ぎなかった。しかも、ローマ皇帝と教会との蜜月関係の下では、この醜女はローマ皇帝の庇護に乗じて、だんだん太って厚かましくなり、皇帝にとって油断ならぬ存在になっていった。皇帝は教会の聖職者人事に手を出すし、教皇はそれを嫌って神の権威を笠に破門も辞さぬ勢いで皇帝を組み伏せようとするなど、皇帝と教皇の間に痴話喧嘩が絶えず、ついには皇帝が教皇を軍隊で脅かすというような由々しい事態にまで発展した。11世紀、神聖ローマ皇帝ハインリッヒ4世とローマ教皇グレゴリウス7世の間の「カノッサの屈辱」事件などは、その典型的なエピソードだった。
農奴の生産性の上に築かれた封建主義的中世はやがて過ぎ去り、都市の商業活動から生まれる富が社会の世俗化と宗教離れを加速させていく中で、皇帝は教会の後ろ盾や神のご加護などに頼る必要性を感じなくなり、教会と組むメリットは失われつつあった。自然宗教一般の衰退と相俟って、教会は年をとって醜く太っ妾(めかけ)のように疎(うと)ましい存在になっていった、と言えばわかりやすいだろうか。
しかし、教会は皇帝の寵愛と庇護のもとに好き放題が出来た過去の栄光を忘れられず、キリストの教えに背いていつまでも皇帝の愛人であり続けられるかのような幻想に酔い続けていた。
自然宗教化した教会は、中世封建社会が終焉を迎えつつあったのに、なお過去の栄光がいつまでも続くような錯覚に溺れて、皇帝の服の裾に縋(すが)りつき、世俗的な権勢を誇示するために富を集めて壮麗な聖堂・伽藍の建設に力を入れた。その最たるものが今日のバチカン市国の聖ペトロ大聖堂だった。当然その建設には膨大な資金が必要だった。それをまかなったのが、神聖ローマ帝国の版図(主としてアルプスの北のドイツ)の教会における「免罪符」の販売だった。「免罪符」は日本語の当て字で、実体は「罪の償いの減免の証書」だったが、これは中世の教会では広く一般に普及していた資金調達の悪習だった。
宗教改革の引き金になったバチカンの聖ペトロ大聖堂
信仰心の篤い若い神父さんが、使命感に燃えて「飲んだくれで女たらしだったお前の父(トッ)ちゃんは、いま煉獄の火に焼かれてヒーヒー言っているぞ。孝行息子がこの免償譜を買ってやったら、お前の父(トッ)ちゃんの魂はヒューッと天国に昇っていく。さあ、みんな買った、買った!」と説教しながら、手に持った賽銭箱の中身をガラガラ鳴らすと、孝行息子は涙を流してお札(ふだ)を買う。こんな光景がドイツの農村各地で盛んに見られた。こうして集められた金は馬車に積まれてアルプスを越えローマに運ばれ、延べ何百万人の職人に支払われ、今日見る壮麗なサン・ピエトロ大寺院はめでたく落成した。自然宗教の真骨頂だが、これがイエスの十字架と死と復活に何のかかわりがあるのだろうか。
このスキャンダルはマルチン・ルッターらによる宗教改革の引き金になった。ルッターの指摘の多くは正しかったし、ルッターは教会の内部改革を願ったが決して教会の分裂を企図するものではなかった。それなのに、当時の教会の指導者はまだ中世の夢醒めやらず、改革者を手荒く破門した。ここに、今見るプロテスタント教会(新教)が誕生することとなった。
キリスト教的ヨーロッパ社会は二つに分裂し、不幸な30年戦争に突入した。これはキリスト教徒同士の血で血を洗う戦いではあったが、同時にそれは封建主義社会と誕生間もない近代的市民社会の保守・革新の代理戦争でもあった。
プロテスタントが去った後のキリスト教会は、以後カトリック教会と呼ばれるようになるのだが、その統一のシンボルはもちろんローマ教皇であった。教皇はトリエントの公会議(1545-1563)を開き、体制の引き締めを図った。いわゆる反宗教改革と呼ばれるものである。
時あたかも、世界は大航海時代を迎え、ポルトガルやスペイン国王は、盛んに新大陸の発見とその植民地化を競い合っていた。カトリック教会はヨーロッパの半分をプロテスタント教会に奪われた失地回復を新大陸に求めたが、教会には自力で宣教師を世界に送り出す資力がなかったので、国王の出資で建造された船に便乗して中南米、アジア、アフリカの各地に宣教師を派遣した。王様も貿易船に宣教師を乗せ、新天地にキリスト教を広めることは、植民地原住民の統治に大いに役立った。ここでも、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返せ」というキリストの教えに背く聖・俗の癒着と、同床異夢の「ウィン、ウインゲーム」が展開されることになった。
遠藤周作の「沈黙」はこの時代に日本に上陸したイエズス会神父の宣教と、その後の迫害と殉教、棄教の物語だが、今は横道に逸れている場合ではない。ただ、フランシスコ・ザビエルが宣教を開始してから秀吉のバテレン追放令とその後の完全鎖国までの僅か半世紀の間に50万人とも70万人とも言われる数のカトリック信者が日本に誕生したが、1854年に鎖国が解かれ宣教が再開してから150年以上たっても、信者の数はついに50万人に達することのないまま、今は目に見えて減少に向かっている。
その間、世界史は大きな展開を遂げ、第2次世界大戦後は一気に世俗化とグローバリゼーションが進んで、地球規模で価値観が均質化して行った。そして、皇帝と教皇の蜜月関係は遠い過去の想い出となり、近代国家と教会との関係も希薄になって行ったが、教会だけは過去の栄光の夢に浸って時代から取り残されていることに気付かないでいた。
自然宗教はキリスト教も含めて凋落した。いま我々が見ているのは、長い伝統の上に築かれた莫大な遺産を取り崩しながら、年々惰性で祭りと儀式を踏襲している姿に過ぎない。
極めつけが現在進行形の新型コロナウイルスだ。緊急事態宣言が発出されるたびに教会は閉鎖され、日曜の礼拝、ミサはリモート(ズーム配信など)になったり、信者をグループ分けして、毎週入れ替わりで少数ずつミサに招いたりが続いている。日曜日に教会に行けなかったり、行かないことが求められたりで、習慣的に来ていた信者の流れがブロックされた結果、宣言が解除されてももう元の流れにもどらなかった。コロナ騒動を期に、高齢者信者と若者の教会離れが一気に加速している。この状態があと数年つづけば、コロナが去った後に何が残るだろう。教会の凋落が最もわかりやすい形で加速度的に進行している。