弟橘媛の櫛塚(おとたちばなひめのくしづか)。
場所:茨城県龍ヶ崎市北方町。竜ヶ崎南高等学校(住所:茨城県龍ヶ崎市北方町120)の正門前(向って左)。駐車場なし。
下総国式内社「蛟蝄神社」の項(2013年1月5日記事)でも書いたが、日本武尊が東征の際に「蛟蝄神社」に立ち寄り、戦勝を祈願したとされ、そのときに馬を木に繋いだ場所が「立木」という地名になったという。古代東海道のルートを探していると、何故か、日本武尊の旧跡があることが多い。日本武尊の東征はヤマト政権による支配の道筋であり、国司や軍団の通り道である官道はヤマト政権の権威の象徴でもある、ということを示しているのかもしれない。
さて、「蛟蝄神社」の項でも大いに参考にさせていただいた「タヌポンの利根ぽんぽ行」さんのHPによれば、近くにもう1つ、日本武尊所縁の場所があるらしい。それが「弟橘媛の櫛塚」で、現・茨城県龍ヶ崎市北方に至ったとき、舟の形をした山を見て、相模国から上総国に渡る海で入水した妻の弟橘媛を思い出した。その舟形山の横に塚を築き、弟橘媛の形見の櫛を埋めて墓所としたとされるものらしい。舟形山は竜ヶ崎南高校建設のため削平されてしまったということで、現存しない。「櫛塚」は現存するが、古墳かどうかは判然としないが、頂上に石祠が祀られている。これは「吾妻神社」であるとされているようなので、少なくとも日本武尊と弟橘媛の伝説の存在を伝えるものなのだろう。この「櫛塚」の前の道路は千葉県道・茨城県道4号線(千葉竜ヶ崎線)で、木下良氏(古代交通研究会会長)の想定する古代東海道「於賦」駅付近(現・利根町役場)の東側からの一本道である。この道が「鎌倉街道」と呼ばれていたらしいことも、相当古くから存在したことを示しており、古代東海道の一部であったかもしれない。
※弟橘媛の入水伝説や「吾妻神社」については、このブログでも「足柄峠」(2011年11月22日記事)、「公津ヶ丘古墳群」(2012年6月16日記事)、「吾嬬神社」(2013年5月13日記事)で触れています。
「タヌポンの利根ぽんぽ行」さんのHP(龍ヶ崎南高近辺)
写真1:「弟橘媛の櫛塚」
写真2:塚上の石祠(吾妻神社?)
場所:茨城県龍ヶ崎市北方町。竜ヶ崎南高等学校(住所:茨城県龍ヶ崎市北方町120)の正門前(向って左)。駐車場なし。
下総国式内社「蛟蝄神社」の項(2013年1月5日記事)でも書いたが、日本武尊が東征の際に「蛟蝄神社」に立ち寄り、戦勝を祈願したとされ、そのときに馬を木に繋いだ場所が「立木」という地名になったという。古代東海道のルートを探していると、何故か、日本武尊の旧跡があることが多い。日本武尊の東征はヤマト政権による支配の道筋であり、国司や軍団の通り道である官道はヤマト政権の権威の象徴でもある、ということを示しているのかもしれない。
さて、「蛟蝄神社」の項でも大いに参考にさせていただいた「タヌポンの利根ぽんぽ行」さんのHPによれば、近くにもう1つ、日本武尊所縁の場所があるらしい。それが「弟橘媛の櫛塚」で、現・茨城県龍ヶ崎市北方に至ったとき、舟の形をした山を見て、相模国から上総国に渡る海で入水した妻の弟橘媛を思い出した。その舟形山の横に塚を築き、弟橘媛の形見の櫛を埋めて墓所としたとされるものらしい。舟形山は竜ヶ崎南高校建設のため削平されてしまったということで、現存しない。「櫛塚」は現存するが、古墳かどうかは判然としないが、頂上に石祠が祀られている。これは「吾妻神社」であるとされているようなので、少なくとも日本武尊と弟橘媛の伝説の存在を伝えるものなのだろう。この「櫛塚」の前の道路は千葉県道・茨城県道4号線(千葉竜ヶ崎線)で、木下良氏(古代交通研究会会長)の想定する古代東海道「於賦」駅付近(現・利根町役場)の東側からの一本道である。この道が「鎌倉街道」と呼ばれていたらしいことも、相当古くから存在したことを示しており、古代東海道の一部であったかもしれない。
※弟橘媛の入水伝説や「吾妻神社」については、このブログでも「足柄峠」(2011年11月22日記事)、「公津ヶ丘古墳群」(2012年6月16日記事)、「吾嬬神社」(2013年5月13日記事)で触れています。
「タヌポンの利根ぽんぽ行」さんのHP(龍ヶ崎南高近辺)
写真1:「弟橘媛の櫛塚」
写真2:塚上の石祠(吾妻神社?)