古代鼠ヶ関址(こだいねずがせきあと)。
場所:山形県鶴岡市鼠ヶ関字原海45-1。JR羽越本線「鼠ヶ関」駅から線路沿いに南へ、約240m。駐車場スペースあり。
「鼠ヶ関」は、平安時代に「白河関」、「勿来関」とともに「奥羽三関」といわれた関の1つで、出羽国の日本海側の玄関口であった。「日本書紀」斉明天皇4年(658年)の記事により「都岐沙羅柵(つきさらのき)」という古代城柵があったことが知られるが、その所在地は不明で、「鼠ヶ関」付近とする説もある。江戸時代には、現・国道7号線「鶴岡市鼡ヶ関」交差点付近に「鼠ヶ関御番所」があり、明治5年に廃止されたが、大正13年頃に「念珠関址」として内務省指定史蹟に指定された。ところが、そこから南に約1km離れた場所で、昭和43年に行われた発掘調査により「古代鼠ヶ関址および同関戸生産遺跡」が発見された。すなわち、10~12世紀頃のものとされる軍事警察的な防御施設としての千鳥走行型柵列跡・建物跡(関)と、それを維持するための製鉄・製塩・土器窯跡などが出土した(昭和47年鶴岡市指定史跡)。このため、従来の「念珠関址」は、平成元年に「近世念珠関址」として鶴岡市指定史跡になった、というのが経緯らしい。
さて、「鼠ヶ関」の文献上の初見は、平安時代中期の歌人・能因法師の「能因歌枕」で、各国の名所を列挙している中に、出羽国の最初に「ねずみが関」とあるのがそれである、とされる。その他、詳細は省くが、軍記物語「保元物語」(成立:鎌倉時代?)には「念誦の関」、同じく「義経記」(成立:室町時代初期?)には「念珠の関」、史書「吾妻鏡」(成立:鎌倉時代末期頃)には「念種関」と表記されている。時代が下るが、俳人・松尾芭蕉の紀行文「おくのほそ道」では「鼠の関」としている。地名としては、明治22年の町村制施行により「山形県西田川郡念珠関村大字鼠ヶ関」、平成17年の市町村合併で「鶴岡市鼠ヶ関」になったという。「ネズ(ミ)」の語源については、①蝦夷の蔑称として「鼠」と称し、蝦夷の国に入る関の意味とする説、②十二支の「子(ネ)」は方位として「北」を意味し、最北の関とする説、③海岸の弁天島など小島が連なる様を念珠に例えたに因んだとする説、④関の付近は海岸線近くまで山の端が迫っており、「嶺隅(ねずみ)」または「根津(ねず)」という地形に因んだとする説などがあり、定説は無いようである。①、②の説にも魅力はあるが、昔から「鼠ヶ関」が天然の良港となっていたことからすれば、案外、「根津」説も有力なのではないかと思われる。
地形のことから言えば、現在では、「鼠ヶ関川」の河口はJR「鼠ヶ関」駅の北側にあるが、「古代鼠ヶ関址」や山形・新潟県境の位置を見ると、古代にはJR「鼠ヶ関」駅の南側に河口があったと思われる(因みに、「義経記」によれば、義経一行が「念珠の関」の木戸を通って出羽国に入り「はらかい」という場所に着いたとしているが、県境の北側に「原海(はらみ)」という地名が残っており、これが「はらかい」なら、「義経記」の記述に合うことになる。)。そうであれば、「古代鼠ヶ関址」~山形・新潟県境の辺りが正に山と川による自然の要害の場所であったことがよくわかる。
山形県鶴岡市観光連盟のHPから(古代鼠ヶ関址)
「旬鮮ねずがせき(山形県鶴岡市鼠ヶ関オフィシャルサイト)」HP
写真1:「古代鼠ヶ関址および同関戸生産遺跡」。石碑と説明板がある。
写真2:山形県・新潟県の県境標石碑。旧街道沿いに住宅が連続していて、県境があることを感じさせない。なお、この県境標の左側の道路の奥が「古代鼠ヶ関址および同関戸生産遺跡」のある場所。
写真3:「鼠ヶ関マリーナ」(「鼠ヶ関」駅の西、約250m)の道路向かいに建立された「源義経上陸の地」石碑
写真4:「弁天島」(「鼠ヶ関」駅の北西、約700m)。「厳島神社」が鎮座している。
写真5:「厳島神社」境内の「源義経碑」。NHK大河ドラマ「源義経」(昭和41年)に因み、原作者の村上元三氏の揮毫によるもの。
写真6:「近世念珠関址」(国道7号線「鶴岡市鼡ヶ関」交差点付近(北角))。「勧進帳の本家」という木碑もあるが、「鼠ヶ関」を越える際の関守とのやり取りが歌舞伎「勧進帳」を思わせることによるものらしい。ただし、「勧進帳」の場所設定は「安宅の関」(現・石川県小松市)とされている。
写真7:同上、「史蹟念珠関址」の石碑。内務省指定史蹟のときのもの。
場所:山形県鶴岡市鼠ヶ関字原海45-1。JR羽越本線「鼠ヶ関」駅から線路沿いに南へ、約240m。駐車場スペースあり。
「鼠ヶ関」は、平安時代に「白河関」、「勿来関」とともに「奥羽三関」といわれた関の1つで、出羽国の日本海側の玄関口であった。「日本書紀」斉明天皇4年(658年)の記事により「都岐沙羅柵(つきさらのき)」という古代城柵があったことが知られるが、その所在地は不明で、「鼠ヶ関」付近とする説もある。江戸時代には、現・国道7号線「鶴岡市鼡ヶ関」交差点付近に「鼠ヶ関御番所」があり、明治5年に廃止されたが、大正13年頃に「念珠関址」として内務省指定史蹟に指定された。ところが、そこから南に約1km離れた場所で、昭和43年に行われた発掘調査により「古代鼠ヶ関址および同関戸生産遺跡」が発見された。すなわち、10~12世紀頃のものとされる軍事警察的な防御施設としての千鳥走行型柵列跡・建物跡(関)と、それを維持するための製鉄・製塩・土器窯跡などが出土した(昭和47年鶴岡市指定史跡)。このため、従来の「念珠関址」は、平成元年に「近世念珠関址」として鶴岡市指定史跡になった、というのが経緯らしい。
さて、「鼠ヶ関」の文献上の初見は、平安時代中期の歌人・能因法師の「能因歌枕」で、各国の名所を列挙している中に、出羽国の最初に「ねずみが関」とあるのがそれである、とされる。その他、詳細は省くが、軍記物語「保元物語」(成立:鎌倉時代?)には「念誦の関」、同じく「義経記」(成立:室町時代初期?)には「念珠の関」、史書「吾妻鏡」(成立:鎌倉時代末期頃)には「念種関」と表記されている。時代が下るが、俳人・松尾芭蕉の紀行文「おくのほそ道」では「鼠の関」としている。地名としては、明治22年の町村制施行により「山形県西田川郡念珠関村大字鼠ヶ関」、平成17年の市町村合併で「鶴岡市鼠ヶ関」になったという。「ネズ(ミ)」の語源については、①蝦夷の蔑称として「鼠」と称し、蝦夷の国に入る関の意味とする説、②十二支の「子(ネ)」は方位として「北」を意味し、最北の関とする説、③海岸の弁天島など小島が連なる様を念珠に例えたに因んだとする説、④関の付近は海岸線近くまで山の端が迫っており、「嶺隅(ねずみ)」または「根津(ねず)」という地形に因んだとする説などがあり、定説は無いようである。①、②の説にも魅力はあるが、昔から「鼠ヶ関」が天然の良港となっていたことからすれば、案外、「根津」説も有力なのではないかと思われる。
地形のことから言えば、現在では、「鼠ヶ関川」の河口はJR「鼠ヶ関」駅の北側にあるが、「古代鼠ヶ関址」や山形・新潟県境の位置を見ると、古代にはJR「鼠ヶ関」駅の南側に河口があったと思われる(因みに、「義経記」によれば、義経一行が「念珠の関」の木戸を通って出羽国に入り「はらかい」という場所に着いたとしているが、県境の北側に「原海(はらみ)」という地名が残っており、これが「はらかい」なら、「義経記」の記述に合うことになる。)。そうであれば、「古代鼠ヶ関址」~山形・新潟県境の辺りが正に山と川による自然の要害の場所であったことがよくわかる。
山形県鶴岡市観光連盟のHPから(古代鼠ヶ関址)
「旬鮮ねずがせき(山形県鶴岡市鼠ヶ関オフィシャルサイト)」HP
写真1:「古代鼠ヶ関址および同関戸生産遺跡」。石碑と説明板がある。
写真2:山形県・新潟県の県境標石碑。旧街道沿いに住宅が連続していて、県境があることを感じさせない。なお、この県境標の左側の道路の奥が「古代鼠ヶ関址および同関戸生産遺跡」のある場所。
写真3:「鼠ヶ関マリーナ」(「鼠ヶ関」駅の西、約250m)の道路向かいに建立された「源義経上陸の地」石碑
写真4:「弁天島」(「鼠ヶ関」駅の北西、約700m)。「厳島神社」が鎮座している。
写真5:「厳島神社」境内の「源義経碑」。NHK大河ドラマ「源義経」(昭和41年)に因み、原作者の村上元三氏の揮毫によるもの。
写真6:「近世念珠関址」(国道7号線「鶴岡市鼡ヶ関」交差点付近(北角))。「勧進帳の本家」という木碑もあるが、「鼠ヶ関」を越える際の関守とのやり取りが歌舞伎「勧進帳」を思わせることによるものらしい。ただし、「勧進帳」の場所設定は「安宅の関」(現・石川県小松市)とされている。
写真7:同上、「史蹟念珠関址」の石碑。内務省指定史蹟のときのもの。