矢向神社(やむきじんじゃ)。
場所:山形県新庄市大字本合海881。国道47号線と国道458号線が合流する「新庄市本合海」交差点から西へ約800mのところにある側道で、高架道路の下へ下りる。最上川側(北側)に進むと、「本合海水辺プラザ」という小公園の駐車場がある。その東側の最上川左岸(南岸)に当神社の鳥居がある。社殿は最上川の対岸にあって、今は舟でしか登りロに向かう方法がなく、一般人のお参りは困難。
創建時期は不明だが、「日本三代実録」によれば、貞観16年(874年)に「矢向神」に従五位下の神階を授与したという記事があり、これが当神社のこととされている。当神社は「延喜式神名帳」には登載されていないが、「六国史」にみえる、いわゆる「国史現在社」ということになる。また、史書ではなく、軍記物語ではあるが、室町時代前期頃に成立したとされる「義経記」によれば、文治3年(1187年)、源頼朝に追われた源義経が最上川を遡り奥州・平泉に向かう途中、「矢向の大明神を伏し拝み奉り、会津の津に著き給ふ。」とあり、船上から当神社を拝し、現・新庄市本合海の新田川河口付近とされる「会津の津」に上陸したとされている。現在の祭神は日本武尊。
なお、当神社は最上川右岸(北岸)にある八向山(標高205m)の断崖の中腹にある。山頂には「八向楯」という中世(天正年間頃)の城跡(新庄市指定史跡)があり、当神社はその本丸南側の下に当たる。最上川が大きく蛇行を繰り返しているところで、流れも速く、当神社の崖下の水面が「矢向巻」といわれて水上交通の難所となっているという。こうしたから、船運の守り神として信仰されたものと思われる。
「もがみ観光博」のHPから(八向楯(矢向神社))
写真1:「本合海水辺プラザ」案内板。近くに現在も乗船場がある。江戸時代の俳人・松尾芭蕉も、この付近から船に乗って最上川を下ったらしい。
写真2:「矢向神社」鳥居。扁額は「矢向大明神」
写真3:鳥居横にある「本合海周辺の由来」石碑
写真4:最上川右岸(北岸)の「八向山」の断崖。中腹に少し朱色のものが見える。なお、訪問日は大雨の翌日で、最上川も増水していて迫力があった。
写真5:上の写真のズームアップ。これが「矢向神社」の社殿らしい。
場所:山形県新庄市大字本合海881。国道47号線と国道458号線が合流する「新庄市本合海」交差点から西へ約800mのところにある側道で、高架道路の下へ下りる。最上川側(北側)に進むと、「本合海水辺プラザ」という小公園の駐車場がある。その東側の最上川左岸(南岸)に当神社の鳥居がある。社殿は最上川の対岸にあって、今は舟でしか登りロに向かう方法がなく、一般人のお参りは困難。
創建時期は不明だが、「日本三代実録」によれば、貞観16年(874年)に「矢向神」に従五位下の神階を授与したという記事があり、これが当神社のこととされている。当神社は「延喜式神名帳」には登載されていないが、「六国史」にみえる、いわゆる「国史現在社」ということになる。また、史書ではなく、軍記物語ではあるが、室町時代前期頃に成立したとされる「義経記」によれば、文治3年(1187年)、源頼朝に追われた源義経が最上川を遡り奥州・平泉に向かう途中、「矢向の大明神を伏し拝み奉り、会津の津に著き給ふ。」とあり、船上から当神社を拝し、現・新庄市本合海の新田川河口付近とされる「会津の津」に上陸したとされている。現在の祭神は日本武尊。
なお、当神社は最上川右岸(北岸)にある八向山(標高205m)の断崖の中腹にある。山頂には「八向楯」という中世(天正年間頃)の城跡(新庄市指定史跡)があり、当神社はその本丸南側の下に当たる。最上川が大きく蛇行を繰り返しているところで、流れも速く、当神社の崖下の水面が「矢向巻」といわれて水上交通の難所となっているという。こうしたから、船運の守り神として信仰されたものと思われる。
「もがみ観光博」のHPから(八向楯(矢向神社))
写真1:「本合海水辺プラザ」案内板。近くに現在も乗船場がある。江戸時代の俳人・松尾芭蕉も、この付近から船に乗って最上川を下ったらしい。
写真2:「矢向神社」鳥居。扁額は「矢向大明神」
写真3:鳥居横にある「本合海周辺の由来」石碑
写真4:最上川右岸(北岸)の「八向山」の断崖。中腹に少し朱色のものが見える。なお、訪問日は大雨の翌日で、最上川も増水していて迫力があった。
写真5:上の写真のズームアップ。これが「矢向神社」の社殿らしい。