茨城廃寺跡(ばらきはいじあと)。
場所:茨城県石岡市貝地2-5071ほか。国道6号線と茨城県道118号線(石岡田伏土浦線)の「貝地」交差点から、県道を南東へ約650m、「コインランドリー」の向かい側に「親鸞聖人御旧跡」という石碑がある脇の道に入り(西へ)、突き当りを右折(北へ)、次の角を左折(西へ)、突き当りを右折(北へ)、約30mで説明板のある場所。駐車場なし。道路が狭く、入り組んでいるのでわかりにくい。
平安時代中期の承平年間(931~938年)に編纂された「和名類聚抄」によれば、常陸国の国府は「茨城郡に在り」と記載されている。古代の「茨城郡」は近世のそれよりも南に広がり、現在の茨城県の中央部にあって、現・石岡市が中心部であった。そして、「常陸国府跡」(2018年1月6日記事)は現・石岡市総社1丁目で発見されており、「茨城郡家(郡衙)」も国府の近くにあったとみられている。「常陸国風土記」の記述によれば、「茨城郡家」は、信筑川(しづくがわ、現・恋瀬川)が南西に流れ、東の高浜の海(現・霞ケ浦の恋瀬川河口付近)に注いでいる。東に10里(5~6km)の距離に、田余(たまり、現・小美玉市玉里)の里がある、という場所にあると読み取れる。そこで、「茨城郡家」は、現・石岡市田島~茨城付近と推定されているが、詳細な位置は未だ確定されていない。
さて、その「茨城郡家」の有力候補地として「外城遺跡」(石岡市貝地字外城)があるが、同じ台地の南辺にほぼ隣接して「茨城廃寺跡」という遺跡がある。古瓦の散布がみられることや礎石らしいものが多く存在したことなどから、古くから廃寺跡とみられていたが、昭和54年からの数次にわたる発掘調査によって伽藍配置が明らかになった。寺域は1町半(約160m)四方と推定され、その中に塔と金堂が東西に並び、北に講堂が位置する「法隆寺式」の伽藍配置で、「国分寺」に先行して7世紀後半頃に建立された初期寺院の遺構であるとされた。そして、出土物として瓦、仏像線刻瓦、硯、土師器、須恵器、貨幣(和同開珎)等が見つかっているが、特に重要なのは、「茨木寺」や「茨寺」と墨書された土器が発見されたことで、この寺院が郡名を冠していたことが明らかとなり、「茨城郡家」の付属寺院であることが確実になったとされる。もっとも、その墨書土器は9世紀頃のものと推定されており、創建当初から「茨木寺」という名であったかは不明であり、あるいは単に通称・俗称であった可能性もある。とはいえ、国司は中央政権からの派遣であるが、郡司はその地方の有力者が任命されることから、郡家付属寺院=郡司の氏寺であることから、郡名を冠した寺院を経営・維持することで、その郡司一族の権威を示す狙いもあったのだろうといわれている。
石岡市のHPから(茨城廃寺跡)
写真1:「茨城廃寺跡」説明板。なお、平成24年、石岡市有形文化財(史跡)に指定。
写真2:同上、境内跡と思われるが、現在は宅地・農地となっていて、「廃寺跡」を思わせるものはない。
写真3:「茨城廃寺礎石」説明板。「茨城廃寺跡」の説明板の南、約130m(直線距離)。「小目代公民館」(石岡市貝地2-17-8)の西側。
写真4:同上の後ろにある「礎石」。もちろん、元からここにあったものではない。なお、同様のものが「清凉寺」(石岡市国府6-2)境内などにもある。
写真5:「「茨城」の地名発祥の地」説明板。県道沿いにある「スーパーやまうち石岡店」の道路向かい。「常陸国風土記」の「茨城郡」の条で、黒坂命が茨で城(柵)を造って土蜘蛛を退治したという記述を引用している。
写真6:「きんちゃく石」。「萬福寺」(石岡市茨城1-21)の南西の畑の中。「茨城廃寺」の塔の露盤であるといわれているもの(1辺1.1mの御影石で、中央に丸い穴が開いている。)。因みに、「きんちゃく石」という名の由来は次の通り。昔、「龍神山」(現・石岡市村上)に茨城童子という大男が棲んでいて、時おり村里に下りてきて村人を捕まえて食べていた。茨城童子は、捕まえた村人を入れる大きな巾着袋を腰に下げており、その口を大きな石の根締めで括っていた。ある時、西の方の国から茨城童子を征伐に来るという噂が伝わり、それを聞いた茨城童子は恐れてどこかへ逃げ去った。その時、邪魔になった巾着袋を放り投げたが、その弾みで根締めの大石は「萬福寺」の辺りまで飛んできて畑にめり込んだ、という。
場所:茨城県石岡市貝地2-5071ほか。国道6号線と茨城県道118号線(石岡田伏土浦線)の「貝地」交差点から、県道を南東へ約650m、「コインランドリー」の向かい側に「親鸞聖人御旧跡」という石碑がある脇の道に入り(西へ)、突き当りを右折(北へ)、次の角を左折(西へ)、突き当りを右折(北へ)、約30mで説明板のある場所。駐車場なし。道路が狭く、入り組んでいるのでわかりにくい。
平安時代中期の承平年間(931~938年)に編纂された「和名類聚抄」によれば、常陸国の国府は「茨城郡に在り」と記載されている。古代の「茨城郡」は近世のそれよりも南に広がり、現在の茨城県の中央部にあって、現・石岡市が中心部であった。そして、「常陸国府跡」(2018年1月6日記事)は現・石岡市総社1丁目で発見されており、「茨城郡家(郡衙)」も国府の近くにあったとみられている。「常陸国風土記」の記述によれば、「茨城郡家」は、信筑川(しづくがわ、現・恋瀬川)が南西に流れ、東の高浜の海(現・霞ケ浦の恋瀬川河口付近)に注いでいる。東に10里(5~6km)の距離に、田余(たまり、現・小美玉市玉里)の里がある、という場所にあると読み取れる。そこで、「茨城郡家」は、現・石岡市田島~茨城付近と推定されているが、詳細な位置は未だ確定されていない。
さて、その「茨城郡家」の有力候補地として「外城遺跡」(石岡市貝地字外城)があるが、同じ台地の南辺にほぼ隣接して「茨城廃寺跡」という遺跡がある。古瓦の散布がみられることや礎石らしいものが多く存在したことなどから、古くから廃寺跡とみられていたが、昭和54年からの数次にわたる発掘調査によって伽藍配置が明らかになった。寺域は1町半(約160m)四方と推定され、その中に塔と金堂が東西に並び、北に講堂が位置する「法隆寺式」の伽藍配置で、「国分寺」に先行して7世紀後半頃に建立された初期寺院の遺構であるとされた。そして、出土物として瓦、仏像線刻瓦、硯、土師器、須恵器、貨幣(和同開珎)等が見つかっているが、特に重要なのは、「茨木寺」や「茨寺」と墨書された土器が発見されたことで、この寺院が郡名を冠していたことが明らかとなり、「茨城郡家」の付属寺院であることが確実になったとされる。もっとも、その墨書土器は9世紀頃のものと推定されており、創建当初から「茨木寺」という名であったかは不明であり、あるいは単に通称・俗称であった可能性もある。とはいえ、国司は中央政権からの派遣であるが、郡司はその地方の有力者が任命されることから、郡家付属寺院=郡司の氏寺であることから、郡名を冠した寺院を経営・維持することで、その郡司一族の権威を示す狙いもあったのだろうといわれている。
石岡市のHPから(茨城廃寺跡)
写真1:「茨城廃寺跡」説明板。なお、平成24年、石岡市有形文化財(史跡)に指定。
写真2:同上、境内跡と思われるが、現在は宅地・農地となっていて、「廃寺跡」を思わせるものはない。
写真3:「茨城廃寺礎石」説明板。「茨城廃寺跡」の説明板の南、約130m(直線距離)。「小目代公民館」(石岡市貝地2-17-8)の西側。
写真4:同上の後ろにある「礎石」。もちろん、元からここにあったものではない。なお、同様のものが「清凉寺」(石岡市国府6-2)境内などにもある。
写真5:「「茨城」の地名発祥の地」説明板。県道沿いにある「スーパーやまうち石岡店」の道路向かい。「常陸国風土記」の「茨城郡」の条で、黒坂命が茨で城(柵)を造って土蜘蛛を退治したという記述を引用している。
写真6:「きんちゃく石」。「萬福寺」(石岡市茨城1-21)の南西の畑の中。「茨城廃寺」の塔の露盤であるといわれているもの(1辺1.1mの御影石で、中央に丸い穴が開いている。)。因みに、「きんちゃく石」という名の由来は次の通り。昔、「龍神山」(現・石岡市村上)に茨城童子という大男が棲んでいて、時おり村里に下りてきて村人を捕まえて食べていた。茨城童子は、捕まえた村人を入れる大きな巾着袋を腰に下げており、その口を大きな石の根締めで括っていた。ある時、西の方の国から茨城童子を征伐に来るという噂が伝わり、それを聞いた茨城童子は恐れてどこかへ逃げ去った。その時、邪魔になった巾着袋を放り投げたが、その弾みで根締めの大石は「萬福寺」の辺りまで飛んできて畑にめり込んだ、という。