府中愛宕山古墳(ふちゅうあたごやまこふん)。舟塚山古墳群6号墳。
場所:茨城県石岡市北根本693ほか。国道6号線と茨城県道118号線(石岡田伏土浦線)の「貝地」交差点から、県道を南下、約2.3km。県道沿いに「見学者用駐車場」がある。そこから、直ぐ手前(北西)のところに「史跡 舟塚山古墳」の石碑があり、その向かい側の道路に入り(北東へ)、約70m。なお、JR常磐線「高浜」から徒歩約11分(約900m)。
「府中愛宕山古墳」は、「舟塚山古墳」(前項)の北西、約300mに位置する前方後円墳で、舟塚山古墳群41基(うち19基は隠滅)の中で2番目の規模。墳丘長96.6m、後円部径約57m、前方部約57m、後円部高8.5mの大きさで、周濠が認められ、その幅は後円部側で約16m、前方部側で約24mとされる。近くまで民家が迫り、昭和45年には削平して全て宅地化される計画もあったが、石岡市によって買収・保存されることになり、昭和46年に茨城県指定史跡に指定された。明治30年に東京大学の坪井正五郎博士が発掘調査を行い、無文素焼の壷7個を発見したが、内部構造については確認されていない。昭和54年の周溝確認発掘調査により古墳の規模が明らかになったほか、円筒埴輪や象形埴輪片が出土した。また、墳形は「誉田御廟山古墳(応神天皇陵)」(大阪府羽曳野市)に類似している、とのこと。築造年代は、「舟塚山古墳」よりも古いとされた時期もあったが、現在では、「舟塚山古墳」に続く6世紀初め頃と推定されている。被葬者は不明であるが、「舟塚山古墳」の被葬者に次ぐ地位にあった有力者とみられている。なお、霞ヶ浦に注ぐ恋瀬川河口に近い位置にあり、前方後円墳の形を船になぞらえて、「府中愛宕山古墳」を霞ヶ浦に乗り出す「出船」、「舟塚山古墳」を「入船」と称する、という。
石岡市のHPから(府中愛宕山古墳)
写真1:「府中愛宕山古墳」。県道から狭い道に入るとすぐに、後円部の横に着く。墳丘は南向き。
写真2:上り口のところに説明板が立てられている。
写真3:後円部。北側から見る。
写真4:南側の括れ部分には民家が迫っている。
写真5:後円部から前方部を見る。かなり削られているようだ。
写真6:前方部から後円部を見る。
場所:茨城県石岡市北根本693ほか。国道6号線と茨城県道118号線(石岡田伏土浦線)の「貝地」交差点から、県道を南下、約2.3km。県道沿いに「見学者用駐車場」がある。そこから、直ぐ手前(北西)のところに「史跡 舟塚山古墳」の石碑があり、その向かい側の道路に入り(北東へ)、約70m。なお、JR常磐線「高浜」から徒歩約11分(約900m)。
「府中愛宕山古墳」は、「舟塚山古墳」(前項)の北西、約300mに位置する前方後円墳で、舟塚山古墳群41基(うち19基は隠滅)の中で2番目の規模。墳丘長96.6m、後円部径約57m、前方部約57m、後円部高8.5mの大きさで、周濠が認められ、その幅は後円部側で約16m、前方部側で約24mとされる。近くまで民家が迫り、昭和45年には削平して全て宅地化される計画もあったが、石岡市によって買収・保存されることになり、昭和46年に茨城県指定史跡に指定された。明治30年に東京大学の坪井正五郎博士が発掘調査を行い、無文素焼の壷7個を発見したが、内部構造については確認されていない。昭和54年の周溝確認発掘調査により古墳の規模が明らかになったほか、円筒埴輪や象形埴輪片が出土した。また、墳形は「誉田御廟山古墳(応神天皇陵)」(大阪府羽曳野市)に類似している、とのこと。築造年代は、「舟塚山古墳」よりも古いとされた時期もあったが、現在では、「舟塚山古墳」に続く6世紀初め頃と推定されている。被葬者は不明であるが、「舟塚山古墳」の被葬者に次ぐ地位にあった有力者とみられている。なお、霞ヶ浦に注ぐ恋瀬川河口に近い位置にあり、前方後円墳の形を船になぞらえて、「府中愛宕山古墳」を霞ヶ浦に乗り出す「出船」、「舟塚山古墳」を「入船」と称する、という。
石岡市のHPから(府中愛宕山古墳)
写真1:「府中愛宕山古墳」。県道から狭い道に入るとすぐに、後円部の横に着く。墳丘は南向き。
写真2:上り口のところに説明板が立てられている。
写真3:後円部。北側から見る。
写真4:南側の括れ部分には民家が迫っている。
写真5:後円部から前方部を見る。かなり削られているようだ。
写真6:前方部から後円部を見る。