髙田神社(たかだじんじゃ)。通称:高田権現、権現さま。
場所:茨城県稲敷市高田1348。茨城県道103号線(江戸崎下総線)から同107号線(江戸崎神崎線)に入り、東に約800m。駐車場あり(ただし、進入路が狭いので注意。)。
社伝によれば、承平年間(931~937年)、朱雀天皇の命により「平将門の乱」平定祈願のため紀伊国(現・和歌山県)「熊野権現」(熊野三山の神社)から分霊を勧請して創建された。そのとき、13人の僧侶・修験が当地に来住して、社僧となって奉仕し、現在もその子孫が続いているという。 堀河天皇の寛治年間(1087~1093年)、鳥羽天皇の永久年間(1113~1118年)のときに奉幣を受け、勅願所として信太郡東條庄第一の総鎮守として崇敬された。文治・建久年間(1185~1199年)、源頼朝が奥州征伐のとき祈願して東條庄500町歩を寄進した。しかし、延元3年(1338年)、南朝方の北畠親房が「神宮寺城」(当神社の東、約2.3km)に籠城した際、当神社の神主等が味方したため、北朝方の常陸国守護・佐竹義篤らに攻められ、社領全てを奪われた。江戸時代には、慶長7年(1602年)に徳川家康から社領257石の朱印地を寄進されるなど庇護され、氏子は33ヵ村に及び、明治4年には郷社に列せられた。享保18年(1733年)に建立された社殿があったが、平成2年に焼失、平成9年に再建された。現在の祭神は、伊邪奈伎命(イザナギ)、伊邪那美命(イザナミ)、熊野神王櫛御食野命(クシミケヌ。素戔男尊(スサノオ)の別名)など8柱。
茨城県神社庁のHPから(髙田神社)
写真1:「髙田神社」一の鳥居と社号標。鳥居は、「冠木門型」という人もいるが、非常に珍しいものと思われる。
写真2:参道。当神社周辺の森林は、茨城県の自然環境保全地域に指定されている。
写真3:二の鳥居と春日燈籠
写真4:拝殿
写真5:本殿
写真6:本殿背後にある「奥宮」
写真7:末社十八柱
写真8:奉献碑(「高田大権現」)
場所:茨城県稲敷市高田1348。茨城県道103号線(江戸崎下総線)から同107号線(江戸崎神崎線)に入り、東に約800m。駐車場あり(ただし、進入路が狭いので注意。)。
社伝によれば、承平年間(931~937年)、朱雀天皇の命により「平将門の乱」平定祈願のため紀伊国(現・和歌山県)「熊野権現」(熊野三山の神社)から分霊を勧請して創建された。そのとき、13人の僧侶・修験が当地に来住して、社僧となって奉仕し、現在もその子孫が続いているという。 堀河天皇の寛治年間(1087~1093年)、鳥羽天皇の永久年間(1113~1118年)のときに奉幣を受け、勅願所として信太郡東條庄第一の総鎮守として崇敬された。文治・建久年間(1185~1199年)、源頼朝が奥州征伐のとき祈願して東條庄500町歩を寄進した。しかし、延元3年(1338年)、南朝方の北畠親房が「神宮寺城」(当神社の東、約2.3km)に籠城した際、当神社の神主等が味方したため、北朝方の常陸国守護・佐竹義篤らに攻められ、社領全てを奪われた。江戸時代には、慶長7年(1602年)に徳川家康から社領257石の朱印地を寄進されるなど庇護され、氏子は33ヵ村に及び、明治4年には郷社に列せられた。享保18年(1733年)に建立された社殿があったが、平成2年に焼失、平成9年に再建された。現在の祭神は、伊邪奈伎命(イザナギ)、伊邪那美命(イザナミ)、熊野神王櫛御食野命(クシミケヌ。素戔男尊(スサノオ)の別名)など8柱。
茨城県神社庁のHPから(髙田神社)
写真1:「髙田神社」一の鳥居と社号標。鳥居は、「冠木門型」という人もいるが、非常に珍しいものと思われる。
写真2:参道。当神社周辺の森林は、茨城県の自然環境保全地域に指定されている。
写真3:二の鳥居と春日燈籠
写真4:拝殿
写真5:本殿
写真6:本殿背後にある「奥宮」
写真7:末社十八柱
写真8:奉献碑(「高田大権現」)