鹿島神社(かしまじんじゃ)。
場所:茨城県鉾田市鳥栖1369。旧・茨城県道18号線(鉾田鹿島線)「下富田」交差点から南東へ約1.1km(関鉄グリーンバス「鳥栖」バス停、火の見櫓があるところ)の角。交差点を右折(西へ)して約100mのところに鳥居がある。駐車場なし。
社伝によれば、浄土真宗の宗祖・親鸞聖人に深く帰依し、その第三番弟子となった順信(常陸国一宮「鹿島神宮」大宮司家の出身)が、建保2年(1214年)に現・鉾田市鳥栖の「無量寿寺」住職となったとき、「常陸国風土記」行方郡の条に見える当地の「佐伯(土着の原住民)の鳥日子(トリヒコ)」の館跡に鹿島大神を奉斎したという。旧社格は村社(明治15年)。現在の祭神は、武甕槌命・経津主命・日本武尊・岐神。
さて、当神社の社殿を見ると、拝殿の背後に、横に長い屋根の下に3つの本殿が並んでいる形となっている。これは、中央が「鹿島社」(祭神:武甕槌命)、右が「香取社」(祭神:経津主命)、左が「息栖社」(祭神:岐神)であるという。「常陸国風土記」行方郡の条には当麻之郷に「2つの神子の社」がある、との記述があり、これが「鹿島神宮」と「香取神宮」の分祠であるということに異論はないものの、それぞれの神社があったのか、2神を祀る1つの神社があったのかは不明とされている。現・鉾田市当間に「鹿島神社」(前々項)、同・野友に「香取神社」(前項)があり、それぞれ有力候補となっているが、当神社が2神を祀る1つの神社として有力候補とされることがある。上記の通り、当地の鳥栖(とりのす)という地名は「常陸国風土記」の「鳥日子」の居住地ということに因んだものとされ、当神社の鎮座地の字名は西鳥日子となっている。いかにもそれらしいが、いくつか問題点がある。①当間「鹿島神社」の項でも書いたが、かつては巴川が行方郡と鹿島郡の郡境になっていて、当地が巴川の左岸(東岸)にあって鹿島郡に属したのではないか、という問題。ただし、古代の郡境の問題は難しく、これは何とも言えない。②日本武尊が当麻之郷を征圧したことの証としてヤマト政権側の神社を建立したというのは有り得ることだが、「常陸国風土記」にはそのような記述はない。③「常陸国風土記」の原本は残っていないが、写本はいくつかあり、そのいずれも「鳥日子」ではなく、「烏日子(からすひこ、又は、うひこ)」となっている。これを誤字とする根拠は乏しいようであり、「烏日子」の方が正しいとすると、地名の起源譚としてどうかということにつながる。④(4柱の祭神に対して3つの本殿というところは、さて措くとして)3つの本殿は所謂「東国三社」とされるもので、「お伊勢参りの禊ぎの三社参り」として、江戸時代には関東以北の人々が「伊勢神宮」参拝後にこの3社を巡拝することが流行したという。また、「茨城縣神社誌」によれば、大正8年に村内の香取・息栖・白旗の各神社を合併しているので、3つの本殿はこの時以来のものかとも思われる。
なお、浄土真宗の僧・順信については次項で触れることにしたい。
写真1:「鹿島神社」鳥居と社号標(「村社 鹿嶋神社」)
写真2:木々のトンネルを抜けると、境内。
写真3:拝殿
写真4:本殿。横に長い建物
写真5:同上。3つの本殿が屋根を共有している。
写真6:境内社「大杉神社」鳥居
写真7:同上、社殿。旧県道に面しており、社殿も大きいので、こちらの方が目立つ。
場所:茨城県鉾田市鳥栖1369。旧・茨城県道18号線(鉾田鹿島線)「下富田」交差点から南東へ約1.1km(関鉄グリーンバス「鳥栖」バス停、火の見櫓があるところ)の角。交差点を右折(西へ)して約100mのところに鳥居がある。駐車場なし。
社伝によれば、浄土真宗の宗祖・親鸞聖人に深く帰依し、その第三番弟子となった順信(常陸国一宮「鹿島神宮」大宮司家の出身)が、建保2年(1214年)に現・鉾田市鳥栖の「無量寿寺」住職となったとき、「常陸国風土記」行方郡の条に見える当地の「佐伯(土着の原住民)の鳥日子(トリヒコ)」の館跡に鹿島大神を奉斎したという。旧社格は村社(明治15年)。現在の祭神は、武甕槌命・経津主命・日本武尊・岐神。
さて、当神社の社殿を見ると、拝殿の背後に、横に長い屋根の下に3つの本殿が並んでいる形となっている。これは、中央が「鹿島社」(祭神:武甕槌命)、右が「香取社」(祭神:経津主命)、左が「息栖社」(祭神:岐神)であるという。「常陸国風土記」行方郡の条には当麻之郷に「2つの神子の社」がある、との記述があり、これが「鹿島神宮」と「香取神宮」の分祠であるということに異論はないものの、それぞれの神社があったのか、2神を祀る1つの神社があったのかは不明とされている。現・鉾田市当間に「鹿島神社」(前々項)、同・野友に「香取神社」(前項)があり、それぞれ有力候補となっているが、当神社が2神を祀る1つの神社として有力候補とされることがある。上記の通り、当地の鳥栖(とりのす)という地名は「常陸国風土記」の「鳥日子」の居住地ということに因んだものとされ、当神社の鎮座地の字名は西鳥日子となっている。いかにもそれらしいが、いくつか問題点がある。①当間「鹿島神社」の項でも書いたが、かつては巴川が行方郡と鹿島郡の郡境になっていて、当地が巴川の左岸(東岸)にあって鹿島郡に属したのではないか、という問題。ただし、古代の郡境の問題は難しく、これは何とも言えない。②日本武尊が当麻之郷を征圧したことの証としてヤマト政権側の神社を建立したというのは有り得ることだが、「常陸国風土記」にはそのような記述はない。③「常陸国風土記」の原本は残っていないが、写本はいくつかあり、そのいずれも「鳥日子」ではなく、「烏日子(からすひこ、又は、うひこ)」となっている。これを誤字とする根拠は乏しいようであり、「烏日子」の方が正しいとすると、地名の起源譚としてどうかということにつながる。④(4柱の祭神に対して3つの本殿というところは、さて措くとして)3つの本殿は所謂「東国三社」とされるもので、「お伊勢参りの禊ぎの三社参り」として、江戸時代には関東以北の人々が「伊勢神宮」参拝後にこの3社を巡拝することが流行したという。また、「茨城縣神社誌」によれば、大正8年に村内の香取・息栖・白旗の各神社を合併しているので、3つの本殿はこの時以来のものかとも思われる。
なお、浄土真宗の僧・順信については次項で触れることにしたい。
写真1:「鹿島神社」鳥居と社号標(「村社 鹿嶋神社」)
写真2:木々のトンネルを抜けると、境内。
写真3:拝殿
写真4:本殿。横に長い建物
写真5:同上。3つの本殿が屋根を共有している。
写真6:境内社「大杉神社」鳥居
写真7:同上、社殿。旧県道に面しており、社殿も大きいので、こちらの方が目立つ。