神が宿るところ

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光明山 無碍光院 無量壽寺

2023-08-19 23:33:44 | 寺院
光明山 無碍光院 無量壽寺(こうみょうさん むげこういん むりょうじゅじ)。
茨城県鉾田市に、山号・院号・寺号が全く同じ寺院が2つあって紛らわしい。そこで、鉾田市鳥栖にある寺院を「鳥栖無量壽寺」、同市富田にある寺院を「富田無量壽寺」と通称している。
「鳥栖無量壽寺」の場所:茨城県鉾田市鳥栖1013。茨城県道18号線(茨城鹿島線)(旧道)の「下富田」交差点から県道を南東~南に約2km。駐車場有り。
「富田無量壽寺」の場所:茨城県鉾田市下富田542。茨城県道18号線(茨城鹿島線)(旧道)の「下富田」交差点から県道を西へ約750m。駐車場有り。
それぞれの寺院で寺伝に若干の相違があるが、まとめて書けば、概ね次の通り。大同元年(806年)、平城天皇の勅願により三論宗の寺院として開基。元久元年(1204年)に頓阿という僧が住持となって禅宗に改められ、観世音菩薩を本尊として「無量寺」と称していた。ところが、その後、当地の領主(地頭)・村田刑部少輔平高時の妻が19才で他界して当寺院に葬られたが、我が子愛おしさのために幽霊となって毎夜現れるようになり、寺僧も逃げ去り、廃寺のようになってしまった。困った村人たちは、親鸞聖人が「鹿島神宮」へ参詣するため近辺を通ることを知って、幽霊を鎮めてもらうよう願った。親鸞は小石に浄土三部経の2万6千6百余の文字を一石一字書写し(一字一石経)、塚(墓)に埋めた。その夜、村人たちの夢にその女人(幽霊)が現れ、極楽往生できたと言って西へ飛び去ったという(所謂「幽霊済度」)。親鸞は承久3年(1221年)から3年間滞在し、自ら阿弥陀如来(無量寿仏)の像を刻んで本尊とし、この本尊に因んで寺号を「無量壽寺」と改めた。当地での布教の後、当寺院は弟子の順信房信海に託された。順信房は常陸国一宮「鹿島神宮」の大中臣宮司家系の出身の僧侶で、「鳥栖無量壽寺」伝では宮司の片岡尾張守藤原信親とするが、「富田鳥栖無量壽寺」伝ではその一子・信弘とする。また、「富田鳥栖無量壽寺」の前身は、巴川畔の「塔の峰(塔山)」という場所にあった親鸞の草庵だったとするのが違いである。いずれにせよ、順心坊は親鸞の二十四輩第三(24人の直弟子のうち第3番)とされ、「鹿島門徒」と呼ばれる当地を中心とした布教のリーダーとなったという。現在、「鳥栖無量壽寺」は浄土真宗本願寺派に属し、本尊は阿弥陀如来。「富田無量壽寺」は真宗大谷派に属し、本尊は阿弥陀如来。
蛇足:「富田無量壽寺」伝によれば、親鸞が現・笠間市稲田に在住していた頃、説法を受ける人々の中に熱心に聞き入る白髪の老人がいた。その老人が弟子入りを願い出たため、「釈信海」という法名を授けた。後日、この老人が鹿島明神の化身であったという話が広まり、これを耳にした宮司・片岡信親が社殿の戸帳を開いてみると、そこに「信海」という法名が書かれていたという。これに感じ入った信親が子息の信弘を親鸞に弟子入りさせたという。つまり、信海というのは、仏教(浄土真宗)に帰依した鹿島明神の法名ということになっている。


写真1:「無量寿寺(鳥栖)」境内入口。門に「親鸞聖人旧跡 無量寿寺」とある。また、「茨城百景 無量寿寺」の石碑も建てられている。


写真2:同上、山門


写真3:同上、鐘楼


参考画像:同上、(焼失前の)本堂。宝永3年(1706年)頃に再建されたもので、茨城県指定文化財(建造物)だったが、2021年1月に火災に遭い焼失。


写真4:同上、親鸞聖人像


写真5:同上、菩提樹(ボダイジュ)。幹囲約2.25m・樹高約8m・根回り約6.6m、樹齢約600年とされる(ただし、主幹は既に枯死している。)。親鸞聖人お手植えとされ、伝承では、親鸞聖人が撒いた念珠から育ったものという。茨城県指定文化財(天然記念物)。


写真6:同上、斑入り銀杏(イチョウ)。葉に白い斑(ふ)が入ったイチョウは珍しいらしい(葉が無いときの写真で申し訳ありません。)。鉾田市指定文化財(天然記念物)。


写真7:同上、焼け榧(カヤ)。親鸞聖人が焼いた榧の実を播いたのが育ったもので、半分黒く焦げたような実を付けることから「焼け榧」と呼ばれている。これも鉾田市指定文化財(天然記念物)。


写真8:「無量寿寺(下富田)」境内入口。寺号標は「親鸞聖人旧跡地 二十四輩第三番 富田 無量壽寺」。


写真9:同上、極楽之要門


写真10:同上、親鸞聖人像


写真11:同上、本堂
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