神が宿るところ

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薬王山 長楽寺(茨城県石岡市)

2024-03-16 23:32:53 | 寺院
薬王山 長楽寺(やくおうさん ちょうらくじ)。別名:狢内薬師寺。
場所:茨城県石岡市龍明640。石岡市の通称・フルーツラインと茨城県道64号線(土浦笠間線)の「宇治会」交差点の南西直ぐの道路(コンビニ「セイコーマート 石岡宇治会店」の向かい側)に入り、西へ約1.3kmで「龍明公民館」があり、その駐車スペースに自動車は駐車させていただく。そこから更に西へ約220m進む(結構な上り坂)と、右に曲がっていく角にカーヴミラーがあるところの狭い道を直進する。約50mで境内への石段がある。
寺伝によれば、天長元年(824年)の創建で、当初は「滝本坊」と称したが、慶長10年(1605年)に「薬王山 長楽寺」に改めた。元は100m程下にあったのを、現在地に移したという。江戸時代の寺領は15石。本尊は薬師如来で、十二神将もあり、それらは室町時代~江戸時代初期のものとされる。真言宗豊山派に属するが、現在の堂宇は、本堂(薬師堂)と仁王門しかなく、境内に近代の人工物が何もないため時代劇の撮影場所として、よく利用されているとのこと。
現在の地名(大字)は「龍明(りゅうめい)」だが、平成17年、(旧)石岡市と八郷町が合併したときに「狢内(むじなうち)」から改称した。ムジナというのは、関東ではタヌキやアナグマの総称とされるので、イメージが悪いとされたのかもしれない。ただし、「八郷町の地名」(関肇編集)によれば、獣のムジナではなく、「毟り取る(むしりとる)」の転訛で、沢が流れを変える(そこで土を削り取る)場所という意味だろうというようなことが書かれている。あるいは、「滝本坊」という当寺院の旧名が示すように、流れが速い川でもあったのかもしれない。当集落は足尾山の東麓に当たるが、龍明は元々、足尾山から伸びた北側の稜線上に位置する地名(小字)で、それを大字にしたらしい。集落としては、14世紀中頃、宇治会二条山館の領主・路川氏が佐竹氏に追われて足尾山麓に隠退させられたことによってできたとされるが、薬師如来像や本堂(薬師堂)の様式感は、その頃のものを伝えているように思われる。
なお、江戸時代後期の国学者・平田篤胤が神仙界で修行したという少年・寅吉からの聞き書きをまとめた「仙境異聞」には、寅吉の話として、「常陸国の岩間山」(現・茨城県笠間市の愛宕山。「飯綱神社」(2018年12月15日記事)参照)には十三天狗がいるが、元は、十二天狗だった。狢打村の長楽寺に真言僧がいて、仏道修行している折、釈迦如来の迎えがあってついていったところ、実は岩間山天狗が化けたもので、その僧を仲間に加えて十三天狗になった。寅吉の師である杉山僧正(すぎやまそうしょう)は、この岩間山十三天狗の一柱である。」というような記述がある。篤胤は、あちこち尋ねて、細川長門守の家臣・岸小平治の親族から、同様の話が存在することを確認している。この岸小平治という人物は、天狗になった「長楽寺」の僧と懇意な交流があったらしい。因みに、伝説(民話)では、この「長楽寺」の僧は修験者で、老母と住んでいた。ある日、母から、日本一の祇園祭という津島の「祇園」(現・愛知県津島市の「津島神社」)を見たいと言われ、母に目隠しをさせて背負って飛び、津島の「祇園」に連れて行った。帰ってくると、流石に疲れたらしく、絶対に開けて見るなと言って奥の座敷に籠ってしまった。夕刻になっても出てこない息子を心配して、母が座敷のふすまを開けて見ると、息子は座敷一杯に大きな羽を広げて寝ていた。その姿を見られた息子は、もうここには居られないといって、姿を消してしまった。これが「長楽寺」の天狗だという、というようなことになっている(かなり要約。民話なので、他のヴァリエーションあり。)。


写真1:「長楽寺」参道、石段。苔むした手洗石が良い感じ。


写真2:仁王門


写真3:金剛力士像(吽形)


写真4:本堂(薬師堂)


写真5:同上


写真6:石仏など


写真7:同上


写真8:廻国塔


写真9:宝篋印塔


写真10:イズナ祠(天狗社)? 本堂左手を少し上ったところにある。かつては天狗像があり、村に疫病が流行ったとき、その像を背負い村中を廻って祈願したところ、忽ち病人が回復したという伝説もある。

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