神が宿るところ

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木倉観音堂

2025-02-08 23:31:26 | 寺院

木倉観音堂(きぐらかんのんどう)。
場所:千葉県野田市目吹1414付近。千葉県道3号線と同7号線の「野田市目吹」交差点から東に約950m、コンビニ「ファミリーマート野田目吹店」の角を右折(南西へ)、約650mで右折(西へ)、約160m(制限時速30kmの狭い道路につき注意。)。駐車場あり。
「木倉観音堂」は、伝承によれば、永禄年間(1558~1570年)頃に当地の領主となった近江源氏の一族・佐々木義信が馬頭観音像を祀ったのを創建とする。義信は、寿永3年(1184年)、源頼朝が木曽義仲を追討した「宇治川の戦い」において、有名な先陣争いを行った佐々木高綱の12世孫とされる。「宇治川先陣争い」では、「生唼(いけづき)」という名馬を与えられた佐々木高綱と同じく「磨墨(するすみ)」を与えられた梶原景季が、雪解け水で増水した宇治川をどちらが先に渡るかで争ったもので、結局、佐々木高綱が先陣の栄誉を得た(「幸主名馬尊」(2024年10月26日記事)参照)。佐々木氏は宇多源氏の一族で、近江国佐々木庄(現・滋賀県近江八幡市)を本貫地とするが、高綱の屋敷は現・神奈川県横浜市港北区鳥山町の「鳥山八幡宮」付近にあったとされ、その近くにある「馬頭観音堂」に愛馬「生唼」が祀られているという。さて、当地の伝説では、佐々木義信は源氏の嫡流を任じていたため、平氏を自称する織田信長との同盟を断って、近江国から領地であった下総国目吹郷に移り、鎌倉権五郎景政が築いたという「目吹城」を改修して居館とした。義信は「生唼」の鞍を家宝としていたが、ある夜、夢枕に先祖の高綱の霊が現れて「鞍を重宝とし、城のほとりに馬頭観音を安置せよ」とのお告げがあった。翌日、祈りをあげていると馬頭観音像が出現し、これを祀ったのが「木倉観音堂」である。そして、「木倉」というのは、「木の鞍」が転化したものだとされている。なお、義信は源氏である甲斐武田氏(甲斐武田氏は、八幡太郎源義家の弟・新羅三郎源義光の後裔である。)に従っていたが、武田勝頼が天正10年(1582年)に敗死し、武田氏が滅ぶと、義信も無常を感じて出家し、下総国猿島郡小山村「佐々木寺」(現・茨城県坂東市、真言宗智山派「佐々木寺 醫王山 地蔵院」)に隠棲したという。
蛇足:「源平合戦」は、治承4年(1180年)~元暦2年(1185年)、源頼朝を中心とする武士集団による平清盛が築いた平氏政権に対する反乱で、最終的に頼朝方が勝って鎌倉幕府を開く。ただし、「源平合戦」とはいうが、単純に源氏と平氏の戦いというわけではないため、現在では「治承・寿永の乱」と称するようになっている。そもそも、頼朝の妻・北条政子や、その後鎌倉幕府執権職を世襲した北条氏一族は平氏を自称していた(実際の家系は不明なことも多いようだが。)。また、頼朝方の武士集団の中心は「坂東八平氏」といわれた上総氏・千葉氏・三浦氏・梶原氏など関東地方に根付いた桓武平氏の一族だった。もちろん、清盛方に源氏一族もおり、有名なのは佐竹氏(新羅三郎源義光の後裔)だろう。このことからすると、佐々木義信が源氏・平氏について、そこまで拘った理由はよくわからない。むしろ「源平合戦」という言葉に固定観念を持った後世の物語作者による伝説ではないかとも思われる。


野田市観光協会のHPから(木倉観音)

真言宗豊山派「花光院」(「中高山 花光院 城遍寺」)のHPから:「木倉観音」についての解説がある。


写真1:「木倉観音堂」。堂本尊:馬頭観音。


写真2:十九夜塔など


写真3:大師堂。中郷新四国八十八ヶ所霊場第55番札所。なお、「花光院」(住所:千葉県野田市目吹473)が第56番札所になっている。

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