神が宿るところ

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鶴ヶ居不動堂

2023-03-18 23:31:16 | 寺院
鶴ヶ居不動堂(つるがいふどうどう)。日本武尊霊蹟鶴ヶ居不動。
場所:茨城県行方市山田。茨城県道2号線(水戸鉾田佐原線)「小船津十字路」の北西角。駐車場なし。
「常陸国風土記」行方郡の条に、「当麻(たぎま)の郷の南に、芸都(きつ)の里がある。昔、国栖(くず。土着の先住民)の寸津毘古・寸津毘売(キツヒコ・キツヒメ)という者がいた。・・・」(現代語訳)という記述がある。例によって、その土地の先住民の長らしき人物が地名の発祥となっている話だが、この後、寸津毘古は倭武天皇(日本武尊)に逆らって無礼な態度を示したため、忽ち切り殺される。寸津毘売は、小抜野(おぬきの)の仮宮に姉妹を引き連れて行き、真心を込めて奉仕した、というような内容が続く。「芸都」は、「和名類聚抄」(平安時代中期頃成立)の常陸国行方郡に「芸都郷」が見え、現・行方市内宿周辺の地域に比定されている。その比定については異論はないのだが、内宿の化蘇沼(けそぬま)地区(文明10年(1478年)創建という「化蘇沼稲荷神社」がある。)が遺称地とされるのは、どういう転訛なのだろうか。
さて、その行方市の内宿と山田の境付近に「鶴ヶ居不動」という小さな仏堂がある。伝承によれば、この付近に寸津毘古の住処があったとされる。寸津毘古は日本武尊に斬り殺されたが、その屍を葬ったところに、剣を納めて幽魂を鎮めた。その後、不動明王像が祀られ、「奉納 日本武尊」と墨書した木製の剣を奉納して、悪事災難除けを願うようになった。これを「換剣の行事」といって、正月28日に奉納された木剣を借り受けて神棚や仏壇に飾り、翌年、新しく作った剣を添えてお返しするという。なお、堂の横の石碑は、昭和15年に建立された「日本武尊霊蹟碑」である。昭和15年は神武天皇即位紀元2600年に当たり、日本武尊の事蹟を顕彰することによって、皇室に対する奉祝と国威発揚を企図したものと思われる。
なお、当地が寸津毘古らの住んでいた場所という確定はできないが、当地の南、約800mのところに「鶴ヶ居貝塚」という遺跡があって、縄文時代~古墳時代の集落跡も発見されているところから、古代にも集落があった可能性は高いと思われる。


写真1:「鶴ヶ居不動堂」


写真2:「日本武尊霊蹟」碑
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2 コメント

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茨城。 (綱永井寵生)
2023-03-21 21:06:34
茨城県の「茨城」は蝦夷の城を意味していますね。多分、佐伯氏だと思いますが。

私は福島県いわき市出身、宮城県仙台市在住ですが、両県とも白鳥信仰の地です。

昔の住人は鳥を非常に恐れていました。触っただけで疱瘡になって死ぬと恐れていました。

白石城の片倉氏の書には「一揆がおきても槍の先に鳥の羽を付ければ、一揆衆は恐れて逃げていく」と書かれています。

疱瘡神を畏怖する蝦夷の信仰とヤマトタケルが結びついたと考えられます。
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Unknown (ブログ)
2023-03-21 22:30:10
綱永井寵生様
「常陸国風土記」茨城郡の条によれば、黒坂命が茨棘(うばら)を佐伯の住処に仕掛けた、あるいは、茨の城を作って佐伯を制圧したというところから、「茨城」という地名になったという説話を載せています。ここでいう「城」は、「柵」であろうかと思います。秋田県には「払田柵跡」(当ブログ2015年11月28日記事)があり、少し大規模かとも思いますが、イメージは近いかもしれません。「常陸国風土記」では日本武尊を倭武天皇と称しています。日本武尊が実在の人物か、常陸国に来たのか、それはわかりませんが、ヤマト政権が北へ向かって征圧を進めていったことは確かでしょう。「常陸国風土記」の地名発祥譚は当てにならないものが多いですが、かなり残虐なこともしたようで、それを誇らしげに書いてもいます。
因みに、茨城県行方市に「橘郷造神社」があり、その由緒の中に白鳥伝説があります。少し長くなるので、ここでは書きません(記事にするのは数ヵ月先の予定です。)が、今の残っているのは、征服者側によって作られた歴史、ということになろうかと思います。
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