神が宿るところ

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八幡神社(茨城県小美玉市栗又四ケ)

2023-10-07 23:37:25 | 神社
八幡神社(はちまんじんじゃ)。
場所:茨城県小美玉市栗又四ケ987ー1。国道355号線と茨城県道59号線(玉里水戸線)の「田木谷交差点」から国道を北西へ約1.1km。駐車場なし。
創建年代不詳とされるが、「玉里町史」によれば、天喜5年(1057年)に八幡太郎こと源義家が奥州征伐の途中で武運長久を祈願したことにより、延久4年(1072年)創建という。口碑によれば、義家が当地を通過する際、通路が甚だ悪く、石橋を掛けて軍を渡したので、「石橋」という地名(字)になった。後に、平石が発掘され、これを「駒止め石」と称したという。寛永2年(1625年)、領主・皆川大和守が武運長久祈願のため、田一反二畝を寄進した(八幡免)。元禄2年(1689年)、別当・天台宗「西光山 地蔵院 極楽寺」(小美玉市栗又四ケ1241に現存)の住職が社殿建替。昭和3年、村社に列した。祭神は誉田別命で、古来から健康祈願及び運送・海上安全祈願に御利益ありとして著名だったという。
さて、奈良時代の古代東海道の別路として、現・茨城県潮来市から行方台地のほぼ中央(尾根)を通って、常陸国府があった現・石岡市へ向かうルートがあったとみられている(「板来駅」(2022年9月24日記事)、「曽尼駅」(2023年4月1日記事)参照)。現・行方市域では概ね現・茨城県道50号線(水戸神栖線)と同じ道筋と考えられるが、行方市北部では若海~捻木を抜けて、行方市と小美玉市の境界付近を通り、薗部川を渡ると、現・国道355号線と同じ道筋に接続して、現・石岡市内に向かったとする説が有力である。常陸国内では、古代東海道の道筋について、日本武尊または源義家の進軍に関する伝説が残っていることが多い。古代官道は兵部省の管轄であることから知れるように、本来、軍事道路の意味があり、特に古代東海道は現・東北地方の蝦夷征伐や現・九州地方の防備(防人)のための兵力移動の役割も大きかったと思われる。そして、常陸国一宮「鹿島神宮」は武神として、防人・兵士・武士が出発に当たって道中の無事や戦勝を祈願する(「鹿島立ち」)聖地で、古代東海道の別路があったのは、「鹿島神宮」への道路を整備したということだったのだろう。さて、上記の通り、そのルートについて、現・石岡市側から現・国道355号線を東に向かうと、薗部川を渡る手前で南東にカーヴして霞ヶ浦畔を進むことになるが、古代にはそのまま東に進んで、現・茨城県道8号線(小川鉾田線)に繋がる道筋だったとみられる。そうすると、当神社の鎮座地は薗部川の右岸(西岸)に当たり、重要な位置にある。また、当神社の西側に石室が露出した「岩屋古墳」があり、その天井石はまさに「石橋」になるような平石である。伝説はともかくとしても、当地付近から石岡市内に向かう国道355号線の直線の具合からして、古代東海道の道筋と考えて差し支えないものと思われる。

岩屋古墳(いわやこふん)。
場所:茨城県小美玉市栗又四ケ1314-1外。「玉里北小学校」グラウンド南端の西側の丘の上、畑の中にある(ゴミ・ステーションの横に案内板があり、そこから上ったところ。)。
墳丘が消失しているため、もともとの形・大きさは不明。横穴式石室が露出しており、玄室長3.3m・幅1.8m・高さ1.7mとされる。当地の北西約20mのところに箱式石棺が存在したとされ、それを含めて1つの古墳とすると、前方後円墳だった可能性があるという。石室の形状等から築造時期は6世紀代と推定されている。なお、周辺で縄文土器や弥生土器も出土しており、より古くから集落等があったとみられる。因みに、かつては古墳の天井石の上に観音堂が建てられていたが、安置されていた観音像とともに「極楽寺」に移されたという(現在の不動堂とのこと。)。


写真1:「八幡神社」鳥居と社号標(「村社 八幡神社」)


写真2:同上、顕忠碑と護国軍馬碑。これだけ大きな軍馬碑は比較的珍しいと思う。当地は、戦前、馬の産地だったのだろう。


写真3:同上、境内


写真4:同上、拝殿


写真5:同上、拝殿に掛けられた面。何の面だろう?


写真6:同上、本殿


写真7:「岩屋古墳」。


写真8:同上、石室内部。

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