「大化の改新」(645年)の翌年出された「改新の詔」は、「公地公民制」を定め、天皇による統一的支配を確立したものとされる。「改新の詔」は日本書紀に掲載されているが、その存在自体を疑う説も有力で、少なくとも後世の改変があるとされている。しかし、道路については、詔に駅馬・伝馬の制度も定められ、実際に7世紀中頃以降、官道(国家が整備する道路)の整備が進められた。律令制による古代道路には次のような特徴があるとされる。
①都と地方の情報連絡を目的とした「駅路」は最短距離を重視し、直線的に計画された。
②30里(約16km)毎に「駅家(うまや)」が設けられ、駅馬(はゆま)が置かれた。
③「駅路」の道幅は、地方でも6~12mほどと、かなり広かった。
④条里制の方向や国境・郡境等に一致することが多い(道路を基準としたらしい。)。
⑤広い道路を維持するには多大な費用がかかるため次第に衰退し、10世紀末~11世紀初めには消滅した。
延長5年(927年)成立の「延喜式」には、東海道駿河国に「小川」、「横田」、「息津」、「蒲原」、「長倉」、「横走」の6駅が記載されている。「延喜式」の頃には既に律令制が崩壊しつつあり、駅家も当初のままではなかったようである。しかし、この駅家の所在地を手掛かりに、古代道路の研究が進められている。
さて、駿河国の古代東海道を探すスタートはまず、遠江国の最も東の駅家である「初倉」駅から。遠江国と駿河国の国境は大井川であり、「初倉」駅は大井川を見下ろす牧之原台地東北端の標高80mの台地上にあった。即ち、遠江国式内社「敬満神社」を中心とする「宮上遺跡群」で、古墳時代末~奈良時代の竪穴住居跡多数、平安時代の掘立柱建物跡が発見され、「驛」と記された墨書土器や円面硯が出土した。西には通称「色尾道」という直線的な道路が現存すること、当地はかつての蓁原郡(榛原郡)駅家郷にあたり、現・島田市との合併前は初倉村と称していたこともあり、ここが「初倉」駅跡と考えられている。出土物から、8世紀中葉頃までには駅家が成立していたと推定される。面白いのは、出土物に塑像の螺髪(白鳳~奈良時代?)があったことで、駅家付属の仏教関連施設があったらしい(因みに、南東約3kmのところに「竹林廃寺」があり、駅家と同時期頃かとみられている。)。
敬満神社(けいまんじんじゃ)。祭神:敬満神。
場所:島田市阪本4054-1。大井川の右岸で、県道34号線(島田吉田線)「島田大橋」を渡り切った先の、最初の信号のところ。駐車場なし。
社伝によれば、垂仁天皇26年(237年)の創建。遠江国に2社しかない名神大(社)の1社で、神階は遠江国で最も高かったという。祭神は、一説に「功満王」であるとされる。「功満王」は、中国・秦の始皇帝の14世の孫で、仲哀天皇8年(199年)に渡来帰化し、秦氏の祖となったとされる人物である。なお、「初倉」という地名は元々「秦倉」だったとも言われており、榛原郡という郡名からしても、この辺りに秦氏一族が多く住んでいたのだろうという。
「敬満神社」から東に約500mのところに、式内社「大楠神社」(おおくすじんじゃ)もあるが、現在は「敬満神社」の境外末社となっている。社伝によれば、欽明天皇3年(543年)の創建。現在の祭神は大己貴命であるが、「日本書紀」仁徳天皇62年(374年)の条に「遠江国司から大井川に巨木が流れ着いた旨の報告があり、この巨木で船を造らせて献上させた。」との記述があり、この巨木の神霊を祀ったともいう。
金谷方面から牧之原台地上を東進してきた「色尾道」は、その名の通り、式内社「敬満神社」のところから南下して旧初倉村の中心部である色尾地区に向かう。しかし、古代東海道は、「敬満神社」付近にあった「初倉」駅から真っ直ぐに東に向かったものと思われる。
それにしても、「敬満神社」が遠江国で最も神階が高い神社であったにもかかわらず、遠江国の一宮とならなかったのは、国府(現・磐田市)から離れていたことだけでなく、このルートの古代東海道が次第に廃れていったことも関係していたのではないかと思われる。
玄松子さんのHPから(敬満神社)
写真1:「敬満神社」境内入口
写真2:社殿正面
写真3:神社裏(北側)。今は茶畑になっており、その先が大井川。
写真4:「大楠神社」
①都と地方の情報連絡を目的とした「駅路」は最短距離を重視し、直線的に計画された。
②30里(約16km)毎に「駅家(うまや)」が設けられ、駅馬(はゆま)が置かれた。
③「駅路」の道幅は、地方でも6~12mほどと、かなり広かった。
④条里制の方向や国境・郡境等に一致することが多い(道路を基準としたらしい。)。
⑤広い道路を維持するには多大な費用がかかるため次第に衰退し、10世紀末~11世紀初めには消滅した。
延長5年(927年)成立の「延喜式」には、東海道駿河国に「小川」、「横田」、「息津」、「蒲原」、「長倉」、「横走」の6駅が記載されている。「延喜式」の頃には既に律令制が崩壊しつつあり、駅家も当初のままではなかったようである。しかし、この駅家の所在地を手掛かりに、古代道路の研究が進められている。
さて、駿河国の古代東海道を探すスタートはまず、遠江国の最も東の駅家である「初倉」駅から。遠江国と駿河国の国境は大井川であり、「初倉」駅は大井川を見下ろす牧之原台地東北端の標高80mの台地上にあった。即ち、遠江国式内社「敬満神社」を中心とする「宮上遺跡群」で、古墳時代末~奈良時代の竪穴住居跡多数、平安時代の掘立柱建物跡が発見され、「驛」と記された墨書土器や円面硯が出土した。西には通称「色尾道」という直線的な道路が現存すること、当地はかつての蓁原郡(榛原郡)駅家郷にあたり、現・島田市との合併前は初倉村と称していたこともあり、ここが「初倉」駅跡と考えられている。出土物から、8世紀中葉頃までには駅家が成立していたと推定される。面白いのは、出土物に塑像の螺髪(白鳳~奈良時代?)があったことで、駅家付属の仏教関連施設があったらしい(因みに、南東約3kmのところに「竹林廃寺」があり、駅家と同時期頃かとみられている。)。
敬満神社(けいまんじんじゃ)。祭神:敬満神。
場所:島田市阪本4054-1。大井川の右岸で、県道34号線(島田吉田線)「島田大橋」を渡り切った先の、最初の信号のところ。駐車場なし。
社伝によれば、垂仁天皇26年(237年)の創建。遠江国に2社しかない名神大(社)の1社で、神階は遠江国で最も高かったという。祭神は、一説に「功満王」であるとされる。「功満王」は、中国・秦の始皇帝の14世の孫で、仲哀天皇8年(199年)に渡来帰化し、秦氏の祖となったとされる人物である。なお、「初倉」という地名は元々「秦倉」だったとも言われており、榛原郡という郡名からしても、この辺りに秦氏一族が多く住んでいたのだろうという。
「敬満神社」から東に約500mのところに、式内社「大楠神社」(おおくすじんじゃ)もあるが、現在は「敬満神社」の境外末社となっている。社伝によれば、欽明天皇3年(543年)の創建。現在の祭神は大己貴命であるが、「日本書紀」仁徳天皇62年(374年)の条に「遠江国司から大井川に巨木が流れ着いた旨の報告があり、この巨木で船を造らせて献上させた。」との記述があり、この巨木の神霊を祀ったともいう。
金谷方面から牧之原台地上を東進してきた「色尾道」は、その名の通り、式内社「敬満神社」のところから南下して旧初倉村の中心部である色尾地区に向かう。しかし、古代東海道は、「敬満神社」付近にあった「初倉」駅から真っ直ぐに東に向かったものと思われる。
それにしても、「敬満神社」が遠江国で最も神階が高い神社であったにもかかわらず、遠江国の一宮とならなかったのは、国府(現・磐田市)から離れていたことだけでなく、このルートの古代東海道が次第に廃れていったことも関係していたのではないかと思われる。
玄松子さんのHPから(敬満神社)
写真1:「敬満神社」境内入口
写真2:社殿正面
写真3:神社裏(北側)。今は茶畑になっており、その先が大井川。
写真4:「大楠神社」
古代官道は、軍事的な意味を持つとともに、国威の象徴でもあったと思われます。その意味で、「敬満神社」の地は、軍事的な拠点としても、権威の象徴としても優れた場所だと思います。
国立博物館は「これら付飾金具等は、視覚的・聴覚的に騎乗者の威信を表象した」と書いている。幻想的な古代が偲ばれる。敬満神社は皇民も蕃民も等しく敬うの意ではないか。