島田石(しまだいし)。別名:子持ち石、竜宮婦石明神。
場所:茨城県つくば市金田1(「八坂神社」の住所)。「桜中学校」前の道路を東へ約1km。途中、茨城県道128号線(土浦大曽根線)を横切る(角にコンビニエンスストア「ファミリーマートつくば桜金田店」があり、そこからは約230m。)。駐車場なし。
つくば市金田(こんだ)の「八坂神社」境内に「島田石」と呼ばれる石がある。楕円形の上下が括れたような形の平たい石で、大きさは約120cm×約70cm、厚さ約15cm。大正時代に流行した女性の結髪「島田髷(しまだまげ)」の形に似ているということで、その名がついたという。元々は、当神社の北西、約500mにある、つくば市(旧・桜村)金田竜宮橋地区の水田脇の農道に置かれていたもので、その周辺からは、同形ながら約15cm×約8cmの石が多数発見された。そこで、「島田石」は子を産む石として子授けや安産の信仰の対象となり、「子持ち石」、「竜宮婦石明神」とも呼ばれるようになったとらしい。実は、「子」の石は縄文時代の打製石器の「石斧」であるとされる。同形でも、「親」の「島田石」は大きすぎるので、実用ではなく、祭祀に使われたものだろうとのこと。
なお、「島田石」は、明治時代初めまで雨乞いにも使われていたらしい。旱魃になると、農民らは「島田石」の上で火を焚き、石が真っ赤に焼けると、石から竜が天に上って筑波山に黒雲がかかり、雨が降った。しかし、その後は「子」を産むことがなくなったという。(以上、読売新聞社水戸支局編著「いばらき 民話のふるさと」による。)
因みに、「八坂神社」については、創建時期不明ながら、古くは大、岡、金田の3ヵ村の鎮守で、明治6年に金田ほか8ヵ村の村社となったという。祭神は素戔嗚尊。
写真1:「八坂神社」鳥居、正面に拝殿
写真2:本殿(覆い屋の中)
写真3:境内の「島田石」
写真4:大きな石板も。古墳の石棺材とみられる。
写真5:これは「盃状穴」? 磐座や神社等の石造物に彫られることが多い盃(杯)状の穴は、不滅や再生を示すシンボルとされる。
写真6:更に大きな石板
写真7:石塔。向かって右から2番目は「陰陽石」ですね。
場所:茨城県つくば市金田1(「八坂神社」の住所)。「桜中学校」前の道路を東へ約1km。途中、茨城県道128号線(土浦大曽根線)を横切る(角にコンビニエンスストア「ファミリーマートつくば桜金田店」があり、そこからは約230m。)。駐車場なし。
つくば市金田(こんだ)の「八坂神社」境内に「島田石」と呼ばれる石がある。楕円形の上下が括れたような形の平たい石で、大きさは約120cm×約70cm、厚さ約15cm。大正時代に流行した女性の結髪「島田髷(しまだまげ)」の形に似ているということで、その名がついたという。元々は、当神社の北西、約500mにある、つくば市(旧・桜村)金田竜宮橋地区の水田脇の農道に置かれていたもので、その周辺からは、同形ながら約15cm×約8cmの石が多数発見された。そこで、「島田石」は子を産む石として子授けや安産の信仰の対象となり、「子持ち石」、「竜宮婦石明神」とも呼ばれるようになったとらしい。実は、「子」の石は縄文時代の打製石器の「石斧」であるとされる。同形でも、「親」の「島田石」は大きすぎるので、実用ではなく、祭祀に使われたものだろうとのこと。
なお、「島田石」は、明治時代初めまで雨乞いにも使われていたらしい。旱魃になると、農民らは「島田石」の上で火を焚き、石が真っ赤に焼けると、石から竜が天に上って筑波山に黒雲がかかり、雨が降った。しかし、その後は「子」を産むことがなくなったという。(以上、読売新聞社水戸支局編著「いばらき 民話のふるさと」による。)
因みに、「八坂神社」については、創建時期不明ながら、古くは大、岡、金田の3ヵ村の鎮守で、明治6年に金田ほか8ヵ村の村社となったという。祭神は素戔嗚尊。
写真1:「八坂神社」鳥居、正面に拝殿
写真2:本殿(覆い屋の中)
写真3:境内の「島田石」
写真4:大きな石板も。古墳の石棺材とみられる。
写真5:これは「盃状穴」? 磐座や神社等の石造物に彫られることが多い盃(杯)状の穴は、不滅や再生を示すシンボルとされる。
写真6:更に大きな石板
写真7:石塔。向かって右から2番目は「陰陽石」ですね。
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