神が宿るところ

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普門山 禅福寺

2021-08-07 23:21:33 | 寺院
普門山 禅福寺(ふもんさん ぜんぷくじ)。
場所:茨城県つくばみらい市筒戸1094。国道294号線「新守谷駅南」交差点から北東へ約500m、突き当りを左折(北へ)して直ぐ、信号機のある交差点を左折(北へ)、約200m進んだところで右折(南東へ)、道が二岐に分かれるが、右側を進み、約200mで本堂横の広い駐車場。正門はその先、約400m。
寺伝等によれば、承平元年(931年)、平将門を開山として創建、元は現・茨城県守谷市の相馬氏領内にあり、「真福寺」と称した。その後、いったん廃寺となるが、貞和元年(1345年)に夢窓国師により再建されたという。江戸時代に寺領13石8斗余の朱印状を受けていた。現在は臨済宗妙心寺派の寺院で、本尊は十一面観世音菩薩。
当寺院には、妙見菩薩が将門に矢を授ける場面を描いた掛軸も所蔵されていて、将門が妙見菩薩を信仰するようになった経緯が伝わっている。即ち、伯父の平良兼から「子飼(小貝川)の渡し」で猛攻撃を受け、危機に陥るが、童子が現れて、持ち矢が尽きた将門に矢を拾ってくれたり、脱出路を教えてくれたりした。将門が童子の名を尋ねると、自らは妙見菩薩であり、十一面観音の垂迹であると答えたという。こうして、将門は妙見菩薩を信仰するとともに、当寺院創建に当たり、上総国にあった行基作と伝わる十一面観音像を請来したとされる。
当地、旧・筒戸村は小貝川の右岸(南岸)にあり、近世以前は下総国相馬郡に属した。その後、合併等により茨城県北相馬郡小絹村、同筑波郡谷和原村を経て、現在のつくばみらい市の一部になっている。当寺院の現在の境内は、戦国時代の永禄2年(1559年)に相馬氏一族の筒戸氏によって築かれた「筒戸城」二の丸跡とされる(なお、筒戸城は天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐で落城し、廃城となったという。)。ということで、将門による開山であるとか、将門の妙見信仰とかというのは、将門の後裔を称した相馬氏由来であろうと思われる。
なお、当寺院から東の低地にいったん下りた先の微高地が「御出子(おんでし)」という地名で、「御出子城」という中世城郭があったともいわれている。この変わった地名は、将門が当地の女性に産ませた子を平良文(将門の叔父で、将門に好意的だったとされている。千葉氏の祖)が見て、立派な風采をしていたため「御出子」と呼んだ、ということに因むという伝説がある。そこに「妙見八幡神社」があり、良文が創建したと伝承されているとのこと(ただし、「谷和原の歴史 通史編」では、天正2年(1574年)の創建としている。)。


写真1:「禅福寺」境内入口


写真2:同上、山門


写真3:同上、大師堂


写真4:同上、本堂前の塚。これを「将門塚」といって将門所縁の墓所とする説もある。


写真5:同上、本堂前にある「平新王将門公之霊」供養碑


写真6:同上、本堂


写真7:「妙見八幡神社」(場所:茨城県つくばみらい市筒戸3182)鳥居と社号標。向かって左手奥に三春桜。枝を長く伸ばしており、花の時期は美しいとのこと。


写真8:同上、鳥居の正面奥は、何故か仏堂(安置されているのは石造の地蔵菩薩と思われる。)。


写真9:同上、社殿。鳥居を潜って、左手にある(社殿は北西向き)。現在の主祭神は天御中主命。
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