村松山 日高寺(むらまつさん ひだかでら)。通称:村松山虚空蔵堂(むらまつさんこくうぞうどう)。
場所:茨城県那珂郡東海村村松8。国道245号線「虚空蔵尊入口」から南東へ約250m、突き当りを左折、直ぐ。「村松大神宮」(前項)と隣接。境内入口付近に駐車場が有るが、この駐車場は混んでいることがあるので、国道からの入口付近の広い村営無料駐車場に置いてきた方がよいかも。
寺伝によれば、大同2年(807年)、空海(弘法大師)が各地巡錫の折、当地の海上に光る物があると聞き、引き揚げさせると大きな老木であった。これを一刀三拝の礼をもって等身座像の虚空蔵菩薩を刻んで安置したのが創建とし、平城天皇から「村松山 神宮寺」の勅額を賜ったという。空海が超人的な才能を得たのは、室戸岬(現・高知県)の「御厨人窟」という洞窟で「虚空蔵求聞持法」という荒行を行い(このとき口に明星が飛び込んできたという。)、悟りを開いたことによるとされるから、所縁のある仏といえる。ただし、空海が当地にまで来たかとなると、なかなか信じがたい。一方、別伝では、円仁(慈覚大師、第三代天台座主)の創建とする説もある。円仁は下野国(現・栃木県)の生まれで、関東~東北地方を巡り、「浅草寺」(現・東京都台東区)、「瑞巌寺」(現・宮城県松島町)、「立石寺」(山形県山形市)など現在も残る多くの寺院を開いたとされるので、大同2年というのはともかくとして(平安時代初期に創建したとする寺社に多い年号である。)、古い由緒ある寺院ということなのだろう。それはともかく、中世には、常陸国を支配した佐竹氏の庇護の下、多くの塔中寺院・僧坊を抱えた大寺であったとされるが、文明17年(1485年)、佐竹氏が岩城氏に攻められた際、当寺院も兵火にかかり、本尊は無事だったものの、伽藍は全て焼失した。その後、長亨元年(1487年)には頭白上人により再建され、「村松山 日高寺」と改称した(古文書には「日光寺」とするものもある。)。江戸時代になると、水戸藩第2代藩主・徳川光圀による伽藍修理など庇護を受ける一方、寺社改革として、「五所明神」と「虚空蔵尊」を分離し、別当も真言僧から修験に変更された。明治3年には、廃仏毀釈により、いったん「星の宮」となったが、翌年には再び「虚空蔵」と称することが許され、真言宗の「日高寺」となった。なお、明治33年には、門前の民家火災に類焼し、堂塔伽藍全てを失ったが、このときも本尊は無事で、以来、順次諸堂が再建され、現在に至っている。真言宗豊山派に属し、本尊は虚空蔵菩薩。
今でも茨城県、栃木県近辺では、単に「虚空蔵」と言えば当寺院を指し、「日本三大虚空蔵尊」の1つということもある。「日本三大〇〇」というときには大抵、2つくらいが鉄板で、残り1枠で争いがあることが多い。しかし、虚空蔵菩薩という仏が地味なせいか、どうしても外せないというのは無いようで、当寺院のほか、「智福山 法輪寺」(京都市西京区、真言宗五智教団)、「霊巌山 円蔵寺」(福島県柳津町、臨済宗妙心寺派。本尊は釈迦如来だが、虚空蔵堂がある。)、「勝峰山 兜率院 金剛證寺」(三重県伊勢市、臨済宗南禅寺派)、「千光山 清澄寺」(千葉県鴨川市、日蓮宗。本尊は十界曼荼羅だが、その前に虚空蔵菩薩像が安置されている。)、「当目山 香集寺」(静岡県焼津市、曹洞宗。2011年2月22日記事)など、地方・宗派もバラバラな寺院が候補に挙がっている。
さて、村松虚空蔵堂といえば「十三参り」が有名。これは、数え年で13歳のときに虚空蔵堂などの寺社に参って知恵や幸運を授かるというもの。なぜ「十三」か、なぜ「虚空蔵尊」なのかは諸説あるが、ちょうど小学校を卒業するタイミングで、どちらかといえば関西で盛んな風習とされる(関東では「七五三」が一般的。)。関西では上記の「智福山 法輪寺」(通称:嵐山の虚空蔵法輪寺)などが有名で、史料に現れるのが江戸時代後期頃からとされ、当寺院の十三参りも「法輪寺」に倣ったものとされているようである。
村松山虚空蔵堂のHP
写真1:「日高寺」境内入口と寺号標(「村松山 虚空蔵尊」)
写真2:仁王門
写真3:本堂(大摩尼殿)。こちらにあるのは前立本尊と脇侍の不動明王、毘沙門天王。
写真4:奥之院(多宝塔)。本尊の「大満虚空蔵菩薩」はこちらに安置されている(御開帳は50年に一度)。
写真5:三重之塔
写真6:鍾馗霊神堂(向かって左側は安産地蔵尊)。延宝3年(1675年)に伝染病が大流行したとき、藤原高信が鐘馗霊神の絵馬を奉納したところ、流行が収まったという。明治33年の火災の際も、本尊とこの絵馬は難を逃れた。
写真7:水戸八景「村松晴嵐」石碑(この石碑は東海村指定文化財)。境内の奥の砂丘上にあり、かつてはこの辺りから太平洋が見えたらしい。
場所:茨城県那珂郡東海村村松8。国道245号線「虚空蔵尊入口」から南東へ約250m、突き当りを左折、直ぐ。「村松大神宮」(前項)と隣接。境内入口付近に駐車場が有るが、この駐車場は混んでいることがあるので、国道からの入口付近の広い村営無料駐車場に置いてきた方がよいかも。
寺伝によれば、大同2年(807年)、空海(弘法大師)が各地巡錫の折、当地の海上に光る物があると聞き、引き揚げさせると大きな老木であった。これを一刀三拝の礼をもって等身座像の虚空蔵菩薩を刻んで安置したのが創建とし、平城天皇から「村松山 神宮寺」の勅額を賜ったという。空海が超人的な才能を得たのは、室戸岬(現・高知県)の「御厨人窟」という洞窟で「虚空蔵求聞持法」という荒行を行い(このとき口に明星が飛び込んできたという。)、悟りを開いたことによるとされるから、所縁のある仏といえる。ただし、空海が当地にまで来たかとなると、なかなか信じがたい。一方、別伝では、円仁(慈覚大師、第三代天台座主)の創建とする説もある。円仁は下野国(現・栃木県)の生まれで、関東~東北地方を巡り、「浅草寺」(現・東京都台東区)、「瑞巌寺」(現・宮城県松島町)、「立石寺」(山形県山形市)など現在も残る多くの寺院を開いたとされるので、大同2年というのはともかくとして(平安時代初期に創建したとする寺社に多い年号である。)、古い由緒ある寺院ということなのだろう。それはともかく、中世には、常陸国を支配した佐竹氏の庇護の下、多くの塔中寺院・僧坊を抱えた大寺であったとされるが、文明17年(1485年)、佐竹氏が岩城氏に攻められた際、当寺院も兵火にかかり、本尊は無事だったものの、伽藍は全て焼失した。その後、長亨元年(1487年)には頭白上人により再建され、「村松山 日高寺」と改称した(古文書には「日光寺」とするものもある。)。江戸時代になると、水戸藩第2代藩主・徳川光圀による伽藍修理など庇護を受ける一方、寺社改革として、「五所明神」と「虚空蔵尊」を分離し、別当も真言僧から修験に変更された。明治3年には、廃仏毀釈により、いったん「星の宮」となったが、翌年には再び「虚空蔵」と称することが許され、真言宗の「日高寺」となった。なお、明治33年には、門前の民家火災に類焼し、堂塔伽藍全てを失ったが、このときも本尊は無事で、以来、順次諸堂が再建され、現在に至っている。真言宗豊山派に属し、本尊は虚空蔵菩薩。
今でも茨城県、栃木県近辺では、単に「虚空蔵」と言えば当寺院を指し、「日本三大虚空蔵尊」の1つということもある。「日本三大〇〇」というときには大抵、2つくらいが鉄板で、残り1枠で争いがあることが多い。しかし、虚空蔵菩薩という仏が地味なせいか、どうしても外せないというのは無いようで、当寺院のほか、「智福山 法輪寺」(京都市西京区、真言宗五智教団)、「霊巌山 円蔵寺」(福島県柳津町、臨済宗妙心寺派。本尊は釈迦如来だが、虚空蔵堂がある。)、「勝峰山 兜率院 金剛證寺」(三重県伊勢市、臨済宗南禅寺派)、「千光山 清澄寺」(千葉県鴨川市、日蓮宗。本尊は十界曼荼羅だが、その前に虚空蔵菩薩像が安置されている。)、「当目山 香集寺」(静岡県焼津市、曹洞宗。2011年2月22日記事)など、地方・宗派もバラバラな寺院が候補に挙がっている。
さて、村松虚空蔵堂といえば「十三参り」が有名。これは、数え年で13歳のときに虚空蔵堂などの寺社に参って知恵や幸運を授かるというもの。なぜ「十三」か、なぜ「虚空蔵尊」なのかは諸説あるが、ちょうど小学校を卒業するタイミングで、どちらかといえば関西で盛んな風習とされる(関東では「七五三」が一般的。)。関西では上記の「智福山 法輪寺」(通称:嵐山の虚空蔵法輪寺)などが有名で、史料に現れるのが江戸時代後期頃からとされ、当寺院の十三参りも「法輪寺」に倣ったものとされているようである。
村松山虚空蔵堂のHP
写真1:「日高寺」境内入口と寺号標(「村松山 虚空蔵尊」)
写真2:仁王門
写真3:本堂(大摩尼殿)。こちらにあるのは前立本尊と脇侍の不動明王、毘沙門天王。
写真4:奥之院(多宝塔)。本尊の「大満虚空蔵菩薩」はこちらに安置されている(御開帳は50年に一度)。
写真5:三重之塔
写真6:鍾馗霊神堂(向かって左側は安産地蔵尊)。延宝3年(1675年)に伝染病が大流行したとき、藤原高信が鐘馗霊神の絵馬を奉納したところ、流行が収まったという。明治33年の火災の際も、本尊とこの絵馬は難を逃れた。
写真7:水戸八景「村松晴嵐」石碑(この石碑は東海村指定文化財)。境内の奥の砂丘上にあり、かつてはこの辺りから太平洋が見えたらしい。
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