神が宿るところ

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大宮神社(茨城県行方市芹沢)

2023-05-13 23:34:41 | 神社
大宮神社(おおみやじんじゃ)。通称:村社大宮神社。
場所:茨城県行方市芹沢450。茨城県道50号線(水戸神栖線)「榎本」交差点から北西へ約1.2km(廃校になった旧・現原小学校の南西角)で右折(北西へ)、約650m。駐車スペース有り。
社伝によれば、室町時代の文安3年(1446年)、日本武尊が東征の折に国見をされた丘に鎮祭したという。明治14年、村社に列した。祭神は、大日霊貴尊(オオヒルメムチ=天照大神)と武甕槌命。
「現原の丘」碑(前項)が建てられている場所の北、約1km(直線距離)のところに当神社が鎮座しているが、ここは台地の先端で、社殿の背後には平らな農地が広がっている。この台地は、通称「日の岡」といい、中世の城館「芹沢城」があったところとされ、「芹沢城址」という大きな石碑も建てられている。当神社の社伝が言うように、この台地も「常陸国風土記」行方郡条にある「現原の丘」の候補地の1つとなっている。これは「新編常陸国誌」(中山信名が江戸時代後期に編纂し、明治時代に増補・完成された地誌)の説であるが、地元の玉造町郷土文化研究会の調査では、「常陸国風土記」が記述する周囲の展望は似ているものの、谷に囲まれていて平地が少ない、として、現在「現原の丘」碑が建てられている場所周辺(現・「玉造ゴルフ倶楽部若海コース」)の方を推している(前項参照)。
因みに、「芹沢城」は、常陸大掾氏の一族である芹沢氏の居城とされる。旧・行方郡各地に広がった大掾氏一族は殆ど吉田氏系(現・茨城県水戸市が本拠)だが、芹沢氏は大掾本家の多気氏の末裔に当る。南北朝時代に芹沢氏の祖となる平竜太が相模国高座郡に所領を持ち、その芹沢の地(現・神奈川県茅ケ崎市)に館を構えたときに芹沢氏を名乗り、成人後は幹文と改めた。その後、良幹、高幹、望幹と続き、鎌倉御所に仕えたが、常陸国府中城(現・茨城県石岡市)にいた大掾詮国(詮幹)の要請により、幹文の4代孫・良忠が常陸国に戻って荒原郷内(後の芹沢)に所領を与えられた。天文年間(1532~55年)、良忠の3代孫の秀幹のときに「芹沢城」が築かれ、地名もいつしか芹沢村となった。天正19年(1591年)、佐竹氏の「南方三十三館の仕置」により大掾氏一族が殆ど滅ぼされたとき、時の城主・芹沢国幹は難を逃れたものの、「芹沢城」は廃城となった。その後、佐竹氏が出羽国秋田(現・秋田県)に転封になると、代わって入封した秋田実季に仕えたという。現在では、「芹沢城」の遺構は殆ど残っていないようであるが、「御殿」・「要害」などという小字があり、「桝形」・「大門」・「古屋敷」などいう地名も残るという。後に、芹沢氏は医業で有名になったが、その名声ゆえに河童から教えられた治療法によるものという伝説が生まれたようだ(「手接神社」(2019年2月9日記事)参照。なお、当神社の南西約400m、茨城県道16号線(鹿田玉造線)の梶無川に架かる橋に河童像と説明板がある。)。また、「芹沢城址」碑から少し戻って、西へ下りたところに「芹沢鴨生家跡」がある。芹沢鴨は壬生浪士(新選組)の初代筆頭局長で、文久3年(1863年)に暗殺される。江戸時代には水戸藩上席郷士となっていた常陸大掾氏芹沢家の本家出身とも言われるが、出自には不明な点が多いという。


写真1:「大宮神社」鳥居、社号標(「村社大宮神社」)


写真2:同上、拝殿


写真3:同上、本殿


写真4:「大宮神社」の裏に進んだところにある「芹沢城址」碑


写真5:石碑向かい側の畑
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