香取神宮(かとりじんぐう)。
場所:千葉県香取市香取1697。東関東自動車道「佐原香取IC」を下りてすぐの県道55号線(佐原山田線)を北西へ約1km。駐車場あり。
社伝によれば、創建は神武天皇18年(紀元前643年)。創建時の事情は明確ではないが、常に常陸国一宮「鹿島神宮」とセットで語られてきたことから、「鹿島神宮」の創建とも深い関係があったのだろうと思われる。因みに、現在では「神宮」号を称する神社も多いが、平安時代以降~明治時代まで、「神宮」と称していたのは、伊勢神宮(単に「神宮」といえば、伊勢神宮を指す。)・鹿島神宮・香取神宮の3社だけだったされる。下総国唯一の名神大(社)で、下総国一宮。
祭神は経津主大神。フツヌシは、いわゆる国譲り神話に登場する神で、「鹿島神宮」の祭神である武甕槌神(タケミカヅチ)とともに葦原中国平定を成し遂げた神である。「フツ」というのは、刀剣が物を断ち切る音を表し、その刀剣の鋭さをいう言葉であるという。「出雲国風土記」等によると、本来、葦原中国を平定したのはフツヌシが主役だったのが、後に中臣氏(藤原氏)の勢力拡大によって、その祖神であるタケミカヅチのほうが主役とされるようになったとされる(中臣氏は元々常陸地方の出身ともいわれる。)。フツヌシは、霊剣「フツノミタマ」を神格化したものであるとか、タケミカヅチの別名であるとか、言わば「フツヌシはいなかった」説もある。「フツノミタマ」剣の神霊は、備前国式内社「石上布都魂神社」や大和国式内社「石上坐布都御魂神社(石上神宮)」で祀られ、いずれも物部氏に縁が深いので、中臣氏の伸張と物部氏の衰退によって、タケミカヅチとフツヌシの関係が逆転したのだろうという。
ところで、「日本書紀」や「続日本後紀」などでは、「斎主神」・「伊波比主大神」(イワイヌシ)という名になっている。今ではフツヌシの別名であるということになっているが、菱沼勇・梅田義彦著「房総の古社」(昭和50年2月)によれば、「斎主」というのは祭祀の主宰者(の女性)であり、もともと「鹿島神宮」の祭神はフツヌシ(物部氏の祖)であり、「香取神宮」の祭神はその妻であったのではないか、と推定している。
こんなことを考証していくと、きっと面白いのだろうが、あまり深入りはできない。祭神も、元々は農業神だったとか、水上交通の神だったともいわれる。江戸時代以前には、利根川は現在の東京湾に注いでおり、古代には「香取海」という広大な内海が広がっていたとされている。現在も利根川河畔に「津宮浜鳥居」(写真7)があるが、そこからは対岸に「鹿島神宮」が見えたともいわれる。そもそも「香取」という名は「楫取り(かじとり)」が訛ったものともされる。
ともあれ、後世には、国譲り神話から、タケミカヅチとともに国家鎮護の武神として信仰された。現在の本殿等は、「鹿島神宮」・「香取神宮」ともに江戸時代初期に徳川幕府により造営されたもので、印象が良く似ている。どちらにも境内に「要石」(写真4)があることも同じである。ただ、その位置は、「鹿島神宮」のように本殿の奥ではなく、狭い旧参道脇のややわかりにくい場所にあって、「鹿島神宮」の「要石」ほどには知られていないようだ。当神宮の「要石」は、上面が凸型で、地上に出ている部分は小さいが「深さ幾十尺」とされ、貞享元年(1684年)に水戸黄門こと徳川光圀公が石の周囲を掘らせたが、根元を見ることができなかったという。当神宮と「鹿島神宮」の要石は地中でつながっているというトンデモ説(両神宮は利根川を挟んで約13km離れている。)もあるらしい。
「鹿島神宮」・「香取神宮」のご神威により、地震を起こす鯰はしっかり押さえつけておいていただきますように。
香取神宮のHP
写真1:境内参道の大鳥居と巨大な社号標
写真2:楼門
写真3:社殿
写真4:要石。写真1の大鳥居を入ってすぐ左の狭い道の奥にある。
写真5:奥宮。当神宮の摂社で、経津主大神の荒御魂を祀る。写真1の大鳥居の手前から、向かって左の狭い道を上っていった先にある。
写真6:奥宮の向かい側に現存最古の武術である天真正伝香取神道流の祖、飯篠家直の墓があり、その先にある。説明板によれば、天平4年(732年)、大旱魃のときに祭壇を設けて雨乞いを行った場所であるという。フツヌシが雷神=農業神としての性格を持っていることを示すものかもしれない。
写真7:津宮浜鳥居。当神宮の北、約1.8kmの利根川堤防の下にある(国道356号線「香取駅入口」の西約500m、県道404号線(銚子小見川佐原自転車道)の案内標識があるところを北へ入る。駐車場なし。)。
場所:千葉県香取市香取1697。東関東自動車道「佐原香取IC」を下りてすぐの県道55号線(佐原山田線)を北西へ約1km。駐車場あり。
社伝によれば、創建は神武天皇18年(紀元前643年)。創建時の事情は明確ではないが、常に常陸国一宮「鹿島神宮」とセットで語られてきたことから、「鹿島神宮」の創建とも深い関係があったのだろうと思われる。因みに、現在では「神宮」号を称する神社も多いが、平安時代以降~明治時代まで、「神宮」と称していたのは、伊勢神宮(単に「神宮」といえば、伊勢神宮を指す。)・鹿島神宮・香取神宮の3社だけだったされる。下総国唯一の名神大(社)で、下総国一宮。
祭神は経津主大神。フツヌシは、いわゆる国譲り神話に登場する神で、「鹿島神宮」の祭神である武甕槌神(タケミカヅチ)とともに葦原中国平定を成し遂げた神である。「フツ」というのは、刀剣が物を断ち切る音を表し、その刀剣の鋭さをいう言葉であるという。「出雲国風土記」等によると、本来、葦原中国を平定したのはフツヌシが主役だったのが、後に中臣氏(藤原氏)の勢力拡大によって、その祖神であるタケミカヅチのほうが主役とされるようになったとされる(中臣氏は元々常陸地方の出身ともいわれる。)。フツヌシは、霊剣「フツノミタマ」を神格化したものであるとか、タケミカヅチの別名であるとか、言わば「フツヌシはいなかった」説もある。「フツノミタマ」剣の神霊は、備前国式内社「石上布都魂神社」や大和国式内社「石上坐布都御魂神社(石上神宮)」で祀られ、いずれも物部氏に縁が深いので、中臣氏の伸張と物部氏の衰退によって、タケミカヅチとフツヌシの関係が逆転したのだろうという。
ところで、「日本書紀」や「続日本後紀」などでは、「斎主神」・「伊波比主大神」(イワイヌシ)という名になっている。今ではフツヌシの別名であるということになっているが、菱沼勇・梅田義彦著「房総の古社」(昭和50年2月)によれば、「斎主」というのは祭祀の主宰者(の女性)であり、もともと「鹿島神宮」の祭神はフツヌシ(物部氏の祖)であり、「香取神宮」の祭神はその妻であったのではないか、と推定している。
こんなことを考証していくと、きっと面白いのだろうが、あまり深入りはできない。祭神も、元々は農業神だったとか、水上交通の神だったともいわれる。江戸時代以前には、利根川は現在の東京湾に注いでおり、古代には「香取海」という広大な内海が広がっていたとされている。現在も利根川河畔に「津宮浜鳥居」(写真7)があるが、そこからは対岸に「鹿島神宮」が見えたともいわれる。そもそも「香取」という名は「楫取り(かじとり)」が訛ったものともされる。
ともあれ、後世には、国譲り神話から、タケミカヅチとともに国家鎮護の武神として信仰された。現在の本殿等は、「鹿島神宮」・「香取神宮」ともに江戸時代初期に徳川幕府により造営されたもので、印象が良く似ている。どちらにも境内に「要石」(写真4)があることも同じである。ただ、その位置は、「鹿島神宮」のように本殿の奥ではなく、狭い旧参道脇のややわかりにくい場所にあって、「鹿島神宮」の「要石」ほどには知られていないようだ。当神宮の「要石」は、上面が凸型で、地上に出ている部分は小さいが「深さ幾十尺」とされ、貞享元年(1684年)に水戸黄門こと徳川光圀公が石の周囲を掘らせたが、根元を見ることができなかったという。当神宮と「鹿島神宮」の要石は地中でつながっているというトンデモ説(両神宮は利根川を挟んで約13km離れている。)もあるらしい。
「鹿島神宮」・「香取神宮」のご神威により、地震を起こす鯰はしっかり押さえつけておいていただきますように。
香取神宮のHP
写真1:境内参道の大鳥居と巨大な社号標
写真2:楼門
写真3:社殿
写真4:要石。写真1の大鳥居を入ってすぐ左の狭い道の奥にある。
写真5:奥宮。当神宮の摂社で、経津主大神の荒御魂を祀る。写真1の大鳥居の手前から、向かって左の狭い道を上っていった先にある。
写真6:奥宮の向かい側に現存最古の武術である天真正伝香取神道流の祖、飯篠家直の墓があり、その先にある。説明板によれば、天平4年(732年)、大旱魃のときに祭壇を設けて雨乞いを行った場所であるという。フツヌシが雷神=農業神としての性格を持っていることを示すものかもしれない。
写真7:津宮浜鳥居。当神宮の北、約1.8kmの利根川堤防の下にある(国道356号線「香取駅入口」の西約500m、県道404号線(銚子小見川佐原自転車道)の案内標識があるところを北へ入る。駐車場なし。)。