黒沼(くろぬま)。
場所:秋田県横手市山内大松川。国道107号線から県道273号線(外山落合線)に入り(大松川ダム方面へ)、約4km。「大松川公園 芝桜園」入口の先(北)、約200mのところ。駐車場あり。
「黒沼」は、天長4年(827年)の大地震により出現したと伝えられる陥没湖で、水深は12m、あるいは17mという。旱魃のときも水位が下がらないとされ、傍らの「黒沼神社」は別名「蛇王神社」といって、古来から竜神信仰による雨乞いの神として平鹿・仙北地方の農家の信仰を集めたという。また、この「黒沼」と、南西約5kmにある「鶴ヶ池」(横手市山内土渕字鶴ヶ池。「塩湯彦神社 鶴ヶ池里宮」(2015年4月18日記事参照))とは水底で繋がっているというトンデモな伝説もある。
「黒沼」に関する伝説は他にもある(というか、こちらが本筋。)。伝説であるから、いろいろなヴァリエイションがあるが、最も簡単なものは「貧しい旅人が南部(旧・南部藩領?)で若い女から黒沼に住む妹に手紙を渡すように頼まれ、手紙を届けたお礼に三角形の重たいものをもらった。それは黄金の塊で、旅人は忽ち大金持ちになった。」というものである。ここで示唆されるのは、当地に金の鉱山があったことと、その富に由来する長者が居たということだろう。注目されるのは、この長者の名が「地福長者」というところである。かつて、「黒沼」の更に奥に、「大松川ダム」建設によって集団移転した「福万」という、めでたい地名の集落があった。江戸時代の紀行家・菅江真澄は、「地福長者」の福と、「満徳長者」の満(万)を合わせた地名ではないかとしている。「満徳長者」は、出家して保昌坊と名乗り、「湯ノ峰白滝観音」(2015年4月11日記事)の施主になったと伝えられている。
秋田県観光連盟のHPから(伝説の黒沼)
写真1:「黒沼」。写真の左手奥に見える白い線は県道のガードレール。
写真2:美しい水面
写真3:同上
写真4:「黒沼」畔の小高いところにある「黒沼神社」の鳥居
写真5:同上、社殿
場所:秋田県横手市山内大松川。国道107号線から県道273号線(外山落合線)に入り(大松川ダム方面へ)、約4km。「大松川公園 芝桜園」入口の先(北)、約200mのところ。駐車場あり。
「黒沼」は、天長4年(827年)の大地震により出現したと伝えられる陥没湖で、水深は12m、あるいは17mという。旱魃のときも水位が下がらないとされ、傍らの「黒沼神社」は別名「蛇王神社」といって、古来から竜神信仰による雨乞いの神として平鹿・仙北地方の農家の信仰を集めたという。また、この「黒沼」と、南西約5kmにある「鶴ヶ池」(横手市山内土渕字鶴ヶ池。「塩湯彦神社 鶴ヶ池里宮」(2015年4月18日記事参照))とは水底で繋がっているというトンデモな伝説もある。
「黒沼」に関する伝説は他にもある(というか、こちらが本筋。)。伝説であるから、いろいろなヴァリエイションがあるが、最も簡単なものは「貧しい旅人が南部(旧・南部藩領?)で若い女から黒沼に住む妹に手紙を渡すように頼まれ、手紙を届けたお礼に三角形の重たいものをもらった。それは黄金の塊で、旅人は忽ち大金持ちになった。」というものである。ここで示唆されるのは、当地に金の鉱山があったことと、その富に由来する長者が居たということだろう。注目されるのは、この長者の名が「地福長者」というところである。かつて、「黒沼」の更に奥に、「大松川ダム」建設によって集団移転した「福万」という、めでたい地名の集落があった。江戸時代の紀行家・菅江真澄は、「地福長者」の福と、「満徳長者」の満(万)を合わせた地名ではないかとしている。「満徳長者」は、出家して保昌坊と名乗り、「湯ノ峰白滝観音」(2015年4月11日記事)の施主になったと伝えられている。
秋田県観光連盟のHPから(伝説の黒沼)
写真1:「黒沼」。写真の左手奥に見える白い線は県道のガードレール。
写真2:美しい水面
写真3:同上
写真4:「黒沼」畔の小高いところにある「黒沼神社」の鳥居
写真5:同上、社殿