元熊野堂跡(もとくまのどうあと)。
場所:秋田県横手市睦成字城付。「横手公園」の東、「みずほの里ロード」沿い「横手公園スキー場」入口から「山の上GOLFクラブ」に向って未舗装道路を上り(道幅が狭いので注意)、突き当たり、車止めの前に駐車スペースあり。そこから、舗装路を徒歩で約800m上り、遊具がある広場の裏側にある。なお、横手南小学校の北側を北東に道なりに進み、砂防ダムの横を通り過ぎたところに駐車場があり、そこから徒歩約800m、というルートもある(こちらの方がわかりやすいかもしれない。)。
秋田県横手市睦成字明永町に鎮座する「(明永山)熊野神社」(前項)は、役小角(役行者)が「泣子沢」に創建したとされるが、その元鎮座地とされる場所が「元熊野堂跡」とされる。「(明永山)熊野神社」の東の山の上で、現在は「横手いこいの森」として整備されており、散策路の途中にある。今では樹木が繁り、イメージがつかめないが、伝承では本殿が7間(=約13m)四面、拝殿が12間(=約22m)あったという。現在では、一般に横手市の「御嶽山」山頂にある「塩湯彦神社」が式内社であると認められているが、中世には所在不明になっていたのを、正徳4年(1714年)に久保田藩の指示により式内社「保呂羽山羽宇志別神社」(久保田藩領内で唯一廃絶していなかった式内社)社家の大友氏が鎮座地を定めた経緯がある。もちろん、それなりの根拠があって決めたのだとは思うが、確実性には疑問も残る。ひょっとすると、こちらのほうが元々の式内社「塩湯彦神社」の鎮座地だったのではないか、ということも絶対無いとは言えないのでないだろうか。
なお、この山の北側に「長者森」(横手市睦成字長者森)という地名があるが、ここに「満徳長者」の館があったといわれている。「満徳長者」は後に出家して「(湯ノ峰)白滝漢音」の施主になったという人物である。実は、他にも長者伝説がある。それは、「昔、現在の横手盆地は全て水に覆われ、広大な湖だった。鳥たちが集まり、「鳥の海」と呼ばれていた。あるとき、陸奥国塩竃(現・宮城県塩竃市)からやって来た塩竃大明神の子孫である「明永長者」・「明保長者」という兄弟が「鳥の海」の水を日本海に落とし、干拓することを企図した。大工事の末、湖は肥沃で広大な平野となり、農地に変えられていった。」というものである。これらの伝説は中世に形成されたと思われるが、当地の地方豪族の出自が陸奥国にあったことを示唆するものかもしれない(実は無関係で、単に塩竃神社の権威を借りたかったのかもしれない。式内社「塩湯彦神社」の塩湯彦=塩竃大明神と結びつけただけかも?)。それと、考えすぎかもしれないが、「長者」というのは、元は郡司、あるいは駅家(うまや)の長だった者が地方で大きな経済力を持ったケースが多いとされるので、この付近に郡家または駅家があった可能性はないだろうか。因みに、「長者森」に隣接して「糠塚」(横手市杉沢字糠塚)という地名もある。伝説では、長者は白米を食べるので、長者の館の隣には米糠の山が出来た、というのが定番だが、米糠は駅家の馬に食べさせるもので、これに関連するという説もあるらしい。郡家や駅家であれば、もう少し現在の市街地に近い場所か、と思われるけれども、興味をそそられる場所である。
横手セントラルホテルさんのHPから(横手いこいの森)
写真1:「(明永山)熊野神社」裏から東、「明永沼」越しに「かんぽの宿 横手」(休業中)が見える。その背後の山の上に「元熊野堂跡」がある。因みに、「かんぽの宿 横手」は天然温泉で、ナトリウム塩化物泉とされていた(まさに塩湯?)
写真2:この上に「元熊野堂鳥居跡」がある。三等三角点が設置されている。
写真3:「元熊野堂鳥居跡」。何故か「元熊野堂跡」より高いところにあり、とても狭い場所。
写真4:「元熊野堂跡」
写真5:「鞍かけの石」。参拝者がここで馬を下り、鞍を置いた場所という。
場所:秋田県横手市睦成字城付。「横手公園」の東、「みずほの里ロード」沿い「横手公園スキー場」入口から「山の上GOLFクラブ」に向って未舗装道路を上り(道幅が狭いので注意)、突き当たり、車止めの前に駐車スペースあり。そこから、舗装路を徒歩で約800m上り、遊具がある広場の裏側にある。なお、横手南小学校の北側を北東に道なりに進み、砂防ダムの横を通り過ぎたところに駐車場があり、そこから徒歩約800m、というルートもある(こちらの方がわかりやすいかもしれない。)。
秋田県横手市睦成字明永町に鎮座する「(明永山)熊野神社」(前項)は、役小角(役行者)が「泣子沢」に創建したとされるが、その元鎮座地とされる場所が「元熊野堂跡」とされる。「(明永山)熊野神社」の東の山の上で、現在は「横手いこいの森」として整備されており、散策路の途中にある。今では樹木が繁り、イメージがつかめないが、伝承では本殿が7間(=約13m)四面、拝殿が12間(=約22m)あったという。現在では、一般に横手市の「御嶽山」山頂にある「塩湯彦神社」が式内社であると認められているが、中世には所在不明になっていたのを、正徳4年(1714年)に久保田藩の指示により式内社「保呂羽山羽宇志別神社」(久保田藩領内で唯一廃絶していなかった式内社)社家の大友氏が鎮座地を定めた経緯がある。もちろん、それなりの根拠があって決めたのだとは思うが、確実性には疑問も残る。ひょっとすると、こちらのほうが元々の式内社「塩湯彦神社」の鎮座地だったのではないか、ということも絶対無いとは言えないのでないだろうか。
なお、この山の北側に「長者森」(横手市睦成字長者森)という地名があるが、ここに「満徳長者」の館があったといわれている。「満徳長者」は後に出家して「(湯ノ峰)白滝漢音」の施主になったという人物である。実は、他にも長者伝説がある。それは、「昔、現在の横手盆地は全て水に覆われ、広大な湖だった。鳥たちが集まり、「鳥の海」と呼ばれていた。あるとき、陸奥国塩竃(現・宮城県塩竃市)からやって来た塩竃大明神の子孫である「明永長者」・「明保長者」という兄弟が「鳥の海」の水を日本海に落とし、干拓することを企図した。大工事の末、湖は肥沃で広大な平野となり、農地に変えられていった。」というものである。これらの伝説は中世に形成されたと思われるが、当地の地方豪族の出自が陸奥国にあったことを示唆するものかもしれない(実は無関係で、単に塩竃神社の権威を借りたかったのかもしれない。式内社「塩湯彦神社」の塩湯彦=塩竃大明神と結びつけただけかも?)。それと、考えすぎかもしれないが、「長者」というのは、元は郡司、あるいは駅家(うまや)の長だった者が地方で大きな経済力を持ったケースが多いとされるので、この付近に郡家または駅家があった可能性はないだろうか。因みに、「長者森」に隣接して「糠塚」(横手市杉沢字糠塚)という地名もある。伝説では、長者は白米を食べるので、長者の館の隣には米糠の山が出来た、というのが定番だが、米糠は駅家の馬に食べさせるもので、これに関連するという説もあるらしい。郡家や駅家であれば、もう少し現在の市街地に近い場所か、と思われるけれども、興味をそそられる場所である。
横手セントラルホテルさんのHPから(横手いこいの森)
写真1:「(明永山)熊野神社」裏から東、「明永沼」越しに「かんぽの宿 横手」(休業中)が見える。その背後の山の上に「元熊野堂跡」がある。因みに、「かんぽの宿 横手」は天然温泉で、ナトリウム塩化物泉とされていた(まさに塩湯?)
写真2:この上に「元熊野堂鳥居跡」がある。三等三角点が設置されている。
写真3:「元熊野堂鳥居跡」。何故か「元熊野堂跡」より高いところにあり、とても狭い場所。
写真4:「元熊野堂跡」
写真5:「鞍かけの石」。参拝者がここで馬を下り、鞍を置いた場所という。