保呂羽山波宇志別神社(ほろわさんはうしわけじんじゃ)。
場所:秋田県横手市大森町八沢木字保呂羽山1-1(「保呂羽山」(標高438m)山頂付近)。横手市中心部からは秋田県道29号線(横手大森大内線)を西へ向い(JR「横手」駅前から約23km)、「大木屋→」という案内板が出ているところで右折(西へ)、狭い道路に入り、約2.3kmで登山道入口(駐車場・トイレ有り)に着く。そこから未舗装道を含めて、徒歩で山頂付近にある社殿まで約30分。
社伝によれば、天平宝字元年(757年)、安閑天皇の随身の子孫・大友右衛門太郎吉親が大和国吉野金峰山の蔵王権現を勧請して現在地に創建したという。現在の主祭神は安閑天皇であるが、これは神仏混淆により蔵王権現と安閑天皇(広国押建金日命)が同一視されたことによるものとされる。安閑天皇は継体天皇の後を継いで66歳で天皇即位したが、在位は僅か4年とされる。蔵王権現は我が国独特の神格で、役小角(役行者)が感得したとされ、修験道の本尊とされる。蔵王権現=安閑天皇という思想の起源がいつからかは不明であるが、出羽国の他の式内社を考えれば、当神社は元々「保呂羽山」自体を神体山とした自然神であったと思われ、主祭神を蔵王権現(安閑天皇)としたのは修験道の影響を受けた中世以降だろう。
出羽国式内社9社のうち、現在、秋田県内にあるのは当神社を含め3社であるが、近世以前に、当神社を除く2社(「塩湯彦神社」・「副川神社」)は祭祀が途絶え、所在すら不明という状況となっていた。そこで、秋田藩主となった佐竹氏が式内社再興を企図し、唯一、祭祀を伝えていた当神社の社家に命じて再興させたという(以下、次項)。
秋田県神社庁のHPから(保呂羽山波宇志別神社)
玄松子さんのHPから(波宇志別神社)
写真1:「保呂羽山波宇志別神社」下居社。「保呂羽山」は修験道の修行の場として女人禁制であり、女性の参拝はここまでとされていた。
写真2:「子守石」。子守に気を取られ、「下居社」の上まで登って来てしまった女性が石に変えられてしまった、というもの。
写真3:「保呂羽山波宇志別神社」社殿
写真4:同上
写真5:社殿の背後、「保呂羽山」山頂(三角点がある)付近から(写真ではわかりにくいが、鳥海山が見えた。)
写真6:「坂部の境塚」。「保呂羽山」は秋田藩と亀田藩の境にあったため、境界争いが絶えなかった。文化10年(1813年)に両者が話し合って境界を定め、その印として「境塚」を14ヵ所設置したというもので、これもその1つ。
場所:秋田県横手市大森町八沢木字保呂羽山1-1(「保呂羽山」(標高438m)山頂付近)。横手市中心部からは秋田県道29号線(横手大森大内線)を西へ向い(JR「横手」駅前から約23km)、「大木屋→」という案内板が出ているところで右折(西へ)、狭い道路に入り、約2.3kmで登山道入口(駐車場・トイレ有り)に着く。そこから未舗装道を含めて、徒歩で山頂付近にある社殿まで約30分。
社伝によれば、天平宝字元年(757年)、安閑天皇の随身の子孫・大友右衛門太郎吉親が大和国吉野金峰山の蔵王権現を勧請して現在地に創建したという。現在の主祭神は安閑天皇であるが、これは神仏混淆により蔵王権現と安閑天皇(広国押建金日命)が同一視されたことによるものとされる。安閑天皇は継体天皇の後を継いで66歳で天皇即位したが、在位は僅か4年とされる。蔵王権現は我が国独特の神格で、役小角(役行者)が感得したとされ、修験道の本尊とされる。蔵王権現=安閑天皇という思想の起源がいつからかは不明であるが、出羽国の他の式内社を考えれば、当神社は元々「保呂羽山」自体を神体山とした自然神であったと思われ、主祭神を蔵王権現(安閑天皇)としたのは修験道の影響を受けた中世以降だろう。
出羽国式内社9社のうち、現在、秋田県内にあるのは当神社を含め3社であるが、近世以前に、当神社を除く2社(「塩湯彦神社」・「副川神社」)は祭祀が途絶え、所在すら不明という状況となっていた。そこで、秋田藩主となった佐竹氏が式内社再興を企図し、唯一、祭祀を伝えていた当神社の社家に命じて再興させたという(以下、次項)。
秋田県神社庁のHPから(保呂羽山波宇志別神社)
玄松子さんのHPから(波宇志別神社)
写真1:「保呂羽山波宇志別神社」下居社。「保呂羽山」は修験道の修行の場として女人禁制であり、女性の参拝はここまでとされていた。
写真2:「子守石」。子守に気を取られ、「下居社」の上まで登って来てしまった女性が石に変えられてしまった、というもの。
写真3:「保呂羽山波宇志別神社」社殿
写真4:同上
写真5:社殿の背後、「保呂羽山」山頂(三角点がある)付近から(写真ではわかりにくいが、鳥海山が見えた。)
写真6:「坂部の境塚」。「保呂羽山」は秋田藩と亀田藩の境にあったため、境界争いが絶えなかった。文化10年(1813年)に両者が話し合って境界を定め、その印として「境塚」を14ヵ所設置したというもので、これもその1つ。