神が宿るところ

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大鳥井山遺跡

2015-05-09 23:18:46 | 史跡・文化財
大鳥井山遺跡(おおとりいやまいせき)。大鳥井柵跡(おおとりいのさくあと)ともいう。
場所:秋田県横手市大鳥町7。現在はテニスコート、プール等が整備された「大鳥公園」となっている。横手市役所付近から秋田県道272号線(御所野安田線、旧・羽州街道)を北上し、約1.5kmのところに「横手大鳥公園」の案内板が出ているところで左折(西へ)、突き当たりを右折(北へ)約100mで公園入口。駐車場有り。
「大鳥井山遺跡」は、横手川とその支流である吉沢川の合流点の東側に位置する「大鳥井山」・「子吉山」という2つの丘(いずれも標高は70~80m程度)を利用した平安時代の山城の跡である。横手市の市街地を見下ろし、横手川を自然の堀とした要害で、永承・天喜年間(1046~1058年)に清原光頼・頼遠(大鳥山ノ太郎)父子が築城したと伝えられてきた(確実な証拠は無いとのこと。)。東北地方で平安時代の山城は極めて珍しく、国指定史跡となっている。
清原氏は、俘囚(律令政府に服属していた蝦夷)の長で、武力を蓄え、出羽国山北地域を中心に強大な勢力を張っていた。清原光頼は清原氏の宗主であり、陸奥守・鎮守府将軍となった源頼義の要請を受けて弟の清原武則を総大将として援軍を派遣し、奥羽国の俘囚長であった安倍氏を滅ぼした。これが所謂「前九年の役(前九年合戦)」(1051~1062年)であるが、これにより清原武則は従五位下・鎮守府将軍に補任され、安倍氏に代わって清原氏が奥羽の覇者となった。俘囚出身者が鎮守府将軍になるということは前代未聞の出来事であり、清原氏の盛衰が平安時代の終焉~中世の始まりと直結していくことになるのだが、それは省略。
「大鳥井山」山上には清原光頼・頼遠父子の居館があったとされるのだが、そこに今は「大鳥井山神社」が鎮座している(住所:秋田県横手市新坂町6)。社伝によれば、延宝7年(1679年)、戦国時代に当地の領主であった小野寺氏の城門の部材を使って社殿が建立されたという(残念ながら、この社殿は昭和31年に焼失。)。祭神は月夜見大神であるが、その由緒は不明。あるいは、中世以降の浄土信仰を受けて「月山神社」から勧請されたものかもしれない(「月山神社」2015年1月17日記事参照)。さて、現・「大鳥井山神社」社殿付近の発掘調査によれば、ここに四面庇を持つ大きな掘立柱建物があったことが明らかになった。「大鳥井山遺跡」全体としては土塁や空堀、物見櫓の跡とみられるものがあるから、「城」と称して差し支えないのだが、「大鳥井山神社」付近の建物跡はその格式の高い形式から、居館というよりも、政庁、あるいは寧ろ宗教的施設ではなかったか、とする説もあるという。実は、前々項「(明永山)熊野神社」(2015年4月25日記事)の鳥居として「大鳥井山」の鳥居を移したという伝承があり、その「大鳥井山」の鳥居とは「塩湯彦神社」の鳥居である、とも伝えられているとのこと。とすれば、ひょっとしたら、現・「大鳥井山神社」の場所に式内社「塩湯彦神社」が鎮座していたのかもしれない。


横手市のHPから(大鳥公園)


写真1:「大鳥井山神社」一の鳥居


写真2:同上、参道途中にある「大鳥山頼遠居館跡址」の石碑


写真3:同上、二の鳥居(社殿正面)


写真4:同上、社殿。鳥居も社殿も黒塗り


写真5:「十三塚」。中世~近世頃の墓らしい。


写真6:二重の土塁と空堀


写真7:「小吉山火葬墓跡」。11世紀頃の築造とされ、方形の土盛に石を葺いたもので、内部には凝灰岩製の石櫃が置かれ、人骨が納められていたという。

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