先手は角道を開けてきた。僕も角道を開けた。すると相手はその歩を更に突き進めてきた。升田式石田流か。これに対して僕は迷った。相振り飛車でいきたい。だが、そうなると飛車をどこに振ったらいいのだろう。相振り飛車のベストポジションはどこか。向かい飛車が大変有力であると聞いたことがある。それには角を動かさなければならない。だが、相手は角道を止めていない。ならば自分から止めるか。少し消極的にも思える。相手は先手の利を生かしてどんどん攻めてくるのではないか。果たしてそれでわるくなるだろうか。善悪はともかく守勢にまわることになりはしないか。それならば相振り飛車を試みる必然性はあるのか。
4手目の迷い。しかし、3分切れ負けではいつまでも迷っている暇はない。1秒で決断しなければならない局面だった。僕は右の銀を斜めに動かした。居飛車模様だ。この時、僕の頭の中には何とか流左玉の構想があった。相手は三間飛車に振って玉を囲った。僕は銀を中段まで上げると一旦止めた角道をすぐに通した。(この位を取るのが狙いだ)すると相手はいきなり角交換から銀の隣に角を打ち込んできた。
「しまった!」
桂取り歩取りだ。隙があったか。まだしも飛車で取るところだったか。早くも大ピンチだ。乱戦ではいきなり力を試される。ぼやぼやしているとあっという間に敗勢だ。
僕は飛車を転回させて桂と歩を同時に守った。すると相手は喜んで飛車を取ると勢い飛車先を突いてきた。飛車先を切った手に対し、僕はおとなしく歩を謝ったが、強く敵玉のこびんに向けて歩を突き出す手もあった。僕は居玉に壁銀、対する相手の弱点と言えばそこ以外にないのだ。飛車先を穏便に収めて、一手遅れてこびんを攻めて、なんとか馬はできた。歩が切れたところで相手は桂取りに歩を打ち込んできた。遅いようで確実な攻めだ。僕は馬で飛車を取って、敵陣に飛車を打ち込んだ。金銀両取りだ。すると相手は自陣飛車を打って受けた。両取りが見事に受かっている。打ち込んだ飛車の行き場がない。これで何もなければと金を作られて攻められる。
「まずいぞ」
何か見つけなれば。僕は大いに焦った。取り乱した中で、僕は敵陣に謎の角を打ち込んだ。銀の腹、飛車利きを陰にすることで銀取りと飛車のこびんへの成り込みを狙った一手だった。飛車が利いていてただなのだが、飛車が横に動くと底の金が浮いてしまう。(それはまあ当然と言えば当然だ。たった今両取りをまさに自陣飛車によって受けたところなのだから。囲いに隙/離れ駒があれば、色々と技もかかりやすい。完璧な連携の陣形では、地道な攻め以外ないだろう)ただ捨て(捨て駒)によって守備の連携を崩し攻撃を成立させる。これは将棋/詰将棋の醍醐味ではないだろうか。
「捨ててこそ浮かぶ駒あり!」
相手は打たれた角には触れず、自陣角を放った。飛車取り銀取りだ。ここにきて自陣の浮き駒が祟った。浮き駒は常に大駒に狙われる定めにある。一方で大駒はその強さ/大きさ故に、多くの場面で浮いている(離れている)ことが多い。(だからあえて浮き駒と表現されることは少ないかもしれないが、浮いているものは浮いているのだ)単独で敵陣に打ち込まれた大駒は必ず浮いている。(これは大駒に限らないが)持ち駒を放つ時は、その瞬間から浮き駒として狙われる定めを背負うことを常に自覚しなければならない。角が大技を食らう場合、敵は飛車であり、反対に飛車が大技を食らう場合、敵は角である。
両取りに対して僕は飛車の方を助けた。すると相手は銀を取りながら、玉頭に馬を作ってきた。僕は金を玉に近づけながら馬に当てた。もしも逃げてくれるなら、手順に玉頭を補強できたことになる。しかし、馬を切って寄せる手が成立した場合、むしろ自玉の寄りを早めただけの手になる可能性がある。勝敗を分ける重要なポイントだった。実際馬で金を食いちぎると玉は裸同然だ。そこで金をグイッと中央に出る手が自陣の飛車筋を通して開き王手となる。持ち駒の金銀に加えて眠っていた飛車と金が一気に戦力に加わるので、一目寄りだろう。歩を謝っても合わせられる。こちらも相手の飛車先を叩いて開き王手を狙う筋はあるものの、叩いた歩を王手で払われる展開になれば手番がまわりそうもない。
実戦では相手が自重する間に金二枚を玉頭につけ、桂を拾って馬を作った。相手は少し後悔していたのではないか。少し元気のない指し手が続いたように感じた。馬と銀に迫られた瞬間、僕は歩で飛車の頭を押さえることに成功した。急に勝ちがみえて僕は浮かれながら取り乱していた。厳しい歩ではあったが、次に飛車を取った手が詰めろなのかどうか、そこが紛らわしい。(持ち駒に金がないことが問題だ)受けのない相手は、飛車取りを手抜いて金頭に歩を叩いてきた。この歩は何だ?
「厳しいのか?」
持ち駒が歩だけの相手は攻めるとすれば他にないのだ。この歩は金で取ることができる。取ると多少形が乱れる。その意味では利かされと言える。だが、戦力がないためそれ以上の技の出し方がない。取ってよし。もしも、僕の攻めがもう少し遅れていたら、手を戻すことによって何事もなく安全勝ちできていただろう。現実は寄せ合いに出ており、上手くいけば寄せ(勝利)は目前だ。将棋には「一手勝ち」という概念もあって、どれほど自玉が危険になっても受けなしになっても、一手早く敵玉を詰ませばいい。(自玉が詰まなければ敵玉に必至をかければいい)「一手勝ち」を目指す心を立てた時、「安全勝ち」などという曖昧な概念は消えてしまう。詰むか否か、どちらが先に詰みに行き着くか、そうした純粋(明快)なテーマが設定された時、ある意味ではもう余計なことを考えなくて楽である。(安全を願い続ける状態には常に不安がつきまとう。安心安心といくら唱えてみたところで、それが証明される過程で食いつかれてしまうことはよくある話だ)それよりもどこかで思い切って「一手勝ち」を目指す方にシフトすれば、話はずっと単純になる。詰むか詰まないか。それは誰の目も欺くことのできない客観的な事実であるからだ。どれだけ駒損していても、駒が遊んでいても関係ない。詰みさえすれば勝ちなのだ。純粋である分、1つの読み抜けで結論は入れ替わってしまう。そこに人間のやることの危うさがある。短い時間に正確に読み切ることは難しい。一手勝ちを狙い踏み込むにせよ、形勢が許すなら少しの余裕を持って臨みたいものだ。(形勢に差があるのならなるべく危ない橋を渡らずに、一手ではなくニ手離して勝ってもいいのだ)
安全勝ちか一手勝ち。この将棋は僕の攻めが敵玉に対してちょうど中途半端に迫っていることによって起こり得る逆転劇と言えた。もう一手速ければ明快な一手勝ち。もう一手遅ければ受けに回って安全勝ちを狙っただろう。「行けるかも」寄せ合いに生じた絶妙の間合いが、迷いを生み、時間に追われる中で、無謀な攻撃へと向かわせたのだ。
冷静にみれば飛車取りに打った僕の歩は受けのない3手すき。受けがないということが重要で、相手の攻めが確実に3手空くのを待って攻めれば明快な勝ち筋。だが、場合によっては2手すきに変化する可能性がある。対して金頭に打たれた歩は(受けは考えないものとして)2手すきで、要の金に直接迫る厳しい一手だ。重要な点は2つあり、1つ目は王手がかかりやすい形になったことで、持ち駒次第で即詰みが生じるということ。2つ目はそれが歩による攻撃であるという点。これは相手にとって一方的に美味しい攻めと言える。(だから歩によって王手で金を攻められるような攻めは、よほどのことでなければ手抜かないものだ)2手すきを詰めろに変える手段は、歩ではなく馬で飛車を取ることだ。これによって次に王手がかかりやすくなり、瞬間的に詰めろをかけることは可能だ。だが、ここで1つ目の狙いが現実化する。相手はその馬を銀で取ることで瞬間的に詰めろを外すことができる。詰めろを継続するには銀を歩で取り返さなければならないが、すると角が増えたことによってこちらの玉に即詰みが生じてしまうのだ。一手飛び越えることはできるが、それによってこちらも一手速くなるので、速度は逆転しないのだ。攻撃は反動を伴う (攻めた分だけ戦力を渡してしまう)のが常なのである。2手すきではあるが、駒を渡せば詰めろに変化してしまうところが危険なトリックと言える。
攻め合いに走る僕の指は歩を成って飛車を取り切ることを選択した。その時の僕の心はこうだ。「何かあって詰めろになっていてくれ!」(詰むためには金が不足している)相手は歩で美味しく金を取って、更に残り1枚となった金の頭に歩を叩いてきた。あっという間に受けなしである。(歩を打って金を取るというだけの攻めなのに)「何かあって……」歩による攻めであるため、何かが生じる余地がない。実際、相手玉は金がなければ(無数の銀でなく1枚の金だ)ほとんど詰みのない玉だったのだ。なまじ王手が続くばかりに、詰むのではと錯覚を起こしてしまう。
「将棋は金なのだ」
攻めるにも受けるにも最後は金が物を言うのだ。私は歩だ、桂馬だ、意外と角だ、やっぱり飛車だと言う声もあるだろう。僕だって飛車は好きだ。中でも敵陣に作る一間竜がいい。送りの手筋を使って寄せるのが好きだ。二枚竜で一間竜になったら最高ではないか! あらゆる駒は敵陣に裏返ることによって金の素質を獲得することができる。(成らないのは玉を除いて唯一金だけだ)それこそが将棋の主役が金であることを物語っているのではないだろうか。そして最強の駒は歩/と金ではないか。(将棋はと金を作るゲームであると昔聞いたことがある)美味しくて、恐ろしくて、厄介で……。その輝きは立場によっても変わるだろう。
もしも、この攻め合いの中で、歩/と金を取ることによって金を得ることができていたら、相手玉を詰ますことができた。反動がない分、歩の攻めは効率がよすぎるのだ。
「歩はと金に化けるが、払ったと金(歩)が駒台で金になることはない」
相手は最初の歩によって「詰めろをかけてごらん」と下駄を預けた。「だけど場合によっては詰ましてしまうよ」だから僕は厳しい詰めろをかけられなかった。そして、再度の歩によって「詰ましてごらん」と下駄を預けたのだ。その時には歩によって預けているので、反動が生じないことが強みだった。歩による下駄預けはノーリスク。対して僕が下駄を預けるにはハイリスクな方法しかないので、一手勝ちを目指すには無理のある形だったと言える。
自玉が受けなしになって詰ますしかなくなった。金のない状態で王手をかけるには飛車から入るか、と金を寄るかしかないが、いずれかのタイミングで(と金の場合はすぐに、飛車の場合は一旦金で取ってから)玉を端にかわされると王手の続かない形になる。最後は飛車による合駒請求によって一瞬「もしや」とも思えたが、たった一筋だけ歩の合駒が利いて無念の投了となった。
最終盤で無謀な攻め合いに出て自滅するというパターンは、自身の最近の傾向として定着してしまっている。勝手に転んでくれるなら、相手にとってこれほど楽なことはないのではないだろうか。そこは何としても改善しなければならない。
●勝ち急ぎの構造と対処
①メンタルの弱さ
早く勝ちたいと焦れば敵陣に目が行く。手を戻すのは怖い。何かあるかもしれない。手段を与えるかもしれない。敵陣だけを見ていたい。粘られるかもしれない。振り返りたくない。受けるのは面倒だ。
様々な心の乱れが指し手の乱れにつながってしまう。
落ち着きなさい。
②状況判断の悪さ
加速/手抜きのタイミングを誤る。自分の攻めを過信している。相手の攻めを甘くみている。敵玉の耐久力を甘くみている。自玉の耐久力を過信している。正しくみえていないことによって判断を誤る。
「これくらいで……」という感覚がだいたい間違っている。
③急がないという選択を持つ
「寄せなければ、急がなければ…」
そうした思い込みが強い手(強げな手)を選ばせるが、強い手は相手の手も強めてしまう。的確でなければ反動が上回る。
(急がば回れ)というのは、寄せ合いの中でも正しいことはある。
鉄板(穴熊)に対して無理な加速をして反動で負けるパターンは、振り飛車党なら誰でも経験があることだろう。(持ち駒を渡しすぎて詰まされる)
見た目厳しいだけの手を選んでないか。
それは一時力で、手になってなくて、お手伝いで、反動を生むだけの手ではないか。
落ち着きなさい。見極めなさい。
④時間の切迫と形勢は関係ない
時間がなくなってくると精神的に追い込まれて、局面の方も忙しいように感じられてしまう。後戻りのない最終盤、一手違いの寄せ合いのように思えてしまう。
「本当に一手違いの寄せ合いなのか?」
冷静に局面をみる目を見失ってはならない。
誤った直線に自ら飛び込んでしまってはならない。
落ち着きなさい。
●勝ち方のバリエーションを広げる
(勝負強さを身につける)
①棋理だけを追究しない
棋理を探究することは上達のために当然だ。しかし一局の戦いの中で、最善最強だけを求めるには無理がある。自分には指せない手があることを知っておくのも大切だろう。
②人間を理解する
棋理を追って戦っているのは人間だ。人間の処理能力には限りがあるし、指し手にはメンタルも大きく関与する。自分が焦ったり誤ったり取り乱したりするように、相手だって完全ではない。人間の心は繊細だ。プレッシャーが強ければ、普段の力を出し切ることも難しい。(時間がなかったり、玉が薄かったり)いかにメンタルをコントロールするか、プレッシャーとつきあうかというのも重要なテーマとなる。
③問題を解いているのではない
中盤の難所で次の一手を考えている。最終盤で詰む詰まないを考えている。「果たして正解は?」局面と自分だけの世界になって考えるが、なかなか正着にたどり着けず、時間ばかりすり減っていく。正解が発見できれば勝ち。できなければいい加減な手/悪手を指して負けてしまう。理想へたどり着けないという時に、自ら転んでいないだろうか。
それなら「もっとましな手があっただろうに」
実戦は次の一手問題ではない。解けないという場合でも、局面を投げ出さずにくっついていかなければならない。最善ではなくても代案の入った引出を引っ張る力が必要だ。
「わかるかどうか」
自分の問いにだけ苦しまず、相手に投げかけてみてはどうか。
④相手に楽をさせない
「フィッシャーで食いつかれると相手は指し方が楽」
そう名人も仰っていた。
と金攻めはと金を寄せていくだけでいい。わかりやすければ悩むことも、時間を使う必要もない。(攻める方はいいが、と金に迫られる方は大変なプレッシャーだ)「勝ちやすさ」「わかりやすさ」といった要素も、特に短い時間の将棋では重要となる。自分ばかりが難しいというのでは割に合わない。将棋で一番困るのは手の広い局面ではないだろうか。
「手に乗って指される」
先手先手で攻められるのは嫌なものだが、無理攻めとわかっているなら話は変わる。相手の手に乗って自然に指していればよくなるからだ。相手の手に対応しているだけでいいなら、これほど楽なことはない。
実戦においては、どう悩ませるか/困らせるかとうことも重要なテーマだろう。
⑤パスみたいな手を指せるか(相手の手番で考える)
自分の手番でなく相手の手番で考えることができれば、時間でも勝てるのではないだろうか。(相手の指し手が止まらないと厳しいが)相手の時間をいかに自分のものにするかというのも、時間の勝負では重要となる。(3分を6分にすること)
すごい激しい展開の途中で、いきなりパスみたいな手を指す。損のない手、傷・狙いを消す手を指す。すると相手は「うっ」となって指し手が一瞬止まる。そこで考えてしまう。相手の時間で息継ぎをするのだ。タイミングをずらされた相手が悪手を指すということは考えられないだろうか。
⑥時間でも将棋でも勝つ
時間と将棋のどちらでも勝つというのは理想ではないか。王手ラッシュでもかわしき切るほどの余裕を持ち、形によっては自陣を整備しての逃げ切り勝ちを狙う。だが、実際は将棋が苦しくなると指し手に窮して時間もなくなってしまうことが多い。どちらかで勝っていなければ、勝ち目がない。
「どちらも勝ってたはずが……」
というのもよくある展開だ。
必勝になったのでちゃんと勝ちきろうとして局面に没頭する。知らず知らずに時間を使う。時間切迫の焦りもあって正着を発見できなくなる。悪手を指して形勢接近。だんだん怪しくなって、時間は逆転。いつの間にやら形勢も混沌として、最後は悪夢のような逆転負け。
よくなった側にも悩みはあるのだから、決め手を与えないように指すという技術も勝負の上では重要となる。
⑦延命して逃げ切り勝ち(粘る技術)
厳しい攻めをあびると僕の玉はあっという間に寄せられてしまうようだ。
「終盤(寄せ)ってそんな簡単か?」
強い人の玉を寄せるのに苦労したことはないだろうか。どう考えても寄っているのに、なかなか簡単に勝たせてもらえない。
悪いなりにも最善の受け/粘り方というものがあるのではないか。
「しぶとさ」をみせて相手にプレッシャーを与えることも重要だ。僕の場合、寄っている場合だとしても、簡単に寄りすぎる。(10秒、20秒で必至がかかる)
秒読み将棋では手数を延ばしても駄目なものは駄目だが、切れ負け将棋では大きな意味がある。(勝負の半分は時間であるから)
何手延ばせるか=何秒延ばせるかであり、将棋はともかく勝負においては望みが出てくるのだ。
「粘る技術」というのは、3分切れ負けの中ではとても重要だ。王手ラッシュなどよりもよほど役立つスキルとなるだろう。